なる(6)-なる(10)

なる(6)

「なりきる」という言い方があります。

「なる」+「きる」=「なりきる」、ということです。辞書を引けば書いてありますが、「きる」には「切断する=中断する=オフ状態にする」という意味=イメージのほかに、「使いきる」「困りきる」みたいに、限界まで徹底的にその動作をし尽くすという、意味=イメージもあります。

「なりきり」状態の人とは、たとえば、カラオケなんかでその歌の世界に入りこんでしまって、なかなかマイクを手放さない人、あるいは、その歌を歌っている歌手になったつもりになって「酔っ払った」=「夢を見ている」ような状態になっている人を思い浮かべるといいでしょう。俳優なんかが、舞台の上や、テレビや映画でその役柄になりきったような演技を見せてくれる場合もありますね。いわば、「迫真の演技」状態です。あれも、「なりきり」状態のいい例だと思います。

 歌っている人であれ、演じている人であれ、「なりきった」人というのは、ちょっと危ういというか怖いですね(※あんたも十分あやうくてこわいよって、今誰か、おっしゃいませんでしたか?)。「おい、大丈夫か?」なんて言いながら、肩をゆすってみたり、それでも「目覚めない」場合には、ほっぺたを軽くひっぱたいてみたりする。

 ようやく目覚めたものの、しばらく、ぼーっと、あるいは、ぽけーっとしている。まだ覚めていなくてその余韻にひたっているのか、あるいは、自我忘失=もぬけのカラ状態=「ここはどこ? わたしはだれ?」状態みたいになっている。そんな人を見た経験はありませんか?

     *

 以上は極端な例でしたが、多かれ少なかれ、

*言葉を話すことは、自分以外のものに「なる or なりきる」ことである。

と以前から思っています。「自分以外のもの」って何でしょう? 「何でもあり」だとイメージしてください。「自分」以外なら「何でもあり」。では、その「自分」って何でしょうか? 分かりません。

*分からないようにできている

のです。というか、

*分からないような仕組みになっている

あるいは、

*分からないように仕組まれている

とも言えそうです。なぜなら、

*Aの代わりにAでないものを用いる。

という、言葉の仕組みの大前提があるからです。

 なお、

*ヒトは、「〇△X」という言葉を作り、その次に「〇△Xとは何か?」と問い、思い悩む生物なのである

という、言い方もできますが(ここでは「〇△X」が「自分・あたし・おいら・わい」に該当します)、このあまりにも身も蓋もない言い方を採用すると、ヒトのお馬鹿さんぶりおよびお茶目ぶりが露呈して、話が終わってしまう恐れがあるので、ここでは扱いません。

 さて、人類というレベルでのヒトという種が、物心がついたころからずっと「自分って何」と考えてきた。それこそ数えきれないたくさんのヒトたちが、この惑星のあちこちで「私って何」と考えてきたに違いありません。それなのに、究極的な結論が出たという話は見聞きしたことがありません。というか、物好きな人たちがそれぞれ勝手に結論を出してきたというのが、正確な言い方かもしれません。いずれにせよ、「決定打=コンセンサスを得られるだけの結論」は出なかった。だから、「自分とは何か?」という問いは保留するしかありません。

「自分とは何か」を保留するのですから、「自分以外のもの」=「何でもあり」=「森羅万象」=「世界」=「宇宙」とは何かも、きっと保留するしかないでしょう。個人的な意見を述べるなら、「自分」も「自分以外のもの=何でもあり」も、「まぼろし」なのではないか、と考えています。つまり、

*すべては、まぼろしである。言葉自体も、言葉が「指し示している=意味している」とされるものごとや現象も、すべてがまぼろしである。かもね。

という感じです。これは、このブログでよく述べている、

*Aの代わりにAでないものを用いる。

という、言葉の仕組みの大前提と深くかかわっています。

     *

 ところで、「まぼろし」と聞いて、あなたはどんなイメージを抱きますか? 「ないのに、あるように感じられるもの」とか、たとえば「影絵みたいなもの」とか、影絵が発達してできた「映画みたいなもの」とか、映画の延長上にある「テレビやパソコンのモニターに映った画像みたいなもの」とでも言えばいいでしょうか。

 本当は、もっと「極端な=究極的な」ことを言いたいのです。このさい、言っちゃいますね。ヒトが見ているものって、確か、目という知覚器官がとらえた映像を脳で処理したものですよね。聞いているものって、確か、耳という聴覚器官がとらえた音声を脳で処理したものですよね。ということは、

まぼろしとは、ヒトが知覚している森羅万象=世界=宇宙である。

ということになっちゃうんですけど、言いすぎですか? たまに見聞きする言い方=考え方ですよね。いずれにせよ、それを言っちゃおしまいですか? 心の隅ではちょっとだけそんな気がします。

 でも、ぶっちゃけた話、心の大部分では、本気で「まぼろしとは、ヒトが知覚している森羅万象=世界=宇宙である」と個人的には考えているのです。似たようなことを考えている人たちが、ほかにもいるらしい。似たようなことが書いてある本もあるらしい。そんなふうに薄々感じているのですが、本を読んだり、人の話を聞いたりすることや、お勉強が根っから嫌いなので、詳しいことは知りません。

 でも、こういう類のことを考えたり、書いたりすることは好きです。大好きと言ってもいいでしょう。だから、毎日、こんなブログを書いているのです。しかも、一日に何回か分けて更新しているのです。暇だということもあります。うつなのと、無職なのが重なって、時間だけはあるのです。お金はありませんけど。というか、預貯金がどんどん減ってきていますけど……。それはそれでいいとして、とにかく、いろいろ考えてメモをとったり、ブログに書いたりする。それだけが、生きている証しなのです。

     *

 話を戻します。

*言葉を話すということは、ヒトが一時的に、あるいは部分的に自分以外のものに「なる or なりきる」ことである。

 さきほどのフレーズを少し変えてみました。このように、言葉を加えていくと、より正確になるような気がします。いわば独り相撲をとっているのですから、正確もへったくれもないのですが、とにかくそんな気がするのです。一方で、言葉を加えると、よりややこしくなることも事実です。このややこしくなったフレーズを、今後説明していく予定です。

*言葉は重ねるごとに、言おうとしていることをややこしくしていく。言葉は、ヒトを裏切る。

*言おうとしていることを簡単にしようすると、言おうとしていることがどんどんとこぼれ落ちて消えて、やせ細っていく。言葉はヒトを裏切る。

*言葉は、ヒトにとって極めてやっかいなものである。ヒトは極めてやっかいなものを身につけてしまった。

 以上の三つは、愚痴=ぼやき、ですね。失礼しました。

なる(7)

「なる」と「かわる・かえる」は似ています。これらの言葉を見聞きして、どう感じるかは人によって違うでしょう。また、同じ人でも、感じ方は文脈やTPOによって異なると思います。そこで、一般論という「横着=杜撰(ずさん)=テキトー」をしてみると、

*「なる」は、自然の成り行きで、ある状態になってしまうこと。

*「かわる・かえる」は、何らかの事情や働きかけによってある状態になってしまうことであるが、元に「かえる」という可能性があったり、ヒトの場合にはその可能性を意識している。

というニュアンスの違いを感じます。しょせん個人的な感想を一般論と名づけただけですから、きわめてテキトーで「穴=すき」だらけですが、いちおう、とりあえず、こんな違いを意識しながら、話を進めます。

*言葉を話すということは、ヒトが一時的に、あるいは部分的に自分以外のものに「なる」ことである。

と、「なる(6)」で書きましたが、またもや変更を加えます。

*言葉を話すということは、ヒトが一時的に、あるいは部分的に自分以外のものに「なる・なりきる」ことである。

「なる」に「なりきる」を付け加えただけですが、これって「自然の成り行き」をヒトが演じるという意味を込めた駄目押しのつもりなんです。「なりきる」という言い方が、気に入ってしまいました。いかにも「人間ぽい=ヒト特有だというニュアンスがある」言い方だとお思いになりませんか?

     *

 ところで、「なりきる」ことができる生き物は、ヒトくらいしかいないような気がしませんか? いや、そうでもないかも。ヒトに「飼われている」イヌなんかを見ていると、自分がヒトだと「思いこんでいる=なりきっている」ワンちゃんがいますよね。ある意味、かわいそうです。アイデンティティの喪失=奴隷状態ではないかなどと、考えてしまいます。

 イヌと金魚ほど、ヒトが「悪さをする=人工的に容姿を変える=細工する」対象になった生物はいないのではないでしょうか? ワンちゃんほど、ヒトに忠実な生き物はめったにいません。「……の犬になる」とか「……の犬になりさがる」とか言いますが、あわれだと思います。馬鹿にしてもいます。

 英国かどこかで、ワンちゃんに対する過剰な交配に歯止めをかけるとか何とかいう記事を、先日新聞でちらりと見ましたが、英国って不思議な国ですよね。超過激な動物保護団体があるかと思うと、すごいブリーディング(=人工的な交配)をしていたり、狩りのことをスポーツなんて呼んで楽しんでいます。

 ワンちゃんを手下として使って鳥や動物を追い回して挙句の果てにはドーンと撃ち殺し、剥製なんぞにして、「えへへ、すごいだろ」とか「あの時は、苦労したよ」なんて悦に入っている。そうか、だから、その反動として超過激な動物保護団体があるのですね。納得。

 試しに英和辞典で sport を引いてみてください。「突然変異」や「変種」なんて意味まであります。徹底していますね。本屋さんで犬百科事典の類を、ぺらぺらめくると、元はオオカミだったらしいワンちゃんの「変異」ぶりに「こりゃ大変だ」と感心すると同時に、「ヒトってやつは、けしからん生き物だ」という憤りと悲しさを覚えます。

【※ここでお断りしておきますが、今生きているワンちゃんたちにはぜんぜん罪はありません。ヒトといっしょに暮らしているワンちゃんたちが幸せだと感じているのなら、その生き方を積極的に支持し応援しようではありませんか。それがいちばん大切な、ヒトとしての義務および責務だと思います。金魚ちゃんたちについても同じです。】

     *

 話をもどします。

 sport がらみで、sportsman も英和辞典で引いてみると面白いですよ。日本語でいう「スポーツマン」はむしろ「アスリート」 athlete に近いなんて、親切に教えてくれている辞書もありますね。英語の本家、英国(特にイングランド)では sport という言葉には、狩り、釣り、乗馬といった、芸の域に達したアート(= art )のニュアンスがあるみたいです。

 そういえば、お馬さんにも、ヒトはいろいろ悪さをしてきたみたいですね。ぜひ、サラブレッド(= thoroughbred )も英和辞典で調べてみてください。そもそも、「 thorough 」(=完全に、完璧に、入念に、徹底的に)+「 bred 」(育てられた)ですもの。ヒトって、大したもの=罪深い生き物です。

 英国人だけでなく、金魚のメッカ(※元は中国らしいのですが)である日本に住むヒトたちも、フナとかヒブナとかいうお魚を、せっせとそれこそ命をかけて交配させてきたのですよね。デメキンランチュウなんて、水中でぎこちなく泳いでいるさまを動いているのを眺めていると、「生きにくそうだなあ」なんて同情してしまいます。

 自然にではなく、人工的=ヒトが手を加えた=ヒトが慰みに悪さをした結果として、「かわりはてた=変わり果てた」生き物って、あわれです。もしも、この惑星で全動物による裁判が行われたとするなら、ヒトって、きっと「無期懲役」では済まされませんよ。さらに、当事者である一部のヒトの責任だけでなく、ヒト全員の連帯責任になるでしょう。

     *

「かわる・かえる」という言葉も「かわりはてる」という「コンプリート=完全版」にまで至ってしまうと、「自然の成り行き」という感じは希薄な気がします。誰かの企みやせっぱ詰まった事情によって、やむを得ずそうなってしまったあげくに、「元にはかえることができない」=「もどれない」感じがしてなりません。

 さて、「なる」のコンプリート=完全版である「なりきる」について考えてみましょう。この言葉は、さきほど述べたように、ヒト独特の行為という気がします。「思い込む」とかなりかぶる=ダブる=重なる面があるからかもしれません。

 唐突ですが、このブログで書いてきた二つのフレーズを、合体させてみます。

*「まぼろしとは、ヒトが知覚している森羅万象=世界=宇宙である」

     + or ×

「言葉を話すということは、ヒトが一時的に、あるいは部分的に自分以外のものに「なる・なりきる」ことである」

     =

 「ヒトは言葉を使用することによって、自らが知覚している森羅万象=世界=宇宙=まぼろしに、一時的に、あるいは部分的に「なる・なりきる」

 こんなん出ましたけど――。どうお思いになりますか? 「ゲイ・サイエンス(= Gay Science )」という言葉をご存知ですか? 初めてこの言葉を目にした時には、ぎょっとしました。さまざまな思いが頭の中を巡りました。何だろう? その言葉が書いてある文章をよく読んでみると、あるドイツの哲学者の著作の英訳タイトルだったのです(※元アホがもったいぶっておりますが、ニーチェです by 今のアホ)。

 この国では『悦(よろこ)ばしき知識』という書名で売られています。ほかのタイトルでも訳されているらしいのですが、知りません。ややこしそうな本だったので中身は読んでいませんが、「学問や知性というのは楽しくていいのだ」と書いてあると勝手に理解しています。ですから、

*ヒトは言葉を使用することによって、自らが知覚している森羅万象=世界=宇宙=まぼろしに、一時的に、あるいは部分的に「なる・なりきる」。

というフレーズも、へそ曲がりの素人が楽しく考えた結果だ、くらいに理解してください。

     *

 ところで、偏屈者かどうかは別にして、学者とか研究者とか呼ばれている人たちが、「学説・理論・法則」などと称するものを、作りあげて=捏造して=でっちあげています。でも、ヒトの「知」とは、知覚器官と脳という「限界性=枠=思い込み」の中に成立する「まぼろし」です。したがって、「学説・理論・法則」などは、格好をつけずに「考え方・受けとり方・感じ方・とらえ方」と言うべきでしょう。

 ヒトが「真理・真実・現実・事実・実体・もの自体・本質」などと呼んでいるものもまた、「考え方・受けとり方・感じ方・とらえ方」と言った=呼んだほうが、潔い=正直=倫理的あり、また正確でもあると思います。

 要するに、学問の世界が、百家争鳴=百花繚乱=りんりんらんらんかんかんほあんほあん的状況なのは当たり前で、

*唯一の正解なんてヒトには無理。ヒトはえんえんと前言撤回と新説提案と脱構築=スクラップ・アンド・ビルド=新装開店=玉たくさんでまっせー=コンビニの新商品登場を繰り返していくほかない。

と感じているのですけど、どうお考えになりますか?

 というわけで、上記の「へそ曲がりの素人が楽しく考えた結果」=「いわゆるひとつのゲイサイエンス」の断片について、しばらく考えてみたいと思います。

なる(8)

「唯○論」という言い方があります。ある特定のものごとや現象や特質みたいなものを用いて、森羅万象をひっくるめて面倒みよう、といった場合に用いるネーミングの産物、あるいはブランドのことです。グーグルなどで検索するさいに、半角の「*」を使うことがありますね。試しに "唯*論" で検索してみたところ、あるはあるは、そのヒット数の多さにびっくりしました。まず、以前に見聞きしたことのあるものを列挙します。

 唯幻論=唯心論=唯物論=唯臓論=唯言論=唯我論=唯脳論=唯神論=唯金論……

 次に、初めて見たものの中で、特に印象的だった使用例を並べます。

 唯ゲーム論=唯エネルギー論=唯情報論=唯退屈論=唯創論=唯遺伝子論……

 この言葉の羅列を見て感じるのは、

*「唯○論」というのは、メタな立場=「これですべてが解決=説明=解明できるぞ。大したものだろ」という視座に立ちたいという欲望である。

と言えそうです。でも、これまで見聞したところでは、メタな位置に立とうとするとメタメタ=めちゃくちゃになることは確かです。だから、わざと上の言葉を全部「=」で結びました。ちなみに、「=」は一種の感字であり感覚的なものです。「すべての面倒をみる」というメタな心意気があれば、ほかの「唯○論」と「=」で結んでもいいことになります。

 なにしろ「何でも面倒をみよう! まかせとき!」というのですから。ということは、「=」は権威のあるお墨付きの印(しるし)であり、5つ星とか勲章みたいな「栄誉」のシンボルということになりませんか? つまり、

幻=心=物=臓=言=我=脳=神=金=ゲーム=エネルギー=情報=退屈=創=遺伝子……

という「存在の偉大なる連鎖」が形作られると言えます。やっぱり、「ぜんぶ、わたしに、まかせなさい!」状態です。

     *

 それにしても、すごく貪欲というか野心的な考え方ですね。思わず、占いを連想してしまいました。星、タロット、トロッコ、水晶、ミラーボール、姓名、生年月日、茶柱、貝柱、おみくじ、恋するフォーチュンくっきー!、動物、植物、ミジンコ、鉱物、風水、噴水、筆跡、指紋、声紋、鼻紋、DNA、ハンコ、電子サイン、印鑑、きんかん、印章、印象、髪型、寝癖、歯型、黒子(ほくろ)、白子、明太子、色、エロ、亀の甲羅、ナオこーら、おかゆオートミール、夢、霊感、性感、手相、人相、顔芸、骨相、家相、仮装、女装、鏡、りゅうじ、ひげ、はげ、まげ、鼻糞の色と質、朝一番のおしっこの色と透明度、しいたけ、さるのこしかけ、オーラ、おらしんのすけ……。「何でもあり」が「何でも占っちゃう」。

 それは脇に置いて、上記のような列挙作業をしたのには、理由があります。このブログでやっていることが、

*「唯○論」という「まぼろし」を形成する作業に似ている

からです。そういうわけで、このブログにはそんな野心は毛ほどもありません、と断っておきたいのです。

*このブログでいろいろやっていることは、ぜんぶ「お遊び」

なんです。「本気のお遊び」と言ったほうが適切かもしれません。本気でテキトーなことをする。そんなことができるのか、という疑問を抱いている方もいらっしゃると思います。でも、できるんです。というか、たぶん、やっているのです。少なくとも、やっているつもりなんです。

 ちなみに、「テキトー=適当」や「いい加減」は、たぶんポジティブな意味がネガティブな意味を産んで=生んでしまったのではないか、と推測しています。辞書では両方の意味が、語義として別個の項に記載されています。つまり、並列=併記されています。したがって、

*ヒトは言葉を使用することによって、自らが知覚している森羅万象=世界=宇宙=まぼろしに、一時的に、あるいは部分的に「なる・なりきる」。

というフレーズは、

*「ポジティブであり、かつネガティブ」であるという両義的な意味で「テキトーに」、「森羅万象=世界=宇宙=まぼろし」と「言葉」を「本気で」関係づけている。

のだ、という意思表示なのです。「絶対にこうだ」とか「これしかない」なんて、主張してはいないのです。そんなことは自分にはできないし、そんなことを言う度胸もありません。単に、「こんなふうにも考え=受けとり=感じ=とらえることができますよ」、「ここで書いていることは、正解とか真理とかとは無縁ですよ」と言っているに過ぎません。お山の大将の気分はとは、ほど遠いです。ただし、言葉はきわめてやっかいなものですよ、とは強く言っておきたいです。

 たとえば、

*森羅万象は、おそらく、すべてがまぼろしであり、広義の言葉(=話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(=家庭だけで通じる断片的な手話)、さまざまな標識や記号など)としてしか、ヒトは知覚できない。

と書いた場合には、そのフレーズ自体さえも、例外なく含んでの話だという理屈になります。少し飛躍すると、「わたしは嘘をつく」とかいうフレーズに、ちょっと似ていますね。正しいのか正しくないのか判断できない。こういう場合には、「正しい」「正しくない」という枠組み=仕組みを疑ったほうが、いいような気がします。

*正誤、真偽は言葉のあやである。

 以上のように書いても、あややという感じで、あやうくてあやしげで事態は好転しそうもありません。さきほど「……という理屈になります」と書きましたが、「理屈=物事のすじみち=論理というヒトの発想あるいはヒトの思考のパターン」自体に「問題点=欠陥=無理=テキトーさ=穴とすき間だらけ状態=まだら模様=むら」があるに違いありません。でも、それしか使用する選択肢が見当たらないので、それと付き合っていくしかない。きっと、そんな感じ=状態=状況なのではないでしょうか。

     *

*言葉とは、Aの代わりにAでないものを用いるこじつけである。言葉というこじつけが、ヒトをヒトとならしめている。

 このフレーズは、以前このブログで書いたものです。「こじつけ」という「作業=行為=いとなみ」で、「広義の言葉」の仕組みを説明する考え方です。この「Aの代わりにAでないものを用いるこじつけ」という仕組みは、「うまくいく」こともあれば、「うまくいかない」こともあります。たとえば、

(1)ヒトが仲間を月面に降り立たせたり、

(2)コンピューターやインターネットを作ったり、

(3)がんの治療において完全とは言えなくてもある程度の成果をあげている。

 これらは、言葉の使用がうまくいった例でしょう。一方、

(1)家族内でコミュニケーションを円滑に進められなかったり、

(2)言い間違いや失言や誤解をきっかけに争い(or 戦争)が起こったり、

(3)文書の解釈をめぐって利益(or 国益)が失われたりする。

 これらは、言葉の使用がうまくいかない例でしょう。今挙げた二種類の例について、さらに屁理屈を言うなら、前者のグループの三例がネガティブな結果を生む場合もあれば、後者のグループの三例がポジティブな結果を生む場合もあります。

     *

 たとえば、コンピューターの発明と普及は大したものです。でも、それがどれだけ地球温暖化を進め、また戦争でいかに大きな役割を果たしているか。一方、家族内のコミュニケーション上の問題がきっかけで一悶着あり、「雨降って地固まる」式に、かえってその後に深い和解が成立する。あるいは、文書の解釈で相手国に押し切られ一時的に損失が出たが、その損失に打ち勝つために国民が努力して長期的な高度成長を成し遂げる。

 今挙げた例に類したことは、ざらにありますね。ということは、「うまくいく」「うまくいかない」という「分ける作業」自体に、無理=限界=不具合があるのではないでしょうか。「うまくいく」「うまくいかない」とか、「正しい」「正しくない」は、表裏一体=見方の相違、極端に言えば、同じこと。あえて、区別する必要なし。何もかもがつながる。やっぱり、根本に「こじつけ」という仕組みがあるからだ、「らしい=かもね」。

 言いすぎでしょうか? 「人間様も、言語様も、もっと偉いんだぞー」ですか? でも、もしも言葉の大前提である「こじつける・こじつけ」がテキトー(※ポジティブ=ネガティブな意味です)ならば、その使用も「テキトーに(※ポジティブ=ネガティブな意味です)」を意識して行わないと、言葉に裏切られてがっかりしたり、それどころか、とんでもない事態に陥ることもあり得るのではないでしょうか? 要するに、言葉を過信するのは禁物。使用には十分注意しましょう。などという、製造物責任法=PL法の精神が必要なのではないかと思います。

 つまり、

*言葉は欠陥品である。

「らしい=かもね」。

 さて、蛇足的な弁解で、道草をしてしまいました。次回は、本題である「ヒトが言葉を使用することで「森羅万象=まぼろし」になりきる」という状況について説明する=駄文を弄する予定です。

なる(9)

 ヒトは、ひとりひとりが一台のテレビ受像機(※意識や認識の比喩です)を持っている。たぶん、その受像機の画面一面を見るのだけで精一杯で、二面以上の画面には継続して集中できない。その一面の画面に映っている映像は静と動を繰り広げている。静の状態の時には、その映像を「ぼけーっ」と眺めているか、「いったい何だろう」とさまざまな解釈を試みている。一方、動の状態の時にも、その映像を「ぼけーっ」と眺めているか、「いったい何だろう」とさまざまな解釈を試みている。

 以上のような形で、ヒトは「認識=知覚=意識」という作業に従事しながら、生きているのではないか。そんなふうに、以前から思っています。

*テレビ画面という「たとえ」=「Aの代わりにAでないものを用いる」=「こじつけ」を用いて考えて、ヒトの「認識=知覚=意識」を言葉という「たとえ」=「Aの代わりにAでないものを用いる」=「こじつけ」にしたものです。このように、ヒトは、広義の言葉の枠から出て、思考したり認識したりすることができません。

*「こじつけ」の外へは出られない

とも言えます。仮にその枠から出たら、そのヒトはヒトではなくなってしまいます。その他のヒトたちとコミュニケーションを成立させることができなくなってしまいます。

 複数のヒトたちの脳内で、共通した新たな「変異・異変」が起こり、DNAレベルにおいてある程度の共通性のある資質を備えた集団ができれば、話は別です。別の新たな「こじつけ」の仕組みが生じるかもしれません。この場合は、ヒトは新たな「こじつけ」の枠の中で生きることになります。

 あるいは、「こじつけ」とは異なる「認識=知覚」の仕組みを獲得するかもしれません。この場合には、ヒトは「こじつけ」の外に出ることになるでしょう。太古に、うだつのあがらない尻尾のないおサルさん(※ monkey ではなくて ape )の中のある種(しゅ)が、おそらく脳内でズレを起してしまって、「尻尾のないおサルさん +α 」=「ヒト」=「人間様」になったという説=お話=神話=「かもね」があるくらいですから、再び、ヒト、または、ほかの生き物の脳内で「変異=異変=ズレ」が起きることはあり得ると考えられます。

     *

 以上の話を前提に、

*ヒトが広義の言葉を使用するさいに、森羅万象になりきる。

 もっと詳しく言えば、

*ヒトは広義の「言葉」(=「森羅万象」の代わり=まぼろし)を使用するさいに、その「森羅万象」になりきる。

 さらにもっと詳しく言えば、

*ヒトは広義の「言葉」(=森羅万象の代わり=まぼろし)を使用するさいに、一時的に、あるいは部分的に、その「森羅万象」に「なる・なりきる」。

のではないか、ということについて、考えていることを「言葉という名のまぼろし」にしてみようと思います。ぶっちゃけて言えば、こじつけてみようと思います。

 まず、広義の「言葉」(=森羅万象の代わり=まぼろし)を対象とした場合の、「かわる・かえる or 化ける or 演じる = 装う」と「なる・なりきる」の違いについての個人的な感想を述べます。

「かわる・かえる or 化ける or 演じる = 装う」には、不自然なことをするという意識が伴います。「自分はAなんだけど、Aでないものを演じるのだ」とか「そのうち、またAに「かえる」のだ」という感じです。

 一方で「なる・なりきる」においては、そうした意識は希薄です。そもそも「なる」とは、自然=当然=当たり前な現象で、本来は意識的に行うことができないものなのです。たとえて言えば、草木が葉や枝や花を「成す」というイメージです。ヒトに性毛が「生える」というイメージです。言い換えれば、「成長」「生育」という感じですね。

 でも、「なりきる」は、違います。まず、不自然なことをするという意識から出発します。しかし、その意識が薄れます。ほとんどなくなるところまでいきます。「思い込んでいる」からです。もっとも、「思い込み」には程度の差はあると思われますけど。

*「なりきる」とは、「かわる・かえる or 化ける or 演じる = 装う」という言い方の「代わり」に、「なる」という別の言い方を「当てる」=「こじつける」ことである。

という考え方もできそうです。ややこしくなるのを覚悟で、もっと詳しく言うと、

*「なりきる」とは、「かわる・かえる or 化ける or 演じる=装う」という言い方の「代わり」に、「なる」という別の言い方を意識的に「当てる」=「こじつける」と同時に、「なる ⇒ なった」という状態にほぼ無意識のうちに陥ることである。

とも言えそうな気がします。自己催眠、錯覚、酩酊、夢想、妄想、忘却などという言葉が頭に浮かびますが、そうしたラベル=レッテルは、ここではあまり重要ではないと思われるので、深入りするのはやめておきます。大切なのは、「なりきる」が「思い込む」から強くバックアップ=サポートされていることです。

     *

 ヒトは、広義の言葉(=話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(=家庭だけで通じる断片的な手話)、さまざまな標識や記号など)を使用するとき、その言葉を「信じ」ます。

 たとえば、「ハリー・ポッター」「ヤッターマン」「石鹸」「ケータイ」「愛・愛情」「平和」「戦争」「不景気」「お金」のうち、どれでもいいですから、一つだけを思い浮かべてください。

 漠然としていませんか? 今挙げた言葉のどれも、頭に浮かべたとたんに、さまざまなイメージ+記憶+映像+感情が喚起されます。おそらく、脳が必死でその言葉から「生じる=喚起される」「情報=データ」を処理しようとしているのでしょう。

 それが「信じる」ということです。「疑う」余裕などないのです。この「信じる」という段階で「なりきる」の前提である「思い込む」の下地ができました。無意識のうちに、そうした「作業=メカニズム」が、たぶん脳内で「生じます=機能します」。

     *

 次に、その言葉を使ったフレーズやセンテンスや話を見聞きしたり、独りでつぶやくなり他人に話すなり書いてみたり、その言葉が指すものを映像あるいは音声という形での情報として知覚したとしましょう。

 たとえば、「ヤッターマンが近くの映画館で上映されているそうだ」と誰かが言った。/ある石鹸のCMがテレビで流れるのを目にした。/知り合いが会社から解雇された、と聞いた。/財布を開けて中身をチェックしてみた。

 このように、具体的にある出来事と遭遇した瞬間、無意識のうちに「信じる」 ⇒ 「思い込む」 ⇒「なりきる」が「一瞬に=ほぼ同時的に=並行して」、おそらく脳内で起こります。

「脳内」というのは、さきほど書いた、ヒトひとりひとりが持っている、たった一台の「テレビ受像機」の、たった「一面の画面」のことです。「意識」と言ってもいいかとも思います。こうした脳内での情報処理のメカニズムを、

*ヒトは広義の「言葉」(=森羅万象の代わり=まぼろし)を使用するさいに、一時的に、あるいは部分的に、その「森羅万象」に「なる・なりきる」。

と、このブログでは表現しているのです。大切なのは

*「脳内で」「なりきる」

です。そのきっかけとなる

*「信じる」

も、きわめて重要だと思います。

なる(10)

 みなさんの中にも「花粉症」で悩んでいる方が、たくさんいらっしゃることでしょう。自分も薬で症状をやわらげながら、何とか耐えています。春は、いろいろなものが「張る」から「はる」と言う、でしたね。

*「はる」=「張る」=「貼る」=「墾る」=「晴る・晴れる」=「霽る・霽れる」=「腫る・腫れる」=「脹る・脹れる」

*「はらう」=「払う」=「掃う」=「祓う」

 このブログのバックナンバーである「なる(1)」で、以上のように書きました、辞書では「春」の語源の候補に挙がっていない「腫る・腫れる」=「脹る・脹れる」まで並べたのは、花粉症が頭にあったからです。

 花粉症の主な症状である粘膜の炎症とは、確か粘膜が「腫れる」ことですよね。鼻の内部や目などの粘膜が腫れてしまう。それでクシャミが出たり、目が痒かったりする。これは素人の単純な理解ですから、専門家の方からは、そんなものじゃないと言われるかもしれませんけど。とにかく、春は「腫る・腫れる」もあり、としておきます。

 さらに、「はらう」まで挙げてあるのは、春になるといろいろな過去のものを「払う」=「取り払って心機一転する」というイメージがあるのと同時に、春は「お祓い」の季節だというイメージもあるからです。

「福は内、鬼は外」と声をあげて豆まきをする節分もあるし、何か新しいことを始めるさいには、鬼=魔物の類や身のけがれを「はらう=祓う」儀式をします。入学式・入社式なんていう儀式も、まさに「お祓い」だという気がします。そういえば春は、神社も神主さんも忙しそうです。

 このように、語源と呼ばれている専門家による「説」=「こじつけ」に感心するだけでなく、素人がいろいろなものを自由に=勝手に「こじつける」ことがあってもいいのではないでしょうか。言葉はみんなのもの。言葉はこじつけが命。正しいも正しくないも、こじつけの前では影が薄いというか、意味がない。言葉はきわめてテキトー=恣意的なもの。そう思っています。

 権威は好きではありませんが、「偉い」と言われている何とかいう名前の学者も、似たようなことを言ったそうです。その弟子たちも、そう言っているそうです。詳しいことは知りません。ごめんなさい。

     *

「なる」というタイトルでつづってきたこの文章では、言葉の仕組みの根底にある「こじつけ」に加えて、「なる・なりきる」にこだわりました。なぜ、そんなにこだわるのかと不思議に思った方が、きっといらっしゃるでしょう。

 そういう疑問を想定したうえで、「なる・なりきる」にこだわる理由を説明させてください。どうも世界が変になりつつある。悪くなりつつある。そんな気がしてならからです。現在、よく話題にされる例を挙げると、いわゆる「地球温暖化」、そして「大不況」です。

「温暖化」の「化」は「化ける」ことであり、「変化」の「化」ですから、「かわる・かえる」という言葉の親戚と言えそうです。個人的には「かわる・かえる」には、いつかまた「かわる・かえる」という楽観的な響きを感じます。

 たとえば、「老化」なら、美容整形や厚化粧や若作りや途方もない値段の健康食品で何とかごまかせるさ、というイメージがあります。

少子化」も、国が何とかしてくれるさ、くらいに考えているヒトが周りにたくさんいます。

 このように、「○○化」という言い方には、「化けた=変わった=変えた」ところで、いつか以前いたところに「帰る」、以前の状態に「返る」「返す」というお気楽な感じがしてなりません。

 一方、大不況は、「○○化」とは呼ばれていませんが、これまでの歴史を振り返ってみると、経済には波みたいなものがあるらしいので、いつかまた好景気に「変わる・返る・もどる」だろうという気はします。

 ちなみに、ヒトの経済活動の根底にある「お金=貨幣」「価値=値打ち」「モノ(※製品・原材料)、サービス(※活動・機能)、ヒト(※人的資源)」という広義の言葉たちも、「Aの代わりにAでないものを用いる」という「こじつけ」の仕組みを支えたり、その担い手になっています。このブログ流に言えば、ヒトの「なりきり」の枠内にあるということになります。

 さて、地球温暖化は、どうでしょう? 不景気のように楽観できるでしょうか? ヒトの「なりきり」の枠内にあると考えていいでしょうか? 個人的には、かなり悲観しています。もう、「変われない・返れない・戻れない」のではないか、と。

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*「なる」=「成る」=「生る」=「為る」

*「かわる」=「変わる(=変る)」=「代わる(=代る)」=「替わる(=替る)」=「換わる(=換る)」

 以上の二グループの言葉たちを眺めていて感じることは、

*「なる」の圧倒的な力強さ

です。ヒトの力や、ちょっとした小手先の細工では、どうにも「ならない」、後戻りや軌道修正は無理といった、

*「自然=宇宙」の「力=摂理」

を感じます。それなのに、

*ヒトは「こじつけ」の達人であり、「こじつける」ことによって、この惑星を「支配している」つもりになっている。

と言っても過言ではない状況にあると思います。

 その「こじつける・こじつけ」=「Aの代わりにAでないものを用いる」という仕組みに、「ヒトは森羅万象になりきる」という「視点=考え方=意見=思いこみ=こじつけ=「こんなふうにも考えられます」」を付け加えるのが、この「なる」というタイトルがつけられた一連の記事の目的でした。

*「森羅万象になりきる」という発想=考えは、森羅万象を支配できるという、貪欲で身の程知らずな「幻想=まぼろし

にほかなりません。森羅万象を「こじつける・こじつけ」という仕組みの枠の中に強引に取りこんでしまおうとする無謀で理不尽な発想である、とも言えるかと思います。おそろしいのは、「こじつけ」の一種である「なりきる」が、「信じる」 ⇒「思い込む」 ⇒ 「なりきる」という脳内での無意識のプロセスで処理されているのではないかということです。

 もちろん、これも、個人的な視点=考え方=意見=思いこみ=こじつけ=「こんなふうにも考えられます」です。この段階まで考えを進めると、「なる(9)」で深入りするのをやめた、自己催眠、錯覚、酩酊、夢想、妄想、忘却といった言葉が重要になります。ひょっとして、

*ヒトは「大い「なる」勘違い」をしている

のではないでしょうか?

 もしも、ヒトを取りまく環境や事態が、ヒトの手に負えないほど悪化しているのなら、どうすればいいのでしょう? 思い浮かべていただきたいのは、さきほど挙げた例でいうと、大不況ではなく地球温暖化です。もはや、人知の及ぶところではない。ヒトの力を超えている。そう危惧しています。

 自分が変われば世界が変わる、などといった自己啓発書的次元の話ではないのです。言い換えると、ヒトの、森羅万象を「こじつける」という仕組みの枠では、とうてい処理できない段階にまで来ているのではないか、ということです。どうすれば、いいのでしょうか?

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 ヒトが一種の自己催眠、錯覚、酩酊、夢想、妄想、忘却に陥っているのなら、目を覚まさせる努力をすれば何とかなるかもしれない、と思えないこともありません。でも、その程度の軽症なのでしょうか? 個人的には、もっと重症=重篤だと考えています。どうにも「ならない」と諦めるしかないのでしょうか? 以下に、素人なりに考えた結果として提案したいことを書きます。

「こじつけ」は広義の言葉の大前提ですから、これをやめるとヒトでなくなってしまうので、パスです。

 では、

*「なりきる」をやめて「なりそこねる」

を実践してみてはどうでしょうか? 今、首を傾げている方、あるいは、お笑いになっている方、ごもっともです。きわめて説明不足です。少し言葉を補わせてください。

*「なりきる」とは、「かわる・かえる or 化ける or 演じる=装う」という言い方の「代わり」に、「なる」という別の言い方を意識的に「当てる」=「こじつける」と同時に、「なる ⇒ なった」という状態にほぼ無意識のうちに陥ることである。

と、「なる(9)」で書きました。また、

*大切なのは、「なりきる」が「思い込む」から強くバックアップ=サポートされていることです。

とも、書きました。何を言いたいのかと申しますと、

*「森羅万象になりきる」の前提である「Aの代わりにAでないものを用いる」という「こじつけ」=仕組みは、自然ないとなみ=思考法=考え方である、という「思い込み」を疑おうではないか。

ということなのです。

*「Aの代わりにAでないものを用いる」という考え方は、実はきわめて不自然なことなのである。

ということに意識的になろうではないか、と言ってもいいです。とはいうものの、これを実践するとなると、広義の言葉(=話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(=家庭だけで通じる断片的な手話)、指点字、さまざまな標識や記号など)を使用するさいに、その有効性をいちいち疑ってかかる必要が出てきます。

「森羅万象になりきる」という、ヒトにとってきわめて「自然な」行為をしにくくなります。すると当然のことながら、やはり広義の言葉である「お金=貨幣」「価値=値打ち」「モノ(※製品・原材料)、サービス(※活動・機能)、ヒト(※人的資源)」を使用しての経済活動もしにくくなります。

 実は、狙いはそこにあるのです。

*ヒトの経済活動、特に現在グローバルな展開をみせている市場経済、あるいは資本主義というものの根底に疑いの目を向ける。

 これが第一歩ではないでしょうか? いや、それしか地球温暖化を回避する道はないのではないでしょうか? 大不況の克服が目的ではありません。地球温暖化の回避が目的なのです。

     *

 経済が特に苦手なド素人のドアホのたわごとととられるのを覚悟で、以上のことを書きました。この大切な問題については、もっともっと考えてみたいです。自他ともに認める偏屈者であるとはいえ、これでもヒトのはしくれです。ヒトはもちろん、この惑星が大好きです。温暖化なんかで、地球を台無しにしたくはありません。

 最後に、これまた大好きな「こじつけ」=「だじゃれ」=「オヤジギャク」をぶちかまさせてください。

 いろいろなものが「張る」という「春」という「晴れ晴れとした」喜ばしい季節に、花粉により粘膜が「腫る」という病に悩まされながらも「張りきって」、

*「なりきり・なりきる」というヒト特有の「思い込み」に殴りこみをかけましょう

そして、

*この地球から鬼=魔物を「取り払おう」

と考え、「お祓い」をみなさんに呼びかけている次第です。かなり季節外れですが、

*福は内、鬼は外!

 本日をもちまして、シリーズ「なる」はおしまいです。駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。