まぼろし・その4

「そっくり」がたくさんある

「似ている」は、「別のものに似ている」状態であり、「そっくり」は、「そのもの自体に似ている」状態だという気がします。こんなふうに言うと、「そっくり」のほうがイメージしにくいように思われます。

「そっくり」は「別のものに似ている」のではなく「そのもの自体に似ている」とは、「そのものをそのままのものとして見る」という感じです。「そっくり」は、「そっくり」が並んでいたり、別の場所にも「そっくり」がたくさんあるという状態および状況を指します。

 比喩的に言うと、「静的な(=スタティックな)実体や概念」ではありません。「動的な(ダイナミックな)状態および状況」です。何が動的、つまり揺らいで動いているのかというと、「そっくり」ではなく、「そっくり」を見る側のヒトの知覚・意識・イメージだと言えそうです。見方や視座の問題だとも言えそうです。

 ですから、「そっくり」をながめるさいの比較の対象は「そっくり」なそのもの自体の様態であり、また、「そっくり」とは単数であると同時に複数であるという、ヒトがいだくイメージに支えられています。複数の「そっくり」が並んでいても、ヒトは「そっくり」という様態に単数・複数の差異を感じていないという意味です。

「他のものと比較しようがない」というか、「他のものとの比較にまで思いがおよばない」光景とも言えそうです。「そっくり」は固定したイメージではありませんから、ある「そっくりな」製品が並んでいるとき、その製品の一つを手に取り、たとえば競合他社の同種の製品と見比べた場合には、「(別のものに)似ている」が問題になることは言うまでもありません。この場合には、比較の対象になるわけですから、いわゆる「差別化」や「コモディティ化」という現象が起きる時と、ほぼ同種の視線にさらされていると考えることもできるでしょう。

 以上の考え方では、「そっくり」も「似ている」も、ヒトがいだく「静的な(=スタティックな)実体や概念」という意味でのイメージつまりまぼろしではなく、ヒトがいだく「動的な(=ダイナミックな)状態および状況」という意味でのイメージつまりまぼろしだという点が大切です。

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 個人差はあるでしょうが、「そっくり」はめまいを誘います。大量生産された「そっくり」な製品が、目の前に百個くらいずらりと並んでいるさまを想像してください。めまいに似たものを覚えませんか。

 内部の壁全面が鏡張りの立法体の部屋に、自分が閉じ込められたとします。真っ暗ななかで、手に持ったライトのスイッチがとつぜんオンになります。ライトを持った自分とそっくりな像が、あちこちに反射することになるでしょう。吐き気を催すほどの、めまいに襲われるのではないでしょうか。

 そこまでしなくても、二枚の鏡を向き合わせて、そのあいだに何かを置き、斜めから覗くだけでも、「そっくり」のイメージを体感できると思われます。

 こうした状況においては、圧倒的な「複製の複製」の氾濫に目がくらみ、目が舞い、「オリジナルの影」は失われはしないとしても、薄まり、ほとんど知覚も意識もされなくなると思われます。

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「そっくり」を支えている基盤は、現代という社会であると言えそうです。現代社会を成立させている重要な要素として、グローバル化市場経済が挙げられます。社会主義共産主義という言葉もありますが、それはいわばお題目であり、経済というより、政治体制およびイデオロギーという側面で機能してきたというべきでしょう。歴史的に見ても、いわゆる社会主義国家や共産主義国家は、抜け穴だらけだった気がします。

 実際には、ヒトが太古に、言語・交換・貨幣という仕掛けを用いるようになって以来、ヒトは広義の市場経済の下にあったと考えられます。広義の市場経済の根底にあるのは、広義の交換および代行という仕組みです。現代、近代、中世、古代、太古といった言葉とイメージは、便宜的なものであり、その区分は時の隔たり以外に根拠がなく、連続していると考えることもできる感じがします。

 現代社会とは、言語・交換・貨幣という仕組みが、物理的に高速化しグローバル化した社会と定義できそうです。また、生産技術・輸送技術・通信技術およびそれが進化した情報技術が、質・量・速度の面で飛躍的に向上したことが、現代社会の特徴である、という説明の仕方もできそうです。

「そっくり」という考え方は、大量生産・大量流通・大量消費と、グローバルな規模の生産・流通・消費という現代社会の経済状況を説明するのに、きわめて有効なモデルだと考えています。「そっくり」に備わっている、取り換え可能という側面も無視できません。スーパーで売られている大量生産された製品だけでなく、テレビやネットで配信され流通している、映像や音楽やニュースを含む広義の情報も、「そっくり」状態にあります。

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「そっくり」は、ヒトにも起こっている様態です。スター・タレント・政治家・有名人は、誰もがユニークであるように見えて、実際には、取り換え可能な存在であることを忘れてはなりません。誰かが消えても、その跡を継ぐ、つまり補充してくれるヒトが必ずいます。「ユニーク」は、「そっくり」の極限とも言うべき状況だと考えられます。

「ユニーク」とは、「そっくり」のいわばチャンピョンの「座」であり、「地位」なのであって、そこにたまたま座ったヒトが幸運にも、「ユニーク」という冠をいただくことができると言えそうです。でも、これは言葉の綾にしかすぎません。「ユニーク」状態を成立させている条件と、「そっくり」状態のそれとは、大差なさそうです。

「ユニーク」が「そっくり」になるケースが数多く見受けられます。物故したスターや有名人や政治家が、大量に複製され生産された、写真・動画・書籍のテーマ・神話の主人公となって、「そっくり」状態で、大量に流通し、販売され、消費または利用されるというあり方は、「ユニーク」が「そっくり」化している光景と見ることができそうです。

 お断りしておきますが、以上の例はいわばレトリックであり、それ以上でもそれ以下でもありません。「ユニーク」を取り分けて説明する必要性は、きわめて希薄だという気がしてきました。ただ、何でも「そっくり」つまり典型的なまぼろしになり得るという点の確認の意味では、取り上げる価値があるように思われます。

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「そっくり」とは、抽象的な枠組みであり、物の見方であり、その中身は何であってもかまわず、誰であってもいいと考えられます。また、ブランド・ロゴ・レーベル・ステータスシンボル・政府の保証・いわゆる権威のお墨付き・ブーム・ファッション・流行・ニュース・時の話題といった、広義の言語と親和性があります。

 広義の言語とは、話し言葉や書き言葉だけでなく、図・絵・写真・記号・状態・状況も含む、交換・代行・流通・消費(and/or 利用)・保存・廃棄(and/or 処分)の対象となり得る、具体的な物および抽象的な物事や現象を指すと考えていただいてかまいません。

「そっくり」においては、「濃い血縁関係」(※比喩です)は、属性として備わっている場合もありますが、大きな意味を持ちません。「そっくり」における重要な点は、「たくさん存在すること」、「取り換え可能であること」、「コモディティ化(=陳腐化)と差別化の対象となること」、「商品のサイクルというイメージと親和性があること」が挙げられます。

「そっくり」は「似ている」と同様に「実体」ではなく、「あり方」であるとも考えられます。ヒトがいだくイメージの問題であるとも言えそうです。このように、森羅万象の「抽象的な側面つまりイメージ」をめぐっての物語および神話ですから、たとえば、ヨーグルトあるいはタレントそのものではなく、ヨーグルトあるいはタレントの生産・流通・販売・購入・消費(and/or 利用)・廃棄のあり方が問題となっていることに注意を払う必要があります。

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「似ている」においては「それ以外のものに似ている」ことが、そして、「そっくり」においては「そのもの自体に似ている」ことが不可欠な条件になると考えられます。「似ている」も「そっくり」も、その「実体」ではなく「あり方」が問題になっているので、あるものにおいて「似ている」が問題となる場合があったり、「そっくり」が問題となる場合があり得ます。今、「もの」という言葉を使いましたが、ヒトやヒト以外の生き物である場合もあります。

 森羅万象が「似ている」状態にあったり、「そっくり」状態にあるという言い方も可能でしょう。この言い方を採用すると、話をいろいろなバリエーションに捏造して展開することができ、たくさんのいかがわしく、うさんくさい物語や神話を製造できそうです。

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 さまざまな分野やテーマをめぐっての捏造された物語や神話が、「そっくり」状態の商品(※比喩ではありません)として、流通・販売・購入・消費(and/or 利用)・廃棄の対象となっているさまは、現代社会で日常化しているようです。これは、テレビ・新聞・雑誌・書籍の出版・ネット空間を舞台にした、噂話・ニュース・情報・流行という形で、目にし耳にすることができます。

 たとえば、書籍のベストセラーリストに見られる、「脳」・「頭脳」・「こころ」・「健康」・「発想法」・「創造力」・「思考」・「法則」・「○○法」・「生き方」・「分けない」・「わかる」・「よくわかる」・「なぜ」・「図解」・「○○入門」・「○○術」・「変わる」・「変える」・「日本語」といった言葉やフレーズ、つまりイメージやレトリックが、スキルやノウハウとして見なされ流通し販売されています。

 こうした言葉やフレーズをめぐってつづられる物語・神話の有効性と信頼性については知りません。その種の書籍が次々と多量に生産され消費されている現象を見ると、風邪薬か胃腸薬程度の有効性、つまり効き目はあると推測されます。そうした書物を、必要としているヒトたちが、風邪や胸やけや食べ過ぎ(※比喩です)程度の症状の悩みを抱えているとも言えそうです。

 ところで、ヒトは、ふつう、一生の間に何度も風邪を引きます。薬のたぐいを拒否する少数のヒトを除いて、たいてい、存命中に何度も風邪薬を服用します。まさに、「そっくり」状態だと思います。ずらりと「そっくり」が並んでいる空間的イメージが、時間的イメージに置き換わっただけです。風邪と風邪薬の服用が延々と続くのです。

 音楽、いやし、健康法、占い、ファッション、流行語の変遷も、「そっくり」状態にあると言えそうです。流行る時期ごとに、その内容は異なっていながら、「そっくり」状態と「そっくり」な動きが観察されるのは、ヒトが「内容」や「実体」自体ではなく、それらが「次々変化する」つまり「次から次へと移り変わる」という意味での「そっくり」の「動き」を求めているからかもしれません。

「そっくり」としての製品と商品

「そっくり」をもっとも体感しやすい、日常生活においてありふれたものである「製品・商品」のレベルで考えて、「そっくり」状態のありようを整理してみましょう。

 あるメーカーが製造した、ある品名が容器に記されているヨーグルトを例に取りましょう。工場で大量生産されて、スーパーで複数並んでいる「さま」は、まさに「そっくり」です。

 その品名のヨーグルトしか食べないというヒトがいたとします。そのヒトにとって、他の品名のヨーグルトは「偽物」ということになります。そのさいには、そのヨーグルトはそのヒトにとっては「本物」のヨーグルトなのですから、「似ている」状態にあるとも言えます。

「そっくり」状態が広義の「差別化」現象とかかわり合う場合には、以上のようなことが起きます。ある品名のヨーグルトが、あるヒトにとって「これしかない」ほどの、別のものとは「似ている」けど異なる「特別」つまり「ユニーク」なものであるとしても、そのヨーグルトは、「そっくり」なものが並んでいるうちの一個であり続けているわけですから、状況に変化はなく、依然として「そっくり」状態にあるとも見なせます。

「そっくり」と「似ている」が、ヒトが個人レベルでいだくイメージの問題であるために、混同しがちな点だと言えそうです。もっとも、混同しても、何ら問題はありませんし、起こりません。「そっくり」と「似ている」との相違は、レトリックや言葉の綾のレベルでの話です。

 まぼろしについての話とも言えます。どうして、念を押すのかと言うと、まぼろしを「実体」や「概念」と混同するヒトが多いからです。トリトメのない話を、トリトメなく受け止めることは、意外と難しいと言えそうです。

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「そっくり」をヒトのレベルで考えて、「そっくり」状態のありようを整理してみましょう。

 ある会社に勤務する、ある男性を例に取りましょう。そのヒトには、妻と二人の娘がいるとします。会社員であるそのヒトが、会社においては取り換え可能な社員の一人である場合には、そのヒトは「そっくり」な社員の一人、つまり「そっくり」状態にあると言えます。

 そのヒトの家族にとって、そのヒトが「世界でたった一人の夫」および「世界でたった一人の父親」である場合には、そのヒトは「本当の夫」および「本当のお父さん」であるわけですから、別の本当ではない夫やお父さんに「似ている」状態にあると見なせます。

 そのヒトと「似ている」他の男性を、そのヒトの家族が、「取り換え可能な」夫あるいは父親と見なす可能性は低いと思われます。とはいえ、いろいろな家庭の事情がありますから、可能性はゼロとは言えません。

 以上も、あくまでも、イメージの問題です。個人の好みや傾向もあるでしょうが、「実体」という物語・神話に、あえて「分け」入る必要はありません。

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 ヒトにとって交換・代行・流通・消費(and/or 利用)の対象となり得る森羅万象の一部は、「似ている」および「そっくり」という状態に置かれると言えそうです。「似ている」および「そっくり」という状態は、ともに「まぼろし」だという見方もできると思います。逆に、「まぼろし」は「似ている」か「そっくり」か、あるいはその両方の状態にあると見なせるとも考えています。

 さらに言うなら、ヒトにとって交換・代行・流通・消費(利用)の対象となり得る森羅万象の一部は、「まぼろし」でなければならず、同時に「似ている」か「そっくり」か、あるいはその両方の状態になければならない、とも言える気がします。

まぼろし」とは、知覚器官と脳によって処理されるという形で、知覚および意識された対象だと考えています。知覚および意識には、誤作動ともいうべき重度の錯覚、あるいは病理としての幻覚(※ヒトが日常生活のレベルでいだく、軽度の幻覚である幻想とは区別しましょう)が起こる場合が頻繁にあるようです。

 ただし、錯覚や重度の幻想や幻覚は、ヒトの社会でそれなりに有効性を持っていたり、それなりに活躍する場を与えられていることが多いようです。たとえば、科学、宗教、政治、経済、司法は、錯覚や重度の幻想や軽度の幻覚なしには成立しないシステムです。

 ヒトがいだくものすべてをまぼろし、つまり広義の幻想と見なす杜撰(ずさん)で安易な考え方を採用するなら、まぼろしの程度や格付けや種類について、こだわる必要はありません。個人的には、深入りしない程度にこだわってみたい気がしますが、ここでは立ち入りません。「(精神医学的見地から見た)正常対異常」や「正気対狂気」という、いかがわしくうさんくさい、水掛け論や堂々巡りに陥る恐れがあるからです。

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「似ている」とは、ヒトが愛・友情・信頼・人間関係・信仰などの言葉およびイメージで語る文脈のもとで機能する様態(状態)だと考えています。一方、「そっくり」とは、広義の経済・政治・司法・文化・学問といった、非人称的で匿名的でニュートラルなシステムのなかで機能する様態(状態)だと考えています(※「非人称的で匿名的でニュートラルな」というのは、ヒトに深くかかわりながら、ヒトがコントロールできない自立した状態にあるという意味です)。

まぼろし」は、「似ている」や「そっくり」という衣もまといながら、ヒトに対して「立ちあらわれる・立ち現れる・立ち表れる」と考えています。「あらわれる」という、ヒトの知覚と意識に対する「働きかけ」である点に注目してください。この「働きかけ」は、ヒトとの間においてのみ、成立する「関係性」だと言えます。

 よく考えると当たり前のことなのですが、誤解されがちな点なので、念のために、「まぼろし」がいわゆる「実体」や「概念」ではないことを、強調しておきたいと思います。あえて言うなら、「ありよう」「ありかた」「しくみ」「機能」「役割」という感じです。「考え」ではなく「考え方」だという言い方も、イメージしやすいかもしれません。いずれにせよ、いかがわしくうさんくさい「実体」や「概念」や「意味」や「内容」は、棚上げにしての、いかがわしくうさんくさい話なのです。