ふーこー・どぅるーず・でりだ・ばると(その1)【引用の織物】

*「翻訳の可能性=不可能性」より

 さて、哲学です。

*哲学をしたーい。自分の頭で考えたーい。

 これが、当ブログの作成者の叫びです。philosophy や、philosophie や、Philosophie (philosophieren) はできなくても、哲学はしたい。消える前までに、できるだけたくさんしておきたい。その後は「無」だから、今のうちにしておきたい。「自分の頭で考えたい」というと、何やらポジティブに聞こえますが、言い換えると、英語、フランス語、ドイツ語で哲学の原書を読むこと、ひいてはその邦訳を読むことは放棄しよう、日本人の書いた哲学書も読まないでおこう、要するに、

*全面降伏し、撤退し、逃げよう、または「勘弁してください」と土下座しよう

という姿勢なのです。早い話が、「自分の頭で考えたい」とは、インプットをやめて、ひたすら戯言(たわごと)をアウトプットするという、きわめてものぐさで横着なスタンスをとることなのです。

 ですので、自分には、もう哲学書を読む理由も義理もありません。これまで、読み、あるいは耳にした言葉の断片と、そうした言葉と遭遇したさいに抱いたイメージを呼び覚ましながら、新たに言葉を紡いでいこう。そんなネガティブで無精で覇気(はき)のない態度で、自分なりに、ぼちぼち、しこしこと、哲学していこうと考えております。うつのせいには、したくない。絶対にしたくはありません。こうしただらしないスタンスは、自分の根っからの気性なのです。

 怠け者で、暗くて、おまけにへそ曲がり。

 それは自分が、一番よく知っています。でも、本気です。本気なんです。これだけは言っておきたいです。それにもかかわらず、生意気にも、あえてきょうは翻訳にこだわりたいと思います。

<私家版『存在と無』―その1―>を書くために、自分なりに「概念」「観念」「意味」に、けりをつけておく必要があるからです。というか、けりなどつけることは無理だと承知で、けりをつける身ぶりを言葉で演じておく必要があるというべきでしょう。くどいですが、あくまで、「言葉で」です。

     *

 とにかく、概念や観念や意味というやつは難物です。亡霊です。背後霊のように、後ろから重くのしかかってくる。だから、お祓(はら)いをしなければならない。やつらは(※失礼!)毒みたい、ダニ(※ダニさんたちに、「失礼!」)みたいなものだと言ってもいい。だから、解毒しなければならないし、駆除(※ダニさんたちに、「ごめんなさい」)しなければならない。悪魔なら、悪魔祓いという言い方が適切でしょう。映画「エクソシスト」を思い出してください。

 ギャッハー!

です。半端じゃ、お祓いできません。現に、

*概念と観念というやつ

ですが、これは、たとえばフランスの哲学者たちが、精神医学者まで引き連れて束になり、言葉遊びやオヤジギャグなんかをかましたぐらいでは、とてもじゃないが手に負えなかった、半端じゃなく厄介なものなのです。

 そんなわけで、まともに悪魔に立ち向かうのはやめ、ちょっと視点を変えて、ここで言語の違いについて考えてみましょう。

     *

 哲学= philosophy が、いくら頭の中で「考える」行為だとしても、結果としては、「言葉」として口にし、それを誰かが(※たいてい弟子ですが)「文字」として記録したり、あるいは哲学をした人自身が「文字」として残します。つまり、哲学は言葉=言語(※たいていは母語)に「拘束=呪縛」されるということです。

 考える。話す。書く。いずれも、体を張った具体的な行為です。

 聞く。読む。そして、翻訳(※あるいは通訳)する。それを聞く。読む。これらも、体を張って「行為する」ことです。つまり、

*具体的な行為

なのです。ややこしい話になってきたので、ちょっと逃げます。比喩に走ります。オヤジギャグを飛ばします。悪い癖とは分かっているのですが、根っから根性がないので、踏ん張りがききません。で、比喩に逃げます。

 まず、フランス語とドイツ語を比較します。自分にとっては、辞書と文法書を頼りに、ほんの少し読めるくらいの言語ですが、自分の抱いているイメージを書いてみます。

 フランス語は軽快で、小回りがきいて、おしゃれで(※「駄洒落」の「しゃれ」も含みます)、明快(※言い古されたイメージです)なところが、いいです。一方、ドイツ語は、重厚で、力強く、生真面目(※「ドン臭い」も含みます)で、魂にぐっぐっとくるところが、いいです。フランス語は滑ります。ドイツ語は停滞します。

 フランス語が「下痢」(※失礼!)なら、ドイツ語は「便秘」か「胃もたれ」です。フランス語が「軽いめまい」なら、ドイツ語は「昏倒(こんとう)」か「失神」です(※フランス語、そしてドイツ語を母語とする方々、ごめんなさい)。

 で、存在と無ですが、『存在と無』を書いた、あの小柄なフランス人は、確か血筋的にも、また思考のプロセスを踏むうえでも、ドイツ人に近いDNA(※比喩です)の持ち主でした。だから、あの人の著作はフランス語で書いてあるのですが、胃にもたれます。

 欧米で仕事をしてきた、ある文芸批評家が、第二次大戦後のフランス哲学の状況を、

*「フランスはドイツによって再占領されている」

と、かつて言ったそうです。いや、嘆いたそうです。これを初めて聞いたとき、大学に入ったばかりの自分はびっくりしました。

 話が違うじゃないか。

 何しろ、「明晰ならざるものは、フランス語にあらず」という、あるフランス人がプロパガンダしたフレーズを信じきっていたのですから。迷ったあげく、ドイツ語よりフランス語に比重をかけて勉強しようと張り切っていたのですから。内なる自分に巣くっているモヤモヤから救ってくれるものを求めていたのですから。

 その「再占領」について、教えてくれた人――。

 懐かしい! 涙が出そうになります。今は一部の学生たちから「学魔」とあだ名を付けられています。自分が出会った当時は、少壮気鋭の(※なんと手垢の付いた言葉でしょう)英文学者でした。この記事をお読みの方、ぜひ「学魔」をグーグルなどで検索願います。

「学魔」様、くれぐれも目を大切になさってください。それだけが、心配でなりません。『存在と無』の著者もそうでした。『伝奇集』を書いた、アルゼンチン出身の作家もそうでした。もっともっと本を読んで、うんとうんと書いてほしい人が重篤な目の疾患に襲われます。残念でなりません。

 で、その「学魔」様が言うには、そのコスモポリタンな(※懐かしい響きの言葉です)文芸批評家は、仏・独・英語はもちろん、複数のヨーロッパの言語および古典語を、自由自在に扱うことができるという、古き良き時代の欧州の伝統的教養を身につけた、これぞ「生けるヨーロッパ文化」みたいな人だ、とのことでした。だから、大学に入りたての自分は、「再占領」うんぬんの話はヨタ(※「でたらめ」)ではないらしいと思ったのでした。

 そうか、せっかく米国に助けられて戦争に勝ったというのに、フランスはドイツによって、また侵され(=犯され)てしまったのか。いや、侵され(=犯され)続けているのか。

 本当でした。大学生となり、お勉強をしていくについて、その当時の若いフランスの哲学者たちがこぞって、もう世を去ったドイツの哲学者たちの著作の注釈みたいなことに熱中している実態が判明してきました。

 にもかかわらず、

若いということは馬鹿いということで、愚かでナイーブ(※国語辞典ではなく、英和辞典でnaiveを引いてください)だった自分は、ころりとそのフランスの哲学者たちの言うことや書くことに心酔してしまったのです。振り返ると、危うかった。あのフランス人たちの冗談半分を真に受けていた。というのも、あの当時のフランスの哲学者たちは、

*一種の知的アクロバット

にふけっていたのですから、本気で読んではいけない部分もあったのです。全部ではありませんけど。

     *

*だから、翻訳は信用できない。

と、自分は短絡するのです。

 一方、敗戦国であった日本の哲学は、いろいろ媚態(びたい)をつくってはみたものの、ドイツ哲学にも、フランス哲学にも、見向きもされなかった。侵され(※犯され)もしなかった(※これは、セクハラ発言です、お詫び申し上げます)。

 こうした状況は、現在もこの先も同じではないか、というわけで、ここで話はまたもや短絡(=飛躍)するのです。

 ビジネス上の通信文、メディアの報道記事、多国間でのさまざまレベルでの条約・コミュニケ・契約書、特許明細書、各種機械を始めハードやソフトのマニュアル、いわゆる実用書、自然科学の論文・書籍などの翻訳は、ここでは問題にしていません。人文科学・一部の社会科学の論文・書籍や、「純文学」(※「死語」ですか? いずれにせよ、とりあえず使います)の翻訳を問題にしています。もちろん、ここで特に疑問視しているのは、哲学書の翻訳です。

 上で最初に触れたほうの「翻訳の鬼」様は、こうした点についても敏感で、とあるドイツの哲学者の著した書物の新訳と旧訳を比較しながら卓見を展開していらっしゃいます。その議論を読むと勇気づけられる部分もあるのですが、正直言って、

*概念=観念なんか翻訳はできない、できっこない

と言いたいです。

 重すぎて、他の言語に置き換えることなど不可能。同じ言語内でもパラフレーズ(※言い換え)は至難の業(※それなのに人は楽々と「至難の業」をやっているつもりでいる)。まして、他の言語に変換などできるのでしょうか? 

 そもそも、概念=観念とは、まぼろし=空蝉(うつせみ)=現人(うつせみ)(※一昨日の記事をお読みいただければ幸いです)=空(うつお)ではないでしょうか? うんとやさしく言えば、概念=観念なんて「からっぽ」ではないでしょうか? それを言葉=言の葉で、掬い取ろうなどというのは、いかさまではないでしょうか?

*空しい、虚しい、むなしい、

です。概念退治、悪魔祓いなどは無理。実体がないのだから、そもそも無理。知覚も観察もできないのだから、絶対に無理。

 概念はヒトを縛るにもかかわらず(※比喩です)、ヒトは概念を手で触れることも、まして、拳骨(げんこつ)で打ちすえることも不可能。銃で撃っても駄目。原子爆弾でも無理。いや、この星に散らばって存在する原子爆弾を全部使ってヒトが絶滅すれば、可能かもしれない。言語を持った他の生物が、ヒトに代わってしゃしゃり出て来ない限りは。

【※以上の引用で直接書かなかった固有名詞は、山岡洋一、ジャン=ポール・サルトル、ジョージ・スタイナー、高山宏ホルヘ・ルイス・ボルヘスミシェル・フーコージル・ドゥルーズジャック・デリダジャック・ラカン、そして……フリードリヒ・ニーチェマルティン・ハイデッガーとゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルなど、です。)】

*「あえて、その名は挙げない」より

 大学生になって文学を勉強していて、文芸批評というものを読むようになった。どれも退屈だった。その中で自分と波長の合う文章があって、その作者の本をよく読むようになったが、自分の周りの学生たちのその人(※その文章というべきか)に対する評価は割れていた。

 なにしろ、センテンスが長い。「、」ばかりの文が数行にわたって続く。また、修飾語と名詞、主部と述部とのつながりが奇抜。そのため、何度か読み返さないと意味がとれない。表面的な意味がとれたとしても、その内容の理解に苦しむ。

「簡単なことを、わざと難しく言っているだけ」「難解なのではなく、混乱しているのだ」「只者じゃないよ。だって、ミシェル・フーコー吉本隆明の対談を通訳したんだぜ」「読者をおちょくっているだけだよ、あいつは」「精神年齢100歳だよ、どう考えても」

 おおざっぱに言うと、三人のうち二人は否定的な意見を持ち、残る一人が熱烈な信奉者という感じだった。そんな文章の書き手の名前をここで挙げることは簡単である。忘れたわけではない。だが、あえてその名は挙げない。理由は、この記事を読んでいるうちに分かってくると思う。

 

*「飽きっぽくて、忘れっぽい」より

 で、とりあえず、上に挙げた「トリトメのない記号=まぼろし」の「大いなる存在の連鎖」についてのメモみたいなものを、以下に書き連ねてみます。

*あらゆる情報が、「トリトメのない記号=まぼろし」になり得る。

*「トリトメのない記号=まぼろし」となったあらゆる情報は、そのコンテンツとは無関係に=テキトーに、また、そのコンテンツを配布するさいの目的=意図=企みに沿う形で、あるいは逸脱する形で、あちこちに「並べられる=陳列される=展示される=羅列される=遍在する」か、「彷徨(ほうこう)する=さまよう=うろちょろする 」

*ニュース(※政治・経済・社会・企業・スポーツ・おくやみ・国際・新製品・IT・出版など)、うわさ、ゴシップ、政府発表による公報、自治体による広報、口コミ、マーケット情報(※株式市場・為替市場・債券市場など)、花粉情報、井戸端会議(※もう死語ですか?)での話題、公園におけるママたちの立ち話、生活情報(※医療・健康・ファッション・食生活・住まい・子育て・教育・エコ・求人・マネー・流行など)、映像(※通信社やメディア提供=配給のもの、YouTube、投稿写真、投稿映像など)、ネット(※PCのみならずケータイを含む)を通じての情報(※上記のものすべてに加えて、たとえば、スピリチュアル、超常現象、宗教、小説……ありすぎて記載不可能)などの、情報・データすべてが、「トリトメのない記号=まぼろし」として、購入されたり、無料配布されたり、流出したり、漏洩(ろうえい)したりした後に、消費されたり、パスされたり、廃棄処分されたり、忘却されたり、保存されたり、想起されたりする。

*「トリトメのない記号=まぼろし」の「大いなる存在の連鎖」を成立させている裏=根底には、ヒトに備わった飽きやすく忘れっぽい習性がある。

ロラン・バルトは、非常に飽きっぽい人だった。次々と、「クルージング=とっか〇ひっかえ=ハッ〇ンバ巡り」しまくっていた(※これ、意味深です)。その意味では、部分的に、ミシェル・フーコーとそっくり(※これ、スキャンダラス=ゴシップ雑誌的です)。故人のご両人に鞭打っては、失礼というもの。 ただし、フーコーさんなら、無知ならぬ鞭ペンペンを喜んで、例のおサルさんのような笑い声を上げるかもしれない。キッキ、ヒッヒなんて。ところでフーコーさんとポールソンさんてそっくりじゃありません? いずれにせよ、ごめんなさい、バルトさん、フーコーさん。なお、バルトさんが忘れっぽかったかどうかは、不明です。

 

*「女か男か?」より

 文学作品において「作者はいない」という意味のことを書いたのは、ミシェル・フーコーでしたっけ? もし、自分の記憶が正しければ、フーコーは大した人でしたね。あれだけ理屈っぽい人たちが住んでいるフランスという国で、説得力を持って、あんな挑発的なフレーズを書いたのですから。

 ところで、どうして自分はいきなり「作者はいない」なんて文句を思い出したのでしょう?  ひょっとして、今この文章で書いていることと、関係があるからかもしれません。このフレーズも含めて、これから先いろいろ考えてみたいです。おもしろそうじゃありませんか? 

 では、また。

 えっつ? 終わりにしては、あっさりしすぎている、ですか? では、官僚的=事務的な「まとめ」をします。

 性・性差の違い、オトナとコドモの違い、現実の出来事と夢の中で見た出来事の違い、国籍の違い、ヒトか他の生き物かの違い、ヒトか他の惑星の生き物かの違い――こうした違いが言葉として「語(かた)られた=騙(かた)られた」場合には、

>*言葉も記号も、「匿名的」で「非人称的」で「中性的」なものである。
>*言葉は欠陥品である。

という前提に立てば、「違い」ではなくなる。それが、今回の「結論」です。なぜなら、物でも事でも現象でも出来事でもない「言葉という記号」においては、上述の数々の「違い」は実証も検証もできないからです。ややこしいですか?

 じゃあ、こんなのはどうですか?

 桃太郎の出てくる昔話がありますね。それは言葉で語られたり、紙芝居になったり、アニメになったりします。

 桃太郎が「男の子 or ヒト or 日本人 or コドモ」であることを、どうすれば証明することができるのでしょう。

 桃太郎とは、イメージであり、言葉であり、映像であり、絵である以外の何ものでもないのです。

 オリンピックで女性に対してのみ行われるセックス・チェックを桃太郎にもするとか、身長や体重を測るとか、何歳かを医学的方法で測定するなんて、できますか? 桃太郎から、検査用に採血することができますか?

 今例に挙げた「桃太郎」を、あなたの大好きな小説やアニメの主人公や登場人物に置き換えてみると、記号というもののトリトメのなさを体感できると思います。たとえば、小説の登場人物であるハリー・ポッターでも、映画化された作品に出てくるダニエル・ラドクリフ君が演じるパリー・ポッターでも、事態は変わりません。

 ちなみにラドクリフ君ではないですよ。彼が演じるパリー・ポッターという役柄、および彼の映像を問題にしているのです。そこのところを混同なさらないようにお願いします。

 ハリー・ポッターを主人公にした本は、印刷という形で、そっくりなもの=記号として、全世界に散らばって存在していると考えられます。ラドクリフ君の映像も、フィルムやDVDや写真という形で複製されて=記号化されて、世界中に遍在しているはずです。それが「トリトメのない記号」です。お間違えのないようにお願いします。

 

*「作者はいない」より

 大学に進学して外国文学科に籍を置いたころには、新しい批評が流行していました。英米の「ニュー・クリティシズム」、フランスの「ヌーベル・クリティック」が盛んにこの国にも紹介されていました。「パイデイア」、「エピステーメー」、「ユリイカ」、「現代思想」、「海」といった雑誌や複数の出版社が、そうした新批評の紹介の場として一翼ならぬ幾翼かを担っていました。雑誌には、外国語で書かれた書籍の一部や論文を訳したものが掲載されていたわけですが、わくわくしながら読んだものです。

 自分の場合には、「パイデイア」が休刊か廃刊し、「エピステーメー」が創刊された時期に、大学生になりました。ミシェル・フーコーロラン・バルトジル・ドゥルーズ、ピエール=フェリックス・ガタリモーリス・ブランショジャック・デリダなどの訳書も、ぞくぞくと出版されていました。どれもが難解でした。訳が悪いのか? そもそも翻訳が不可能なのか? こっちの頭が悪いだけか? 判断に苦しんだことを覚えています。

 そうした新しいタイプの批評や哲学書を翻訳するだけにとどまらず、日本語で海外の批評家や哲学者の「仕事=作品」を論じたり、海外の作家の文芸作品を新手法で批評したり、あるいは日本の作家の作品を新手法で批評する試みをする人たちも出てきました。日本版「新批評」の登場という感じですね。その中でも刺激的な仕事をしていたのが、蓮實重彦氏でした。自分は、同氏の影響をかなり長い間受け続けていました。今、考えると、洗脳されちゃった、に近い状態でした。


*「哲学/批評 風味・Feel This Moment 2013 Pitbull ft. Christina Aguilera」より

 Feel This Moment 2013 Pitbull ft. Christina Aguilera

 あれよあれよ感の強い動画。かっこいいですね。

 ピットブル(すごい名前ですね、わんちゃんみたい)を見るとミシェル・フーコーを思い出すのは私だけでしょうか。よく見ると顔つきだけでなく体格がだいぶ違うのに、頭の感じだけで勝手に連想しているみたいです。フーコーをマッチョにしたようなおじさん。

 一方のクリスティーナ・マリア・アギレラですが、その表情に見とれます。視点が定まらないというか、カメラ目線でこっちを向いているショットが少ない気がします。マイペースで一心不乱なノリが欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー)を彷彿させなくもない感じ。きょろきょろしているところが恥ずかしげにも見えます。以外とシャイなのかも。

 フーコー似のピットプルおじさんとうわの空目のアギレラお姉さんのコラボというか絡み。好きです。二人ともパワフルで見ていて清々しい。

 音楽にも洋楽にもぜんぜん詳しくないので、自分が見て楽しい点ばかり、だらだらと書いて申し訳ありません。私には音楽についての蘊蓄は似合わないしできっこないので諦めております。せいぜい、ウィキペディアへのリンクを張ることでお茶を濁させていただきます。

        *

 フーコーで思い出しましたが、昔おもにその著作の邦訳を読んだり、ただその邦訳の字面を見ている存在だった、懐かしいフランス人たちの動画を最近になって漁っています。以外とあるもんなんですね。YouTubeが登場した時代まで生きていて良かったとつくづく思います。難聴のために新しい音楽を聴いても聞き取れないのが残念ですが、贅沢な悩みというべきでしょう。

 根がミーハーな私は、懐かしいフランス人たちの動画を見て老後を楽しんでいるというわけです。

 このフーコーですが、なんとノーム・チョムスキーと対談しています。なかなか興味深い話をしています。

 この動画を見ると、かつて来日したフーコー吉本隆明と対談したという話を思い出します。その時に両者の間で通訳をしたのが蓮實重彦なのです。

 ね、フーコーとピットブルって似てますよね? ヘンリー・ポールソン元米国財務長官を見た時にも、あ、フーコーに激似なんて思いました。髪型(?)から来る印象って決定的です。

 学生時代にフーコーがNHKテレビに出ていたのを見たことがあるのですが、それは「言葉は言葉 【言葉は魔法・006】」という記事に書いてありますので、私みたいにミーハーな心をお持ちの方はぜひお読みください。動画が何本も貼り付けてあります。

        *

 フーコーはちょっと強面なので会ってみたいとは思わなかったのですが、ロラン・バルトには会ってみたかったというか、この目で見たかったです。バルトも来日したことがありますよね。

 大学進学を機に上京した年の思い出なのですが、生まれて初めて入った飲み屋で、びっくりしたことがありました。

「いらっしゃいませ~。あら、お若いのね、学生さん? 何を勉強なさってるのかしら? まあ、フランス文学ですって? ほら、あなたのいる席の隣に、ロラン・バルトが座ったことがあるの。バルトは知ってるでしょ? こんなになって、座ってたわ」

 その店のママ(男性です)が、わざわざしなを作ったり、身ぶりと手振りを交えてその時の模様を教えてくれたのです。もちろん、感激しました。思わず居住まいを正し、空席だったその椅子に見入ったものでした。興奮のあまりに鳥肌が立ったのを覚えています。

 バルトの日本旅行記というか独創性に富んだ日本論である『表徴の帝国』に、バルトが自分で手描きした新宿の地図が収録されていて、そこにお店の場所と名前が出ていることも、ママが教えてくれました。後にその本を手に入れて、またまた鳥肌が立ったのを覚えています。あと、その地図にはバルトが来日した当時に、ある種の人たちによく知られていた都内のある映画館の場所も明記されていました。これなどは、ある種の分野の研究において貴重な資料となるのではないでしょうか。(※以上は、言うまでもなく、バルトのしたお仕事とは直接的には関係のないことです。)

「記、号、の、帝、国、」(「、」はルビ)としての日本は、ロラン・バルトにとっては、ありうべからざる楽園の、不意の、しかも束の間の幻影としてあるのであり、だからその言葉たちは、いささかも「日本論」を構成したりはしえないのだ。
蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』p.208 太文字と丸括弧内は引用者による。)
 こうお書きになるのが、蓮實先生なのです。かつて先生の授業を受けたにもかかわらず、ぜんぜん学ばなかったこの私……。

        *

 音楽の紹介記事なのに、話がどんどん外れてきましたね。

 もうこうなったら、このまま行きます。哲学と批評風味でフィーチャーさせていただきます。あれよあれよ。この展開を素直に受け入れる。いまここを大切に。

        *

 蓮實重彦の『批評 あるいは仮死の祭典』では、ミシェル・フーコーアラン・ロブ=グリエジル・ドゥルーズロラン・バルトジャン=ピエール・リシャールが扱われていますが、フーコードゥルーズとバルトについてはインタビュー(バルトを除いて蓮實がその自宅やアパートに訪ねていく)があり、またその生の人物像が語られていて、私のミーハーな気持ちを満足させてくれます。ルポルタージュ形式の小説みたいなので、楽しく読めます。

 これだけ臨場感にあふれるフランス思想のテキストは他にはないのではないでしょうか。何しろ見てきたように語られているのですから。実際、そうなんですけど。

 動画から熱気が感じられます。見入ってしまいます。『批評 あるいは仮死の祭典』で描かれている人間味あふれるドゥルーズ像と、あまりにも悲しい最期を思うと感傷に流されていきます。ドゥルーズだけではありません。バルトもフーコーも、ルイ・アルチュセールも、死因こそ異なりますが非業の最期でした。合掌。

        *

『批評 あるいは仮死の祭典』で印象に残っている「ルポルタージュ」があります。一九七二年の一月にパリで三日間にわたってプルーストをめぐるシンポジウムが行われ、「プルーストとヌーヴェル・クリティック」という会が持たれたという。その発言者たちの顔ぶれがすごい。ロラン・バルト、ジャン・ルッセ、ジャン・リカルドゥー、ジェラール・ジュネット、セルジュ・ドゥブロウスキー、ジル・ドゥルーズ。しかも聴衆の中に小説家クロード・シモンや批評家ジャン=ピエール・リシャールがいた。

 その会場にいた蓮實が耳に挟んだという隣席の男のつぶやきが当時の状況を伝えていて興味深い。

(前略)今夜の客を見ろ、あれがプルーストって顔かよ、(中略)、ほらあの女の子はバルトの本をかかえている、連中はみんなバルトを見に来たんだ、(中略)、彼等はサインでももらえればとっとと帰ってゆくんだ(後略)
蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』p.38、丸括弧内は引用者による。)

 ミーハーな私はこのあたりの描写で、もうため息吐息でめろめろへろへろになります。その会でジル・ドゥルーズが登場して、会場の雰囲気が一変するのですが……。それはいったいどういうことなのか。これ以上引用も要約も私にはできません。この本を読んでいただくのがいちばんいいと思います。

 お祭り騒ぎの雰囲気のイベント。数々の新しい手法を用いた批評のプレゼン大会。ミーハーな観客たち。そんな現場を活写した蓮實の文章はいま読んでもスリリングです。とりわけ、新しい批評がフランスという場でどのような登場の仕方をし、どのように受け入れられていったか、については歴史的な文脈に置いて考えることが不可欠だと感じます。新旧の対立とかせめぎ合いという単純な構図には収まらない「事件性」があったのです。そして蓮實はその事件に立ち会ったのです。

        *

『批評 あるいは仮死の祭典』が出版された時期の日本はどうだったか。「言葉は言葉 【言葉は魔法・006】」と「言葉はバレエ 【言葉は魔法・005】」でも触れた雑誌「エピステーメー」をはじめ、雑誌「パイデイア」、雑誌「海」といった雑誌におけるさまざまな書き手の活動が、当時の状況を歴史的な文脈として考えるさいの資料になると思います。いま振り返ると、フランスとは状況がかなり異なっていたのが分かります。とくにアカデミックな場での状況は日仏では大違いだったみたいです。

 日本では――哲学や思想界ではなく――むしろ文芸や文芸批評の担い手たちが、フランスの新しい哲学と思想を紹介・導入する際に積極的で大きな役割を果たしたことは注目していいと思います。

        *

 では、こうなったら、ついでにジャック・デリダの動画も行きましょうか。

 バナナの叩き売りじゃあるまいし、もう自棄ですね。

 では、あまり長くないので行きましょう。字幕付きで。

(中略)

 蓮實重彦の『フーコードゥルーズデリダ』をときどき拾い読みします。通して読むことはないです。思考停止的な印象、つまり個人の意見および感想で恐縮ですが、この著作でのフーコー論は物語みたいです。何度も読み返さないと分からない物語。読み返しても分からない物語。それでいいのだと思います。あれよあれよと読み返しています。

 ドゥルーズ論は現代詩という感じがします。とうてい言葉では伝えられないし説明できないような「何か」をレトリックでほのめかす。そんなポエムです。詩ですから、理解というよりも鑑賞するつもりで読むといいかもしれません。

 デリダ論は、この著作ではいちばん読みやすいし分かりやすい気がします。記述が図式的なのです。チャート式ということですね。明晰という言い方もできそうです。読むとすっきりします。言語学のまとめとか整理に最適の解説だと思います。

*出典

 この記事は、過去のブログ記事(現在はありません)からの引用からなるパッチワークであり文供養です。

*「翻訳の可能性=不可能性」
*「あえて、その名は挙げない」
*「飽きっぽくて、忘れっぽい」
*「女か男か?」
*「作者はいない」
*「哲学/批評 風味・Feel This Moment 2013 Pitbull ft. Christina Aguilera