意味の論理楽・その1【引用の織物】

*「ああでもあり、こうでもある」より

 あなたはSですか、それともMですか?

 この質問をエッチな意味でとってくださって、けっこうです。どうでしょう? あなたはサディスト( or サディスティック)ですか、それとも、マゾヒスト( or マゾヒスティック)ですか? どちらでも、ないですか? 両方の要素がありますか? 時と場合によりますか? TPO次第で変わるから一定していない、ですか? 

 ジル・ドゥルーズという人の書いた本の邦訳である『マゾッホとサド』の訳者が、蓮実重彦蓮實重彦氏です。内容や詳細はすっかり忘れましたが、要約すると、

*いわゆるSとMとは反意語でない

ということが書かれていたと記憶しています。比喩的に言えば、反意語というより、両者のベクトルが違うという意味だったような気もします。これもまた、蓮実重彦蓮實重彦氏が、何かに書いていらっしゃったことですが、マルセル・プルースト作の、例のとてつもなく長い小説『失われた時を求めて』は、「長い」の反対が「短い」ではないことをめぐって書かれた作品である、という意味の文を読んだ覚えがあります。間違っていたら、ごめんなさい。

 というわけで、正直なところ、「快=気持ちいい」と「不快=気持ちよくない」を反対の感情、あるいは感覚としてとらえていいのかどうか、整理がつかないのです。みなさんは、どうお考えですか? ややこしいですよね。たぶん、言葉が欠陥品であるということに加えて、ヒトが言葉という欠陥品に「慣れきっている=依存しきっている=疑いを持たなくなっている」ために、いわば「落とし穴=陥穽=罠」に、はまり込んでいるのではないか、と思えてならないのです。

 上で、超常現象の話をしましたよね。「超常現象」の対義語が「日常」だと仮定してみましょう。日常の中で――その真偽は別にして――たまに超常現象という話題をテレビや本や雑誌で見聞きするからこそ、わくわくどきどきもし、不思議だという気持ちを堪能できるのではないでしょうか? また、曲芸や類まれな才能の話もしましたよね。曲芸やサーカスは、本来、「ハレ=晴れ=非日常」の時に催されるものだった、という考え方があります。

 一方、「ハレ=晴れ=非日常」の反対は、「ケ=褻=日常」だとされています。「ケ=褻=日常」の世界に生きるヒトが、たまに「ハレ=晴れ=非日常」の時空を作り、そこでお祭りや儀礼を行い、その刺身のつまとして、曲芸やサーカスや芝居=劇といった娯楽=芸能を催すからこそ、そうした娯楽=芸能が妖しげで、これまた、わくわくどきどきするものだったのではないでしょうか? 毎日が正月やお祭り、毎日が超常現象だったら、ヒトは飽きるどころか、不思議を堪能できなくなり、たぶん、辟易=閉口=うんざりしてしまうでしょう。

 ですので、

*「AかBか」だけでなく「AもBも」という際のAとBとは、「一見」相反するものでなければ、ヒトは満足=納得できない。

そんな気がします。この「一見」が曲者ですね。ヒトが、反対だと思いこんでいれば、それでいいのだ。そのように大雑把に考えるのが楽なのですが、そういうスタンスを「杜撰=いい加減=テキトー=手抜き=ちょっと違うのではないか」と、自分なんかは感じてしまうのです。損な性格だと思います。こんなことを考えても、いいことなど、これっぽっちもないのですから。でも、やっぱり、考えちゃうんですよ。困ったものです。

 反意語=反対語=対義語については、保留したほうが、よさそうです。近いうちに、また、ああでもないこうでもない、ああでもありこうでもある、と考えながら書きたいと思います。(「ああでもあり、こうでもある」より)

 

*「かつらはずれる」より

*『善悪の彼岸

という本の名前を、お聞きになったことがありませんか? 書いたのは、ニーチェという人です。「善 vs. 悪」という反対語の図式を「ひょいと」か「びょんと」か「ひゅっと」か「ばきゅーんと」か、知りませんが、とにかく、「越えて = 超えて」しまったみたいなのです。

 自分は、その本の日本語訳を、かなり長い間持っていました。そして、辞書みたいに、ところどころを拾い読みしていた時期がありました。でも、何が書いてあるのか、よく分かりませんでした。過去形なのは、どこかで無くしたからです。残念ながら、その内容については何も覚えていません。

 ただ、その本のただならぬ気配と言うか、醸しだす雰囲気と言うか、それだけは、頭ではなく体が覚えています。

*反意語とか、対義語とか、反対語なんて、嘘だ

と、体が覚えているのです。言霊恐怖症の自分としては、怖いのですが、いつか、この大問題について書いてみたいです。ヒトをヒトにならしめている、ずれの本尊である、言語=論理を相手に、おふざけをしてみたいです。で、『善悪の彼岸』という本を書いた人が、次のように言ったそうです。

*神は死んだ。

 勇気ありますね。ちょっとやそっとでは、真似ができることじゃありません。大文字の God ですよ。一神教の神様ですよ。小文字で複数の gods、つまり、寛大なお心をお持ちの、八百万(やおよろず)の神々のうちの、一部ではないのですよ。ファンダメンタリズムの元祖みたいな人たちが、圧倒的多数だった時代に、よくもまあ、そんな大それたことを言うなんて、尊敬しちゃいます。ダジャレの神様の1人であった、ジャック・デリダ氏によると、God と「言葉=ロゴス=論理」には、ふかーい関係があるそうなんです。

*紙、神、髪、加味、かみ、咬み、守、上、噛み、加美、香美、可美、カミ。

 今、並べたのは、ウィンドウズについているワードというワープロソフトを使って、「かみ」と入力した結果です。言霊のおどろおどろしい気配を、ひしひしと感じますね。

 言葉遊びが、いっぱいできそうです。うずうずします。でも、きょうは止めておきます。特に「髪」は止めておきます。なにしろ、「神は死んだ」なんて、大それたフレーズを引用してしまったのだし、「かつら」の話をしてしまったのだし、「ずれ・ずれ」なんて話もしてしまったのですから。ここで、また取り乱したら、さきほど関係者の方々に謝罪した意味がなくなってしまいます。きょうは自重します。(「かつらはずれる」より)

 

*「差別化」より

*ヒトは、飽きっぽく、しかも忘れっぽい生き物である。

 これは日々実感しています。自分の言動を考えても、まわりにいる人たちの言動を見ても、テレビや新聞やウェブサイトを見ても、つくづくそう思います。で、きのう書きましたように、反意語=反対語=対義語=異義語であると、とりあえず共通の認識があるらしい数々のペアの言葉たちに対し、自分はかなりの疑問を抱いているのです。

 自分が見聞きするすべてのペアについて、そうした不信感を持っているのですから、大変です。別に、そんなことを気にせずに生きていくのが楽に決まっています。それは百も承知です。百歩譲って、そうしたペアが反対であると認めてしまい、たとえば、このブログで記事を書いていくとか、そんな心持ちでやり過ごしていくとか、そんなことができれば、気楽だし、うつも悪化しないだろうなあ、と思います。でも、できそうもないのです。

 ただ、いちいち反対語のペアが出てくるたびに、それ突っかかっていたら、しんどくて仕方ありません。ですので、反対語のペアを、このさい十把ひとからげにして、気持ちの整理だけをしておこうという姑息な手段を選択しようと決めました。で、次のような仮説(かせつ)を仮設(かせつ)しておきたいと思います。以下のAとBは、いわゆる反意語=反対語=対義語=異義語のペアだと考えられているものです。

(1)AとBは、「反意語」というよりも、むしろ「表裏一体」であるらしい。写真のネガとポジが代表的な例。AからBへ、BからAへの移行が、ほぼ瞬間的に可能であるという特徴を持つ。また「一瞬にして自分を変える」「ポジティブをネガティブに転じる」に類似した、ある種の分野で用いられている、レトリック=言葉の遊び=キャッチコピー=宣伝文句=惹句=作り話=トリック=錯覚=嘘という、応用例もある。この中に含めてよさそうなペアの候補としては、愛と憎、快と不快、「いや=だめ」と「ええ・はい=いいわ・いいよ」、幸と不幸、うれピーとかなピー、味方と敵、友達と見知らぬ人、痴漢とたまたま電車内で隣合わせた人、前進と後退、進化と退化、などが怪しい。

(2)AとBは、「反意語」というよりも、むしろ「範囲語」であるらしい。AとBの意味の素(もと)は、かなり混じりあっているにもかかわらず、言葉の響きによって、反対の意味であるという印象を招いていると推測される。つまり、構成要素が同じ「範囲=枠」の中で入り乱れている。構造的には、連続体という比喩も有効であろう。また、時間的推移により、構成要素間での位置関係が変化しやすい。また、そもそもペアが反意であるという根拠=理由が薄い=弱い場合も、ここに含めていいと考えられる。変化に注目した場合には、プリズムのイメージが近い。見方や視点を変えると、異なったもののように知覚されるという特徴がある。正規品と類似品、オトナとコドモ、単数と複数、悪人と善人、聖人と涜神(とくしん)者、聖人と俗人、超人とふつーの人、すごいヒトと凡人、本物と偽物、本人と影武者、本人と偽者、天動説と地動説、「ヒトは空を飛べる」と「ヒトは空を飛べない」、幽霊の存在の肯定と幽霊の存在の否定、「(人間関係における)上 」と「(人間関係における)下 」、などが典型例かもしれない。この中に含めてよさそうな他のペアの候補としては、真と偽、善と悪、正と誤、聖と俗、ハレとケ、「本当です」と「間違えました」などが怪しい。

(3)AとBは、「反対語」というよりも、むしろ「相対語」であるらしい。AとBとの間には、反対関係ではなく、相対的な「位相=段階=階段=雛壇(ひなだん)」が存在すると推察される。したがって、その階段のどこにいるかによって、反対関係とは言えない関係が生じる。多くの場合、測定器や測定用機器によって物理的に観察でき、かつまた数値化可能だという特徴を備えている。以下の典型例は、比喩としてではなく、物理的に確認可能な場合を想定していることに注意されたい。熱いと冷たい、暑いと寒い、右と左、無痛と苦痛(※SMではなく医学的意味で)、厚いと薄い、高いと低い、長いと短い、遠いと近い、「でかい」と「ちっちゃい」、「これだけ」と「こんなに」、東洋と西洋、速いと遅い、すっぴんと厚化粧、など。

 ここで、ひと休みしてよろしいでしょうか? みなさんも、お疲れになったのではないでしょうか? 少しだけ、話をずらしましょう。反対の意味を表すのに、漢語系の日本語の単語に「無」「不」「反」「非」「脱」といった語を頭に被せますよね。まるで、「否定のかつら」みたいです。英語にも、ありますよね。

*unhappy 「不幸な」、 immoral 「不道徳な」、 antisocial 「反社会的な」、disorder 「無秩序」、irregular 「不規則な」、illogical 「非論理的な」、ignorance 「無知」、deodorant 「脱臭剤」、nonsense 「無意味」、anarchy 「無政府状態

 よく見ると、おなじみの単語が透けて見えませんか? おもしろいですね。一見するだけでは、どうなっているのか分からないものもあります。たとえば、上記の ignorance 「無知」ですが、これは語源的には i- という「否定のかつら」+ 「gnor(ance) = know 」と考えるらしいです。だから、無知=知らない、となるみたいです。なるほど、という感じですね。

 最後に挙げた anarchy 「無政府状態」は、アナーキーと読めば、なんだあれかあ、という感じの単語ですが、手元にある辞書によると、a- という「否定のかつら」+ 「 archy =指導者」と説明してあります。ですので、monarchy とは「モノクロ(=単色)」や、このブログみたいな「モノブログ(=孤独ブログ)」の「モノ」、つまり、「1つ、1人」+「指導者」で、「君主制、君主国」となるとのことです。なるほど。

     *

 で、

(4)AとBは、「対義語」というよりも、むしろ「大儀語」であるらしい。AとBの間に、対立関係ないし反対関係を見出すことは容易に見えて、実は難しい。哲学、論理学、倫理学、数学、ひいては「言葉遊び=レトリック」のテーマとして、しばしば論じられてきたが、結論は出なかったもよう。これから先も、結論は出ないと予想される。この種の議論は、七面倒くさく、骨がおれ、徒労に終わることが特徴。一部のマニアおよびオタク向け。脳科学に救いを求める向きもあるが、その有効性は未知=絶望的。典型例は、存在と無、有と無、虚と実、戦争と平和、現実と非現実、現実と仮想現実、フィクションとノンフィクション、事実と虚構、嘘と真(まこと)、始まりと終わり、身体と精神、平面と局面、点と線、直線と曲線、罪と罰、天国と地獄、この世とあの世、オトコとオンナ、キミたち女の子とボクたち男の子(※ただし、ここではオスとメスという生物学的要素を除いた抽象語)、など。

(5)AとBは、「対義語」といよりも、むしろ「大疑語」であるらしい。大いに主観的な解釈が、さまざまな人たちによってなされている、極めていかがわしいペアである。と解釈できる点が、いかがわしさに輪をかけていると言えなくもない。(1)(2)(3)(4)、および次の(6)と重複する。典型例は、幸と不幸、前進と後退、真と偽、善と悪、正と誤、聖と俗、虚と実、現実と非現実、嘘と真(まこと)、など。

(6)AとBは、「異義語」というよりも、むしろ「異議語」であるらしい(※両者の漢字の違いをよく見てください)。反対関係にあるのではなく、複数の利害関係者=ステークホールダー間の意見の相違や虚偽や策謀などが根底として存在する、「混乱=闘い=戦い=喧嘩=生存競争=仁義なきたたかい」であると推測される。口語体=悪態=罵倒で、表現されるのが特徴。利害関係に基づくものであるために、しばしば同一ないし同様の表現として立ち現れる。例は以下の通り。「言った」と「言っていない」、「やったろー」と「やってねー」、「良かった」と「悪かった」、「関係ねー」と「責任とれ」 、「おまえが悪い」と「おまえが悪い」、「失礼しちゃうわ」と「失礼しちゃうわ」、「とんでもないわ~」と「とんでもないわ~」、「おだまり」と「おだまり」、「馬鹿野郎」と「馬鹿野郎」、「今に見ていろ」と「今に見ていろ」、「某国の将軍様」と「某大都市の知事」、「真似すんな」と「真似すんな」など。

(7)AとBは、反意語=反対語=対義語=異義語というよりも、むしろ「同意語=同義語」であるらしい。世界を「まだら」状にしか知覚および認識できないヒトが、長年にわたって使用してきたことにより、慣例的に反対の関係にあると「誤解=事実誤認=錯覚」されていると推測可能な言葉のペア。補完関係があるという見方も可能かもしれない。静と動、絶対と相対、客観と主観、客体と主体、「分かった」と「分からない」、「知っている」と「忘れている」、きれいと汚い、可能と不可能、シャチョーとペーペー、お偉いさんと市民、濃いと薄い、あそことここ、善と悪(※倫理的意味ではなく、この惑星に対してのヒトの影響度)、神と悪魔(※ただし、諸説あり)、ヒトと動物、優と劣、高等と劣等、理系と文系、○○党と△△党、右派と左派、保守と革新、主流派と非主流派、○○党XX派と○○党□□派、「某国の将軍様」と「某大都市の知事」(※また出ちゃった)など。

(8)AとBは、反意語=反対語=対義語=異義語というよりも、むしろ「別物」であるらしい。しかし、存在である以上、根本においては、つながっているとも推測される。ベクトルが違うのに、歴史的経緯や、ゴタゴタ=騒動や、錯誤や、陰謀によって、反対の関係があるとみなされているとおぼしきペア。典型例は、資本主義と共産主義、塩と砂糖、社会主義共産主義、SとM、○○教と△△教、○○派と△△派、○○流と△△流、一時期のテレビと一時期のラジオ、シロとクロ、まなとかな、タロとジロ、など。

 なお、以上の8つの定義のそれぞれの出だしの総括的センテンスの語尾が、すべて「らしい」となっているのは、それを一つひとつ検証するのが、実にしんどそうだからです。自分は、哲学と「心中する」(※比喩です、当ブログは自○サイトでは断じてありません、念のため)気はあっても、反意語=反対語=対義語と「心中する」(※比喩です、当ブログは○殺サイトでは断じてありません、念のため)気は毛頭ありません。

     * 

>ヒトは、飽きっぽく、しかも忘れっぽい生き物である。

でしたよね。いったん、さきほどの話題に戻りますが、

*反意語とは、ヒトが本当は体で分かっている、あるいはかつて体で知っていたことを忘れた結果として陥っている錯覚から生じる言葉のペアである

と、簡単にまとめさせてください。何しろ、

*ヒトは、「〇△X」という言葉を作り、その次に「〇△Xとは何か?」と問い、思い悩む生物なのである

からなのです。

で、次のお話に移ります。きのうは、

>ヒトには、他人と同じでいることに安心感を抱く一方で、他人と違っていることへの欲求を抱く習性がある

と、

>「制服=ユニフォーム= uniform =画一的=そっくり」を着ることの気楽さと一体感も「いい=快感である」し、「私服=私だけは別=他の人とは違うのよ」を着て自己主張や自己顕示をするのも「いい=快感である」

という2つの仮説から、本日の文章の冒頭で引用した

>ヒトは、みんなと同じでありたいと同時に、目立ちたいという気持ちを持っている。なぜなら、ヒトは、「落ち着きがない=飽きやすい=好奇心が強い=浮気性の」生き物であり、じっとしていられないからである。具体的に例を挙げると、もし動物園でヒトを檻に閉じ込めて飼育したら、園内でもっともノイローゼにかかりやすい動物となるであろう。

という新たな仮説へと、話を強引に持って行ったのでした。その強引さ=大雑把さ=杜撰さの裏には、

>正直なところ、「快=気持ちいい」と「不快=気持ちよくない」を反対の感情、あるいは感覚としてとらえていいのかどうか、整理がつかないのです。みなさんは、どうお考えですか? ややこしいですよね。たぶん、言葉が欠陥品であるということに加えて、ヒトが言葉という欠陥品に「慣れきっている=依存しきっている=疑いを持たなくなっている」ために、いわば「落とし穴=陥穽=罠」に、はまり込んでいるのではないか、と思えてならないのです。

ときのう書いた迷いがあったからです。

 で、さきほど反意語について、いちおうのケリをつけた結果、「快= 気持ちいい」と「不快=気持ちよくない」は、上述の

(1)AとBは、「 反意語 」というよりも、むしろ「表裏一体」であるらしい。

に該当するのではないかと、とりあえずの結論を得ました。ですので、「表裏一体」について、もう少し説明を加えさせてください。「表裏一体」の関係にあるAとBとは、たがいにほぼ瞬間的にAからBへ、またBからAへと移行=変化=転換することができます。「AでありBでもある」という説明の仕方も可能だと思います。ただし、

(7)AとBは、反意語=反対語=対義語=異義語というよりも、むしろ「同意語=同義語」であるらしい。

とは、違います。(7)は、あくまでも「A=B」であり、「表裏一体」よりは「一心同体」というイメージです。(1)と(7)は確かに、非常によく似ています。何が似ているかと申しますと、「そっくりだ」という点がそっくりなのです。おふざけに聞こえたら、ごめんなさい。(「差別化」より)

 

*「いみのいみ」より

 意味について考えています。きっかけは、数日前に書いた記事なので、以下に引用させてください。

 ★ ★

 まず、きのうの記事から引用させてください。

 ★

*意味が分からないのに、うたう・となえる・はなす・くちにする・ひとにつたえる・かく・しるす・おぼえる

ということは、

*特殊な話ではない

のです。

*よくある話

なのです。たとえば、

*お経、保育園・幼稚園でのお歌の時間、学校の授業での音読、カラオケボックスでの覚えたての歌の練習、お習字、今流行の写経、文字を習いたてのコドモたち、言葉を習いたてのヒトたち、新聞の音読、プレゼン、役人の書いた答弁書を国会で読みあげる大臣、国会の議場での速記、裁判での答弁書の朗読、自分の書いたブログ記事を読み返しているこのアホ……

 今挙げた例には、明らかに意味が分からずにしている行為=動作もあれば、意味がある程度分かっているかに思える行為=動作もありそうです。でも、個人的には、これらの行為=動作すべてが、

*意味が分かってやっているようで、そうではない

と思えてなりません。悪い意味で言っているのではありません。

*「良い悪い」といった次元の話ではない

のです。

*意味が分からないけど、やっている

 むしろ、それが、

*ヒトという種にとっては、ふつうなのだ

と言いたいのです。このことについては、いつか、あらためて考え、書いてみたいとも思っています。

 ★

 以上が引用ですが、「いつか、あらためて考え、書いてみたい」の「いつか」が「きょう」になりました。

 ★ ★

 以上が引用なのですが、

*「★ ★」B「★ ★」のなかに、「★」A「★」

つまり

*「★ ★」 「★」・・・「★」 「★ ★」

というサンドイッチ型の引用になりました。Bは、当ブログの過去記事である「あわいあわい・経路・表層(1)」のなかの一節で、Aは、やはり過去記事「まつはいつまでも、まつ」の一節です。

*いちばん単純な「入れ子構造」

ということになるのでしょうか。

*BのなかにAが入っている

という構造です。このブログでは、自己輸血=自己引用をよくやっていますが、こんな場合もあるのですね。今までにも、無意識にやったことがあるのかもしれませんが、きょうは、

*えっつ!?

という感じで意識しました。で、

*このことについては、いつか、あらためて考え、書いてみたいとも思っています。
     ↓
*「いつか、あらためて考え、書いてみたい」の「いつか」が「きょう」になりました。
     ↓
*「いつか、あらためて考え、書いてみたい」の「いつか」が、再度「きょう」になりました。

というわけです。2度も引用するなんて、よほど気になる部分を引用したのだと思います。

 ここで、

*「引用」

について考えてみましょう。上の例で言うと、

*AをBという形で引用したとき、BはAの「注釈」となる

と言えるような気がします。そう考えるならば、きょうは

*Aの「注釈」であるBを「注釈」するCという「注釈」をつくる

とも言えます。でも、これは言葉の遊び=レトリック=論理ごっこであり、

*言葉は何とでも言える

という曲者(くせもの)ですから、別の言い方もできます。たとえば、きょうは、

*Bは無視して、あらたにAを再び「引用」してCという「注釈」をつくる

と言っても、いっこうに差し支えはありません。というか、むしろ、

*ヒトを含む森羅万象は、常に変わりつつある。

という立場から、

*Aを書いた時の自分と、Bを書いた時の自分と、Cを書こうとしている今の自分は、それぞれが異なっている=変化している=ずれている

と言ったほうが、A、および、Bに書かれている内容=テーマ=意味=「経路(=筋道)」に沿っている、と言えそうです。ということは、

*引用とは「注釈」であると同時に「変奏」でもある

とも言えそうです。

     *

 実は、今書いてきたような、

*形式論理もどき的な言葉の操作

が、とても苦手なのです。だから、「形式論理」ではなく、あくまでも「もどき」なのですが、イメージで言うと、「XはY、だから、Zになる」みたいな筋道の立て方が、大の苦手なのです。それよりも、

*勘=感=観=疳を頼りにする

つまり、「Xでぇ、Yでぇ、Zなんですぅ」みたいな、うじうじした「ま、いっか」主義=でまかせ主義的な、話の進め方のほうがずっと楽です。みなさんは、どうですかぁ? 

     *

 先週の後半あたりから、

*意味って何だろう?

と考え続けています。こういう時には、よく似た感じ=感字の言葉をさがして、並べてみてじっと見つめながら、「ああでもあるこうでもある、ああでもないこうでもない」をします。

 きょうの記事のために、きのう用意した走り書きメモの一部を、以下に書き抜きます=引用します。

*「いみ・意味・異味・忌み・忌・斎/い・意・異・衣・違・位・囲・謂・畏・唯・移・緯・依・委・為・惟・彙・斎/わけ・分け・訳・別け・分ける・別ける・分かる・判る・解る・別る・分かつ・別つ・わかち・ひきわけ/内容・コンテンツ・メッセージ・ねらい・価値・重要性・区別・筋道・道理・条理・事情・理由・子細・いきさつ/そうか・あ、そう・なるほど・アハッ・ほうー・うんうん・うむうむ・やっぱりね・はーあ・ふーん・ふーむ」

 以上の言葉や文字をご覧になって、

*意味の意味

が何となくお分かりになったでしょうか? それとも、わけ分かんなくなってきたでしょうか? 自分の場合には、後者、つまり、

*わけわかんない状態

になってきました。ところで、わけわかるヒトなんているんでしょうか? 

 みなさんのなかで、国語辞典を引いていてがっかりした経験をお持ちの方は、いらっしゃいませんか? 

*Aの意味を知ろうとして、Aを調べてみると、Bが書いてあって、Bを調べたら、Aが書いてあった。

という状況です。かつて、

*個性を打ち出さなければ売れない

というような辞書の販売合戦みたいなものがあった時期がありました。国語辞典であって、次に英和辞典でもあったような気がします。言語学の新しい波の成果が、辞書という形で結実しはじめた時期だったのでないか、と今になって思ったりしてもいます。

 個人的な印象=感想=思い込み=思い過ごしかもしれません。いずれにせよ、そうした時期を経て、現在市販されている辞書では、上記の、がっかりする状況はいくぶん改善されたように思います。

*孫引き

という言葉があります。辞書の場合であれば、

*ある「権威ある=威張った=売れ筋の=学会のボスが弟子や出版社の社員をこき使う形で製作された」辞書

を、他の出版社がそっくり真似たり、ちょっと変えて新発売することです。むかしの辞書は、その「孫引き」が多かったようです。

*「コピペ」

は、今始まった話ではないということですね。

     *

*現在は、PCとネットがあるため、コピペが飛躍的にやりやすくなった

というのが、正確な言い方だと思います。で、国語辞典を引く場合には、

*Aの意味を知ろうとして、Aを調べてみると、Bが書いてあって、Bを調べたら、Aが書いてあった。

は、「いくぶん」減ってきましたが、

*Aの意味を知ろうとして、Aを調べてみると、Bが書いてあって、Bを調べたら、Cが書いてあり、Cを調べて見たら、Aが書いてあった。

みたいな状況が出てきたり、

*Aの意味を知ろうとして、Aを調べてみると、ちゃんとAの「説明」が書いてある。

みたいな、わりとマシな=良心的な=がっかりさせない状況も経験するようになってきました。でも、主流は、やはり、

*Aの意味を知ろうとして、Aを調べてみると、Bが書いてあって、Bを調べたら、Aが書いてあった。

のような気がします。

     *

 で、手持の複数の国語辞典をあらためて飛ばし読みしてみて、辞書に書いてあることは、以下の5つのパターンに分けられるのではないかと、思いました。

1)見出しの言葉を、別のほぼ同じ長さの言葉に言い換える。 
=「Aは、Bなのよ。あと、Cとも言えるかも」。

2)見出しの言葉を、それより長い言葉で言い換える=説明する。 
=「Aは、XがYしてZとなることなの」。

3)見出しの言葉をつかった例文を挙げて、ほのめかそうとする。 
=「Aは、『PがAしたらQが起きた』みたいにつかうのだけど、分かるかしら」。

4)見出しの言葉の、語源や成り立ちを説明する。 
=「Aは、もともとHがIするって意味だったの」。

5)見出しの言葉の、語源や成り立ちを説明する。 
=「Aは、もともとHがIするって意味だったの。でもね、どこかのアホがAとJが似ているものだから、Kという意味にもなっちゃったのよ=「転じた」=「訛った」=「~の意か」。

 そう思うと、

*辞書をつくる

のって大変ですね。でも、

*お手本がある

と、「こんなふうにすればいいのか」「こんなふうに逃げれば=ごまかせばいいのか」「こんなふうにテキトーにしておけばいいのか」という具合に、

*真似る

ことができます。要するに、

*辞書にも、以前からあるやり方=「経路」=パターンがあり、それを真似る=なぞる

ことで、何とかなる部分がほとんどを占めている気がします。ということは、

*辞書をつくるさいには、各見出しの言葉の意味を考える必要はない

とも言えそうです。

*意味は、既に決まっている

のです。あとは、

*どう料理するか=どう差別化するか

ですが、その

*料理法=差別化の余地は、かなり限られている

と思います。

*意味を、新しくつくるわけにはいかない

からです。早い話が、

*辞書が似たり寄ったりになるのは仕方がない。=辞書がまちまち・多種多様であったら困る。

ということです。でも、ときどき、1冊の辞書のなかで、

*困った=変わった語義の説明が見られる

場合があります。「困った=変わった」というのは主観的なレベルの話です。部分的な話ですけど、

*ちょっと「困った=変わった」みたいなニュアンスで、よく議論される国語辞典

がありますよね。あえて名指しませんが、

*○○さん

なんて、「さん」づけされている辞書です。ここにもありますが、

*「かぞえ方」

という便利なデータが載っているので、よく利用します。個人的には、その語義が、特に「困った=変わった=個性的な」ものだという印象はあまりしません。語の説明が、分かりやすくて、例文も適切でいい辞書だと思います。

*「困った=変わった」が「高じる=エスカレート=とちくるう」

アンブローズ・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce:1842-1914?)のものした、『悪魔の辞典』(The Devil's Dictionary)

みたいになります。いい辞書だと思います。この辞典を手本に自分版の『悪魔の辞典』を目指している人たちがたくさんいました。現在もたくさんいるようです。へそ曲がりとしては、こういう良書が、さまざまな分野でたくさん出てくることを願っています。

     *

悪魔の辞典』とは趣が違いますが、

*フランスの作家、ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert:1821-1880)が『紋切型事典』(Dictionnaire des idées reçues)

という、考えようによっては、ヒトの言語活動を根底から揺さぶるような衝撃的な事典=辞典を著しました。しかし、書かれた当時のフランスの諸風俗に通じていないと分からないところが多くて、現在の日本では受け入れられにくい「作品」です。だからこそ、

*何も考えないで=感じないで、パブロフのワンちゃん状態で行動しているヒトという種に鉄槌を下す

ために、誰か、

*新しい『紋切型事典』(Dictionnaire des idées reçues)

を書いてくれないかなあ、と切に願っています。かつて、自分で書いてみようと思って取り組みはじめたものの、力不足を感じて挫折したことを思い出しました。この辞典が、現在、つくりにくいのは、

*紋切型=「ヒトびとの思考停止を常態化させている、ある特定の言葉やフレーズやイメージ」が移り変わる速度が速すぎる時代をむかえている

ことと

*紋切型は、グローバルなレベルよりも、圧倒的にローカルな現象として立ちあらわれる

からです。

*「ウィキペディア」のように日々の更新が可能なネット上の辞典として、多言語バージョンをリンクさせた形でヒトびとに運営させる

という手=手法=方法も考えられますが、掲示板みたいに混乱をきたすのがオチでしょう。

     *

 話が、だいぶずれてしまいました。

 このところ、ずっと考えている

*意味

というのは、以上述べてきた辞書的な

*意味ではない

のです。ただし、『紋切型事典』は大いに関係ありますが、そのことについては、機会をあらためて書くつもりです。

 なにしろ、ちょっと

*説明しにくい意味

なのです。さきほど書きました、辞書に書かれているパターンで言うなら、

3)見出しの言葉をつかった例文を挙げて、ほのめかそうとする。=「Aは、『PがAしたらQが起きた』みたいにつかうのだけど、分かるかしら」。

で説明してみます。冒頭で引用した、

*意味が分からないけど、やっている。

とか

*人生 or 世界 or 宇宙 or 森羅万象に意味なんてあるの?

とか

*この消しゴムの意味

とか

*そんなの無意味だよ。

とか

*意味って何?

とか

*意味の意味

と言う時の「意味」なのです。で、その

*意味が分からないけど、やっている。

という文=センテンス=フレーズにある

*「やっている」

が、何をやっているのかと申しますと、冒頭で引用した、

*お経、保育園・幼稚園でのお歌の時間、学校の授業での音読、カラオケボックスでの覚えたての歌の練習、お習字、今流行の写経、文字を習いたてのコドモたち、言葉を習いたてのヒトたち、新聞の音読、プレゼン、役人の書いた答弁書を国会で読みあげる大臣、国会の議場での速記、裁判での答弁書の朗読、自分の書いたブログ記事を読み返しているこのアホ……

といったことに加えて、

*道を歩いている、おしっこをしている、PCのキーボードで文字を書いている、テレビを見ている、庭の草木に水をやっている、ご飯を食べている、お風呂に入っている、財布を覗いて小銭をかぞえている……

といったことも含む、ごくふつうの動作をするさいに、それを

*意味が分からないけど、やっている。

と言う時の

*「意味」

なのです。

*意味が分からないけど、やっている。 = 何となく、やっている。

と、単純に=形式的に考えた場合、

*意味とは、分からないものである

と言えるような気がするのです。言い換えると、

*分かるものは、意味ではない。

となります。

*分かったとたんに、意味でなくなる

ものとも言えそうです。

*「それって、「無意味」ってことじゃないの?」

と問われれば、

*「そう、みたいです」

と答えると思います。

*「そうです」とは、答えない

と思いますけど。どうしてかと申しますと、

*「無意味」には、意味がある

ために、躊躇(ちゅうちょ)してしまうのです。というのも、広辞苑にも、新明解国語辞典(あっ、言っちゃった!)にも、

*「無意味」が見出しになっていて、その語義=意味が書いてある

のです。

*「無意味」には「意味」がある

のです。

で、その語義=意味を読んでみると、このところずっと考えている

*意味とは意味が違う

という気がします。たとえば、さっき例に挙げた、

*道を歩いている or おしっこをしている意味

と言った場合には、その「意味」は

*理由・事情・わけ

という意味にもとれますよね。そういう意味ではありません。

*意義・価値・重要性

とも違います。いちばん近いのは、

*「経路」

だと思います。この「経路」という言葉は、先週あたりから、さかんにこのブログでつかうようになったのですが、

*一定した意味がない

のです。でも、すごく気に入っています。

*けいろ・経路・径路・毛色

と、分光=書き分けることができます。最後の毛色なんて、前の2つの書き方とは関係がないはずなのに、つながって=つなげてしまうのが、

*このブログの「経路」

なのです。

     *

*「経路」のコア・イメージ(=中心的なイメージ)は、「すじ」=「方向」=「進行」

です。

*「スタイル・くせ・流儀・方法・パターン・旋律・ルール・型・順序・いきさつ・経緯・規則性・必然性の影・持続性」

という意味にもなり得ます。で、

*「道を歩いている or おしっこをしている意味」というフレーズでの、「意味」は「いきさつ」に近い

と思います。その場合の「いきさつ」は「事情」や「わけ」とも言い換えることができそうです。

*どういう、「いきさつ=事情=わけ」で、道を歩いている or おしっこをしているのか?

という文=センテンスがつくれますが、「経路」を尋ねている場合には、歩く場合には、「どこへ行くのか?」=「行き先」、「何のために行くのか?」=「目的・理由」を質問しているわけではありません。

 これは、「歩く」という行為に「方向」が伴うために、そういう質問になり得るというだけのことです。もっと漠然とした質問なのです。漠然というのは、トリトメがないということです。

*「歩いている」という動作をしている「意味=いきさつ=事情=わけ」を尋ねている

のです。答えようがなくなりますね。それなんです。

*歩いている行為に、「意味=いきさつ=事情=わけ」なんてない

のです。

*「歩く」という「経路」=「線路」が敷かれている=引かれているから、歩いているだけ

なのです。「おしっこをする」の場合のほうが、「歩く」のように「方向」なんていう要素がないため、分かりやすいと思います。

*出そうだから、出している=出ているだけ

です。

*「生理的=医学的」な「理由=事情」があるからだ

とも言えます。その意味では、

*「生理的=医学的」な「理由=事情」は「経路」=「線路」である

と言っていいと思います。でも、それが、おしっこをするヒトに、あくまでも、

*意識されない限りにおいて

です。

*「経路」=「線路」は、敷かれている=引かれているが、意識されない。

という点が、きわめて重要です。

*「経路」=「線路」は意識されないから、「無意味」とは異なる

のです。さきほど、

*意味とは、分からないものである

*分かるものは、意味ではない。

*分かったとたんに、意味でなくなる

と書いたのは、そういう意味です。

     *

 そろそろ、家事をする時間が近づいてきました。

 ここまでお読みいただいた方に、お礼申し上げます。どうも、ありがとうございました。では、また。

  なぞるとき 立ちあらわれる 意味の影(「いみのいみ」より)

    

*出典

 この記事は、過去のブログ記事(現在はありません)からの引用からなるパッチワークであり文供養です。
*「かつらはずれる」
*「差別化」
*「いみのいみ」