ふーこー・どぅるーず・でりだ・ばると(その3)

*「『仮往生伝試文』そして / あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』」より

 私は大学の卒業論文ではロラン・バルトを扱いました。バルザックの中編小説『サラジーヌ』をバルトが批評した『S/Z』を批評するというかたちを取ったのですが、このときほど「お勉強」をしたことはありません。在籍していたフランス文学科では論文の書き方が厳格なのです。たとえば、引用した文章が邦訳である場合には、その原文を併記しなければなりませんでした。フランス語の原著を読みこなすだけの力はありませんから、邦訳のある文献と原著探しで数か月間忙殺されました。

『批評 あるいは仮死の祭典』にはロラン・バルトと蓮實氏との「対話」が収録されているので、そこからも引用するつもりでいました。大学では蓮實氏が非常勤講師として教えていらっしゃったので、原文を手に入れたいと同氏に申し出ました。対話を録音したテープならあるが、どこにあるかわからない。文字にはなっていない。そんな意味の返事だったと記憶しています(先生、間違いでしたら、ごめんなさい)。指導教官に事情を話し了承を得たので、その部分だけは原文を添えずに論文を提出しました。

 学部段階での卒論ですから、たいしたことを書いたわけではなりません。種本にしたのは、スティーヴン・ヒース(Stephen Heath)という、主に映画評論を手がけていた英国人による Vertige du déplacement (日本語にすれば「変移のめまい」つまり、「あちこち目移りして、とっかえひっかえしているうちに、目が回っちゃった」)という書物でした。「めまい」というのは、「めくばせ」とは違いますが、個人的にはとても気になる言葉です。

 バルトは、批評の対象をとっかえひっかえする「変移」の人でした。何しろ飽きっぽいのです。あちこちをクルージングするのですが(ここは意味深です)、すぐに退屈してテリトリー、つまり研究の対象である分野を転々と変えました。このバルトの身振りについては、『批評 あるいは仮死の祭典』所収のバルト論にある「対話」のなかでバルト自身が興味深い発言をしています。「ステレオタイプ化された言語に対する吐き気」という言い回しなのですが、おおいに共感したのを覚えています。

 あの卒業論文のコピーが押し入れのなかにあるはずです。久しぶりに読んでみようと今思ったのですが、お腹が急に痛くなってきたのでやめます。

 

*「あう(7)」より

 浚渫(しゅんせつ)という言葉を、見聞きなさったことがあるでしょうか。頻繁に使われる言葉ではありませんね。「浚渫船」なら、見覚えや聞き覚えがあるかもしれません。正確ではないかもしれませんが、「泥さらい」みたいに、水底から土砂をさらうことですね。

*「読者を浚渫しなければならない」

というセンテンスが、ある本に書かれていたとしたら、どんな意味、あるいは光景を想像なさいますか? 一字一句そのように書かれていたかどうかは、覚えていませんが、そんなセンテンスを読んだことがあるのです。

 昔のことです。大学生のころでした。場所は、大学の構内にある古びた建物の一室。大学院生と学部学生の両方が受けられる講義が行われていました。フランス語で書かれた本の一節を、非常勤講師と学生たちが一緒に読んでいました。

 その原書が講義のテキストだったので、各学生の目の前にフランスの書籍特有の、荒っぽい or ちゃちな作りの原書が置かれていました。その原書の訳書も持ち込み可だったので、訳書を原書と並べている学生たちもいました。訳書の装丁のほうが、しっかりしていました。自分も、二冊並べていた二人です。「読者を浚渫しなければならない」という意味のセンテンスは、もちろん、訳書の一節です。その個所の原文では、

*draguer (※「ドラゲ」みたいに発音します)

という動詞が用いられていました。その「ドラゲ」をめぐって、学生たちが考え込んでいました。講師が、原文と邦訳書の訳文を比べて、どう思うか? と質問したのです。

*「読者を浚渫(=ドラゲ=土砂のようにさらう)しなければならない」

とは、どういうことなのか? 辞書を引いたらどうか、とも講師は言いました。さっそく、手持ちの辞書で「ドラゲ」を引いてみましたが、あまり役に立ちそうではありませんでした。

 ところで、当時、この講師は、新鋭の文芸批評家、および映画評論家として活躍していました。改行を少なくして息の長いセンテンスを書くという、読みにくい文体でも知られていました。読む人により好き嫌いがはっきりと分かれるタイプの書き手でした。

 ある種のカリスマ性もあり、親衛隊みたいにその人のあらゆる講義や授業に参加するという学生たちが、数人付きまとっていました。複数の大学で授業をしている人だったので、「親衛隊」は、いわばもぐりで他大の授業に出席することもあったわけです。

     *

 その講義でも、「親衛隊」の姿が見られました。そう言えば、その講師の別の授業で、次のようなこともありました。英語で言えば why と because にあたるフランス語を、日本語にどう置き換えるかが問題になっていました。たぶん、文学というより、語学の授業だったかもしれません。because にあたるフランス語を「なぜならば」と訳した学生に、「その日本語、不自然ではありませんか」みたいなことを、その講師が言ったのです。「もっと、自然な、普段あなたが使っている日本語になりませんか? これは会話ですよ」と講師が付け加えて言ったような記憶があります。

 前々回、つまり「あう(5)」という記事の冒頭近くで、「どうやら「本当であってもおかしくない嘘」を、未だに引きずっている人生だ、と言えそうです」などと、ぬけぬけと書いた者が、この文章を書いているのです。まして四半世紀ほど前の記憶をたどっているのですから、多分に脚色がまじっているにちがいありません。当の本人も、そう思います。ですから、今、お話しているのは、作り話だと思ってお読みになっても構いません。そのほうが、こちらも気楽です。

 さて、みなさんなら、why と尋ねられ、because で答えるような場面で、それが日本語での会話だったら、何と返事をなさいますか? 「というのは」「その理由は」「そのわけは」ですか? 教室内の学生たちが、沈黙していると、講師は「どうして、『なぜならば』って訳したのですか?」と、さきほどの学生に再び質問しました。問い詰めるような口調をする人ではありません。鼻にかかった低音のやさしい声で尋ねました。

「だって、辞書にそう書いてあるんです」

 確か、その学生は、そう答えたと記憶しています。

「それですよ。『だって』です。それが、会話での普通の言い方です」

 学生たちは、狐につままれたように、ぽかんとしていました。その中に、この話を思い出している自分も含まれていたことは、言うまでもありません。

 さて、「ドラゲ」ですけど、大学院生・学部学生共通講義に、各学生が持ちこんでいた仏和辞典はほぼ二種類ありました。そのうちの一方に、「浚渫する」とは別項扱いで、「(※同性あるいは異性を)引っ掛ける、ナンパする、誘う」みたいな意味も記してありました。この辺の記憶も曖昧なのですが、確かその講師は、二種類の辞書にある定義=訳語を、学生たちに声を出して読むように指示したのです。

 別項扱いの訳語を読んだ学生はいませんでした。「本当に、それだけしか、載っていませんか?」という講師の声にうながされて、誰かが恥ずかしそうに、別項の訳語を読み上げました。

「ここでの意味は、それだと思います。この本は、『いかがわしい』本なのです――」

と、身長180センチを超える、その年齢の人としては「大男」である講師は、煙草の吸殻をテーブルの上で始末しながら言いました。その原著の邦訳名は『テクストの快楽』でした。「快楽」が日本語でも性的なニュアンスで用いられるように、フランス語の plaisir (※英語の pleasure にあたります)も、肉体的な快楽や快感や放縦や淫欲といった意味になり得ます。確かに、いかがわしい比喩が散見される本だったのです。

     *

 きのうの記事を書き終え、「信号」についていろいろ考えごとをしているさなかに、以上述べた記憶が断片的によみがえってきたのです。で、思いました。

*「信号」は、ヒトをナンパする。=「信号」は、ヒトを誘惑し引っ掛ける。

のではないだろうか。

 相手が異性であれ、同性であれ、性的な意味で「ナンパする=引っ掛ける」ためには、ヒトはどうしますか? 企むはずです。行き当たりばったりな性格のヒトもいるでしょう。でも、それは程度の問題であり、それまでの経験や見聞からそのヒトなりに練り上げた、シナリオ=筋書きを頭の中に描き、然るべき準備をし、実行に備えるはずです。

*「信号」は、企む=仕掛ける。

とも言えそうです。「いかがわしい」と言えば、確かに「いかがわしい」行為です。

 失礼な質問をして恐縮ですが、あなたは、これまでに異性からであれ、同性からであれ、ナンパされたり、ナンパされかけた経験がありますか? あるいは、そうした場面をテレビドラマや映画で見たり、小説で読んだことがありますか?

 ひょっとして、ナンパって、「ああ、されそうだ」「くるぞ、くるぞ」「あいつ、魂胆がありそう」「あやしいなあ」という具合に、予感したり、気配を察するものではありませんか? ぼんやりとしている間に、ナンパされちゃった。で、やっちゃった。というケースも、きっとあるでしょう。失礼いたしました。

 以上は、おふざけではありません。「信号」に備わっていると思われる、ある種の属性を、思い出話とからめて比喩的に説明しようと試みただけです。あまり、深く取らないでください。きのうから「信号」についていろいろ考えるという、一人ブレーンストーミングという、頭の中の「泥さらい」=「浚渫」をしていて、偶然にダイヤモンドや金の指輪を発見したのではなく、「ナンパ」に出合ってしまったという、落語みたいな落ちの話でした。でも、自分にとって、その

*「ナンパ」

を思い出したことは、ダイヤモンドや金の指輪以上に、大切な発見であり、めぐり合いでした。

 余談ですが、邦訳である『テクストの快楽』を、例の講義の数年後に、書店で偶然見つけました(※自分が持っていた本は、上記の講義が終わるとすぐに売ってしまいました)。興味があったので「ドラゲ」の部分を調べてみると、訳文が「いかがわしい」ものに訂正されていました。指摘を受けたのかもしれませんね。

 ちなみに、『テクストの快楽』を書いたフランス人の著作が新訳されています。どれも、とても高価なので、今の自分には手が届きそうもありません。たとえ、手に届いても、たぶん、もう読む気力はないでしょう。いずれにせよ、新訳の登場は再評価につながると思いますし、このフランス人を卒論に選んだという因縁もありますので、素直に喜んでいます。

     *

 このフランス人は、批評の対象をとっかえひっかえする「変移」の人でした。飽きっぽいのです。すぐに退屈して、テリトリーを転々と変えるのです。この人が自ら編さんした著書の邦訳で『彼自身によるロラン・バルト』という本がありますが、その中に、この人が演壇で退屈そうな――いらいらにしているようにも見える顔をして、横を向いている写真が収録されています。

 場所は、日本だということです。写真には映っていない、その視線の先には、この人の講演を日本語へと通訳している人がいたのだと聞いた記憶があります。同時通訳ではなく、逐次通訳で、自分の発言が外国語に置き換えられるのをじっと待つのは、確かに退屈で苦痛だったに違いありません。

「待つ人は、誰しも女性的に見える」という意味のことを、このフランス人が何かに書いていた記憶があります。それにしても、この人ほど「退屈」という言葉が似合う人はあまりいません。その写真には映っていなかった、退屈のもとである通訳を務めた人と、上で述べた思い出話に出てきて、

「この本は、『いかがわしい』本なのです」

と言った講師は同一人物です(※この記事を書いたころのアホはもったいぶっていますが、この人は蓮實重彦氏です)。退屈が似合うあるフランス人(※もちろん、ロラン・バルトです)の視線が、このブログの中で、「言葉として」あの「大男」の講師と時空を隔てて「出合った」のです。

     

*「輝く言葉」in「人は本がちゃんと読めない」より

 言葉は言葉であるはずなのに、輝いてる言葉と輝いていない言葉があるように思えます。

 難しい話ではありません。輝く言葉の例を挙げましょう。

 たとえば、固有名詞、専門用語、流行語は輝いて見えます。

 簡単に言うとこのとおりなのですが、詳しく言うとこの三種類の言葉の中にも序列とかグラデーションがありそうです。

 固有名詞では人名が圧倒的に輝くとか、固有名詞のほうが流行語よりも根強いしまばゆいとか、専門用語は自分の中では哲学用語>ICT用語>音楽用語>料理用語という輝きの序列または段階があるとか、流行語は流行語2020流行語2019……と規則正しいとかいう感じ、です。

 もう少しややこしく言うと、人それぞれであり、Aさんにとって輝いて見える言葉がBさんにはぜんぜん輝いて見えないことはよくあって、これを言い始めると収拾がつかなくなります。

 そうであれば、「輝いている言葉」というよりも「〇〇さんにとって輝いて見える言葉」と言うべきでしょう。面倒ですよね。

*輝く言葉
*輝いている言葉
*輝いて見える言葉

 上の三つのうち、どれがいちばん輝いて見えますか?

 個人的な感想ですが、「輝いて見える言葉」がいちばん輝いていないように見えます。なぜなのかと考えてみると、たぶん自信なげで、まだるっこいからではないでしょうか。

 なんか、こう。すぱっと言ってくれたほうが、人はすっきりするし、それに同調しやすいとも言えそうです。

 要するに、言葉が輝くか輝かないかはレトリック(修辞)の問題なのです。

        *

*輝く言葉
*輝いている言葉
*輝いて見える言葉

 この三つの例は、固有名詞でも専門用語でも流行語でもありません。普通の言葉を組み合わせて私が即席に作った言い回しに過ぎません。

 こここで固有名詞に話を絞りましょう。

 固有名詞は輝きます。特に人名です。地名、製品名、本や歌や映画のタイトルよりも、人名です。人名は魔法の言葉と言いたいくらいです。

 固有名詞の放つ光はまばゆく強烈です。うまく使うとすごい効果を発揮します。

 例を挙げると、ブログのタイトルやハッシュタグTwitterのツイートやハッシュタグに、固有名詞をしのばせると効果てきめんです。みなさんも、経験があるのではないでしょうか。

 ある記事を書いたとします。または、あるツイートの文句を考えたとします。そのタイトルに、あるいはハッシュタグに固有名詞を入れると入れないとでは人目につく程度、ひいては読まれる程度が大きく違ってきます。

 そんな経験をなさったことがありませんか。経験はなくても自分を読み手の立場においてみると、何となくそれが分かるような気がしませんか? 

 首を傾げている、あなた。試してみませんか。

 直接関係あればいちばんいいのですが、間接的に関係のありそうな固有名詞をタイトルや記事の中やハッシュタグにしのばせてみてください。こればっかりは実感していただくしかない気もします。

 そうですね。たとえば、この記事の冒頭からここまでの文章でしたら、タイトルは「ロラン・バルトに学ぶ固有名詞の輝かせ方」とするとか、あるいはハッシュタグに「糸井重里」をしのばせるとかしてみるとよさそうです。

 それでいけしゃあしゃあと投稿する。あまりにもテキトーで罪悪感を覚えるのであれば、「ロラン・バルト 固有名詞」、「糸井重里 固有名詞」(「村上春樹」もいいですよ)で検索してみましょう。あ、これは使えるなんて感じの情報に出会えるはずです。

 その場合には、引用先をちゃんと明記して情報をお借りすればいいのです。もちろん少し文言をいじる必要がありますが、それくらいの苦労をしても罰は当たらないと思います。いい意味での「我田引水」によって作文することで、思わぬ勉強ができるかもしれません。

 専門用語や流行語についても、ほぼ同じことが言えます。専門用語であれば、たとえば、哲学や現代思想がお好きな方なら、「シニフィエ」「シニフィアン」「脱構築」なんてどうですか? 賢そうに響きますよ。かっこいいですよ。女(男)の子(人)にもてますよ。

 固有名詞や専門用語をうまく使うと読む人が増える理由は単純です。両者が人の目を引くからに他なりません。つまり自分の興味のある固有名詞や専門用語をキーワードにしてネットで検索する人がとても多いからです。

 固有名詞と専門用語は魔法の言葉。
 特に人名は魔法の言葉。
 固有名詞と専門用語、恐るべし。

 人名をうまく使いこなせる人は魔術師、いやタネがあるから手品師。

 ハッシュタグやタイトルやツイートに、検索されない言葉を使ってもそれに注目してくれる人はほとんどいないと考えるのが賢明かもしれません。自分が気に入っている言葉と、人が注目してくれる言葉はたいてい、ずれているのです。

 これは私の経験に基づく個人の意見および感想ですので、悪しからずご了承ください。

 流行語についても同じですが、流行語にはぜんぜん詳しくないので「流行語 2021」でご検索願います。

 

*「固有名詞のまばゆい光」in「人は本がちゃんと読めない」

 固有名詞は、名詞の中でも、それが指し示す対象を限定する作用が強い言葉です。たとえば、

「血液型B型、身長180センチ、1973年10月22日生まれで、かの9.11事件の前日である2001年9月10日に、対アナハイム・エンジェルス戦で5打席ノーヒットの成績だった外野手」

と書かれた一節の代わりに、

「血液型B型、身長180センチ、1973年10月22日生まれで、かの9.11事件の前日である2001年9月10日に、対アナハイム・エンジェルス戦で5打席ノーヒットの成績だったイチロー

と書かれた一節を読んだとたんに、「イチロー」の前に並べられた言葉たちが、すーっと消えて、自分の抱いている「イチロー」に関するイメージの数々の断片が脳裏にぱっと立ち現れませんか?

 固有名詞は、それと一緒に並べられた言葉たちを「見えなくする」、つまり「読めなくする」ほど強い光を放つ名詞なのです。固有名詞の「仕掛け=仕組み」というのは、そういう意味です。

 ややこしいですか? 言い換えてみましょう。

イチロー」という言葉が出てきた瞬間に、血液型や身長や生年月日や対戦した相手チームの名やその時の成績が、ぱーっと消えてしまい、自分の中にある「イチロー」のイメージに置き換わってしまう、そういう意味です。

 もちろん、記憶力が抜群の人は除いての話ですけど。

(この章の文章は、拙文「08.12.25 遠い所、遠い国」より加筆して引用したものです。)

 

*「普通の名詞を固有名詞にする」in「人は本がちゃんと読めない」

存在と無

 かっこいいタイトルだなあ。中学三年生の時にそう思いました。哲学したい。そう考えるきっかけになった本のひとつです。高校生になってから買いました。大部で難解。拾い読みしました。積ん読しました。

 いつ処分したかは覚えていません。今はないことは確かです。

 本の題名を眺めながら、いろいろ考えることが好きです。中身に興味がないわけではありませんが、もともと本を読むことは苦手です。

 題名を知っているだけで、自分にとっては十分。そんな本がたくさんあります。『存在と無』も、そのひとつです。わくわくするタイトルです。いろいろなイメージ、言葉が頭に浮かび、収拾がつかなくなります。それなのに、楽しいのです。

        *

 存在と無

 上の文字をよーく見てください。少なくとも、十秒は見つめてください。時計の秒針を見ながら、十秒たつのを「待つ」と分かりますが、十秒って意外と「長い」ですよ。

 固有名詞は強い光を放つ言葉です。固有名詞には前後の言葉たちの影を薄くし、時には読めなくしてしまうほどの、まばゆさがあるので、注意を要します。

存在と無

 恐縮ですが、すぐ上の文字を、また十秒間ほど見つめてください。

 さっきの、存在と無、との違いを感じませんか? 『存在と無』と、かぎ括弧でくくったとたんに単なる名詞が本のタイトルとして固有名詞に変化する。そして、その固有名詞は強い光を放ちます。その差異を感じ取っていただきたいのです。

 存在と無、と、『存在と無』との差異。それは、両者の「存在」から生じたと言えると同時に、両者の「無」から生じたとも言えます(あるいは両者の「間・あわい」から生じたとも言えるでしょう)。その両義性について考えてみたいのです。

(以上の文章は、拙文「09.01.01 私家版『存在と無』―序文―」に加筆したものです。)

 

*「固有名詞の光によって文章が読めなくなる」in「人は本がちゃんと読めない」

 固有名詞の放つ光はあまりにもまばゆく、ともすると文章自体を読めなくします。書かれていることが読めなくなるばかりか、書かれていないことを読んでしまうことにもつながります。これが先生から学んだいちばん大切なことなのです。

 そんなわけで、再投稿にあたり、省いた固有名詞を本文に書くのではなく、この記事のハッシュタグにしておきました。

(以上は、拙文「文字の顔」(「09.01.09 読めないけど分かる言葉」)より加筆のうえに引用しました。)

        *

 書かれていることが読めなくなるばかりか、書かれていないことを読んでしまうことにもつながります。これが先生から学んだいちばん大切なことなのです。       

 書かれている言葉を読むというのは、簡単で当たり前のことなのでしょうか。

 書かれている言葉が読まれないなんてことがあるのでしょうか。

 さらなる引用をお許しください。

        *

 大学生の時に、ある先生がしきりに「書かれていないことを読む」と「書かれていることを読む」と口にしていました。小説を読む時の話です。書かれていないこととは、たとえば作者の生い立ちとか人生観とか死生観とか世界観とか思想だとか、そういうものです。

 要するに、そこに書いていないことをどこかから持ってくるのです。そこに書いてあることを別のものに置き換えるともいえます。

 よく小説の文庫本の解説にはそういうことが書いてありますね。大学の授業なんかでも、ある文学作品を読んでいると、学生はその作品の解説書や批評の類を見つけてきて、そこに書いてあったことを授業で発表したりするんです。

 すると、その先生は「それは、この作品のどこに書いてあるのですか?」と優しい口調ながら澄ました表情で尋ねます。褒められると期待していた学生は言葉に詰まります。そんな学生を相手に、蓮實重彦というその先生は作品に書かれていることだけについて次々と質問をしていくのです。

 そういえば前後は忘れましたが、ある日学生の一人が見当違いな発言をして、教室内が白けた空気に包まれたことがありました。その時、ヘビースモーカーだった先生が煙草を吸い終え、「ここにこんなことが書いてありますけど」とよく響く低音で口を切り、室内がにわかに活気づいた瞬間もありました。この一瞬を今でも夢に見ることがあります。

 私は読むというきわめて具体的な作業を非常勤講師として教えていたその先生から学びました。その際につくづく感じたのは、「書かれていることを読む」のがとても難しいということです。誰もがつい書かれていないことを読んでしまうのです。

(中略)

 たとえば、『最後の息子』を文學界新人賞、『パレード』を山本周五郎賞、『パーク・ライフ』を芥川龍之介賞という手垢のついた言葉で評したり、その作風を純文学や大衆文学というジャンル分けで論じたり、その雰囲気をいわゆる「洒落た都会生活」という思考停止的な言葉で語ってお茶を濁したり、吉田修一を長崎や東京や台湾や、スイミングスクールのインストラクターという経歴や、愛猫家という側面などと置き換えたとして、それが吉田修一の作品に書かれていることを読んだことになるのでしょうか。

 そうした読み方を否定しているわけではありません。私も時にはしますし――一例を挙げると吉田が愛読したというジャン・ジュネと吉田を比較してみたい誘惑にも駆られます、きっとわくわくするに違いありません――、読みは人それぞれですし、そうした読み方の楽しさに激しく共感するほど、私は根がミーハーな人間です。読みはその人にとって快いものであれば、それでいいと思います。

(拙文「「似ている」の魅惑」より引用)

 目の前にある言葉を、別のものに置き換えてしまう。そのために、人は書いてあるものが読めない。

 そんな話をしましたが、次に「人は本が読めない」ことについて考えてみたいと思います。

 引き続き、お付き合いいただければ嬉しいです。

 

*「人は本がちゃんと読めない」in「人は本がちゃんと読めない」より

「本を読むというという行為」を、「ガラスを通して向こう側を見るという行為」にたとえてみます。

 まず、ガラスを言葉、つまり文字にたとえます。

 次にガラス越しに見える景色を言葉の意味や文章の内容にたとえます。

 ちなみに、ガラスはかなり汚れていると考えてください。

 ガラスの汚れに注意を払うと、向こうの景色は意識に入りにくくなりますね。でも、見慣れた風景なら、ガラスの汚れに目をやり焦点を合わせ、そのガラス越しの景色は、ばっちり見えていると思いこむのではないでしょうか? 

 これって、自分が内容を知っていると思いこんでいる文章を読むのに似ていませんか? 

 似た具体例を挙げるとすれば、きのうのテレビのニュースで大まかな情報が頭に入っている新聞記事を読み流すことです。

 または、どうでもいいような内容の文章をざっと読むことや、自分が書いた報告書を読み返す作業や、自分が概要を知っていたり予備知識のある文章をキーワードを拾い読みしながらどんどん読み進むとかいうある種のやらせ的「速読」です。

 あるいは、エンターテインメント性の強い小説の読書などが、該当するのではないでしょうか? 

 要するに、文字を追うというより、内容を想像する、見当をつける、軽く確認するという作業に重点が置かれている場合です。どれもが、精読とか熟読と呼ばれているものとは、かなり隔たりのある読み方だと言えますね。

        *

 次に、上とは対照的な読み方を想像してみましょう。いわゆる精読とか熟読です。

 すごく汚れたガラスを掃除しているさまを想像してください。

 家であれば、ものすごく口やかましくて怖い奥さんか夫か親かなんかに、何かの罰としてやるように命じられた作業だと考えてみましょう。

「こりゃあ、手抜きはできない。真剣にやらなきゃ。やり直しなんかしたくないし。ちょっとでも汚れやくもりが見つかったら、さらに何か別の作業を押しつけられそう」

 そんな気持ちになりませんか? そういう場合だったら、ガラス越しに見える景色を眺めるどころではありません。

 もう必死になって、ガラスそのものに集中します。正面から、右から左から、中には、上から下から、ガラスの反射具合を気にしながら、一生懸命でぞうきんや布と専用のクリーナーを使い、時には「はあー」なんて、息を吹きかけながら手を動かすのではないでしょうか? 

        *

 今述べた比喩に相当する読書って何でしょう? 

 字面というか、一字一句というか、書かれている内容も含め、おろそかにできない読みを要求する場合って、具体的には何でしょう? 

 極端な例を挙げれば、校正や、編集者が自分の担当する書籍の刷り上り原稿を読む作業が頭に浮かびます。

 ものすごく神経を使うでしょうね。あるいは、普段なら全然読まない保険の約款を、病気や事故や火災に遭ったさいに、どうしてもじっくり読まなければならなくなった場合なんて、考えられますね。

 どれだけでも、自分に有利な条項や条件が書かれていないか、必死になって読むでしょうね。お金がからむと、たいてい人は真剣になります。大金であれば、なおさらです。

     *

「ガラス越しに見る」と「ガラスそのものを見る」という、以上二つの極端な例を挙げたところで、文学作品、たとえば村上春樹さんでも、宮部みゆきさんでも、誰でもいいですから、作家の書いた小説を読む作業に、話を戻して考えてみましょう。

「作品の世界にすっと入っていける」とか、「読みやすい」とか、「容易に主人公になりきれる」とか、よく言いますね。思い出しましたが、「さくさく読める」なんて言い方もあります。

 一方で、「何を言いたいのかさっぱり分からない」とか、「言葉遣いや用いられている漢字が難しい」とか、「登場人物に感情移入しにくい」とか、「途中で読むのをやめたくなる」という場合があります。

 【※ストーリーよりも言葉遣いや活字や約物、つまり字面に目が行く作品もあります。谷崎潤一郎の諸作品がそうです(蓮實重彦氏の文章もそうです)。谷崎においては文体が主人公ではないかと思えるほど、文体に凝り、文体を次々と変えていった作家はほかにいません。夭逝した中上健次くらいでしょうか。私は密かに谷崎を「文体小説家」と呼んでいます。⇒「素晴らしき敬体小説」・「文字の顔」】

     *

 さて、ここで再び、

(A)ガラス越しに向こうの景色を眺める(斜め読みできるくらい、さくさく読める)、

(B)ガラス拭きをする(一字一句を舐めるようにして熟読する)、

という比喩を持って来ます。

 一編の小説が全部(A)型、あるいは全部(B)型で読めるわけではありません。これも、比喩ですが、一冊の本がまだら模様とかまばら状だというのが実態に近いのではないでしょうか? 読みやすいところもあれば、読みにくいところもある、ということです。

 ということは、一冊の本を読むさいには、時にはガラス越しに向こうの景色を眺めるように読んだり、また時にはガラスそのものの汚れに気をとられるようにして読むというのが、割と正確な言い方なのではないでしょうか? 

 つまり、

*人は本が読めない。

のです。

 これって飛躍ですか? ちょっと説明を加えましょうか? 十人の人がいて、まったく同じ小説を読んだとします。でも、その読み方は、上の比喩で見てきたように、それぞれが違うわけです。

*人は誰もが、文章をまだら模様とかまばら状に知覚しながら読んでいる。

ということになりませんか? 

 あるいは、これもたとえですが、

*人は酔っ払った状態で読んでいる。

とも言えます。酔っていない状態とは、雑念なし、邪念なし、よそ見なし、めちゃくちゃ頭がさえている、集中力維持完璧、敏感マックス、完全な覚醒状態なんですけど、そんなことってあり得ますか? 

 人は誰もが酔っています。千鳥足状態で、ふらふら、AしながらBやCやDのことを考えている、危なっかしいことは確かです。それが普通なんです。それでいいのです。

 この酔っ払った状態をほろ酔い加減としてもよろしいかと思います。よくドライブや旅行で帰りのほうが時間が早く感じることがありますね。あれは疲れてほろ酔い加減なんです。

 往きは集中力が維持できていますから、いろいろな物が目に入って充実しています。帰りはもうできあがっていて意識朦朧に近いから早くも速くも感じるんです。さまざまな情報が頭に入らないってことですね。

「あれ、もうここまで来たの?」「あら、もう家に着いちゃった」

 それでいいのです。それが普通なんです。

 気を抜いていないと人なんてやっていられません。

 こんな、ぼーっとした状態で本を読むのですから、

*人は本を読めない。

と言えるのではないでしょうか? 

「人は必ずしも完璧には本を読めない」、「人は100%本を読めるわけではない」、「人は一冊の本のすべての文字を集中して読めるわけではない」、「読めるっちゃあ、読める、読めないっちゃあ、読めない」ですか? 

 すぱっとしていなくて、歯切れも語呂も悪いじゃないですか。そんなレトリックとプレゼンでは説得力なしです。心に響きません。読者さまは、そっぽを向くか、あくびを漏らします。

 もう、このさい、「人は本を読めない」と言っちゃいましょうよ。マルかバツかなら、バツでしょ? 思い切りが肝心です。なんて、めちゃくちゃ感情に訴える言い方をしてしまいました。

 冗談はさておき、真面目な話が、

*人は本がちゃんと読めない。

とは言える気がします。

        *

 これは本の作者についても言えます。作者さまも、自分の書いた本がちゃんと読めないのです。

 ロラン・バルトとかミシェル・フーコーといっためちゃくちゃ頭がいいだけでなくレトリックの達人が、「作者は死んだ」とか、「作者はいない」とか、「作者とは何なんだ?」、「作者は行方不明」みたいな、すぱっとした言い方で、みんなを脅したり煽った時期がありました。

 そして、訳も分からずに煽られたり、分かったのか分からないのかも分からないままに「そうだ、そうだ」とノリよく同調する人たちがたくさんいました。いい時代でした。

*人は本がちゃんと読めない。

は、実はバルトやフーコーからの受け売りなのですが、私の誤解とか曲解とか勘違い平行棒の可能性は高いです。なにしろ、私も本がちゃんと読めないのですから。

 言葉は外からやって来るものです。このことについては、これまでに何度か記事に書きました。

(※「言葉は外から来るもの」の次に「言葉は内から来るもの」なんて記事を書いている私は、めちゃくちゃテキトーですね。でも、正確に書こうとすると矛盾が生じるのです。少なくとも私の場合には、ですけど。たぶん、論理的思考が苦手だからでしょう。というか、論理を信じていないからだと思います。そんな私の書くものですが、どうかこの記事の続きは読んでください。一生懸命に書いております。お願いします。)

 私たちが生まれた時に既にあったという意味で、言葉は外にあり、外から来るわけです。さらに言えば、それを私たちは借りるのです。

 私たちが言葉、つまり文章を書いた瞬間に言葉は私たちから離れていきます。他の人は勝手にその文章を読み、勝手に解釈するからです。誤解が起き、争いが生じるのは当然です。言葉の行き違いが原因で喧嘩どころか戦争さえ起きます。

        *

 国語の長文問題が成立するのは、人がちゃんと本を読めないからです。長文読解問題に正解があるのは不思議で納得できませんが、そういう制度やしきたりやゲームがあることは事実です。

 ところで、ある作家なり有名人や学者の文章が、入試の長文読解問題に使われることがありますね。その作者が問題の設問を解いてみて分からなかったとか、不正解だったという話を聞いたことがあります。一度や二度ではありません。

 そりゃあ、そうでしょうね。いったん書いた文は作者から離れてしまうのですから。笑っちゃいませんか? コメディとかコントとかギャグみたいな話。

 とはいえ、自分の書いた文章が入試問題に使われるなんて立場になってみたいものです。うらやましいなあ。

 まとめます。

 どう考えても、本をちゃんと読める人なんていないのです。書いた本人でさえちゃんと読めていないのですから。

*本を書いた本人にも、その本はちゃんと読めない。
*いったん書いた言葉は、その書いた人から離れる。
*言葉は外から来るもの。
*言葉は借り物。

 実は、これがこの記事でいちばん言いたいことであり、大切なことなのです。

 この事態は、書くだけでなく、話すについても言えます。

 かく・搔く・欠く・掛く・懸く・駆く・架く・描く・書く、そして、はなす・放す・離す、および、かり・借り・駆り、刈り、狩り、仮、なので、当たり前みたいなのです。

        *

 でも、捨てたもんじゃありませんよ。

 人は本をちゃんと読めないのであれば、人は本をそこそこは読めると考えればいいのです。外から来た言葉を人は完全にコントロールできませんが、そこそこコントロールはできると考えましょう。

 実のところ、言葉と文字を獲得した人類は、そうやって生きてきたみたいです。

 話は飛躍しますが、印刷術の発明と普及以前の写本でも、書き写し間違いやズレが当たり前だったみたいです。口承文芸しかり。

 要するに、本も話し言葉の伝達も、伝言ゲームや糸電話遊びみたいなものです。誤解や間違いやズレやノイズがあって当然。

 これからも、そうやってズレと付き合いながら生きていきましょう。人らしく。

作者の死 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
テクストの楽しみ
「楽しみのテクスト—満足させ、満たし、幸福感を与えるもの。文明からやって来て、文明と決裂することなく、読書の心地よい実践と
www.kinokuniya.co.jp
ミシェル・フーコー文学論集 作者とは何か?
フーコーの知の形原(モルフォゲン)としての文学論集。
www.kinokuniya.co.jp
河出文庫 言説の領界
没後三十年、フーコーの思想の画期となったコレージュ・ド・フランス開講講義『言語表現の秩序』を四十二年ぶりに気鋭が新訳。六十
www.kinokuniya.co.jp
(以上の文章は、拙文「09.03.03 ヒトは本を読めない」に加筆したものです。)

 

*「透明感のある文章」in「人は本がちゃんと読めない」より

 透明感のある文章とか文体という言い方を見聞きます。どんな文章なのでしょう。イメージがいまいちつかめません。こういう時には、逆を考えるといいかもしれません。

 沼とかどぶみたいに濁った文章、ダミ声みたいな文体、ごちゃごちゃした文章、べたーっと黒っぽい字面の文章……。何だか自分の文章みたいなのでストップしますね。

 で、思ったのですけど、もしも文章が透明ならば、向こうが透けて見えるではないでしょうか。

 つっかかずにすらすらさくさく読めるのが透明な文章であり、読んでいて書かれているシーンが容易に目に浮かぶような文章があれば、それは透明だと言えるのではないでしょうか。

 ちょっと待ってください。

 そんな文章は書いても意味がない気がします。要するに、言葉であることを感じさせないような文章。きれいに磨かれた透明なガラス戸を思い浮かべてみましょう。そのガラスが文章で、ガラスの向こうに見える風景が文章の内容なりストーリーだとします。

 味気ないですよね。

 誰もが文章と意識しないような文章。あってもないようにしか感じられない文章。透明な文章とはそんなものになる気がします。たしかに綺麗で清潔な文章かもしれません。なにしろ目立たない言葉を癖のない言い回しで淡々とつづっていくわけですから。

 あなたは、そんな文章を書きたいと思いますか?

 自分の文章。自分という人間性や人となりが出ている文章。これは〇〇さんの文章だ、と言われるような個性あふれる文体で書いてみたいのが、人情ではないでしょうか。

 書いてひとさまに読んでもらうのなら、です。幽霊の書いたような文章ではなく、自分という人間が表れている文章を読んでもらいたい――私はそう思います。

        *

 あ、話が逸れました。透明な文章じゃなくて、透明感のある文章の話をしていたのでした。

 でも、よく考えてみると透明な文章はある気がしてきました。

 たとえばテレビのニュース原稿や電気製品の取扱説明書やレシピやカップ焼きそばの作り方の説明であれば、個性を感じさせない、誰もがすっと読めるような書き方が求められる気がします。いわゆる実用的な文章です。

 人が味わってくれることを想定していない文章や、メッセージが伝わればいいだけの文章は、無色透明でなければならないのかもしれません。

 カップ焼きそばの作り方は、そうした無色透明なものでなければならないでしょう。だから、文体模写の題材として選ばれたとしか思えません。無色透明だから、癖のある文章で容易に色づけ味付けできるという理屈です。

『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』という本がありますが、面白いですね。無色透明な「レシピ」だからこそ、いろいろな個性ある文体で書き分けるという企画の餌食にされた気がします。

 次には村上春樹、あるいは蓮實重彦の文体による、効果的な日焼けローションの塗り方とか、川上未映子、あるいは土屋政雄訳のカズオ・イシグロ作『日の名残り』の文体による「三分間でマスターできる、絶対に汁の飛ばないカレーうどんの食べ方」なんて本が出版されるかもしれません。

 

*「剽窃から遠く離れて あるいは引用の織物」より

 ところで、こうやって自己引用をしていると、私は以前からいつも同じことを言っているような気がしてなりません。こうやって記事を書いていると既視感の洪水に襲われる気分になります。

 やっていることが同じなんです。同じことを繰り返しているのです。
 そっくりなのです。そっくりな点がそっくりなのです。
 金太郎飴とそっくり。

 進歩がないとしか考えられません。

 

*出典

 この記事は、過去のブログ記事(現在はありません)からの引用からなるパッチワークであり文供養です。

*「『仮往生伝試文』そして / あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』」
*「あう(7)」
*「輝く言葉」in「人は本がちゃんと読めない」
*「固有名詞のまばゆい光」in「人は本がちゃんと読めない」
*「普通の名詞を固有名詞にする」in「人は本がちゃんと読めない」
*「固有名詞の光によって文章が読めなくなる」in「人は本がちゃんと読めない」
*「人は本がちゃんと読めない」in「人は本がちゃんと読めない」
*「透明感のある文章」in「人は本がちゃんと読めない」
*「剽窃から遠く離れて あるいは引用の織物」