ふーこー・どぅるーず・でりだ・ばると(その5)【引用の織物】

*「と、いうわけです」より

 ジル・ドゥルーズという、もう、お亡くなりになったフランスの哲学者がいました。ピエール=フェリックス・ガタリという人とよく本を書いていました。かつて、そのドゥルーズとよく並んで評された、ミシェル・フーコージャック・デリダに比べると、個人的にはあまり興味を引かれなかった人です。

 興味が引かれなかったというより、何を言っているのか、何を考えているのかが、さっぱりといっていいほど分からなかったのです。自分の貧困なフランス語力を棚にあげて、邦訳に問題があるのかと思い、原文にも当たってみたのですが、フーコーデリダと比較すると、やっぱり、分からないのです。

「波長が合わない」という、あやしげな言い訳がありますが、そんなフレーズを持ち出したくなるほど、分からないのです。ただ、比較的良心的で、また良質だと思われるドゥルーズの解説書が何冊かありまして、それを読んでみました。

 解説書ですから、分かりやすく書かれています。でも、ピンと来ない部分が多かった記憶があります。今では、そうした解説書は手元にありません。ただ、1つだけ、すごく印象深い解説【※過去の記事ではもったいぶって書いていますが、蓮實重彦氏の『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房・pp.63-68)です】の一節を覚えているのです。

ドゥルーズは「と」の人だ

みたいな意味のことが、書いてあったのです。で、この1週間くらい、

*「かく・かける(1)~(8)」シリーズ(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)

*補遺=おまけ=付録=追加である3種類の記事

を、誰に頼まれたわけでもないのに、せっせと書いていたのですが、そのなかで

*「間(=ま・あいだ・あわい)」

*「際(=さい・きわ)」

ということについても、ずいぶん、いろいろと考えていました。

     *

 さきほど触れた「間(=ま・あいだ・あわい)」と「際(=さい・きわ)」という話ですが、これを「と」と言い換えることができるなあ、と思い、そういえば、ジル・ドゥルーズという人についての解説書に、「と」の話が書いてあったなあ、と思い出したのです。

 このブログは、あくまでも素人が誰に頼まれたわけでもなく、好きなようにやっている楽問=ゲイ・サイエンスの場であり、学問や学術や研究とは関係ありません。ですので、

ジル・ドゥルーズにおける「と」

などと、肩に力を入れた文章を書くつもりはないです。

 で、「と」なんですが、ジル・ドゥルーズの場合には、正確にいうと、「 et 」なのです。フランス語では、「エ」にみたいに発音しますね。えっ? 「 t 」はどこに消えたの? と不思議に思われている方のために説明いたしますと、とても大雑把な言い方になりますが、フランス語では、「 c、f、l、r 」以外の子音が語尾に置かれた時には、発音しないのです。たとえば、Pas mal. (英語で言えば Not bad. =悪くないね=いいね)は「パ・マル」みたいに発音します。s は読まない。l は読む。ということです。

 で、et は英語の and と、とてもよく似たつかい方をします。すごく簡単に言うと、

*「単語A et 単語B」なら、「AとB」

*「語句Aor文A et 語句Bor文B」なら、「A、そして、B」

のように、つかわれます。

*「と」と「そして」の意味がある

と考えていただいて、かまいません。

 大切なことは、いわゆる接続詞であり、

*AとB、またはそれ以上の複数のものを「つなぐ」役割がある

ということです。このことだけは、つかんでおいていてくださいね。

 で、この

*「つなぐ」

ということですが、「つながる」、あるいは、「つなげる」からには、AとBのあいだには、何か

*「関係」

があるわけです。ここで、整理しましょう。

*「間(=ま・あいだ・あわい)」「際(=さい・きわ)」「と」「そして」「関係=関・係」

 以上の言葉たちに共通するのは、

*「つなぐ・つなげる・つながる・つながり」

という意味=仕組み=働き=メカニズム=運動=表情=仕草です。


(中略)


 ところで、ここまで書いてきた記事のなかで、「と」と「そして」に当たる意味の言葉をどれだけつかったでしょう。たくさんつかったはずです。このブログでよく出てくる、

で、

というのも、場合によっては、「そして」に近いつかい方をしていますね。

 これ、癖なんです。「それで」なんかに比べると、ちょっと失礼で軽薄な響きのある言葉ですけど、愛着があって、つい、つかってしまいます。ごめんなさい。

 で、「つなげる」のはいいのですけど、どういう具合につながっているのかは、きわめて「曖昧=テキトー=あんまり考えていない」場合が多いですよね。結論から申しますと、

*「AとB」に真ん中にある「と」は、「何でもありー」だ。

と言えそうなんです。

 ややこしい言葉をつかうと、順接(=「それで」「だから」)あり、逆接(=「しかし」「だが」)あり、並列(=「と」「そして」)、理由(=「というのは」「なぜなら」)あり、等値(=「つまり」「言い換えると」)あり、例示(=「たとえば」「例を挙げれば」)あり・・・という具合です。

 で、それを、さきほど述べたことと「つなげて」書くと、

*「AとB」に真ん中にある「と」は、「何でもありー」=「間(=ま・あいだ・あわい)」=「際(=さい・きわ)」=「関係=関・係」という、「つなぐ・つなげる・つながる・つながり」という運動=作用が、働いている=機能している「場=空間」である。

と、言えるように思います。手短に言うと、

*「つなげる」=「こじつける」=「何でもありー」とは関係性の乱交=乱舞=混乱である。

となります。

 これでは、あまりにもあっさりしすぎて、良心がとがめますので、もう少し詳しく説明させてください。この現象について、「めちゃくちゃこじつけて」という過去の記事から引用してみます。

     *

 ちょっと、ここで、関係性について、

*一般論

という横着で杜撰な作業=手続き=ズルを、用いて=使って、考察してみます。

*関係性という抽象度の高い言葉=イメージ

について考えるとき、大雑把に=テキトーに=でまかせ=連想ゲーム的に、言葉=イメージを並べてみる方法を取るのが有効であるように思われます。たとえば、

*AとBというものがあるときに、両者の間にどんな関係性があるか。

と単純に考えてみて、思いつく言葉をどんどん出るに任せて=でまかせに、列挙するのです。では、やってみます。まず、

*対義語を並べるやり方

でいきます。

*大と小・○と被○・やるとやられる・観測すると観測される・マクロとミクロ・無限と有限・絶対と相対・一般と特殊・単数と複数・粒子性と波動性・線形と非線形・受け身と能動的・支配と被支配・SとM・依存と自立・男女・成熟と未熟・もうとまだ・多いと少ない・有ると無い・早いと遅い・速いと遅い・長いと短い・動と静・増えると減る・無限大と無限小・本物と偽物・真と偽・正と誤・安定と不安定・可と不可・可能と不可能・偶然と必然・秩序と無秩序・整合と不整合・論理的と非論理的・快と不快・高いと低い・強いと弱い・硬いと軟らかい・複雑と単純・優れていると劣っている・プラスとマイナス・陰と陽・ポジティブとネガティブ・白と黒・裏と表・偶数と奇数・熱いと冷たい・激しいと穏やか・右と左・初めと終わり・中心と周辺……

 こんな感じです。次に、

*動き・運動に注目する方法で試してみます。

*引き寄せ合う・反発し合う・しりぞけ合う・連動する・シンクロする・共振する・共鳴する・触れ合う・くっつく・集まっている・散らばっている・同化する・矛盾する・○であって△ではない・△であって○ではない・○であって△でもある・○でもなく△でもない・○ときどき△一時□・かかわる・影響を及ぼす・影響を及ぼし合う・一方がもう一方の周りを回る・くっ付いたり離れたりする・一方がもう一方をおかす・一方が一方に取って代わる・交代する・代行する・代理を果たす・まじり合う・一方が一方にとけ込む……

 また、

*関係性を状態・状況・構造としてとらえる

こともできそうです。

*似ている・同じである・等しい・等しくない・異なっている・違う・差がある・ばらばら・つながっている・結ばれている・からみ合っている・かかわりあっている・重なる・重ね合わせ状態・対称・対称性・対称性の破れ・円環状・等価・ひも状・パラレル・まじわる・まじわらない・不確定・不確定性・ずれる・ダブる・かぶる・はずれる・仲がいい・仲が悪い・親和性がある・一方がもう一方から派生している・一方がもう一方を生む・一方がもう一方を生じさせる・上部構造と下部構造・入れ子構造・ツリー構造・フラクタルリゾーム複雑系・カオス・二次元・三次元・四次元・恣意的・表裏一体……

 もっとも安直なやり方ですが、

*「○○関係」という決まり文句=紋切型を集めてみるとか、そのたぐいの類推で言葉を思い浮かべる方法

も有効かもしれません。

*相関関係・因果関係・相互関係・位置関係・二項関係・2項対立・離散関係・関数関係・ねじれた関係・主従関係・親戚関係・親子関係・利害関係・力関係・上下関係・比例関係・反比例・相似・相同・写像・関係がある・無関係・依存関係・共依存・関係が逆転する・関係が交互に逆転する・両立する・両立しない・共存・共生・阿吽の関係・触媒・相乗関係……

 以上のようになりましたが、いずれも基本的に2者を前提としたものですし、他にもいろいろあるはずですが、この辺でやめておきます。ブレーンストーミングとかいう方法に似ていますね。あれは、いわゆるひとつの「でまかせしゅぎ」ですから、似ているのは当然です。それはさておき、分かったことは、

*関係性というものはトリトメがない

という点です。実を申しますと、トリトメがないものが好きです。関係性について、もっと考えたり、でまかせに何か書いてみたいです。

 以上が引用です。

「と」という「一字」については、これくらいややこしくご託を並べることができるのです。

 試しに、ドゥルーズの著作名(副題も含む)の邦訳にある「〇〇とXX」の「と」(=関係性)についてあれこれ考えてみませんか(ややこしそうなら、〇〇とXXに――うさぎとかめのように――何を当てはめてもかまいません)? 正解なんかありませんが、だからこそ、その邦訳を読む作業よりも、案外「正しく」ドゥルーズすることになるかもしれません。

Empirisme et subjectivité、経験論と主体性、Nietzsche et la philosophie、ニーチェと哲学、Proust et les signes、プルーストシーニュ、 le froid et le cruel、マゾッホとサド、冷淡なものと残酷なもの;原子と分身;Différence et différenciation;Différence et répétition、差異と反復、Spinoza et le problème de l'expression、スピノザと表現の問題、Leibnitz et le Baroque、ライプニッツバロック;記号と事件;Critique et clinique、批評と臨床;L'Île déserte et autres textes: Textes et entretiens;Capitalisme et schizophrénie、資本主義と分裂症、Politique et psychanalyse、政治と精神分析
(※ウィキペディアの「ジル・ドゥルーズ」から書き写しました。)

 

*「動画を視聴しながらとりとめなく考える」より

 みなさんは、「似ている」に対してどんな思いをいだいていますか?

 この人はあの人に似ている。あなたは、〇〇さんに似ていますね。この小説はあの小説に似ていると思いませんか? Aの作る曲ってBの曲に似ているような気がしてならない。彼女の見せるちょっとした仕草が、彼女のお母さんに激似。この絵とあの絵はそっくりだ。うちの息子の後ろ姿に旦那を見てぎょっとした。「ねえ、これって手触りがあれに似てない?」「どれどれ。いやだ、本当……。触ってみると、あれにそっくり」あの人の彼氏の服装とか話し方を見ていると歌手のBさんをかなり意識している気がする。ここから見る風景は、故郷の町を彷彿とさせる。この店の餃子を食べるたびに、おばあちゃんの作ってくれた餃子を思い出すんだ。電話に出たのがお母さんだと思ったらお姉ちゃんだった。この記事って、きのうS新聞で読んだコラムにとても似ているんだけど。

 何かと何かが、あるいは誰かと誰かが似ているという評価や印象が、人を喜ばせることもあれば、怒らせることもありそうですね。笑いや驚きやため息や涙をもたらすことも考えられます。また、「似ている」が人と動物だったり人と物の場合もあるでしょう。

 私は「似ている」大好き人間なのですが、手放しで「似ている」を賞賛していいとは思っていません。「似ている」は一つの評価にはちがいないのですが、「同じ」や「同一」と違って検証ができません。「似ている」は印象だからです。印象や感想は偏見につながりますね。それが「似ている」の恐ろしいところでもあります。

「似ている」という評価や意見がさまざまな感情を人にいだかせることに敏感でありたいと思っています。

        *

 話をMoves Like Jaggerに戻します。

 検索していてすごいと思ったミック・ジャガーのダンスというかmovesの映像集を、以下に紹介します。かっこいいですね。動きが美しい。グループサウンズや日本のロックグループのメンバーには、ミック・ジャガーの模倣から始めた人が多いという話は本当だと感じました。


 ああ、これは「〇〇」に似ている、と思った映像がいくつもあります(私は音楽もダンスにも無知なので、げすの勘ぐりにちがいありませんけど)。話は逆で、「〇〇」がジャガーを真似たのでしょうね。模倣されるのは、偉大なアーティストの宿命でしょう。


 ミック・ジャガーがその動きを自分で作り出していったのか、先行する誰かの振りを真似たのか知りませんが、見ていると自然に動きが出てきている、そしてつねに試行錯誤を重ねているように感じられます。素人である個人の感想でしかありませんが。

        *

 話は飛びます。

 他の人に似ているとか、他人を真似るだけではなく、自分に似ているとか、自分を模倣するということがあります。

 詩、小説、造形芸術、演劇、イラスト、漫画、作曲、伝統芸能といったクリエイティブな活動にたずさわっている人の作品には、その作り手独自のスタイルや型があります。これはプロ・アマを問わず見られます。悪い言い方をすればワンパターンでありマンネリズムです。

 あ、これ、〇〇の曲でしょ? △△の映画は見始めて三分でだいたい分かるね。確かに、このドラマは、いかにも□□さんの脚本ぽいストーリーね。これって、あの人の作でしょ? まただ! 「なんでレンブラントだって分かったの?」「背景の色、そして筆さばきかな」

 創作とは自分を真似ることではないかと思えるほどです。

 自分を真似る。自分に似せる。自分を模倣しつづけることは、随時更新することだとも言えるでしょう。鏡に向かい、そこに映った像を眺め、その像(イメージ)を模倣しつづけながら、少しずつずれていく。そのずれが更新なのです。

 自分であると思いこんでいる鏡の中の像には必ず他者が入り込んでいるはずです。自分を眺めることが他者を認めることでないと誰が断言できるでしょうか。鏡の中の自分の顔や姿に自分以外の何かを認めるのは、誰もが日常で経験することではないでしょうか。

 見るには必ず「ずれ」がともないます。そのずれが何とのずれなのかは、分からないと思います。自と他のさかいのない世界とは鏡の中だという気がしてなりません。鏡(この鏡を比喩と取っていただいてかまいません)に映っているものは「似たもの」なのです。「何か」そのものではありません。

 何かに似ているのです。その何かが何なのは分からない。ひょっとすると、鏡(この鏡を比喩と取っていただいてかまいません、たとえば目とか作品とか人生とか世界、です)に映っているのは「何か」の代わりですらないのかもしれない。影やまぼろしが自立していないとは、私には言い切れません。ひょっとして、人は影やまぼろしにもてあそばれていないでしょうか。主導権を握られていないでしょうか。

 最近、そんなことが気になって考え続けています。

 

*「そっくりという、まぼろし*」より

 自分もまたそっくりである。そっくりの一つである。こうした状況は、無関心と関係があります。つまり、自分に興味がなく愛情も感じない人にとっては、自分はそっくりでしかない、その他おおぜいの一人でしかないと考えると分かりやすいでしょう。

 立場を逆にして、世界のどこかにいる誰かは、あなたにとってそっくりなものの「一つ」であり、「一人」と数えるにも値しないほどのものだと考えられます。言い換えると人間としてではなく、抽象的な存在、たとえば76億人という数字の一つにすぎないのです。

 数字や数は抽象です。お金も数値という意味では抽象です。

 ただし、お金がたとえ15,867,232円という具体的な数字であっても、それが家を購入する資金であれば、抽象ではなくなります。意味とイメージをともなうからです。数字も、777であれば、ある人たちにとっては特別の意味とイメージを持ちます。42が不吉だと感じる人もいます。

 0203が自分の誕生日と同じ並びであれば、あるいは何かの暗証番号であれば、それは数字でありながら言葉と同じくらい意味やイメージが付着したものになりえます。また、たとえば364という数字が、その日に何度も目につけば、それを「シンクロ現象」と見なす人も多いようです。

 数学者でさえ、そうした数字の非抽象化とは無縁ではないでしょう。ある数字を見て冷汗をかいたり、あるいはにんまりするという意味です。また哲学者でさえ、イワシの頭の信者になることがあるでしょう。絶世の美女がおならをするのと同じです。超イケメンの男性がうんちをするのと同じです。うんちもおならもしないのはアイドルだけの特権なのです。

 冗談はさておき、抽象というのは人が考えているほど抽象でなかったり、人が思いもしない物事が抽象として立ち現れる事態もおおいにありうる気がします。

 そっくりは印象なのですが、このそっくりさえも抽象として立ち現われる気がします。

        *

 たとえばどこかをスマホを見ながら歩く人たち。たとえばどこかの待合室でスマホに見入る人たち。

 スマホというモノもそっくり、その画面に映っている映像もそっくり、聞こえてくる音声もそっくり、ときどき鳴る合成音やブルブルいう振動もそっくり、そのスマホに見入っているヒトたちもそっくり、ヒトたちの身につけているモノたちも、この瞬間に地球の至るところでそっくりなモノたちがあるはずです。

 どことは言いません。至るところでの話ですから。誰とは言いません。誰もが免れない状況なのですから。

「わたしはスマホはつかわない」ですか? テレビでもラジオでも新聞でも本でも車でも病室のベッドでも棺でもお墓でもかまいません。いま挙げたもののほとんどが、大量生産され、印刷という形で複製されたものです。あなたがつかっている、目にしている、耳にしている、皮膚にまとわりついている、横たわっているそれは他のどこかにそっくりなものがあるはずです。

 至るところにあるのは厳密な意味での同じや同一ではありません。同一は世の中にたった一つしかないものを言います。分子や原子レベルでの「同じ」だと考えてもいいでしょう。こうなると同一とは、個性とかアイデンティティとかいう言葉で語られる次元にはない気がします。

 いま話しているのは、そっくりについてです。

 なにしろ、そっくりなのです。そっくりはそっくりな点がそっくりであるところまでいくと、抽象というのがふさわしいのではないかと思われることがままあります。

 言葉は物も事も現象でもありません。その代理なのです。したがって、言葉をつかって、そっくりとか似ているとか同じとか同一とかいう話をすると、齟齬が起きます。これは致し方ないことでしょう。

 ではどうしたらいいのでしょう。一つはレトリックでお茶を濁すことです。ほのめかすとか匂わせるのもいいでしょう。言葉の限界と幻界を意識して、一見矛盾であったり荒唐無稽やナンセンスに感じられる言い回しをして、その限界および幻界ぶりをほのめかし匂わせるという、ほのめかし方や匂わせ方もできるでしょう。

 言い換えると、本当は何も言えないという限界と幻界を意識しつつ、何かを言っているふりをして、実は何も言っていないふりを演じるイリュージョンをすることです。ふりのふりをするというレトリックが気になるかもしれませんが、そう言うしかいまの私には芸が思い使いのです。そうです、私は芸のつもりで記事を書いています。noteという寄席にいるピン芸人なのです。申し遅れましたことをお詫び申し上げます。

 レトリックとたわごとはさておき(私の文章からこの二つを取り除いたら何も残らない気がしますが)、話をそっくりに戻しましょう。

        *

 あるお子さんが、大量生産された玩具の一つを気に入り、それでしか満足しないというケースもおおいに考えられます。愛車もそうでしょう。お気に入りの品とは、そういうものです。愛着と興味がそこに詰まっているという言い方もできるでしょう。

 それが個性なのかもしれません。それが同一なのかもしれません。とはいうものの、個性も同一も言葉です。人それぞれ。言葉にまつわるイメージ(意味や語義ではありません)はきわめて個人的なものです。それこそ、同じであったり同一のイメージはないと言えるほどです。

 ここで、言葉が究極の同じであり同一であることを思い出しましょう。

 猫、ねこ、ネコ、neko。

 どんな活字やフォントや文字の大きさであろうと、誰が口にしようと、いま挙げた語は同じです。そっくりどころか同一なのです。

「猫、ねこ、ネコ、neko」という文字、つまりインクの染みとか画素という意味ではありません。音声でもありません。抽象的な意味での「猫、ねこ、ネコ、neko」という語の話をしています(観念や概念という言葉をつかうヒトもいるでしょうが、観念や概念は手垢にまみれた言葉で抽象的な話をするのには適していません)。

 言葉は外からやって来るものです。人の内にはありません。「猫、ねこ、ネコ、neko」は、あなたが生まれたときに既にあった語です。それをあなたは真似て学んだのです。ちなみに真似ると学ぶは同源らしいですが、ここではそんなことはどうでもいいですね。

 大切なことは、言葉が外から来ているものであり、外にあるものだという点です。

        *

 同一という抽象は、外にあり、外と内を行き来します。これが抽象なのです。というか、抽象というとりとめのないものを言葉にするさいの一つのイリュージョン、つまりレトリックです。言葉の綾とも言います。

 さて言葉は同一であるからこそ、人の外にあったり、外と内を行き来するのですが、これは意味やイメージを取り去った言葉や数字だという説明もできます。言葉や数字には意味とイメージが付きもので、「意味とイメージを取り去った言葉と数字」なんて人にはとらえられないものなのかもしれません。

 ややこしいですね。実のところややこしいのです。簡単にすぱっと切り取ることができれば、そんないいことはありません。というか抽象とか「意味とイメージを取り去った言葉と数字」なんて考えてもいいことは一つもありません。

 

*「抽象という、まぼろし」より

 数字は文字であり絵であり映像であり印でもありうる。数(すう)は抽象なのかもしれないが、それを見た人はいないし、知覚した人もいない。おそらく数学の世界やコンピューターの計算としてヒトとは無関係にうごくものなのかもしれない。

 比喩をもちいるが、抽象性が高いと思われる数学や物理学は、表象という代理をつかっての「遠隔操作」なのであり、決して何かにたどりつけない(靴の上から足のかゆいところを掻くのにも似ている、エンカクソウサ、カッカソウヨウ)。「正しい」かどうかは更新可能な賭けなのである(ギャグが受けるかスベるかにも似ている)。抽象とはそういうものだろう。推測し想像し空想し妄想し懸け賭けるしかない。ヒトの想像の産物であるから、不変でも普遍でも不偏でもありえず、ときおり更新される。

        *

 飛躍した言い方になりますが、これは言葉と数字が外からやって来るものであるからにほかなりません。誰にとっても、言葉と数字は生まれたときに既に存在していたものであり、自分の内にあったものではありません。自分の外に存在する言葉と数字を真似て学ぶことによって身につけます。

 これは「借りる」とも言えます。自分のものではないから、「借りる」のです。あくまでも他の人たちとの共有物なのであり、他の人がいてはじめて意味や伝達が生じます。

 容姿、つまり視覚的なイメージはちょっと違います。あくまでも個人的で私的で、他の人には意味不明であったり伝達不能であったりするのが普通であるような、きわめてとりとめのない、うつろいやすいものがイメージなのです。目をつむってみてください。できれば、目をつむったまま、耳を両手でふさいでみてください。

「何か」が目に浮かびませんか? 目といっても心の目のことです。心の目に映った「それ」を言葉をつかって他人に説明できますか? 目に映じているものは風景かもしれないし、誰かの顔や姿かもしれないし、模様かもしれません。そうしたものは、とりとめがないとしかいいようがないものではないでしょうか? 

 強いて言えば、「それ」は「何か」と言うしかない。つまり、言葉にならないのです。言葉に置き換えられないことはありませんが、置き換えたのですから、言葉と、「それ」=「何か」とは明らかに異なります。だから、それは抽象ではありません。

 この場合の抽象とは、言葉(音声や文字としての言葉であり意味ではありません)や数字(文字としての数字です)が抽象的であるという場合の抽象のことです。抽象は伝わります。正確に、そのまま伝達されます。それが音声と文字の特徴です。

        *

 抽象とは「捨て去る」ことです。捨て去って残った骨や核のようなものでありながら、というかだからこそ、それは他人に伝えることができます。それが抽象であり、そっくりそのまま他の人に伝わります。そうでないものは抽象とは言えません。

 最も分かりやすいのは言葉よりも数字でしょう。数字にまとわりついている個人的な意味やイメージ(4が縁起が悪いとか、8と23は誕生日の数字だといった意味付けされたイメージです)を取り除いた、つまり「捨て去った」、算数や数学でつかう道具としての数(すう)しか表さない数字という意味です。数学でもちいる場合の1は、辞書で引いても、「いち」というし語義しか記されていいません。10も「とお」でしかありません。

 一途の一でも、十分(じゅうぶん)の十でもありません。数(すう)の一であり十の話をしています。抽象とはそういうものです。意味はあっても、ないに等しいとも言えるでしょう。意味とは別の次元にあるのかもしれません。

 あらゆる意味やイメージを捨て去ったものが数の1であり10なのです。1や10というアラビア数字、一や十という漢字、ⅠやⅩというローマ数字にまつわる、あなたの個人的なイメージはそこにはないのです。だから、他人に伝わります。正確に、そのまま。

        *

 1ってすっと伸びた棒みたいで姿勢がいいというか、あの形が好き。上にちょこっと出ている活字っていうの? フォントっていうの? あれが好き。│みたいな味気ない形の1もあるけど、好きじゃない。あと1って「いちばん」の「いち」でしょ? やっぱり1番とか一等賞とか一位がいいなあ。ichiって音も好き。iとchiを発音するときの口の構えと音が、こうぐっとくるのよ。なぜだろう? そうそう、いま思い出したんだけど、一郎君っていう男の子が小学生のときにいて、その子は六年生の三学期に転校して別れてしまったんだけど、好きだったなあ。かっこいいというよりもすごく優しい男の子だったんだ……。ちなみに私は一月生まれでしょ。いちという数字には愛着があるの。あと、いちといえば一期一会じゃない。知ってる、この意味? 哲学的って言うか、深くてとってもいい言葉なんだ。一が二つもあるなんて素敵じゃない?

 たとえば、以上のようなものが1という数字と数にまつわるイメージです。

        *

 イメージは意味とは違って辞書には書いてない、きわめて個人的なものであり、あなただけのものです。だからこそ愛おしいと言えます。世界で、いや宇宙でたった一つのもの、それがあなたの持っているイメージ。あなたがお風呂やトイレに入ってぼーっとしているとき、または寝る間際に頭に浮かぶとりとめのないものがイメージ。とりとめがないとはいえ、あなたにとってはちゃんと「意味」がある。懐かしかったり心地よかったり恐ろしかったり切なかったりする。

 イメージはあなたの生きてきたしるしとか証しとも言える。もしかすると、あなたの死に際にも、あなたのいだている何らかのイメージが訪れてくれるかもれない。イメージは夢と同じで、夢が覚めた後に誰かに説明しようと思っても、絶対に説明しきれない「何か」。言葉で救おうとしてもするするぽろぽろとこぼれ落ちていく。他人につたえるのは諦めるしかないが、だからこそ大切な、あなただけのもの。

 イメージはいだくもの。「いだく」とは「抱く」と書く。つまり、あなたが、だいて、あやして、はぐくんでいる、愛おしい存在なのです。捨て去ることはできません。意外としつこいのです。

        *

 言葉も、それが音声であり文字という形である場合には抽象になります。抽象という「もの」や「こと」があるのではなく、あなたの親しんでいるものが時と場合によって抽象に「転じる」のだと考えるほうが適切かもしれません。つかみどころがないのです。その意味で、抽象とはまぼろしなのです。

 抽象とは体言ではなく、とはいえ用言でもなく、「うごき」や「様態」だという気もします。ありかた、とか、ありよう、とかいうイメージ……。あ、抽象にもイメージがあると気づきました。そりゃそうです。「何か」を抽象という言葉に置き換えて話しているわけですから、当然ですね。

 言葉から逃れることなどできません。たとえ外にあるものだといっても、いったん内に入れてしまったのですから、追い払うわけにはいきません。言葉を追い払ったら、人でなくなります。人でなし。

 

*「言葉は交響曲 【言葉は魔法】」より

 本を読んでいると、書かれている場面が想像される。つまり文字を見る(読む)という体験でありながら、それによって快楽を覚えることがありますね。こうした現象は文字以外でも起きます。

 文字が知覚の扉を叩くことによって、喜怒哀楽やぞくぞくやはらはらが呼び覚まされるのでしょう。

 ある種の写真や動画を見ると性的な興奮を覚えることがありますが、これは誰もが経験することです。萌えたり(燃えたり)、催さないほうが変なのです。

    視覚
  /    \
 聴覚    触覚
  │     │ 
 味覚    嗅覚
  \    /
    X覚  

 書き言葉つまり文字が快楽へと変換されるわけです。書き言葉(視覚)が交換機を経て別の言葉(身体という知覚の総体)に翻訳されると考えてもよさそうです。

 こんなふうに五感の一部が別の五感やその一部へと翻訳されると考えると、何かの仕組みが働いているような気がしてきてきます。まるで装置とか機械みたいじゃないですか。

 言葉は交感。
 言葉は交換。
 言葉は交換機。
 言葉は翻訳機。

 印刷物であれば紙面のインクの染みでしかない活字や文字や画像、スマホやPCであればディスプレー上の画素の集まりである活字や文字や画像。そうした物質が視覚という仕組みをとおして人(脳と言ってもいいかもしれません)を刺激した結果でしょうね。

 人はインクの染みや画素を錯覚して「あそこ」だと思い込むわけです(※「あそこ」が「どこか」は人によって異なります、人それぞれ)。錯覚を知覚と言い換えても大差ありません。

「いや、知覚と錯覚は違う」と言う人がいます。ふだんはずいぶん雑な癖に、自分の都合や好みに合わせてやけに細かい言い訳をするのです。私に言わせると、そういうのは理屈や論理や正しさや概念規定の問題ではありません。

 面子が問題なのです。感情が問題と言ってもいいでしょう。錯覚を知覚と言い換えることで、ヒト(ホモ・サピエンス=英知人=えっち人)の面子が立つくらいの意味です。

 ヒトには発情期がありません(たぶんですけど)。発情期がないというと、いかにもホモ・サピエンス(英知人)らしくてその顔が立ったように聞こえますが、事実は真逆で年中発情している、あるいは年中繁殖可能なのです。やっぱり英知人でありえっち人。発情期にある生き物は正常な判断ができなくなると言われます。

 心配でなりません。もちろん自分を含めての話なんですけど、私たちって、やっていることが変じゃないですか? ヒトという種だけではなく他の生き物たちを巻き込んだ、この星の危機なのです。おふざけをしているようですが、真意を汲んでいただければうれしいです。

 いずれにせよ、錯覚の利用はヒトにとって素晴らしい発見あるいは発明であり性癖なのです。

 遠くにあるものを近くにあるものように知覚する、あるいは錯覚する。

*語り得ないものについては、錯覚しなければならない――。⇒「語りえないものについては錯覚しなければならない」

*錯覚は力なり。

*我、錯覚する、ゆえに我あり。

 言葉は錯覚製造装置。
 言葉は知覚喚起装置。

 錯覚、恐るべし。
 知覚、恐るべし。

        *

「MajiでSakkakuする5秒前」・「世界で一つだけの錯覚」・「錯覚3兄弟」・「錯覚は突然に」・「CAN YOU 錯覚?」・「錯覚は勝つ」・「世界中の誰よりきっと錯覚」・「硝子の錯覚」・「Addicted To 錯覚」、「ロマンスの錯覚さま」・「どんなさっかくも。」・「錯覚されるより 錯覚したい」・「錯覚するボンボコリン」・「サッカクノムコウ」・「錯覚するフォーチュンくっきー!」・「ずるイ錯覚」

3錯・錯覚の不時着・あつまれ錯覚の森・サッカクノマスク・オンライン錯覚・錯覚の刃・GOTOさっかく・さっかくちゃん・錯覚などあろうはずがありません・ぼーっと錯覚してんじゃねーよ!・錯覚論法・さっかくずラブ・錯覚ファースト・錯覚の2回生・げす錯覚・安心して下さい、錯覚してますよ。・錯覚ウォッチ・サッカクミクス・特定錯覚保護法・ブラック錯覚・手ぶらで錯覚させるわけにはいかない・錯活・イク錯・草食系錯覚・名ばかり錯覚・ゲリラ錯覚・後期錯覚者・消えた錯覚・錯覚王子・錯トレ・錯覚があるさ

ライ麦畑で錯覚して』・『ボクはイエローでホワイトで、ちょっと錯覚』・『錯覚写真集』・『超図解錯覚』・『錯覚少年の事件簿』・『錯覚宣言』・『真夏の夜の錯覚』・『錯覚する勇気』・『錯覚を10倍楽しくする方法』・『錯覚と幻覚の見分け方』・『錯覚と知覚の見分け方』・『錯覚の時』・『金持ち錯覚さん貧乏錯覚さん』・『錯覚のかんづめ』・『だからあなたも錯覚して』・『こんなに錯覚していいのかしら』・『錯覚タワー  オカンとオイラと、時々、ゴットン』・『ノルウェイの錯覚』・『錯覚記念日』・『君たちはどう錯覚するか』・『きみの錯覚をたべたい』・『誰のために錯覚するのか』・『世界の中心で、錯覚を叫ぶ』・『チーズはどこで錯覚中なのか』・『錯覚ちゃん』・『パリー・ホッターと錯覚の部屋』・『錯覚の壁』・『老人と錯覚』・『錯覚失格』

(※以上の言葉の羅列は「語りえないものについては錯覚しなければならない」より引用したものです。なお、「擬態」バージョンもあります。⇒「言葉は擬態 【言葉は魔法】」)

        *

    視覚
  /    \
 聴覚    触覚
  │     │ 
 味覚    嗅覚
  \    /
    X覚  

 快感は性的なものだけではありません、性的な快感は五感を動員した行為です。

 視覚:表情、身振り、仕草、目くばせ、目つき、皮膚や肌の汗、動き。

 聴覚:声、音(詳しくは書きません、想像してください、それが大切でありむしろほのめかすことで何かが伝わることがあると思います)。

 味覚:味(汗や唾液の味とか……)。

 嗅覚:におい(匂い、臭い、いろいろありますね、もちろん相手のつけている香料のにおいや部屋のにおいも重要な働きをしますね)。

 触覚:肌触り、皮膚と皮膚、粘膜と粘膜(いやらしくて済みません)、手触り、足触り、部屋の温度を皮膚で感じる、腹部と背部と頭部では皮膚的な感覚が同時にまちまちのことがある、痒み、痛み、(痛点での皮膚的な痛みのことです)、あと振動や揺れ(いやらしくて恐縮です)も触覚で感じる気がします。

 言葉は交換。
 言葉は交換機。
 言葉は交歓。
 言葉は交歓試合。

 あなたの体はポリフォニー
 あなたの体はいろいろな音色や音階を奏でる楽器。

 言葉は身体。
 言葉は器官なき身体

 言葉は感応。
 言葉は官能*。
 *蓮實重彦

        *

 言葉は倒錯の森。The Inverted Forest。rhizome。リゾーム。地下茎。
 言葉は楽器。
 言葉は六角形。
 言葉はポリフォニー

        *

 想像してみてください。性行為は五感を総動員した体験であり出来事ではないでしょうか。

 交響楽にたとえてもいいと思います。書き言葉や話し言葉以外の広い意味での言葉を相手(人間であったり物であったりします)とやり取りしたり、あるいはひとりの時にはいわば鏡の中の「他者」(空想であったり想像や記憶であったり画像や音声であったりします)とやり取りするわけです。

 言葉は交響楽。
 言葉は交響楽団

 言葉は管弦楽
 言葉は管弦楽団

 言葉はセッション。
 言葉はジャム・セッション。

        *

 話は飛びますが、あなたは「あれ」が好きですか? あなたは「なに」が好きでたまらないでしょう? 

 唐突に意味深な質問をして、ごめんなさい。いろいろ想像してしまいますよね。

 あれ、それ、これ、なに。

 何だかいやらしくないですか? こういうのは、恐怖や不安という感情でも同じです。スティーヴン・キングの大作『IT』を思い出しましょう。

 アルファベット二文字の it (一音節)がすべてを語っているのです。日本語でも「あれ、それ、これ、なに」というふうにたった二文字(二音節)ですね。「短いの反対語は長いだ」という通念が、いかに馬鹿げているかがお分かりになると思います。

(たとえば、大きい「と」小さい*、S「と」M**、では、「と」で結ばれたかに見える前後の言葉の関係は必ずしも反対ではない***ということです。事(こと)は言(こと)ほどに単純ではない、つまり言葉は必ずしも便利で優秀なツールではないという意味です。
*大きくなったり小さくなったりするアリスの話(ルイス・キャロル著『不思議の国のアリス』)、ジル・ドゥルーズ著『意味の論理学』岡田弘宇波彰訳または小泉義之訳。
**ジル・ドゥルーズ著『マゾッホとサド』蓮實重彦訳または『ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの』堀千晶訳。
***蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』。)

 ずばり名指すよりも、あるいは長々と言葉を費やすよりも、「あそこ」とか「ちょめちょめ」とほのめかすほうが、ずっと〇〇いのです。

【※繰り返しで恐縮ですけど、今回はきわどい話をしていますが、そのものずばりの言葉や、きわどい映像をもちいるのではなく、なるべく想像力に訴えるように努めています。もちろん、そのほうが実際にはずっときわどいからなのです。】

 

*「この歌では女の子の名前自体が詩なのです【言葉は魔法】」より

 個人的に好きだし、すごいと思うのは、以下の部分です。

 Melody Fair, remember you’re only a woman.
 Melody Fair, remember you’re only a girl.
 名前を呼ぶ、最初の二語で盛り上がり、次第に抑えていき最後はつぶやくように歌われる箇所です。

 この二行では、最後の a woman と a girl だけが違います。あとは同じ。この繰り返しと差異の妙は見事だと思います。

 woman と girl は反義語であると同時に類義語でもあります。つまり、人という存在は多面体(プリズム)なのです。この曖昧さ(両義性・多様性)が詩(歌詞)となり人を惑わせるのです。

【※時と場合と場所によって、お母さん、きみ、あなた、おまえ、あいつ、あの人、お姉さん、〇〇さん、看護師、患者、客、あのう……、被疑者、被害者、加害者、被告、原告、「女」・「女性」・「Aさん」、被災者、保護者、障がい者、病人と呼ばれうる人間は、多層的多重的な存在とも言えます。
 人をたった一つの語というレッテルで指すことは不可能なのであり、複雑な現実を反映していないのです。こうした現実を失念しているために起こる誤解や苦しみや不和や争いは多いと思われます。
 たとえば、ある時点であなたがいる状況とあなたがいだいている思いと、かけ離れたレッテルを誰かがあなたに見ている、あるいは重ねているときに、すれ違いが起こります。このすれ違いがある限り、共感も同意も実のある対話も生まれないでしょう。同情すら生じないにちがいありません。】

 woman と girl に相当する日本語で見てみましょう。

 女の人-女の子(大和言葉
 おんな-むすめ(大和言葉
 女性-少女(漢語・唐言葉系)

 メロディー・フェア、髪を櫛でとかしてみたらどうかな?
 君は綺麗にだってなれるんだよ。

 だって、

 メロディー・フェア、覚えておきなさい、君はただの女なんだよ。
 メロディー・フェア、覚えておきなさい、君はただの娘なんだよ。

 韻。
 リフレイン。

 反復と変奏は、詩に「似ている」音と意味の饗宴を生みだします。饗宴、共演、競演、協演。こうした工夫が言葉を美しく聞こえるように、または見えるようにする方法であり、レトリック(修辞法)つまり技術なのです。

 韻なんて、まだかわいいものです。手法は多岐にわたります。現在では言葉を用いたさまざまな分野で洗練された手法が使われています。巧んだり仕組んだりするわけですね。人を動かす技術の一つです。一種の魔法とも言えるでしょう。

 人は「似ている」に取り憑かれた生き物。

 レトリックの基本には「似ている」がある。「違っている」は「似ている」があっての感覚。

 レトリックはそれを熟知した人間が仕組むトリック。
 レトリックはトリック。
 レトリックはイリュージョン。

 広い意味でのレトリックは、文芸や楽曲だけでなく、映画やアート一般でも見受けられます。さらに商業的な宣伝や政治的な宣伝において、大金を投じて利用されていることを忘れてはなりません。

 大切なので繰りかえしますが、私にはレトリックの根底に「似ている」がある気がします。

        *

 反復、繰り返し、リフレイン、韻、変奏、転調、異化、デペイズマン、コード、レトリック、比喩、変換、転換、変移、変位、変異、偏倚、偏移。

 人は「似ている」に取り憑かれている。おそらく嗜癖している。

 

*「言葉を並べながら考える」より

 私は論理的思考が苦手なので、こうして連想で言葉を並べていき、頭に浮かんでくるものをすくい取るようにして文章を書く癖があります。早い話が、でまかせです。出るに任せるわけですね。何に任せているのかは分かりません。

 取っかかりがないので、取りあえず、言葉を並べてそれを取っかかりにして、その言葉たちに手伝ってもらいながら、別の言葉を呼び出し、文をつづる。そんな感じです。

 呼び出すと書きましたが、本当のところは分かりません。とにかく出てくるのです。あれよあれよと出てきます。苦しんで書くのは苦手なので、出そうもないときには諦めて他のことをしています。そのうち出てきます。トイレと同じですね。あまり、力むのはよくないそうです。

「言葉とうんちと人間」という記事を書いたことがあります。愛着のある記事です。おふざけで書いたものではありません。ちょっとはふざけていますけど。私にとって、「と」で結ばれているその三者はとても近いし似ている存在なのです。

        *

 夜、寝入るときの感覚が好きです。意識だけになってすっと夢うつつの境地に入っていくときには、この上ない安らぎを覚えます。寝際には論理的な思考が希薄になりますが、道理や筋道にかなった思考ではすくい取れない物や事と触れ合うときには、空(くう)の中にいる気もします。

 お酒や薬物の助けを借りなくても誰もが毎晩経験するであろう、「そうした夜の思考」を大切にしたい。「そうした夜の思考」について考えてみたい。「そうした」と失語症的な言い方しかできないものに、あえて言葉を与えてみたい。そんなふうに考えています。

 寝際と死に際は、私の中では近いです。死ぬほどの目に遭っていないからこそ言える暴言なのでしょうけど。

 妄言はさておき、死に際では本も読めないしメモも取れないし辞書も引けないしネット検索もできないと思われます。その「死に際」に近い心境でものを考えたいと妄想しています。上で述べた「そうした夜の思考」とは、それによく似た心境なのかもしれません。

        *

 引用もよくします。かつて自分が書いた文章を思い出して探してきて、引用し、読み直すのです。するといまの自分とのずれがあるので、なるべくそのずれをすくい取るように努めるのですが、すくい取りそこなって、また同じことを書いているなあと嘆くことが多いです。

 どうやらぜんぜん進歩していないもようです。実際、そうなのでしょう。進歩や成長とは無縁の人生を送っているという思いがあります。毎日が既視感の連続です。

 そんなふうだからかもしれませんが、「似たもの」や「似ている」に惹きつけられます。すっと吸い寄せられる感じなのです。私の書くものには「似ている」が頻繁に出てくるようです。

         *

 ものを考える時に、A「と」Bを並べてああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもある、と考えることはあっても、Avs.Bという具合に対立させて議論を発展させたり、論を積み上げていくなんていう芸はできないと言えそうです。

 そもそもそういう発想がないのです。

 AとBを並べると、「似ている」が目につきます。でも「似ている」を見る時には、必ず「似ていない」も見ているのです。ただ「似ている」と「似ていない」は対立するのではなく、むしろ共存して、そこに「ある」のだという気がします。

 いや、「ある」は言い過ぎかもしれません。「似ている」と「似ていない」は共存してそこに「ある」のが「見える」ではないかという気がします。

 これを「似ている」と「似ていない」と区別して言うのは、言葉の綾ではないでしょうか。レトリック(修辞、美辞、巧言)であるとか、トリックであるとも言えそうです。これこそまさに言葉の綾なのですけど、言葉をつかう以上、こういうことは避けられません。

        *

 私が言葉を列挙する場合には連想が働いているわけですが、基本的には「似ている」という感じに導かれながら、並べているもようです。上の(1)から(8)で羅列したたくさんの「AとB」というペアも、たぶん対立するものという意識が希薄だから並べられたのだと思います。

 似ているを感じるには、同時に異なるも感じていなければなりません。その逆も同じです。その意味で、似ていると異なるは似ていると言えそうです。たぶん同じなのでしょう。

 文字(形)という抽象的なレベルでは、同一と言ってもかまわない気がします。抽象的なものは、誰かから誰かに通じます。そっくりそのまま伝えられます。

 その意味で、抽象としての言葉も数字も数も、外からやって来るものであり、外にあるのです。外にあるのですから、誰もが生まれたときには既にあったものであり、それを借りたり真似たり学ぶという形で内に入れます。

 文字の一種である数字も形である限りは通じます。数(すう)も通じます。数学や物理学という学問が成立するのは、その根本に数の抽象的な部分を利用した遠隔操作(※類義語に隔靴掻痒があります)があるからです。どこかにある、あるいはどこにもない世界を想像して、そこにある、あるいはそこにあるらしい何かを操るという意味です。その正当性や妥当性は賭けになります。

 ところが、その抽象的な数字や数に、人が意味やイメージをくっつけると、とたんに通じなくなります。たとえば、4+5=9は誰にでも通じますが、「死後にも苦労するなんて縁起が悪い」というイメージはフランス人には通じません。また、38.0℃や777やE=mc^2や69や0120や2021や2,021の意味も、それぞれが誰にでもそのまま通じるものではないでしょう。その意味するところやイメージは人それぞれです。

        *

 今回は「と」にからんで、いわゆる反対語とか反意語とか呼ばれているものについて、見てきました。以上はあくまでも私の思いです。そして、言葉の綾(レトリック)ですので誤解なきように、よろしくお願いします。

 この「と」については、ジル・ドゥルーズという人の本から学んだという、蓮實重彦という人の『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房・pp.63-68)からたくさんのことを学びました。ただし、誤解や曲解である可能性は非常に高いです。

「と」に関しては、「と」の前後にある言葉たちの関係を決めつけないで、ひたすらながめることが、ドゥルーズすることだと思います。別にジル・ドゥルーズの本を読まなくてもドゥルーズできるのです。

(一方で、ドゥルーズの原著や翻訳を読んで、ドゥルーズを語ったりドゥルーズの言葉を引用しながら、ぜんぜんドゥルーズしない人もいます。それどころかそこにあるはずのドゥルーズの言葉の身振りに逆らい、その思想を求めたり概念化したり総合を指向する向きもあります。ここでいうドゥルーズするとは、思想とか影響という曖昧な話ではなく、具体的な文章体験のレベルの話です。もちろん、それはその人の勝手です。ひとさまの読みに口出しするつもりはありません。いずれにせよ、ドゥルーズに好意的な振りを装いつつ、ドゥルーズの言葉の身振りにあらがうという戦略は興味深いです。人それぞれです。)

        *

 ところで、

 AとBのあいだには何があるのでしょう。どんな関係があるのでしょう。

「AとB」という具合に、「と」で言葉をつなげてみましょう。

*つなげてみないとわからない

とはいうものの、

*つなげてみてもよくわからない

だから、

*眺めているしかない

 これは

*分からないのに等しい

ということです。

*それでいいのだ

と思います。

*眺めるという身振りこそが思考なのです

から。眺める「と」分かるが同義である必要も必然性も関係性もないのです。

 ましてや、眺めるの結果として、わかるとか悟るとか発見するとか解決するとか得をするといった、ヒトの飽くなき欲望を満足させるような「関係性」とは無縁だと言えるでしょう。

        *

 別に「と」がなくてもいいのです。ひたすら言葉を並べて、ひたすらながめる。あるいは頭の中で並べたりぼそぼそと唱えるだけもいい。それが私にとってのドゥルーズする身振りなのです。これなら寝際でも、そしてひょっとしたら死に際でもできるかもしれません。上で述べた「外からやって来たもの」(言葉のことです)とのお別れの儀式です。

 生きているいまは、生きている振りをした存在(言葉のことです)とのあいだで目くばせをし合って、とりあえずは「仮死の祭典」と「仮往生伝試文」をするしかなさそうです。

 

*「不思議なままでいい」より

「短い(長い)」という言葉は「短い(長い)」という状態を反映するものでも、あるいは保証するものではありません。短いから、たとえば単純明快であるとか、短いが連想させる短小であったり、何かが減少するわけでは「必ずしも」ないということですね。短くなると、「必ず」長くなるが起きるとも言えるでしょう。

 Aを定規で測って三センチだった。Bを測ると五センチだった。BはAより長い。そういう杓子定規で抽象的な話をしているのではありません。長いと短いという言葉とイメージをめぐって、人が日々生きている具体的な体験の話をしています。

 抽象は割り切れますが、具体的な体験は割り切れません。空論は作りものですからまとめられますが、現実はとりとめがなくとりまとめられません。

「短い」と「長い」は反意語ではありません。ルイス・キャロルの書いた『不思議な国のアリス』で、「大きくなる」と必ず(あるいは同時に)何かが「小さくなる」ように、です。そして、それに注目してジル・ドゥルーズが具体的な文章体験として『意味の論理学』を著わしたように、です。

 こうも言えるでしょう。文学理論の本などによく書かれている例ですが、「百年が過ぎた。」という「短い」言葉で「長い」時間を処理できるのが言葉なのです。まさに語りは騙りですね。

 また、Longtemps (長い間)で始まり、「時間」や「とき」を意味する語である le Temps (tは大文字です)で終わる、プルーストのあの長い長い小説における「長い」と「時間・とき」は、現実における不思議な「長い」と「時間・とき」にも似て――同じではありません――、辞書にある語義や、杓子定規な理屈とは異なる、不思議と口にするしかない言葉の身振りを見せていたと記憶しています。

 いま述べたことは「相対」や「論理」などという抽象的な言葉と、その言葉にしつこくまとわりついているイメージの問題では断じてないのです。具体的な言葉をめぐる体験の話です。

 確かに不思議と言えば不思議な話ですね。言葉を文字通りに取るとか、言葉を真に受けると、そうなるみたいです。

 言葉は物でもなく、事でもなく、現象でもないからなのです。言葉は言葉なのです。それ以上でもそれ以下でもないということです。

 でも、言葉が言葉であるとは、なかなか頭(比喩です)で分かるものではありません。外からやって来た言葉が、私たちの内に入っているからでしょう。言葉は現実を見えなくもします。見えるような気にもさせます。

 かといって、頭以外の部分(比喩です)で分かることは、「文字通り」言葉をつかわないレベルでの話なのですから、それを文章にすることはできないということになります。

 不思議な話ですね。どうやら、私たちは不思議の国に住んでいるみたいです。言葉のある国とは不思議の国なのです(鏡の国でもあるみたいです)。

 だから、不思議なままでいいのです。不思議や「分からない」を別の言葉に置き換えても、それは気休めでしかなく、事態は変わりません。

 

*「音の名前、文字の名前、捨てられた名前たち」より

*口は楽器である

 アート・ガーファンクルの歌い方を見ていると、つくづく口は楽器だと思います。上下の唇、舌、口蓋、歯に注目し観察しながら、ぜひ動画を見てみてください。いちばんいいのは、口の動きを真似ながら歌うことです。自分が口になったような気分が味わえますよ。

 唇、舌、口蓋、歯の動きや位置を意識して真似るのです。何だかエロいことをしているような感覚になればしめたものです。そうなのです。口は性器でもあるのです。変なことを言ってごめんなさい。でも、冗談ではないのです。

 ジークムント・フロイトとかジャック・ラカンとか精神分析学とかジル・ドゥルーズについての本を斜め読みすると(私には精読は無理です)、人が性器だけで性行為をするものでもないことや、性と生が密接に結びついていることや、全身が性感帯であり生感帯であることが分かるし、生まれたばかりの赤ん坊が唇や舌で世界を感知し触れ合う行為の深い意味について学べるでしょう。

 簡単な例を挙げます。赤ちゃんのおしゃぶり、唇に触れる癖、思わず唇を噛む仕草、無意識あるいは意識的に唇を舐める仕草、広告写真における唇の氾濫、軽く口を開けている人間の無防備な魅力、歯医者で欲情するという告白、女性の口紅、男女を問わず存在する喫煙という風習、特に男性に見られるパイプへの偏愛……。こう列挙すると何かいやらしくないですか?

 上述の小難しいそうな固有名詞を出さなくても、意識的にゆっくり言葉を音として発することで、ぞくぞくわくわくどきどきを楽しむことができるし、たとえばその行為によって発汗をはじめとする生理現象が起こることを確認できるのです。

        *

*音の名前

 ついでにさらに妄想させていただきますが、ヨーロッパの諸言語においては、人名は綴りではなく音ではないでしょうか。

 Lolita という音に並々ならぬこだわりを示し愛情を注いだナボコフの例から察するに、まず音(発音・発声)があって、どのようにアルファベット(ラテン文字)で綴るかは二の次だと思えてなりません。

「初めに言葉ありき」の言葉は音なのです(※諸説あります)。この辺については、ややこしい事情があるらしいので、私の妄想ということにしておきます。

 以下は、お勉強なさりたい方にお薦めしたいウェブ上の資料です。日本語が母語である私にはぴんと来ないお話なのです。

ロゴス中心主義とは - コトバンク
日本大百科全書(ニッポニカ) - ロゴス中心主義の用語解説 - フランスの哲学者デリダの初期の著作における用語。音声(フォ
kotobank.jp
Logocentrism - Wikipedia
en.wikipedia.org
ロゴス中心主義 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
        *

*文字の名前

 一方、日本(日本語)において人名は、音(発音・発声)だけでなく、あるいはそれ以上に文字であり表記であるという気がします。

 ややこしい話なので、歌を例に取って感覚的に説明しますね。

 まず、生まれてまもない赤ちゃんにとって、自分という意識はあまりないとか、ほとんどないという説があります。まわりの世界と自分が未分化の状態にあるという考え方です。これに従うと、赤ちゃんにその名前で呼びかけても「は?」という感じであり、それが自分を指す音である、まして言葉であるとは「まだ」感じられないということになります。

 一つ確かなのは、お乳を与えてくれる存在と、その人を含むまわりの人びとの笑顔には反応することです。お乳をもらった代価として「ほほえみ」を返すわけです。ギブ・アンド・テイクとか、文化人類学的な意味での交換(贈与・交換・分配のうちの交換です)みたいなイメージで考えましょう。

        *

 梓みちよさんが歌った「こんにちは赤ちゃん」(作詞・永六輔/作曲・中村八大)の歌詞ではほとんどが大和言葉であるにもかかわらず、「ママ」が使われているのは注目していいと思います。ママとは「まんま」つまりご飯であり、赤ちゃんにとってはお乳なのです。ママがチチになるなんて駄洒落は、たとえ言いたくても言いません。書きましたけど。こういう「ご飯」論法はいけませんね。

 その代わりに駄洒落を続けると、ママとママル(哺乳類を意味する英語のmammal)は似てませんか?  その mammal の語源は「乳房の」らしいのです。ママは乳房である、なんて強引にくっつけちゃいますが、歌詞でもちゃんとそうなっています。

わたしがママよ
 赤ちゃんにとっては「とりあえず」乳房がすべてなのです。おお、ママ。すごいじゃないですか、永六輔さんは大和言葉の扱いにおける天才じゃないかと常々思っているのですが、ここで確信しました。この歌詞を読んでいると、赤ちゃんの笑顔や泣き声やつぶらな瞳と、ママのお乳とが交換される関係にあることが一目瞭然で分かります。

こんにちは赤ちゃん 
        *

 さて、赤ちゃんがもう少し大きくなって幼児になると、自分とまわりの世界を別物として認識するみたいです。そして、まわりの人が自分を指して口にする名前の存在と、名前と自分の関係を理解するみたいなのです。

 ただし、名前という音(発声)に文字が対応していることや、その音に「自分」以外の意味があり、文字にも「自分」以外の意味があることは、まだ分かっていないと考えられます。

「サッちゃん」(作詞・阪田寛夫/作曲・大中恩)という歌では、本当は「サチコ」であると歌っていますが、「サチコ」には漢字が当てられている可能性は高いでしょう。ひらがなやカタカナに加えて漢字について理解するまでには、もう少し時間がかかりそうです。

 自分のことをサッちゃんと呼んでいるとは、サッちゃんが「わたし」という一人称単数の人称代名詞でもあるということです。

        *

 上の「サッちゃん」とは無関係なのですが、ばんばひろふみさんが歌う「SACHIKO」(作詞・小泉長一郎/作曲・馬場章幸/編曲・大村雅朗)の歌詞を読むと「幸子」という表記だと分かります。

幸せを数えたら ……
不幸せを数えたら ……
 泣けますね。名曲だと思います。

 大きくなった幸子さんは、「さちこ」であり「サチコ」であり、「SACHIKO」であり「幸子」であるわけです。こんなことは、日本語だけですよ。表記のことです。

 日本(日本語)において人名は、音(発音・発声)だけでなく、あるいはそれ以上に文字であり表記であるという気がします。

       

*「音や歌や旋律のように聞こえる言葉【言葉は魔法】」より

 冒頭で見たのはひらがなばかりの歌詞ですが、子どもにとっては意味は分からないし、べつに分かろうともしていないわけですから、ただ音だけで覚えている。

 これは、まさに「ひらがな」で頭に入っているようなものです。つまり、音だけ。ひらがなで歌っているようなものです。本当は、そのひらがなという文字さえない。音だけです。なにしろ、聴いて覚えたのですし、譜面や歌詞カードを見ながら覚えたのではありません。

 音だけで覚えている言葉がある。
 音だけ。
 音だけの言葉。
 文字のない音。

 もともと言葉は無文字だったはずですね。個人としての人にとっても、初めはそうであったはずです。

 文字は後付け。
 初めに言葉があった。
 初めに声があった。というよりも音があった。

 もし、初めに文字があったとしたら。

        *

 もし、初めに文字があったとしたら、それは文字というよりも、印であったり、(比喩としての)顔であったりしたのではないだろうか。その印と顔はおそらくヒトにしか見えない。他の生き物には見えない。

 ひょっとすると、それが意味ではないか。意味とはヒトにしか通じないもの。

 その印(私は顔と言いたい)を見て、ヒトは何かつぶやくかもしれない、叫ぶかもしれない、節をつけてうなるかもしれない。口から出たその「音/声」がその印や顔と対応しないのは言うまでもない。両者は最初から切り離されている。ずれているのだ。

 その印(顔)は外にある。印(顔)は外からやって来る。外から来て、ヒトの内に入る。内に入ったとたん、印(顔)は意味とイメージを帯びたものになる。

 個々のヒトの内において、印(顔)は異なる意味とイメージをまとう。他のヒトと通じる部分もあれば通じない部分もある。意思の疎通はまばらでまだら状。それは、いまの私たちが日々実感でしていることではないか。言葉が通じないと嘆くというふうに。 

 

*「S、M、そしてM寄りのH」より

 ジル・ドゥルーズという人の書いた本の邦訳である『マゾッホとサド』(晶文社)の訳者が蓮實重彦氏なのですけど、内容や詳細はすっかり忘れました。で、要約すると、

*いわゆるSとMとは反意語でない

ということが書かれていたと記憶しています。比喩的に言えば、反意語というより、両者のベクトルが違うという意味だったような気もします。

 どういうことかと申しますと、Mはかまってちゃんであり、めちゃくちゃめんどくさい、これに尽きるようなのです。

マゾッホとサド』には『ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの』(堀千晶訳・河出文庫)という邦訳もありますが、著者であるドゥルーズという人は、やたら「AとB」みたいな本を書きました。

 ウィキペディアの解説から、ジル・ドゥルーズの著作とその邦訳に見られる et と「と」を並べてみましょう。

Empirisme et subjectivité、経験論と主体性、Nietzsche et la philosophie、ニーチェと哲学、Proust et les signes、プルーストシーニュ、 le froid et le cruel、マゾッホとサド、冷淡なものと残酷なもの;原子と分身;Différence et différenciation;Différence et répétition、差異と反復、Spinoza et le problème de l'expression、スピノザと表現の問題、Leibnitz et le Baroque、ライプニッツバロック;記号と事件;Critique et clinique、批評と臨床;L'Île déserte et autres textes: Textes et entretiens;Capitalisme et schizophrénie、資本主義と分裂症、Politique et psychanalyse、政治と精神分析

 壮観ですね。これを目の当たりにして、et と「と」に注目しないほうが変だという気がします。

        *

 Aの振りをして実はBだったり、Cを求めながらDをほしい振りをしたり、それを相手が察してくれなかったり忖度してくれないと、大変なことになります。ひっくり返って駄々をこねる。切れてすごむ。すねまくる――。

 めんどくさいですよね。あなたはそんな人の相手ができますか? 普通はご免ですよね。

 大切な点は、そういう性格であるMの「お願い」が、縛ってくれだの、叩いてくれだの、罵倒してくれだのなのです。それでいて、そのお願いにうまく、つまりMの望むがままに応えるものでないと、切れるんです。「お願い」に見えて、実は「指示」であり「命令」なのです。めんどくせーっと思っているあなた、正解です。

 こうしたMの資質はずる賢くしたたかとも言えそうです。相手が下手くそだと根気よく教育するのです。しつこいですね。ねちっこいですね。とてもじゃないですが、持久力も戦略も狡知も持ち合わせていないSには太刀打ちできません。

 そもそもSとMのあいだには相性など成立しないほど、両者は隔たっているし異質な存在同士なのです。「ねえねえ、こうやってくれる?」と相手を根気よく飼い慣らし操り翻弄するM。その相手ができるのは、たとえMでなくてもMの世界の住人でなければなりません。

 Mの相手をするのは疲れるということですね。え? いやに詳しいじゃないか、ですか? いえいえ、何となく知っているだけです。これまでにいろいろな小説を読んできたので……。谷崎潤一郎とか、川端康成とか、江戸川乱歩とか……。

 それにしても、ややこしいですね。大儀ですね。こういう話は図式化という横着をするのがいちばんだと思います。

        *

*Mの世界:

 基本は、教育と演技(演劇・振りをすること)と遊戯。要するに、プレイ。

 Mはどんな人?:

 教育者(自分が気持ち良くなるためのストーリーと方法を相手に教える教師)。しつこい、根気強い。かまってちゃん。自己中だけど、快感を得るためなら少々のことは我慢する。言っていることと望むことがしばしば真逆(たとえば、「駄目」は「OK」、「やめて」は「続けて」、「死にそう」は「めっちゃ気持ちいい」)。主導権は自分が握る。要するに、めんどくさい。最も重要なポイントは、Mはじつは「ご主人」であること。

 Mの相手には、どんな人物が適するのか?:

 従順。元気で健康体であることが望まれる。Mのお願いや注文(実は命令と指示)に根気よく従う良き生徒。要するに、Mの奴隷。必然的にMの協力者や「共犯者」に仕立てあげられてしまう。なお、Mの相手をMがするという状況は珍しくない。

 Mの相手に最も向かないのは?:

 S。

        *

*Sの世界:

 基本は暴力。しかも一方向(一方的)。要するに、攻撃。

 Sはどんな人?:

 自己中で相手に有無を言わせない。忍耐強くない。快感を得るためのストーリーはなく、計画性は希薄で衝動的。ある意味、単純。主導権という観念すらない。とは言え、もちろん、知性や知力とは必ずしも関係があるわけではない。

 Sの相手には、どんな人物が適するのか?:

 従順。元気で健康である必要はない。相手が人間であることは言うまでもないが、極端な場合には相手は物(比喩)でもいい(たとえば、相手は比喩的な意味での切断された四肢であったり、比喩的な意味での死体であったりしてもいい)。なお、被害者や犠牲者になる可能性が高い。したがって、Sの行為は犯罪との親和性が高いと言えよう。

 Sの相手に最も向かないのは?:

 M。

        *

 お分かりになったでしょうか。SとMは別の世界の住人なのです。世界観が異なるとも言えるかもしれません。

 さらに図式化してみます。

*通念:サディストとマゾヒスト、主人と下僕が相反するペアだと考える。

 Sadist          Masochist

 Master(主人)     Servant(下僕)

 上の図式を見ると、SMではなくむしろMSどす。

 SMというよりもMSではないか。マスターとサーバントです。そんなふうに思えてきます。

*Mから見た関係=Mの世界

 Masochist=Master=自分    Servant(下僕)=相手

*Sから見た関係=Sの世界

 Sadist=Master=自分      Servant(下僕)=相手

 ご覧のように、Mの世界には Servant(下僕)はいても、Sadist の入る余地はないのです。一方、Sの世界にはServant(下僕)はいても、Masochist の入る余地はないのです。

 実は、この分野で実地経験の豊かな、あるお方にかつて以上の図式を話してみたところ、「その通りだけど、なんで、あんたがそんなこと知ってるの?」と不思議な顔をされました。お墨付きを得たと理解した次第です。そのお方はいま思うと、「器官なき身体」を具現したような人で、その世界ではレジェンド的存在でした。存命ならかなり高齢のはずです。どうしていらっしゃるのかとても気になります。

 なお、器官なき身体については、「言葉は交響曲 【言葉は魔法】」という記事でも触れました。交響曲なんて入ったタイトルですが内容はエロいです。

        *

 以上の説明から、「SとM」とか「SM」と一般に呼ばれている言葉やそれにまつわるイメージや思い込みの粗雑さがお分かりになったと思います。なお、以上の図式が図式である以上粗雑で杜撰なイメージと思い込みであることは言うまでもありません。正しい視点などでは毛頭ないという意味です。そもそもメタな視座などあり得ないのです。

 いずれにせよ、おそらく『マゾッホとサド』という本には、以上の意味のようなことが書かれているのではないかと想像します。ま、そうである必然はぜんぜんないのですけど。間違っていたら、ごめんなさい。あくまでも、個人の意見および感想ということで、お許し願います。

 何しろ、私は論理的思考がきわめて苦手なのです。上のような図式化も苦手で苦労しました。

 言葉はめんどくさい。
 言葉の奴隷にはなりたくない。けど、なるのが人間。

 言葉を文字通りに取ると馬鹿を見る。
 辞書や文法書や文章読本や用字用語集や学術書に書いてない動きと表情をするのが言葉。

 実は主導権は人間の側にはない。
 言葉を前にして、人間は奴隷と下僕になるしかない。
 
 言語活動はSMプレイ。※「プレイ」、ここが大切です。遊戯であり競技であり演劇なのです。

        *

 ところで、みなさんもお感じになるでしょうが、谷崎はMですね。健康かつ元気でかまってちゃんな女性に振り回されるのを喜んでいます。たとえば『痴人の愛』や『鍵』や『瘋癲老人日記』を読むとよく分かります。

 一方、川端はSだという気がします。かなり自己中で強引で有無を言わせないところがありますよね(『みずうみ(みづうみ)』ではストーカーまでします)。しかも、『禽獣』のように相手が「か弱すぎ」たり(相手が人間とは限りません)、『片腕』のように相手は切断された腕と手であって、いわば物ですが、これは幻想であり暗喩または換喩と解すべきでしょう、あるいは『眠れる美女』のように眠っている(ある意味死体や物と同じです)場合もあるのですから、怖い、怖すぎます。

 乱歩はたぶんかなり偏ったMでしょう。Mというだけでは済まされないという意味です。乱歩は変化球をばんばん投げましたよね。奇想とも言います。これでもかこれでもかという具合に。あれはすごいです。Mというより、M寄りのH(辞書に載っているHという意味です)と言うべきかもしれません。

 私がすごいと思って何度も読み返したのは、短編では『人間椅子』と『鏡地獄』と『芋虫』、長編では何と言っても『孤島の鬼』(とりわけ秀ちゃんと吉ちゃんが出てくる部分の妖しさと悲しさ)です。

 乱歩の作品は、谷崎と同様にその主要なものが青空文庫に入っているので、まずはネットで目を通してから本を読むのもいいかもしれません。「いやだ、こんなの無理みたい」とお感じになれば、バイバイということですね。

 なお、谷崎も川端も乱歩も、MだのSだのHだのも、その作品の傾向がですよ。ご本人については知りませんので、誤解なきようにお願いいたします。作品だけを前にして、その作品を書いた人について語れるわけがありません。騙るなら別ですけど。

 つまり、「谷崎潤一郎」も「川端康成」も「江戸川乱歩」も、「言葉」であり「記号」なのです。それでしかあり得ないのです。あなたも私もそうだと言えます。noteという場にいる限りにおいては、生身の人間ではないわけです。私はあなたに触れることはできません。でも、あなたの言葉になら「触れる」ことができます。それ以上でもそれ以下でもありません。

 そうなのです。ここでは、あなたも私も言葉ですね。嘘じゃありません。こ・と・ば。いま、私たちはめちゃくちゃリアルな話をしています。スーパーリアル、超現実主義、写実主義自然主義シュールレアリスム

        *

 おふざけはさておき、以上のように「SとM」にまつわるイメージは杜撰(ずさん)で、かなりいい加減なものですが、こうした例は他にも多々あるはずです。

 別に否定はしませんし、否定などできるわけがないのです。いろいろな解――正解ではなく解釈や解答――がある社会のほうが健全ですし、だいいち生きやすいのではないでしょうか。蛇足ですけど、ドゥルーズさんはそう言っていたような気がします。

 SでもMでもHでもXでもZでも、何でもいいです。気持よければ何でもいいとは言いませんが、言葉のもたらす多様な快と解に触れ、それを楽しみたいと思っています。

        *

 Aの振りをして実はBだったり、Cを求めながらDをほしい振りをしたり、それを相手が察してくれなかったり忖度してくれないと、大変なことになります。ひっくり返って駄々をこねる。切れてすごむ。すねまくる――。

 めんどくさいですよね。あなたはそんな人の相手ができますか? 普通はご免ですよね。

 大切な点は、そういう性格であるMの「お願い」が、縛ってくれだの、叩いてくれだの、罵倒してくれだのなのです。それでいて、そのお願いにうまく、つまりMの望むがままに応えるものでないと、切れるんです。「お願い」に見えて、実は「指示」であり「命令」なのです。めんどくせーっと思っているあなた、正解です。

        *

 しつこくて申し訳ありません。ただいま繰りかえした、以上の文章なのですが、何かに似ていませんか? 言葉です。言葉ほどMの資質を備えているものはこの世にないと思っています。とはいえ、言葉のせいではありません。言葉はヒトがつくった鏡なのです。鏡の国、そして不思議の国に住んでいるヒト。したがいまして、こういう状況を自業自得とも言います。

 そうなのです。ヒトはMの世界に生きているとも言えそうです。それを看破したジル・ドゥルーズはすごいです。特に『意味の論理学』のドゥルーズです。

 音であり文字でしかない、つまりきわめて抽象的な存在でもあり、言い換えると「外からやって来ている」言葉に、意味やイメージをになわせているのは、ヒトなのです。

        *

 言葉はめんどくさい。
 言葉の奴隷にはなりたくない。けど、なるのが人間。

 言葉を文字通りに取ると馬鹿を見る。
 辞書や文法書や文章読本や用字用語集や学術書に書いてない動きと表情をするのが言葉。

 言葉は不実でとりとめがない記号。
 言葉はうつろいつづける虚ろな記号。

 言葉のしっぺ返しは恐ろしい。常にダイレクトでリアル、ときにフェイタル。
 言葉には音と文字の他に実体がないのに。ヒトは「ないもの」に踊らされている。

 実は主導権は人間の側にはない。
 言葉を前にして、人間は奴隷と下僕になるしかない。
 
 言語活動はSMプレイ。※「プレイ」、ここが大切です。遊戯であり競技であり演劇なのです。


※この記事の姉妹編です。特にMとしての言葉については「「ふり」を装う身振り」という章で詳しく述べてあります。


*出典

 この記事は、過去のブログ記事(現在はありません)からの引用からなるパッチワークであり文供養です。