わかるは出来レース【引用の織物】

オバマさんとノッチさん

>「分かる(わかる)」=「別る」=「解る」=「判る」

 この「わかる」ですが、「知覚」と深い関係がありそうです。上の ○=○=○=○ をじっと見ていたら、ある言葉を思いつきました。

 分別

です。「ふんべつ」とも「ぶんべつ」とも読めるところが、実に、あやしい。何か、ありそう。何だろう? 

「分別(=ふんべつ)」とは英語で「 sense 」じゃありませんか。「 sense 」は、何と「知覚」という意味でもあるのです。

     *

*「 sense 」:名詞、動詞。

(1)感じる、つまり、「あん、あ~ん、うっ、おっ、うっふん、びくっ、ぴくり、ピクピク」って感じ。感覚、五感、知覚。本当は遠くにあるのに、「近(ちか)く」にあるって錯覚が知覚(ちかく)。第六感を含む説あり。

(2)本気かよ、正気かよ、つまり、「あんた、ここ、大丈夫?」「気は確か?」「あやうくない?」「マジか?」「 マジすか?」「おい、おれの声、聞こえるか?」「自分の名前を言ってごらん」という感じ。また、「意識・無意識」の意識の異も含む。

(3)感じ、感触、つまり、「とにかく、○○って感じなのよー、わかる?」「こう、何て言ったらいいか、○○って気がするだけど、わかるか?」「この肌触りなのよ、これじゃなきゃ、いや」「これだなー!」という感じ。

(4)サトリ、勘、つまり「ピンときたのよ」「 わからんか? まだまだ修行が足りんのう」「なるほどね」「ユーレイカ(※幽霊か?じゃないです、念のため、ただし、ちょっと似てます、言う人によっては)」「あんた○○してきたわね、ピンと来た」という感じ。

(5)理解、つまり「勉強になりました」「○○ちゃん、きょうは、がっこうで何をおそわってきたのかな~? ママに教えて」「ばっちりです、あす、数学で100点取る自信あります」「キミ、この論文、なかなかよく書けているじゃないか。これでケインズは卒業だね。はっはっはー」という感じ。

(6)分別、思慮、良識、判断力、つまり「やっとで、オトナらしいあいさつができるようになったわね、ママ、嬉しい」「市長、今年の成人式は、無事に済みましたね。おめでとうございます」「いいセンスしてるね、キミ(※これは、そのものズバリですね)」「さすが、日本経済に関する予測が的中したじゃないですか、今は大不況ですよ、先生、講演料で稼げるうちに儲けましょうよ」という感じ。要するに、無鉄砲、無軌道、乱痴気騒ぎ、でたらめ、無責任、「わかっちゃいるけど、やめられない」の反対って感じ。ただし、運にも左右されることあり。ちなみに common sense というのは「社会共通の分別」→「常識」で、この辺りに含まれます。

(7)意味、意図、つまり「××? 知りません。そんなことは、○○ちゃんには、まだ早いの。さあさあ、おやつ食べて」「何だって? そんなことは、辞書で調べなさい、パパは忙しいんだから」「紙の辞書持参って言ったでしょう? 電子辞書は、この授業では使用禁止です。で、○○さん、このセンテンスに出て来る sense の意味は、何ですか?」という、状況で必死に調べるものという感じ。また、「それ、どういう意味なんだ、ええ?」という意味での意味という感じ。

(8)価値、意義、つまり「ナンセンス= nonsense =ノンセンス=無意味=無価値=無方向=無軌道=わけわかんない=くだらない」などから、ネガティブな要素を除いたものという感じ。言い換えると、真面目、まとも、おもしろくないもの。要するに、赤塚不二夫ベケット、不条理、アホ、吉田戦車マザーグース、オヤジギャグ、ダジャレ、ギャグ、ルイス・キャロル、シュールなどと無縁なものやこと。

(9)世論、大方の意見、つまり、「た、大変です。△対▽で、ひ、否決されました、ソーリ。まことに、アイムソーリでございます」「○○するのに賛成が★%という調査結果が、××新聞の朝刊に出るという連絡が、バン記者の□□君から内密にケータイで入りました」というシーンが好例。

(10)方向、志向、指向性、方角、(数学におけるベクトルの )向き。自分、数学、苦手です。ここは、だいたい、こんなもんでしょう。

     *

 上で何をやっていたのかと申しますと、「わかる」という日本語の言葉と、英語の sense という単語のイメージを、sense の語義を大きめの英和辞典を見ながら日本語に訳すという作業を通じて、比較してみたのです。

 で、「分かった」ことは、

sense と「分かる(=わかる)」=「別る」=「解る」=「判る」は、かなり、かぶる、だぶる、重複する、

ということです。要するに、上に挙げた sense という語のイメージの中では、「分」「別」「解」「判」という漢字(=感字)が、やっぱり出てきたということです。

 念のために、日本語でも「わかる」のイメージを確認しておきましょう。

*「分かる(=わかる)」=「別る」=「解る」=「判る」

・「 分 」⇒ わける、バラバラにする、わきまえる、おのれを知る、わけて配る、デリバリー、というイメージですね。「 分別(ふんべつ) 」「 分解 」「 分離 」「 分裂 」「 野分 」「 分水嶺 」「 分析 」「 微分 」「 通分 」「 分類 」「 分家 」「 部分 」「 五分五分 」「 春分 」「 秋分 」「 身分 」「 分際 」「 区分 」「 分割 」「 分配 」「 分譲 」「 分担 」……

・「 別 」⇒ わかれる、バイバイ、さよなら、ちょぴりさみしい、離れる、他とは違う、ゴーイング・マイウェイ、ああ何と薄情な、わける、というイメージですね。「 別離 」「 死別 」「 別居 」「 送別 」「 餞別 」「 特別 」「 格別 」「 別格 」「 区別 」「 分別(ぶんべつ) 」「 判別 」「 大別 」「 差別 」「 千差万別 」「 識別 」「 鑑別 」「 別荘 」「 別個 」「 別記 」「 個別 」……

・「 解 」⇒ とく、バラバラ、わける、帯なんかをほどく、よかったね、ゆるゆる、どろどろ、自由にしてやる、バイバイ、余計なものを取り除く、脱がしちゃう、説明する、謎をとく、なっとく、わかる、なるほど、やっぱり、そうだったのか、というイメージですね。「 解体 」「 分解 」「 解剖 」「 和解 」「 溶解 」「 融解 」「 解放 」「 解禁 」「 解散 」「 解雇 」「 解毒 」「 解熱 」「 解消 」「 解除 」「 解決 」「 理解 」「 誤解 」「 難解 」「 不可解 」「 氷解 」「 解明 」「 読解 」「 明解 」「 詳解 」「 図解 」「 解釈 」「 見解 」「 解説 」「 解析 」「 解答 」……

・「 判 」⇒ わかる、ガッテン、なるほど、われる、明らかになる、白黒をつける、暴露される、さばく、けちをつける、ポンと押す、印をつける、というイメージですね。「 判断 」「 判別 」「 判定 」「 判明 」「 判読 」「 判決 」「 裁判 」「 判事 」「 公判 」「 審判 」「 判例 」「 批判 」「 談判 」「 評判 」「 判子 」「 血判 」……

     *

 まとめてみましょう。

*「 sense 」 : 中心となるイメージは、「気づく=感じる=あ~ん」。静的。控えめ。受動的。要するに「知覚する」こと。

*「わかる」 : 中心となるイメージは、「とく=ほどく=どれどれ見せてごらん」。動的。強引。能動的。要するに「解く」。

 以上を、言い換えると、「 sense 」はじっと堪えて、感じるのを待つ。感じたら、これまた堪えて、その「感じ」を維持しながら味わう。エロいですね。一方、「わかる」は、帯(おび)なんかを解いて脱がす。挙句には、素っ裸にする。

 やっぱり、「わかる」を、複数の漢字に直して確認しておいてよかったと思います。「 sense 」と「わかる」とは、似ているところもあれば、似てないところもある。つまり、ダブるところもあれば、ダブらないとこもある。ということが、わかりました。

 ところで、「 sense 」と「わかる」とは、どれくらい似ていて、どれくらい似ていないのでしょう? 似たものを挙げてみます。

 カレイとヒラメ、 区別できますか? タヌキとムジナは、どうですか(※自分は、区別できません)? カレーライスとライスカレー(※後者は、死語ですか、古い言い方ですか)はどうですか? アン・ルイスアン・ライス(※この人たち、ご存知ですか?)は? ブロッコリーとカリフラワー(※ちょっと、離れてきましたようで)は? haiku と俳句は? 野球とベースボールは? オバマさんとノッチさん。うーん。これだ、決まりました!

 オバマさんとノッチさん

くらい、「 sense 」と「わかる」は似ているし、似ていない。かぶるし、かぶらない。

 わかっていただけましたか? やっぱし、ナンセンスですか?

(「オバマさんとノッチさん」より)

 

*もしかして、出来レース

 今回は、

>「わかる」ってことは、いったい、どんな「仕組み=からくり」なのかを、考えてみたいです。

でしたね。じゃあ、ぼちぼちいきます。で、結論というか、いちばん大切だと思っていることを、先に書きます。

すべては、「わかる」ように出来ている、

のではないでしょうか? 「はあ?」と感じられる方が、たくさんいらっしゃると思いますので、説明します。ヒトは、生まれて以来、いろいろなことを学びながら、育ちますよね。「学ぶ」=「真似る」だという話を聞いたことがありませんか? 発音からして似ています、もんね。「まなぶ=まねる=まねぶ」。ダジャレっぽいですが、何となく、分かるような気がしませんか? 大昔から比較的最近まで、いろんな国々に生きていた哲学者(※哲学学者も含めて)たちだけでなく、数学者たちや物理学者たちにいたる人たちまでが、

ヒトは、忘れていることを思い出すだけだ、

分かっているのに、うっかりして、分かっていることに気づかないだけだ、

思い出したことを、悟りだとか、発見だとか、名づけて大騒ぎしているだけだ、

とか、

「自分は分かんない」ってことを知るのが、大切なことだ、

分かんないことは、分かんないんだから、言葉にできない、

ヒトには「わかる」ことの限界があるし、「わからないこと」にも限界がある、

という意味のことを、書いたり、言ったりしてきた。そして、それを他の誰かが読んだり、聞いたりして、書いたり、言ったりしてきた、らしいのです。

 自分は怠け者なうえに、忘れっぽいので、詳しいことは知りません。ですので、ただ「そうらしいのです」とだけ書いておきます。もっとも、上のような意見を述べた人は、少数派だという気はします。自分自身を、無知だとか忘れっぽいなどと認める、哲学者や哲学学者は、あまりいない、と考えられるからです。何しろ、お鼻が高い方々が圧倒的に多いみたいです。

 でも、もし上に書きつらねたような、哲学者や哲学学者や数学者や物理学者たちが言ったり書いたことが、「言えている=本当らしい」としたら、笑えませんか? 少なくとも、自分は笑っちゃいます。場合によっては、爆笑するかもしれません。だって、「やらせ」みたいなもんじゃないですか? 本当は「わかっている」のに、または「忘れた」だけなのに、「わからない」とか「難問・難解だ」とか言って、額にしわを寄せ深刻そうに、のたまうなんて。これって、

もしかして、出来レース

うっかり者たちの出来レース

「やらせ」「出来レース」「八百長」までは言わなくても、ほんの少し忘れっぽいからだ、と言えば笑えませんけど、さもなきゃ笑っちゃいますよ、やっぱり。

 要するに、「わかるということ」について、以前から不思議だと思っていたことは、

「わからない」って本当?

っていう、疑問なんです。ちょっと、ここでお断りしておきますが、今問題にしているのは「わからない」であり、「知らない」ではありません。両者はかなり似ていますが、違います。「知らない」については、いつか書きます。で、「わからない」ということですが、これは、「!?」ということですから、当然のことながら、この文章を書いている自分にも、わからない。つまり、疑問。要するに、忘れちゃっている! 「えっーと、えっーと、何だっけ」状態なわけです。なお、笑っちゃいますよね。

 ただし、この疑問については、頭と体の中を整理する必要があるので、後日、できれば、あすにでも詳しく書きたいです。マラルメさんとアツノさんに、ご登場願わなければなりません。きょうは、お二人とも、お忙しいそうです。ですので、いちおう、

 ここまで書いたことのポイントを、箇条書きにしてまとめます。

(0)ヒトは、わからないことを、わかると信じているらしい(※これが、原点です)
(1)ヒトは、わかることしか、わからないらしい(※これじゃ、身も蓋もないですね、ちょっと細工をしましょう)
(2)ヒトは、わかっていることしか、わからないらしい(※少し、元気が出ませんか?)
(3)ヒトは、わかっているのに、とぼけているらしい(※何だか、悪者にされた気分になりますね、じゃあ、こんなのは、どうですか?)
(4)ヒトは、わかっていたことを、忘れているらしい(※いくらか責任が軽くなった気がしませんか?)
(5)ヒトは、わかっていたことを、忘れそうになっているらしい(※いくぶん救われた気持ちになっていただければ幸いです)

 以上です。

(「もしかして、出来レース?」より)

 

マラルメ師のサイコロから偶然と必然をまなぶ

 定型詩って、お聞きになったこと、ありませんか? 難しいことじゃありません。ほら、「5・7・5プラス季語」の俳句という、定型詩。「5・7・5・7・7の三十一文字(=みそひともじ=アラサー)」の短歌という、定型詩。この国にも、昔からありますよね。苦労して音節の数を合わせて、「できたー!」なんて言って喜ぶ。あれ、です。

 ただ、フランスや、他のヨーロッパの国々の定型詩の場合には、「韻を踏む」とか、「音節の数を合わせる」とか、ちょっとややこしいんです。自分も大学時代に、英語やフランス語の詩を、授業で読まされたり、暗唱させられたりしました。慣れると、母語でないにもかかわらず、それなりに「口に出して読んでみると、心地よいなあ」という気分の一端に触れることができます。「韻を踏む」は、漢詩にもあるんですけど、覚えていらっしゃいませんか? 個人的には、ちんぷんかんぷんでした。このダジャレって、漢語=中国語と関係あるらしいのですが、漢文で苦労した自分には、そのダジャレの「わけ分かんない」イメージが分かるような気がします。

 ここまで話したのですから、思い切って「韻を踏む」と「音節の数を合わせる」っていう、ヨーロッパの定型詩の「一端=ちょっとだけよ」に触れてみましょう。

 で、「韻を踏む」と「音節の数を合わせる」ですが、自分は専門家ではないので、自分なりにリフォームして説明いたします。ただイメージだけ(※ちょっとだけ)、感じ取っていただければ、それでけっこうです。例を挙げて、やってみますね。では、いきます。

(例1)

  セブン        (3)
  イレブン       (4)
  イイキブン       (5)

(例2)

  スカット      (3 or 4)
  サワヤカ( ka )    (4)
  コカ( ka )      (2)
  コオラ( ra )      (2 or 3)

 上の2つの例を見て、なんとなく、分かるような気がしませんか? どれも、

語呂がいい。覚えやすい。

 この記憶しやすいということが、ポイントです。そもそも、暗唱しやすいように、「韻を踏む」と「音節の数を合わせる」という定型が作られたという話です。詩はもとは口承文学(※口づてに語り継がれ歌い継がれてきた神話や昔話や詩歌)だったようですから、その名残でしょうか? 

 で、(例1)の「ブン」「ブン」「ブン」っていうのは、完璧に「韻を踏んで」います。(3)(4)(5)は、音節の数です。(例2)の場合には、( ka ) ( ka ) ( ra )と、( a )が共通していますね。こういうのも、ありです。「韻を踏んで」います。

 ちゃんとした定型詩の場合には、たとえば、「ブン」「ブン」「パラ」「パラ」「ブン」「ブン」とか、「ブン」「パラ」「ブン」「パラ」「ブン」「パラ」みたいに、きれいに並びます。すごいですね。ダジャレと同じくらい、作るのが大変そうですね。ダジャレと「韻を踏む」は、基本的に同じ作業だと勝手に理解しおります。

 ただし、(例1)(例2)ともに、音節の数は不ぞろいです。ちゃんとした定型詩では、音節の数をそろえなければ、ならないんです。上の例のような短い詩がヨーロッパにはあるわけないみたいですから、音節の数は、10とか20くらいはざらにあったと記憶しておりますが、正確なことはすっかり忘れました。いずれにしても、オヤジギャグと同じくそれなりの苦労がありそうです。

     *

 以上、すごく大ざっぱに「韻」と「音節の数」をそろえるということを、説明しました。専門家からは、「この、でたらめやろうが!」と罵倒されそうです。ここでは、イメージだけ何となくつかめばいいのですから、悪態をつかれても知らん顔しておきます。

 でも、不思議に思いませんか? どうして、上で書いたみたいに、「韻」と「音節の数」をそろえるのに、血道をあげたり、中には命をかける人もいるんでしょう? 理由は2つくらい、ありそうです。

 1つは、さきほど述べたように、口調をよくして記憶しやすくする、ためです。起源が、口承文学ってやつだからです。確かに、「セブン、イレブン、イイキブン」なんて、語呂がよくて「いい気分」になり、しかも覚えやすいですね。それは、納得できるような気がします。

 2つめの理由は、そういうダジャレ、いや、「芸=技=テクニック」が上手だと、尊敬されるそうなんです。「わざ」とらしさが、「芸」や「術」になる。ふーん、そんなもんですかね。

 マラルメの話に戻ります。以上見てきたように、ヨーロッパの定型詩には、面倒くさい約束事があります。俳句や和歌(わか)を考えても、「わか」るように、偶然性= accident =アクシデントに左右されます。運にも左右されます。難しく言うと、偶然と必然の間を彷徨(ほうこう) (=うろうろさまよう)するわけです。

 偶然と必然

 哲学っぽいですね。「存在と無」みたいに。で、マラルメって人は、偶然性と必然性とに、非常に意識的だった詩人なんです。あれほど、偶然と必然にこだわって詩作=思索=試作した人はいなかったんじゃないか、なんて思ったりもします。ウィキペディアで「マラルメ」を検索して、ざあっと目を通せば、だいだいの感じがつかめます。それだけで十分です。考えて読んじゃ、駄目です。

 偶然と必然っていうと難しそうに聞こえますが、簡単に言えば、ダジャレやオヤジギャグも、偶然と必然の間で、おろおろ、うろうろしながら、作ります。賭け事=ギャンブルも、同じです。ギャンブルの達人には、偶然の中に必然を読む特殊な才能がありますね。うらやましいなあ、格好いいなあ、なんて自分は思います。イ・ビョンホン主演の、ギャンブラーの生きざまをテーマにした韓国ドラマを見ての感想ですけど、この気持ち分かっていただけましたでしょうか?

 ものすごく単純化して説明します。サイコロを振ったとします。2の目が続けて2回出て、その次に3の目が3回出たと仮定しましょう。2233ですね。あるいは、最初に2の目が出て、次に3の目が出て、その次に2が出て、さらに3が出たとします。2323ですね。すると、「にーにーさんさん」「にーさんにーさん」という2つの「おにいさん」というタイトルの短い詩ができたことになります。

 馬鹿みたいな説明ですが、そんな感じです。

     *

 で、サイコロだと、そうした目が出る確率はかなり低いでしょう。でも、サイコロの目が語の数くらいたくさんあったと考えてください。韻を踏んだり、音節の数を合わせることのできる確率は、相当高いのではないでしょうか。そう考えると、ヨーロッパでおびただしい数の定型詩が作られてきたのは、当然だという気がします。何しろ、サイコロを振った場合には、6つの目のいずれかしかでないのに比べ、

言葉=語という「サイコロ」(※言うまでもなく比喩です)を振る

ならば、韻を踏み音節を合わせた語の連なりなど、本物のサイコロに比べれば、比較的簡単に定型詩を作ることができるはすです。

定型詩を作る行為とサイコロを振る行為の共通項=偶然と必然とのからみ合い=マラルメがこだわったこと

とは、そんな感じです。以上は、ど素人の与太話でした。

     *

 で、言葉が「書ける」という不思議ないとなみが(※よく考えると不思議じゃありませんか? えっつ、ぜんぜん不思議じゃない? 失礼しました)、「賭ける」(=ギャンブルをする)に限りなく近いということに関しても、マラルメほど意識的な詩人はいなかった。何しろ、「エイヤッ」とサイコロを振る名人ですから。いきなりですが、

カジノ資本主義

って、言葉をお聞きになったこと、ありませんか? このブログでは、「投資って何だろう? お金って何だろう?」2009-01-12という文章で、ちょっとだけ触れました。自分は、経済や経済学には、めちゃくちゃ弱いのですが、

カジノ資本主義というのは、資本主義がいくところまでいっちゃって、ギャンブルみたいにゲーム化しちゃった。

そんなイメージで勝手に理解しています。また、

ケインズの経済学の研究と、ケインズの株式狂いとの関係は、投資と投機(=ばくち)との関係によく似ている。

つまり、両ペアは酷似=激似=ほぼ同じ、と勝手に理解しています。ですので、そうした素人の出まかせとして、この続きを読んでいただきたいのですが、よろしいでしょうか?

     *

で、思うんですけど、やっぱり資本主義って、やりすぎではないでしょうか? 金融工学証券化か投資か市場か相場か、何だか知りませんけど、ギャンブルしてません? どさくさにまぎれて小細工していません? 素人を馬鹿にした玄人が、人の褌(ふんどし)で相撲をとっていません? 一部の人だけが甘い汁を吸っていません? 国同士のレベルでも国民間のレベルでも、貧富の格差が大幅に拡大してきていません? でも、いったん始めちゃったし、世界中に広まってしまったし、中国までやってるし、イスラム圏もやっているし――もう、降りられない状態になっちゃっているのでは、ないでしょうか? ヒトは、本質的に、

ギャンブル依存症

では、ないのでしょうか?

     *

 都合により、ここで、変調します。これから先、多少、ノイズが入りますが、気にしないで読み進んでください。

*やっぱり、出来レース、やらせ、八百長らしい。気づいているくせに、あるいは、気がついていないふりをして、または、すっかり忘れて、やらせを本当だと思いこんでいる、もしくは、思いこもうと自分をだましている。

*ある種のスポーツ(※あえて、名指ししません)や、ある種のテレビ番組(※あえて、名指ししません)と同じです。嘘、作りもの、フィクション、編集済み、情報操作されたもの、筋書きなしに見せかけて本当は筋書きがあるもの――そういうものを見て、ヒトは何とも思わなくなっている。心の底では、嘘だと分かっていても、嘘だと思うと楽しめないから、「ただ見ている」。実質的傍観者状態。重度の思考停止状態。

*悪いと分かっている、間違っていると分かっている、正しくないと分かっている、正直じゃないと分かっている。とどのつまりは泥棒や搾取だと分かっている。でも、都合が悪いから、そういうことは忘れる、あるいは、忘れたふりをする、または、すっかり忘れてしまっている。

*思い出そうと努力すれば、思い出すことができる、学び直すこともできる、再発見することもできる、「分かった!」と叫ぶこともできる。そうなのに、忘れている。思い出そうとしていない。そうした気迫も努力もみられない。都合が悪いから、必要がないから、という言い訳が心の奥底にある。

*へたなことを口にしたり、実行に移すと、他のヒトたちから、寄ってたかっていじめられたり、場合によっては、消されるから、思い出さないし、分かろうともしないし、実際に忘れてしまっているし、分からなくなっている。

*「分かる」は「分ける」ことだから、見えたり手にしているものは断片だけ。細切れ状態。要するに、現実も事実も真実も、まだらにしか分からない。「分かる」「分からない」ということは、ふるいにかけて、選(よ)り分けること。そのふるいに、かからないものは、分からない。そういう仕組みになっている。

*ヒトは、まだら模様の世界を見ている。おそらく、そのまだら模様はヒトに共通している。だから、ある程度、話が通じる。ただし、通じ合えないこともかなり多い。ひょっとすると、相手に通じているという認識は、個人レベルの錯覚かもしれない。

*ヒトは、知覚され記号化され信号化されデジタル化された情報を、シナプスとかいう導線と回路を通して、まだらに脳で処理している。その導線も回路も、無限ではなく有限の質と量のものしか通さない。ノイズは、抑制されている。そうやって、脳の過熱による機能不全を防ぐ仕組みが存在する。それでも、ノイズは駆逐できない。除去できない。

カジノ資本主義というものは、上に書きつづったヒトの行動とすごく似ている。激似。酷似。かなりの部分がダブっている、かぶっている、そっくりと言ってもいい。

*答えが最初から出ている、出来レース。筋書きが最初からある、やらせ。何か黒い目的があって仕組まれている、八百長

*すべてがぴったり当てはまり、すべてが正しいとされ、すべてが分かるような仕組みができている。「分かる」は言葉、ヒトが勝手に自分を基準にして決めたもの。だから、「分かる」と「分からない」とは反意語ではなく、表裏一体。観測者の位置によって見え方が変わる、玉虫色。

*真理や実体なんて、哲学や科学の出来レース。それを支えているものが、表象という名の代理人。何でも代行屋さん。まいどありー。おおきに。儲けさせてもらっております。

*Aだと思っているものは、括弧にくくられたA、つまり「A」。それを、(括弧なしの)Aだと思いこんでいる。さもなきゃ、人間=ヒトなんて、やってられないよー。確かにね。その通りだ。それこそが真理だ。トゥルースだ。ヴェリテだ。誰も否定できない真実だ。

*だから、大丈夫。このままで、大丈夫。「仕組み」とか「からくり」なんて、ちゃちゃを入れる、ふざけたやつは、くたばってしまえ。二葉亭四迷浮雲。そんなやつは、人間様じゃない。ひとでなしだ。

     *

 とにかくヒトには出来レースが多すぎやしませんか? その原因は、Aの代わりに「Aではないもの」を代用するという、「表象の働き」にほかならない。代用品を使っているから、ぶれるし、ずれる。これ、当たり前のこと。カツラと同じ。

 だから、「表象という仕組み」をかかえて生きるしかない、偶然と必然の間で「うろうろおろおろ」するしかない、こうしたヒトのギャンブラーぶりを、このブログでは、

カジノ人間主義

と呼ぶことにします。 Casino-Homo-sapiensism 。カジノ・ホモ・サピエンシズム。そんなことを言っている自分もヒトの子ですから、さっきから、あちこち、ぶれています。ぶれまくっております。標的は狙っているつもりなのですが、ぶれて、ずれて仕方ない。このへんで、ブレを修正し、「分かる」「分からない」に的を絞ります。

     *

 では、軌道修正します。

*知覚:とりあえず、必要のあるものしか知覚しない。都合の悪いものは知覚しない。たとえば、「見る」「聞く」という行動が、いかに選別と排除に満ちたものであるかは、誰もが日々体験している。テレビを例にとれば、すぐに分かる。画像と音声が伝える全情報を、視覚と聴覚が残らず知覚していたら、そのヒト、頭=脳が爆発してしまうでしょう。

*知る:ゲーデルさんの何とか定理や、ヴィトゲンシュタインさんのつぶやき集を持ち出すまでもなく、ヒトの知にはリミットがある、枠がある、囲いがある。つまり、知ることが可能なことしか、知ることはできない。ひっくり返して言うなら、知ることができることだけ通す、便利な「回路=ふるい」が存在する。それ以外のものは、通しません。でも、どういうわけか、ノイズというものが入り込む。どうやら、ヒトの「分かる」は欠陥品らしい。とはいうものの、リコールや回収してくれる存在が見当たらないため、「ま、いっか」でやるしかない。

* 学ぶ:これは、手垢の付いたダジャレ=語源に習えば、「まねる」ことである。赤ん坊のころから、ヒトは真似が実にうまい。真似られないことは真似ない習性が、しみこんでいる。三つ子の魂百まで。人類は、みな、きょうだい。だから、水中でエラなどつかって、「生きる=息る」真似など、できっこないのは、先刻承知。仙石イエス。やっぱり、都合のいいこと、必要なことしか、ヒトは学びません。

 何しろ、ヒトは、賢くて抜け目がないのです。

(「カジノ人間主義」より)

 

*赤ん坊も「賭けたり」「占ったり」している

 賭け事や占いが好きか、と尋ねられたとしましょう。好きにしろ嫌いにしろ、答えるさいに、何か気おくれに似た気持ちをいだきませんか? 就職試験の面接、または、多くの人たちを前にした公の場で、「はい、好きです」と素直に答えられるでしょうか。うーん。仮に好きだとしても、勇気が要りますね。どうしてなんでしょう。賭けは博打(ばくち)、占いは迷信といったステレオタイプ化したマイナスのイメージがあるからかもしれません。

 ただ、それだけではなく、もっと深いところに「気おくれに似た気持ち」の源があるのではないか、と考えています。賭けと占いとは、多分に似たところがあるように思えます。「好きだと他人に言っても、ぜんぜん、後ろめたさは感じないよ」と、おっしゃる方もいらっしゃるにちがいありません。残念ながら、多数の人に尋ねて回った経験はありませんが、おそらく、大多数の人が、賭け事と占いが好きだと他人に言う場合に、何か気おくれを感じるのではないか。そういう想定のもとに話を進めてみます。

     *

 さて、

*「賭ける」と「占う」の背後=根底には、「負ける」=「降伏」と「任せる」=「服従」がある。

のではないか、と考えています。では、何に「負け」、何に「任せる」のでしょうか? 「負ける」と「任せる」が語源的につながっているのかどうかは、手元の辞書で調べたかぎりでは、よく分かりません。ただ、「自分の身をゆだねる」という点で、きわめて接近した意味があるように感じられます。というわけで、

*何に、自分の身をゆだねるのか?

と言い換えて考えてみましょう。これは、それぞれの人が何を信仰しているかにも、関係がありそうです。ただし、この国は、一神教が生活・文化・政治などあらゆる面で、強い影響力をもつ濃密な風土にはありません。年末年始に、キリスト教の教会、神社、お寺を平気で「はしごする」という、宗教的には希薄な風土が存在する国です。欧米でも、占いに関しては、自分の信仰する宗教とは違ったレベルで接するヒトたちがほとんどのようですから、賭け、占い、宗教をあまり強く結びつけて考える必要はないかもしれません。

 賭けと占いにおいて、何に自分の身をゆだねるか? ですが、こんな答えが予想されます。

*神、神々、仏、先祖、霊、教祖、超越者、天、イワシの頭、宇宙、宇宙の摂理、人知を超えた力、運命、カルマ、確率、あるいは「無」……。詳しくはないのですが、たとえば、競馬、宝くじ、血液型占い、星占いにおいては、お馬さん、数字、血液型、星の運行自体

に、自分の身をゆだねるというよりも、そうした

*表面に現れている=表れている現象や物事

そのものではなく、その

*背後にある「何か」

に身をゆだねているという気がします。

 背後にある「何か」に、身をゆだねるとするなら、これは大変なことです。「背後にある」のですよ。「何か」なのですよ。これじゃ、「わけが分からない」ではありませんか? それこそ、

*背後にある「何か」そのものが、賭けと占いの対象になり得る。

というギャグみたいな状況になるような気がします。いや、ギャグというより、見方を変えれば、

*初めに「負ける」「任せる」ありき。

とも言えそうです。

 つまり、

*初めから負けっぱなし=全面降伏

ということです。圧倒的に「強い・崇高な」存在。こうなると、対処するための切り札は1つしかありません。

*信じるのみ

です。

 ありゃー、という感じです。このレベルになると、絶句、つまり、どんなに言葉を重ねても意味はない事態となります。言うことなし。問答無用。出口なし。行き止まり。思考停止。エポケー=判断中止。ここから先へ侵入するべからず。おしまい。ピリオド。

 それくらい、「信じる」という行為は強い。手強い。どうにもならない。なすすべがない。でも、これって、ヒトにとってはなくてはならない「いとなみ」=行動=心理ではないでしょうか。計算式を立てるなら、

*ヒト - 「信じる」 = O = ゼロ(何も残らない) = ヒトでなし

と表しても、算数のテストで◎をもらえるのではないか、という気がします。

 この場合の「信じる」は、かなり広い意味にとってください。宗教的なレベルだけの話をしているのではありません。無神論者でも、生後間もない赤ちゃんでも、状況は同じです。「意識する」=「知覚する」に近いレベルまで含むものとして、「信じる」を広く考えましょう。すると、

*生後間もない赤ん坊も、「賭けたり」「占ったり」している。

と言えるように思います。

     *

 一昨日まで、「信号」と「信号論or信号学」というツール=玩具をつかって、いろいろなことを考えたり、いろいろな現象に当てはめる=つなげる=こじつけるという「お遊び」=楽問=ゲイ・サイエンスをしていました【※「スポーツの信号学(1)」から「信号論(3)」ですが、安心してください。過去の記事をお読みにならなくても分かるように書きますので。】。慣れない「学問ごっこ」をして、しんどかったことは確かですが、とても面白かったことも事実です。そこで、この「かく・かける」シリーズでも、「信号」という言葉をぜひ使いたいのです。たとえば、

*生後間もない赤ん坊は、さまざまな「信号」を相手に、「賭けたり」「占ったり」している。

みたいに使いたいのです。

 そこで、今後このシリーズで使いそうなツールを、ここで説明させてください。お断りしておきたいのは、以下に挙げる三語は、別個のものであるというより、森羅万象を対象にした「切り口」=「切り分け方」だということです。そして、その「切り分ける」作業に先立ち、「目的」があることが重要な点です。

(1)「表象」:「Aの代わりに「Aでないもの」を用いる」という代理=代行という働き=仕組みを利用したい場合に使用する。森羅万象が「表象」になり得る。

(2)「トリトメのない記号=まぼろし」or「記号」:「そっくりなものがずらりと並んでいる」 and 「そっくりなものが他の場所にも数多く存在する可能性がある」 and 「お母さんのコピーとして生まれたものの、お母さんの権威や支配とは無縁で、いわばコピーのコピーとして存在している」という特性を強調したい場合に使用する。森羅万象が「記号」になり得る。

(3)「ニュートラルな信号」 or 「匿名的な信号」or「信号」:「ノイズと熱が常に存在する環境において、「まなざし=合図」の発信と受信が、一方的、または双方的に行われる」というメカニズムを問題にしたい場合に用いる。森羅万象が「信号」になり得る。

 以上のツールのなかで、さっそく使いたいものがあります。「表象」です。

 半端じゃなく強い存在に、ヒトは太古から気づいていたふしがあります。その圧倒的に強い「何か」(※いろいろなヒトたちがいろいろな名で呼んでいるので、中を取って中立的に「何か」と呼んでおきます)対して、大昔のヒトたちはどう対処してきたでしょうか? 歯向かうとか、戦うなんて、馬鹿なことはしませんでした。なかには、そうしたお馬鹿さんもいたでしょうが、ここでは無視します。

     *

 この問題について、「1カ月早い、ひな祭り」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)という記事のなかに、「占い」と宗教の発生がらみで書いた部分がありますので、横着をして、自己輸血=自己引用=コピペをさせてください。ちょっとおふざけ気味の文体ですが、それは内容のシリアスさを薄めるためです。本気で書いたものですので、そこのところをご理解願います。

     ★

「 ひな壇 」とピラミッドは、司法・立法・行政には付きもの。代理、代行、代議士、代表、総代が、うようよ。ハンコぺたぺたのペーパーワーク。このへんが不明の方は、当ブログのバックナンバー、「 あなたなら、どうしますか?」 、「 やっぱり、ハンコは偉い 」 を参照、願います。面倒な方は、このまま、引き続き、どうぞ。「 ひな壇 」は「 虎の威=衣 」とセットで、クラス分け、棲み分けして、暮らすわけ。これが代々続けば、二世、三世、そして、世襲。仲間うちで譲ったり、譲り合えば、天下り、渡り、渡る天下に鬼はなし。

 蛇足ながら、「 虎の威=衣 」は「 虎の位 」であり、ピンからキリまで、枚挙にいとまなし。フェイクファーのパンツから、スマトラ産の超高級品の上下一式の被り物まで、多岐にわたる。引退後は、民間人をさておいて、真っ先に褒章、勲章までもらえる。ワッペン張って、大威張り。首から下げて、涙腺を緩めるのが、最後のご奉公。なんでこれがご奉公? 公僕、最後のご奉公? ここまで来ると、もうめちゃくちゃではないか? それなのに、庶民が一揆を起こしたり、騒がないのも、究極には「 表象の働き 」の奥深さがあるのではなかろうか? もっと考えてみたいけど、きょうは、それ以上考える暇なし。貧乏暇なし。なぜか、突然、なるほど、

「 タモちゃんのお代理様 」

は、やっぱり言えている、と思う。

 言えてるどころか、きっと、そうに違いない。「 でまかせ 」ではなく、「 言えている 」とか「 きっとそうだ 」にしてもいいでしょうか、偶然と必然のオーソリティー(= 権威 )だったマラルメさん? ここで権威にすがる自分が、情けない。それはともかく、ヒトよりも、もっともっと偉い存在がいて、ヒトはその代理を務めたいという、願望、欲求、祈り、野望、をもっているのではないでしょうか、マラルメさん? Aにはなれないから、Aの代わりを演じます。Aみたいな顔をしてみます。Aの仮面をかぶり、表情をまね、ときにはお化粧もし、かつらも付けたりもしてみます。

 どうです、似合うでしょう? 様になるでしょう? だって、これだけ化ければ、○○様なんて、呼ばれるんですもの。偉く見えるんですもの。いいじゃないの。

 という具合に、偉く見えるから、崇め奉られる。ちやほやされる。甘やかされる。

 「 どうか、雨が降って豊作になりますように 」、「 作物が駄目にならないように、大雨が止みますように 」、「 ニワトリとブタが増えますように 」、「 隣村の馬鹿どもが攻めてきませんように 」、「 今度の戦( いくさ )に勝てますように 」、「 あいつとの賭けに勝てますように 」、「 おとうさんの怪我が早く治りますように 」、「 娘がいいところにお嫁にいけますように 」、「 亡くなったあとに天国に行けますように 」、「 元気が出ますように 」

 「 お任せあれ。任せとき。だいじょうぶ。ところで、あれは、ちゃんと用意しているかな? このあいだは、ちょっと少なかったぞよ 」

 万が一、でまかせが当たらなかったり、何かとんでもないことが起きて、都合の悪くなったときには、仮面を外し、お化粧を落とし、表情をしおらしくして、かつらもとって、わたしは代理ですと言って責任を転嫁すればいい。または、「 あんたの信心がたりんからじゃ 」と、これまた、責任を転嫁すればいい。「 代理人 = 代行者 」は、気楽で、いい商売だわい。

 これは便利。超便利。魔法みたいに便利。呪術みたいに便利。イッツ・ア・マジック。マジでマジック。マジで絶句。ヒューマニズムよりも、シャーマニズムコミュニズムよりも、キャピタリズム。デモクラシーよりも、ビュロクラシー。

 ★から、以上までが、引用部分です。

     *

 宗教と、占い=預言=予言と、半端じゃなく強い「何か」の威=衣を借りて、他のヒトたちの上に立つという「政(まつりごと)=支配体制=政治」の成立というシリアスな問題を、紙芝居的に描いたおとぎ話です。きょうのテーマの一つである、「占い」のメカニズムもご理解いただけたのではないでしょうか。

 さて、今度は、歴史ではなく、一個のヒトの成長という視点から、特に「赤ちゃん期」に注目しながら、考えてみましょう。

*生後間もない赤ん坊は、さまざまな「信号」を相手に、「賭けたり」「占ったり」している。

に話をもどします。

 健常者の赤ちゃんは、さまざまな形の「信号」を、主に五感、および第六感(※もし、そのようなものがあればですけど)を総動員して、発信し、受信=知覚しています。そのさいに、

*赤ん坊は、「賭け」と「占い」という行為のなかへと、否応なしに、いわば「投げ込まれている」。

と言えそうです。

 それほど、ヒトの赤ちゃんという存在は無力なのです。

 生後 or 孵化後、数時間で、オトナのミニチュアのような容姿となり、立ち上がったり、動き回ったりする、たとえば、お馬さんの赤ちゃんや、イカさんの赤ちゃんを思い浮かべれば納得できると思います。もちろん、程度の差はあります。ある期間中、お母さんの腹部にある袋(=育児嚢(いくじのう))で保護されているカンガルーさんの赤ちゃんや、巣の中で毛の薄い頼りなげな姿で巣立ちまで過ごしている鳥類の赤ちゃんも確かにいますね。

 なお、ヒトの赤ちゃんの「よるべなさ=無力さ」には、「ネオテニー(=幼形成熟」という現象が関係しているという説があるそうです。語弊を覚悟で申しますと、ヒトは「早産」し、子を「未熟児」として産むということらしいです。だから、自立するまでに長期間を要するという理屈みたいです。このへんの事情については、他の問題とからめて「交信欲=口唇欲」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)、「オバマさんとノッチさん」でも少しだけ触れましたので、ご興味のある方は、ご一読ください。

     *

 さて、ヒトの赤ちゃんが「賭けたり」「占っている」というのは、「ニュートラルな信号」を「合図」という形で発している、つまり、「オギャー」と叫んだり、笑みを浮かべたり、じっと「まなざし」を向けるという具合に発しているのは、オトナの目から見て、

*期待=欲求というメッセージ

を送っているという意味です。

*期待と欲求は、これから先の出来事に向けられている。

と考えれば、「賭ける」「占う」との関連が分かると思います。

 次のようにも言えるでしょう。

 たとえば生後三か月の赤ちゃんに意志がや意思があるかは尋ねたことがないので知りません。そのよるべない無力な赤ちゃんが泣いたり笑みを浮かべているのですから、これは偶然と必然の中に投げ込まれているようなものです。

 赤ちゃんの泣き声と笑みがまわりの大人たちに信号を送って、その身返りとして赤ちゃんはお乳をもらったりおしめを替えてもらうことができるのかは、赤ちゃんにとって賭けなのです。

     *

 ここで大切な点は、

*期待・欲求 → これから先の出来事=未来の出来事 ← 予測・予想

と図式化するさいに用いることも可能な、「→」と「←」という符号=「信号」にあります。何を言いたいのかと申しますと、

*「→」と「←」という符号=「信号」は、「向き」=「方向」を示している。

という点が大切なのではないか、ということなのです。

 さきほどの「信号」の定義で、森羅万象が「信号」になり得る、とあったのを思い出してください。「→」と「←」も、立派な「信号」です。「向き」=「方向」を示しながらも、それ自体は「ニュートラル」な「長短の3本の線の組み合わせ」でしかないのです。

*たとえ何かのメッセージを担おうと、「信号」は、あくまでも「ニュートラル」であり、「匿名的」なものである。

という特性は、いくら強調してもしすぎるということがないくらい、重要です。言い換えると、そうではないと思われやすいということです。

 「信号」がニュートラルだとは、「信号」が無色透明かつ中立的な存在であり、赤ちゃんの意思や意志とかは本来は無関係だいう意味なのです。

 すべての赤ちゃんが、グッドタイミングでお乳をもらったりおしめを替えてもらっているわけではありませんね。事故や育児放棄や虐待や貧困や災害を考えると想像できると思います。世界的なレベルで考えるとさらに分かると思います。

 赤ちゃんは運と偶然の中で、その意志や意思に関係なく「賭け」ている=「賭け」を余儀なくされているのです。実は大人もそうではないでしょうか? 話が大きくなるので大人については今回は追求しません。あなたのその願いと祈りは届いているでしょうか? 報いられる=身返りを得る=実現することができるでしょうか? とだけ言っておきます。いっしょに考えてみませんか?

     *

「信号」の担う「メッセージ」が、「色づけ=意味づけ(=ニュートラルではない)」され、「ある特定の目的を志向する(=匿名的ではない)」ということは、「信号」が然るべき「経路」へと「向かう(=「→」と「←」)」という点においてのみ、「意味」があり、「必然性」が認められるという、「きわめて不安定な基盤」に立っているのです。もちろん、それとは逆に、これを「安定した基盤」に立っているとみなす考え方もあるでしょう。

 でも、ヒトの赤ちゃんを例に取れば、現在の日本という国の比較的恵まれた好条件=好環境を基準にするかぎりにおいて、「安定した基盤」に立った「信号のやりとり」を行っていると言えるにすぎず、この惑星の圧倒的多数のヒトの赤ちゃんたちと、ヒト以外の生き物たちの赤ちゃんたちと比べた場合には、きわめて「きわめて不安定な基盤」に立っていると言ったほうが、残念ながら、適切だと思われます。いわゆる

*生存率という確率

を思い出してください。いかに、赤ちゃんの「賭ける」と「占う」が危ういかが体感できるかと思います。

     *

 このように、

*「ニュートラルな信号」が、然るべき「経路」にまで「向かう(=「→」と「←」)」過程をとらえるには、確率というツールが不可欠になる。

と言えそうです。事態はそれだけにとどまりません。ここで、「信号論(3)」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)で利用した、きわめて大雑把な私的「カンニングペーパー」を、コピペさせてください。

A:ノイズ+熱 ⇒ ニュートラルな「信号」 : 合図・視線・まなざし・表情・刺激
   ↓
B:ノイズ+熱 ⇒ 経路・通路(光・電波・波動・電線・管・ニューロンなど) : 線・糸・揺れ
   ↓
C:ノイズ+熱 ⇒ 回路・知覚器官・知覚組織・解読版・グリッド : 色づけ・分ける・知覚・見る・解読・解釈・識別 : 網・濾過記=フィルター・カメラ・マイクロホン
   ↓
D:ノイズ+熱 ⇒ スクリーン・膜・細胞・機械・器械・画面・スピーカー・発信装置=受信装置 : 幕・器
   ↓
E:ノイズ+熱 ⇒ 映像・音声・震動・運動・動作 : 動き・まぼろし・イメージ
   ↓
F:ノイズ+熱 ⇒ 賭け・ギャンブル・偶然(accident) / 成功=不成功・当たり=外れ・作動=誤作動・正常=異状or異常・順調=不調・OK=エラー

 上の図を見ていると、話がしやすいのです。正確さという点からは、まったく信用できない「トンデモもの」ですが、このブログ自体がいわゆる「トンデモ本」の親戚の「トンデモブログ」みたいなものですので、恥を忍んで掲載させていただきます。

 さて、いったん発信された「ニュートラルな信号」は、上図のAからEまでの全過程において、確率に大きく左右されています。

*「信号」の「ニュートラル性」とは、「信号」が常に確率に左右されている状態だ、と言い換えることができる。

とも言ってもよい、とさえ考えています。

 正直申しますと、自分は確率・統計は大の苦手なのです。かつて一種の売文業をしていた頃に、仕事上、どうしてもこの分野の知識を使わざるを得ない事態に陥り、三冊の参考書をもっていますが、今読んでも、さっぱり分からないのです。こういう場合には、「確率」と書いてあっても、比喩であったり、お飾りであったり、はったりであったりしがちですので、せいぜい、「比喩」くらいで使っているのだと理解してくだされば、幸いです。

(「かく・かける(1)」より)