わかるはプロセス【引用の織物】

*連想ゲーム・和英辞典を使う

*わかる・しる・さとる・とらえる・まなぶ・ならう・みにつける……

*理解する・了解する・知覚する・察知する・認識する・認知する・会得する・学習する・習得する……

*understand、appreciate、know、see、tell、get、find、recognize、comprehend、learn ……

(「わかるはわかるか」より)

 

*手話では

*【以下は日本で広く用いられている手話です。】右手を開き胸の上に当てそのまま下ろし、胸のつかえが下りるような動作をする(「分かる」や「知る」に相当する)・口に何かを放り込み、飲み込むような動作をする(「理解・理解する」に相当する)・右手の指でこめかみ辺りをさす(「感じる・覚える」に相当する)・右手を開いて上から側頭部へと下ろし、握った状態でくっつける(「覚える・習う」に相当する)・右手の人差し指を正面のやや上方から顔に向けて2度ほど指す(「教わる・習う」に相当する・両手を顔面の前で並べて2度ほど軽く振り、本を読む動作をする(「勉強する」に相当する)【※「右手」は「利き手」と置き換えてもよさそうです。】

*【以下は米国で広く用いられている手話です。】自分に向けて握った右手を軽く側頭部につけ、人差し指を2度立てる( understand に相当する)・自分に向けて開いた右手を側頭部に持っていき、何度か軽く叩く( know に相当する)・左手を相手に向けて開き、右手の指で側頭部をさし、その指を開いた左の手のひらにくっつける( recognize に相当する)・右手を握り顔の斜め下に持って行き、握りこぶしを少し挙げて人差し指を突き出す( comprehend に相当する)・左手を胸の下あたりで上向きに開き、右手を開いて左の手のひらから何かをつかみ取り額へ持って行きくっつける動作をする( learn に相当する)【※「右手」は「利き手」と置き換えてもよさそうです。】

(「わかるはわかるか」より)


*英和辞典を使う

 さきほどやろうとした作業を再開します。「分かる」と「理解する」に相当する英語の単語の語源を知りたかったのです。上記の英単語を、大きめの英和辞典を引いてみます。

* understand : 古英語で「…の間に立つ」が原義、(…の下に)+(立つ)→ あることの近くにいる → あることについて知識を持つ【ジーニアス英和大辞典より】

* appreciate : 後期ラテン語で、(…に)+(価値をつける)【ジーニアス英和大辞典より】; 中世ラテン語で「尊重された、評価された」、後期ラテン語で「評価する」の過去分詞【ランダムハウス英和大辞典より】

* know : 古英語で「知る、知っている」、can は同根語【ジーニアス英和大辞典より】

* see : 古英語で「見る」【ジーニアス英和大辞典より】; ラテン語の「従う、追う」と関係があり、原義は「眼で追う」【ランダムハウス英和大辞典より】

* tell : 古英語で「数える、語る」【ジーニアス英和大辞典より】; 中世英語・古英語で「物語る」「数える」【ランダムハウス英和大辞典より】

* get : 古ノルド語で「手に入れる」【ジーニアス英和大辞典より】; 古ノルド語で「得る」「生じさせる」【ランダムハウス英和大辞典より】

* find : 古英語で「見いだす」【ジーニアス英和大辞典より】

* recognize : ラテン語で「認める、思い出す」、(再び)+(知る、学ぶ)【ジーニアス英和大辞典より】

* comprehend : ラテン語で「手に入れる、理解する」、(完全に)+(つかむ)【ジーニアス英和大辞典より】

* learn : 古英語で「人の歩む道を導く」または「足跡をたどり経験を積む」が原義【ジーニアス英和大辞典より】; 中世英語・古英語「学ぶ、読む、思案する」、「拾い集める」。ドイツ語の「読む」と同語源【ランダムハウス英和大辞典より】

 こんな感じです。なるほど、と感動してしまいました。

     *

*「わかる」という枠を揺さぶる

のに、英語は適した言語だと思います。

大和言葉系と漢語系の二重構造のある日本語

と似ています。

*英語の場合には、ゲルマン語系とラテン語系の二重構造がある。

そうです。つまり、

*ヨーロッパの言語における大きな二つの流れ

の両方を汲んでいる、と言えます。すごく大雑把な言い方で顰蹙(ひんしゅく)を買うのを覚悟で申しますと、

*英語は、フランス語(あるいはラテン系諸語)とドイツ語(あるいはゲルマン系諸語)を足して2で割ったような言語

または、

*英語は、フランス語(あるいはラテン系諸語)とドイツ語あるいはゲルマン系諸語)の中間に位置する言語

です。だから、

*英語には、日本語のように「語彙(ごい)が豊富=単語の数がものすごく多い」

です。一方、フランス語なんて、日本語や英語に比べると単語の数はすごく少ないです。

 というわけで、「わかる」に相当する複数の英単語の「意味=イメージ=語義」を調べれば、

*「わかる」のごちゃごちゃぐちゃぐちゃ具合を知る

のに、

*一石二鳥

だと言えます。

(「わかるはわからない」より)


*解字・漢和辞典を使う

 別のやり方で、さらに、

*「わかる」という枠

に、揺さぶりをかけてみましょう。前回、

*「わかる」=「分かる」=「別る」=「解る」=「判る」

というふうに、かたかなで表記された大和言葉の「わかる」に漢字を利用して、

*送り仮名を付ける

という作業をし、次に「分」=「別」=「解」=「判」の4つの漢字の「イメージ=意味=語義」と用法を見てみました。今度は、漢和辞典を引いて、

*解字(かいじ)(=漢字の成り立ちを分析すること)

という作業をしましょう。学研の「漢字源」と、旺文社の「新選漢和辞典」を参照して必要な個所だけを抜き出し、素人なりにまとめてみます。「正しいこと」をお望みの方は、どうかどこかでお勉強なさってください。ここでは、ブログ開設者の趣味で、残念ながらやっておりませんので。

     *

*分:「八(左右にわける)+刀」。「二つに切り分ける」という意味。「半」「班」(わける)・「判」(わける)・「八」(2で割れる数)・別とも縁が近い。

*別:咼(骨と肉をわける)+刀」。「分解する」という意味。関節を刀でばらばらに分解するイメージ。

*解:「角+刀+牛」で、「刀でからだやつのをばらばらに分解する」という意味。「刀を用いて牛の肢体を解剖する。さきわける」という意味。

*判:「牛+八(わける」。「牛のからだを両方にきりわける」という意味。のちに「可否や白黒を区別し見わける」の意味となった。「半」は「牛+八」で、「牛」は「物(『牛』と『勿』の合字)」の代表で、「八」は「両方にわける」という意味。【牛が物一般を表す代表だというのは、おもしろい発想ですね。それとも、これって誤解?】

 以上の解字を見ていると、とにかく

*「わかる」は「わける」

ということみたいですね。何か血生臭いイメージをいだきます。「腑分け=解剖」とか、スーパーなんかで時々やっているマグロの解体ショーを連想しちゃいませんか。

(「わかるはわからない」より)

   

*国語辞典を使う

 次に、さきほど挙げた

*わかる・しる・さとる・とらえる・まなぶ・ならう・みにつける……

という一連の言葉を見てみましょう。広辞苑を引いてまとめます。

*しる・知る・領る : 「領る」は、「ある土地にあるものすべてを自分のものにする」の意味。要するに、「しる=汁=おしっこ」をかけたり、唾を付けて「これ、わてのもんやでー」と宣言すること。なわばり行動やマーキングと同じ。

*さとる・悟る : さのようにとる→そのようにとる→そうかと納得する。【※これは、でまかせです。広辞苑に語源の説明がなかったので、でまかせをかましました。】

*とらえる・捕らえる・捉える : とりあう。取り敢う。取り合う。すっかり取る。だきしめる。これはわたしのものだからと手で握って、誰にもあげないという感じ。とらえどころがないの逆。【※これも、でまかせです。】

*まなぶ・学ぶ・まねる・真似る :【※わかりやすいですね。】

*ならう・習う・慣らう・倣う :【※「習うより慣れよ」って言い方がありますよね。そうか、「なれる」も調べよう。】

*なれる・慣れる・馴れる・狎れる・熟れる : とにかく経験しろ。触れてみろ。場数をこなせ。試行錯誤しろ。そのうちできるさ、やってみろ。なじんでくる=なれてしたしくなってくる。あれ、熟れちゃった。熟達しちゃった。

*みにつける・身に付ける・身に着ける :【※これも、わかりやすいですね。】

 何だか、かなりテキトーになってきました。いい感じです。

     *

 このブログでやっていることを確認します。

*日本語という「枠=限界」の中での「イメージ・意味・表象・代理・でたらめ・恣意的なもの」としての、「わかる」

についての「考察=与太話=でまかせ」です。

 どうやら、軌道=奇道からは外れていないもようです。ごちゃごちゃぐちゃぐちゃしてきました。

     *

 以上、「習うより慣れろ」式にいろいろやってきましたが、

*「わかる」という枠を揺さぶる

という「目的=戦略=企て=いたずら=お遊び=おふざけ=実は本気=マジ」は、ある程度達成されたのではないでしょうか。

 蛇足とは思いますが、おふざけの一環としての目的が達成されたのであって、「わかる」という枠そのものが揺さぶられるだろう、などとは夢にも考えておりません。単なるお遊びです。

 というわけで、

*わかるがわかってきた

ではなく、

*わかるがわけわからなくなってきた=分かるが「訳=分け」分からなくなってきた

とお感じいただければ、本望です。

*「わかる」は「わからない」のがほんとう=マジ=真面

なのです。「わかった」とお思いになったとすれば、おそらく錯覚です。失礼とは存じますが、思い違いをなさっているのでしょう。もっとも、これも、個人的な意見=でたらめ=でまかせですけど。

 で、

*わかるはわからない

は二通りの意味に取れます。

1)「わかる」ということを「理解」することはできない。
2)「わかる」と「わからない」は同じことだ(つまり、「わかる」=「わからない」ですね)。

です。1)と2)の「違い=ズレ」が、お分かりになりますか? これまでの経験から、

*「ズレ=違い=差=差異=際・きわ=間・あい・あいだ・あわい=隔たり=分かれ目=境い目=境界線=辺境=縁=ふちっこ=枠」には、深入りしないほうが賢明だ。

と思っています。どうでもいい。そう考えるのがいちばんです。でも、「イっちゃう=ヒトとしての一線を越えてしまう」のを覚悟で、いつか深入りしてみたい気持ちはあります。

*イっちゃって戻れなくなる。

かもしれません。ものすごく恐ろしい体験みたいです。

     *

 ちょっとだけ、イっちゃいましょう。たとえば、

*わかるはわかるわけない=「わかる」は、「わかる」「わけない」=「分かる」は、「分かる」「訳ない」=「分かる」は、「分かる」「分けない」

とずらして、その「ズレ」を本気で考えてみるのです。心身ともに調子のいい時(※ビョーキの身ですが、それなりに調子がいいと感じる時があります)にやってみたいです。

(「わかるはわからない」より)

 

*わかるはわからない

 話を戻します。

*わかるはわからない

は、

*「わかる」は「わからない」ように「できている=なっている」

とも、言えそうです。それなのに、

*「わかる」は「わかる」

と思い込もうとするのがヒトなのです。ですから、

*「わかる」が「わかる」

と言うヒトがたくさんいても、全然おかしくはありません。

*当然

なのです。でも、こうした事態は、

*自然

ではありません。

*ヒトは自然に逆らって、うだつの上がらない尻尾のないおサルさんから「ヒト=人間様」になった。

のですから、当然です。自然ではないけど「当然=あたりまえ」です。

*「当然」は、ヒトに固有な属性だ。

と思われます。

     *

*当然は必然に似ている。

とも言える気がします。

*当然は、「シナリオ=筋=筋道=筋書き=ストーリー=物語=フィクション=作り話=でたらめ」を「前提にしている=暗に、つまり無意識に、あるいは故意に想定している」。

と思われます。

*自然には、「シナリオ=筋=筋道=筋書き=ストーリー=物語=フィクション=作り話=でたらめ」は存在しない。

と考えられます。

*圧倒的な偶然性が支配する場

だからです。

*「圧倒的な偶然性」には、「必然性=整合性=当然」も含まれている。

と言え、比喩を用いれば、

ブラックホール

みたいな場なのです。何でも飲み込んじゃう。イってしまう。いったん、穴にはまったら決して戻って来れない。そんな感じでしょうか。

 別の比喩で言うなら、

*当然が出来レースなら、自然は彷徨(ほうこう)だ

という感じです。彷徨ですから、定まった方向はありません。ヒトは、翻弄(ほんろう)され、揺れ動き、千鳥足状態で、よろよろするしかありません。「どうやら、行き先は決まっているようだ。しめしめ」なんていう具合に、ヒトが安閑としていられるのは、自然ではなく当然の世界に生きているからです。

*「わかる」は、自然ではなく当然を「指向=志向=思考=試行=歯垢」する。

作業=行為です。最近、

*量子

をめぐって、「これからは量子の時代だ」みたいなポピュラーサイエンス的言説が流通していますが、あれって典型的な出来レースです。目新しくも、衝撃的でもありません。

*ヒトはわかることしかわからない。

とか、

*ヒトには「わかる」ように「なっている=できている」ことと、「わからない」ように「なっている=できている」ことがある。

感じがします。

     *

 ちなみに、こうした、

*「○○する」あるいは「○○できる」ように「なっていること=できていること」と、「なっていないこと=できていないこと」

を、このブログでは、

*「経路」

と呼ぶこともあります。万が一、ご興味のある方がいらっしゃいましたら、「あわいあわい・経路・表層(1)」と「あわいあわい・経路・表層(2)」をご一読ください。

 いずれにせよ、

 量子をめぐる「言説=物語=フィクション=戯言=でたらめ」は、もちろん、わかるようになっていることでしかありません。量子を、ヒト自らが自らに合わせて作った計器の力を借りて観測したところで、ヒトは自らの知覚(知覚機能)を通して認識するしかできません。

 つまり、

*代理=表象としてしか、とらえられない

という意味です。これは量子という自然科学の領域の話にとどまらず、「悟り」、「覚醒」、「解脱」、「幻想」、「幻覚」、「透視」、「預言」と呼ばれる「言説=物語=フィクション=戯言=でたらめ」についても当てはまりそうです。

     *

*自然=圧倒的な偶然性が支配する場=比喩的に言えばブラックホール

は、本来なら、こんな言葉遊びなどで語ることはできない「場」なのです。でも、「それをいっちゃおしまい」なので、ヒトの端くれである、この駄文を書いているアホめは、やむを得ず、とりあえず、あえて、

*ことわり=事割り=理=断りする

している次第です。

(「わかるはわからない」より)

 

*「わかる」を記号や図式やでたらめに置き換えてみる

 結論から書きます。

 まず、記号バージョンです。

*大→小

つまり、

*●→ ・

あるいは、

*全体→部分

または、

*A→B、C、D、E、F……

です。

 次に、「ことわり=事割り=理=断り」バージョンです。

*わける・つかむ・はこぶ・つくる・ゆれる・すてる・かたる

です。

     *

 以上が、

*「でたらめ」の一つである「わかる」を他の「でたらめ」に「翻訳」した結果

だと、とりあえず言えそうです。

 説明を加えます。

 ここでいう

*「でたらめ」とは、「表象一般」

のことです。このブログでは、「表象」という言葉で、

*狭義の言葉である話し言葉と書き言葉を始め、手話、ホームサイン(※たとえば家庭内で使われている手話)、記号、符号、信号、アイコン、点字指点字、仕草、表情、合図、身振り言語=ボディー・ランゲージ、音声、絵、映像(静止画像・動画)、視覚芸術、音楽など

を指します。

*「表象」

は、

*何かの代わりに何か以外のものを用いる。

という、

*代理の仕組み

を基本としています。したがって、「でたらめ=不正確=何かそのものではない=代理でしかない」ということになります。

 また、

*「翻訳」

とは、

*「言い換える=置き換える=伝える=知らせる=言葉にする=何かの代わりに何か以外のものを用いる」

ほどの意味です。  

(「わかるはプロセス」より)

 

*「わかる」を「わけた」だけ

 このところ、このブログでやっていた作業をまとめると以上のようになります。

 とりあえず、まとめましたが、

*「わかる」が「わかった」「わけ」ではない。

ことに、注目してください。

*「わかる」を「わけた」。

とは、言えそうです。簡単に言えば、

*「わかる」をほかの表象に置き換えた。

だけです。それ以上でもそれ以下でもありません。これを「わかった」というのなら別ですけど、こんなんでいいんですか?

*「わかる」とは脳内での出来事だ。

とも言えそうです。

*自らの脳内の出来事が「わかる」

ことは、

*ヒトの脳には荷が重過ぎる

でしょう。このブログでは、

*ヒトには「わかる」ように「なっている=できている」ことと、「わからない」ように「なっている=できている」ことがある。

という前提で「話=でまかせ=でたらめ=与太話」を進めています。

*自らの脳内の出来事を「わかる」

ことは、後者の

*ヒトには「わからない」ように「なっている=できている」

ことだという気がします。

 ただし、

*ことわり=事割り=理=断りする

つまり、

*言葉や記号という「表象=代理=でたらめ」に置き換える

ことならできます。それが、冒頭で挙げた

*記号バージョン

と、

*「ことわり=事割り=理=断り」バージョン

です。

(「わかるはプロセス」より)


*楽しいのは、結果でなくてプロセス

 このブログを途中からお読みになっている方のために、状況の説明をさせてください。以下に、以前の記事「わかるはわかるか」から、必要な部分を引用します。

     *

 調べ、考えたところで、たぶん、いや、きっと分からないだろうという気がします。でも、取り組んでみようと思います。

*楽しいのは、結果でなくてプロセスですから。

 比喩的に言うなら、ドライブ(車での旅行ではなく、あくまでも運転することです)が楽しいのは、運転というプロセスであり、行き先ではないのです。ドライブが終れば、「あーあ、疲れた」とか「あー、楽しかった(※過去形であることに注意してください)」で終るのがふつうでしょう。

 このブログでは、そもそも

*正解のある問題

に取り組んでいるわけではありません。なにしろ、

*「わかる」は「でたらめ」だ。

から出発しているのです。それを前提にしているのです。出発点と終着点は、どうでもいいと言えます。

 いささか大仰で構えた言い方になりますが、

*ヒトにおける、知の醍醐味は、きっかけや終点ではなく過程である。

と思っています。だからこそ、

*ヒトの知は、「でたらめ=でまかせ=作りごと=うそ」であって構わない。

とも思います。なにしろ、ヒトが相手にしているのは、表象=代理ですもの。それが身分相応ではないでしょうか。

 以上が引用です。

     *

 そんなわけですので、上記の結論やまとめもどきの文章よりは、そこに至るまでの、

*ああでもないこうでもない、ああでもありこうでもある

みたいなくだくだしたプロセスを、お時間があれば、ぜひ再読していただきたいのです。

*わかるとは行為である。

という点を強調したいと思っています。

 ブログの場合だと、

*ディスプレー上の「文字=活字」を「読む」

という行為です。読んでいると、

*頭および体に何らかの「動き=変化=揺らぎ=熱の発生」

が起こります。進行中の行為です。それです。それが「わかる」です。やむを得ず「わかる」という「言葉=表象=代理=でたらめ」を用いていますが、あくまでも「行為=動作」、あるいは「体内で生じる動き・変化」です。

     *

 比喩を出しましょう。

*自転車に初めて乗る。

とか

*初めて泳ぐ。

といった体験=行為=動作は、

*記号バージョン

と、

*「ことわり=事割り=理=断り」バージョン

とは、基本的には無縁です。もちろん、図解や説明の書かれたハウツー本はあります。でも、そうした本なしに、自転車に乗ったり、泳げるようになるのがふつうでしょう。

暗黙知

という「怪しげな=小賢しげな=うさんくさい」言葉がありますが、言葉で知っているだけですので、ここでは無視します。身分相応に、あくまでも、でまかせに徹します。

     *

 もう一つ強調したいのは、

*わかるはプロセスであって結果ではない。

という点です。日本語では、よく、

*「わかった!」

と過去形=完了形で言いますね。あれはヒトとしての「見栄=驕(おご)り」、あるいは「勘違い=うかつさ」だと思います。

*「わかった」=過去・完了=おしまい=結果が出た=結論=「これで決まりだ」=一件落着=「めでたしめでたし」

という感じですね。

*「わかる」=「わかりつつある」=「わかるのじっこうちゅう」=「わかるようでわからないけど一応わかるかな?」=暫定=臨時の措置=中途半端=進行形=「○○かもね、たぶん」=「次回に続く」=「 To be continued. 」

というのが、正確な状況はないでしょうか。

 現に、「わかった」はずのことが、どんどん修正されていったり、「うそー!」という感じで想定外の展開をたどることは、日常的に起こっています。また、各ヒトのそれまでの人生において、「わかった」はずのことが「はずれる=ちょんぼとなる」ことは頻繁に起こっていて、誰もがそうした事態を何度も体験してきたはずです。

*「わかった」は早とちり

です。それくらい「でたらめ」なことだと覚悟しておくのが賢明かと思われます。安心して、「わかった」なんて決めつけてはいけません。

 ただし、「わかりつつある」は言いにくいので、「わかった」とか「わかる」という言い方=時制を用いているだけです。言葉の綾とも言えそうです。

*ヒトは言葉にもてあそばれるしかない。

の一例みたいです。

 その意味では、量子についても、脳についても、DNAについても、

*「わかった」(完了形)は、常に修正される運命にさらされている。

のです。「わかりつつある」(進行形)だけです。「わかる」(現在形=断定)ようにはなっていないのです。つまるところ、

*永遠に「わからない」

ということです。こんなふうに日本語の慣用に楯突く阿呆を

*わからずや

と言います。

     *

 英語でも、例を挙げてみましょう。

 元気よく、

* I've got it! = I got it! (※現在完了形や過去形が使われています)

と、うれしそうに叫ぶのではなく、

* I see. (※現在形ですね)

と、考え込んだような表情で=沈んだ表情で=浮かぬ顔で、つぶやく。そんな感じが「わかる」だと思うのですけど。

     *

 冒頭の記号バージョンだけを、ちょっと説明=「ことわり=事割り=理=断り」させてください。

*大→小

つまり、

*●→ ・

とは、「わかる」という行為が、

*「大」=「●」=他者=何か=見えたり聞こえたり触れたり匂ったり味わうことができるけれど、わけのわからないもの=見えず聞こず触れられず匂わず味わえない、わけのわからないもの=自分の頭の中に浮かぶもの

を、

*「小」=「・」=「部分」=「わけたり、つかんだり、はこんだり、ありもしないのにつくったり、ちからをかんじてゆれうごいたり、いらないものをすてたり、ものかたったり、ごまかしたりする行為を通して頭と体でとらえること」

だという「感じ=イメージ」です。ややこしいですね。うんと簡単に言えば、

*ちっちゃいから、馬鹿にして手玉に取れる

という「感じ=イメージ」です。要するに、上から目線で馬鹿にするのです。そのうえで、「こんなもん、わかった」と自分に言い聞かせるのです。

 一方、

*全体→部分

は、複数のヒトが1頭のゾウの部分に触れて「ゾウは○○のようなものだ」と語る話と似たイメージです。ここでの「全体」とは宇宙・世界というより、「何かの全体」という意味です。結局、ヒトは、「何かの全体」を把握することはできないと言えそうです。とらえることができるのは「何かの一部分」だけです。しかも、さらに正確に言うと、「『代理=代替品=まがいもの』である一部分」だけです。

 また、

*A→B、C、D、E、F……

とは、「わかる」という行為が、

*「A」=「大」=「●」=「全体」=他者=何か=「見えたり聞こえたり触れたり匂ったり味わうことができるけれど、わけのわからないもの=見えず聞こず触れられず匂わず味わえない、わけのわからないもの=自分の頭の中に浮かぶもの」

を、

*「B、C、D、E、F……」という具合に、ほかの「A」=「大」=「●」=「全体」=他者=何か=「見えたり聞こえたり触れたり匂ったり味わうことができるけれど、わけのわからないもの=見えず聞こず触れられず匂わず味わえない、わけのわからないもの=自分の頭の中に浮かぶもの」

に、

*「小」=「 ・ 」=「わけたり、つかんだり、はこんだり、ありもしないのにつくったり、ちからをかんじてゆれうごいたり、いらないものをすてたり、ものかたったり、ごまかしたりする行為を通して頭と体でとらえること」を通して、次々と置き換えていく

という「感じ=イメージ」です。

     *

*「大→小」、つまり「●→ ・ 」

も、

*全体→部分

も、

*A→B、C、D、E、F……

も、「知覚=認識=意識=錯覚=ごまかし」であるという点が、決定的に重要です。

 うそなのです。でたらめなのです。思い込みなのです。

     *

*「わかる・わける・つかむ・はこぶ・つくる・ゆれる・すてる・かたる」は「わからない・わけない・つかめない・はこべない・つくれない・ゆれない・すてない・かたらない」と同時に起こる行為である。

という点も重要です。これを矛盾だと感じるのは、「言葉=表象=代理」という枠内にいるからです。致しかたない事態です。誠に遺憾に存じます。

また、

*「わかる」以前に、そもそも「きづかない」

とか、

*「わかる」と同時に、どんどん「わすれる」

という行為=事態が起こっている点も忘れるわけにはいきません。

     *

 ややこしいですね。

 比喩に頼りましょう。

*ヒトは、せいぜい1台のテレビの1画面にしか注目することができない。

*ヒトは、地動説を頭で知っていても、体は天動説を信じている。

*ヒトは、テレビの映像が画素から成り立ち、ある視点から撮影された静止画像をコマ送りしたものであることと、その音声が再生された機械音であることを意識せずに、番組を「現実」として受け取る。

*ヒトは、自らが捏造した数学における微分というフィクションで、「方程式をグラフに描くと曲線になって、その曲線の微小な部分を拡大すると直線に見える」という、すり替えと錯覚をテーマにした小話を展開している。

 ヒトにとって、「わかる」とは、今挙げた4例ほどに「でたらめ」なものなのです。矛盾だらけなのです。

 それでも、その「でたらめ」は、月に仲間を送り込んで歩かせたり、地球の温度を徐々に上げるほどの精度は持ち合わせているのです。

(「わかるはプロセス」より)

 

*後書き

 本日の記事ですが、木で鼻をくくるような身も蓋もない言い方ばかりをして、ごめんさい。

 人にとって「わかる」とは、文字通り言葉にできない未知のものが「わかる」というのではなく、「ああ、あれだ」というぐあいに既知のものを確認する(つまり「わける」)作業であり、そうやって「実は知っていながら、たまたま忘れていたもの」に「置き換える」だけだ。言葉にできない未知のものを「わかる」=「わける」ことは人にはまずできず、そうした稀有なことがあるとすれば、それはむしろ「あう・であう」=「遭遇」ではないだろうか――。

 以上は、蓮實重彦経由によるジル・ドゥルーズの言葉の身振りを私なりにまとめたものなのですが、とりあえず、いまは私もそんな気がします。

 私にとって世界は分からないだらけなのです。私は分かったことについて記事を書くことはありません。分からないから書くというか、分からないから、書きながら少しは分かるかなという気持ちで書いています。

 それでも分かりません。だから、苦しまぎれに、今回の記事みたいに、「わかる」に揺さぶりをかける、なんて書いたりするのです。

 そんなわけで、私は分からないことを自覚しつつ、記事を書くプロセスそのものを楽しみ、そして、みなさんに記事を読んでいただくことを楽しみにしています。私にとって「分からない」は生き方であり、趣味みたいです。「分かる」が仕事ではなくて幸せです(そんな絶望的な職業ってあるのでしょうか、ただ分けたり置き換えているだけですよね)。

「わかる」はプロセスです。「現在進行形」であり、随時あるいは常時更新中なのです。たぶん。

「わかった」と結論が出てしまったら、おもしろくないじゃないですか。それでおしまいですもの。

「わかる」というプロセスを楽しみませんか? 私の場合には、それが極端なかたちで出てしまうために、ついつい記事が長くなります。私の記事には結論なんてないので、お読みになっている方はいらいらなさるにちがいありません。

「わかる」をドライブにたとえてみましょう。ドライブの過程そのものを楽しみましょう。行き先に着くことではなく、ドライブという行為、動き、車窓の景色、移動、身振りを楽しむのです。

        *

 私の記事は、らっきょうやタマネギやレタスと同じです。皮をあるいは葉を取っても取ってもまた皮と葉が出てきます。中身なんてありません。芯もないのです(また、金太郎飴と同じでどこを切っても同じなのです、つまり、同じことを繰り返して言っています)。

 たまには白菜やキャベツや葉ボタンを出しますので、どうかまた覗いてみてください。葉を一枚一枚剥いていく過程を楽しんでいただければ嬉しいです。気長にお付き合い願います。

 以上、言い訳だらけの後書きになりましたが私の本心です。今後ともよろしくお願いいたします。

 

#言葉 #表象 #日本語 #エッセイ #身振り