1/3『仮往生伝試文』そして / あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』その1

かり、かりる

 このところというか、この数年間ずっと読んでいるのは、蓮實重彦の『批評 あるいは仮死の祭典』と古井由吉の『仮往生伝試文』です。最近はこの二冊ばかり読んでいると言っても言いすぎではないと思います。手にしていないときにも、この二冊のことを考えていることがあります。

 とりとめのないことを考えているのですが、いま気になって仕方がないのは、たとえば「仮」です。この文字が呼び寄せてくれるさまざまな言葉やイメージを頭の中で追うのが心地よくてたまりません。辞書の助けを借りるとエスカレートします。走り書きしてみましょう。まとめようとはしません。あくまでもメモです。

 さて、『批評 あるいは仮死の祭典』と『仮往生伝試文』でしたね。

 共通する「仮」という文字が気になります。わくわくして気持ちがいいのです。暗示にかかりやすいだけでなく、符合や偶然に過剰に反応する人間なので、共通してある「仮」にこだわるのかもしれません。性格とか気質の問題でしょうか。それならそれでいいと思っています。「気持ちがいい」は大切です。

 ふたつの作品に共通する「ねえ、まだなの?」がずっとつづくような文章が、気持ちよさの一因だと思います。「どこにつれていってくれるのだろう?」という不安をともなう心地よさもあります。きちんと文章を読むことがきわめて苦手なので、文字を追いながらとりとめのないことを考えるのが常です。読む対象はどんな本や文章でもいいわけではありません。今のところ、『批評 あるいは仮死の祭典』と『仮往生伝試文』が上のようなことを考えながら読むのに最も適した「乗り物」だと言えそうです。

 そんなわけで、走り書きしてみましょう。まとめようとはしません。以下はあくまでもメモです。

     *

 かり、借りる、借る。

 貸し借り、rent、賃貸、賃借、貸し、貸す、化す。

 かりる・かえす・かす。

 あたえる、もらう、てにいれる、うばう、ぬすむ、もつ、いだく、ためる。

 かわり、かわる、つかう、つかえる、もちいる、やくだてる、やく、つとめ、しもべ、しも、かみ。

 借りる、借問(しゃもん)、仮借(かしゃく・かしゃ)、借家、借屋、借宅。

 仮、仮借(かしゃく・かしゃ)。

 貸、代、代理、代表、代行、代議員、代議制、代理人、代理店、代行者、agent、representative、representation、représentation。

 仮、か、け、化。

 仮、け、仮有(けう)、俗有、実有、仮諦(けたい)。

 かる、借る、狩る、猟る、駆る、刈る、苅る、枯る、涸る、嗄る、上る、離る。

 枯れる、涸れる、から、殻、空。

 仮、仮面、仮性、仮名、仮字。

 解字、白川静

 坂部恵、『仮面の解釈学』。

 かり、仮、假、叚、おおう、ざらざら、仮面、暇、霞、葭、蝦、瑕、瑕疵、かし。

 真、偽、本、顔、素顔、真性、本性、真名、真字、本名、偽名。

 かりそめ・仮初、仮定、仮想、仮装、仮葬。

 仮死、(詐死)、(作死)、死にまね、空死に(そらしに)・虚死(そらじに)、空足を踏む、擬死、冬眠、臨死、瀕死、危篤、虫の息、死に際、臨終、いまわ、最期、末期、断末魔、今際の際、往生際、冬眠、半死半生、死に体、なしくずしの死。

 心肺停止、心停止、呼吸停止、脳死遷延性意識障害植物状態・ベジ。

 昏睡、昏倒、気絶、失神、「間断なき失神」、「壮大な仮死の祭典」、心神喪失、人事不省、無意識、夢うつつ、譫妄。

『早すぎた埋葬』(エドガー・アラン・ポー作)、『第四解剖室』(スティーヴン・キング作)、『コーマ』(ロビン・クック原作)、「諸行有穢の響きあり」における「虚死(そらじに)」。

 仮病、つくりやまい詐病、作病、虚病、半仮病、虚偽性障害、仮眠、仮寝、かりぶし、旅寝、草枕野垂れ死に、行き倒れ、斃死、作話、作文、偽の記憶、記憶障害、メタ記憶、虚言、妄想、幻覚、幻想。

 仮往生、(近往生)、(臨界往生)、(臨往生)、(前往生)、(生前往生)。

 往生、往く・化生する、往生伝、往生の物語、O嬢の物語、立ち往生、無理往生、圧状。

 仮定、仮想、仮想現実、架空、(仮空)、空想、夢、夢想、疑似世界、シミュレーション、シミュラークル

 ニーチェクロソウスキードゥルーズ

 仮象、表象、現象、事象、物象。

 日、月、白、明、見、目、耳、自。

 「」、『』、「、」、「。」、「、(ルビとして縦書きの文字の右に打たれる読点)」

 渡部直己芳川泰久(十、+)、ジャン・リカルドゥー、ジェラール・ジュネットアラン・ロブ=グリエ(8、∞)。

 仮屋、本屋、仮谷、刈谷、狩屋、狩谷、狩矢、借家、苅谷、雁屋、仮屋崎、假屋崎、上仮屋、内雁屋。

 仮令、たとい、たとえ、かりに、よしんば、もし、およそ、たまたま。

 仮の姿、かりに、とりあえず、さしあたって、もしも、たとえば、たとえ、たとえる、比喩、隠喩、暗喩、明喩、直喩、換喩。

 メタファ、メタモルフォーゼ、メタフィクション、メタ哲学、メタメタ。

フーコーそして / あるいはドゥルーズ』、『仮往生伝試文』そして/あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』。

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 飽きません。こういう文字・言葉の連なりを目にしていると、わくわくぞくぞくします。あれよあれよといううちに時が経ちます。三十分や一時間なんてすぐに過ぎます。言ってはいけないことなのでしょうが、このまま逝ってもかまいません。この種の快感には依存性があるので要注意です。

 あいだに読点を置いて、二文字を並べるだけでも、また違った妙味が楽しめます。たとえば、これです。

 仮、借。

 いいですねえ。手持ちの辞書のなかだと隣り合った文字なんです。これだけでも十五分は楽しめそうです。十五分って意外に長いですよ。

 仮、瑕。

「仮往生」の「仮・かり」から「かし・瑕疵・仮死」にいっちゃいますね。だじゃれと見なしてもいいような漢字の感じ・感字。

 次は、二文字のペアです。

 仮名、偽名。

 そっくりでかわいいペアですね。きょうだいなのかな。かたちで見ると、反と為の部分が違うだけですよ。あとはいっしょ。その意味に思いをめぐらすと、ぞくぞくしてきました。

 漢和辞典で見た解字の知識が邪魔になります。文字の形にひたすら見入る。解字や語源はたわむれであるからこそ楽しい。もとをたどることが、正しいや本当という大義に置き換わると大儀なだけ。

 次は、ひらがなからなる言葉のペア。

 かりに、たとえ。

「かりに……」とか「たとえ……」なんて口にしてみると、「うんうん、何?」という具合に自分の声なのについつい身を乗り出してしまいます。言葉は動きを誘い出すということですね。「かりに」と「たとえ」はどう違うのでしょう。こういうことを考えるのが好きです。

 似ているけど、ふたつあるということは、違うのでしょうね。つかい方が異なるのかなあ。めまいが来そうです。正解を求めていたり、ましてお勉強をして物知りになりたいわけではないので、すぐに辞書を引くなんて真似はしません。

「何だろう」を引き延ばします。どこか遠くに行けそうな気分になってきました。

     *

 最近、短歌や俳句に興味があって、その方面の本やサイトを覗いているのですけど、連句連歌についての解説をおもしろく読みました。いま上の言葉の羅列やペアを眺めていて既視感を覚えたので、なんだっけと考えているうちに、切れや連句連歌を思い出したのです。

 言葉と言葉との、あいだ、あわい、差異、すきま、ま、あいま、切れ間、さかい、くぎり、きわ、わかれめ、きれめ、といった連想が出てきて、とまらなくなりました。

 上記の言葉・文字の羅列に話をもどします。あの言葉・文字の連なりを眺め、とりとめのない思いに身をまかせて、わくわくしているわけですが、それをあえて言葉にすると、たとえば次のようになります。長くなりそうなので、前後に*を打って、テーマ別に書き並べます。これもあくまでも書きなぐったメモです。

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 自分を仮の姿と考えてみる。仮だから一時的なもの。次々と移りゆくのかもしれない。仮のままに終わるのかもしれない。かりに真の姿に至るまで殻を何度も脱ぎ捨てなければならないとするなら、それは苦行に似ている。仮のままでいい。移り変わりたくもない。

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 言葉は誰にとっても借りものである。自分の一部のようで自分ではない。既に誰かの口から出たものであり、誰かが文字として綴ったものである。それを借りてつかう。代々受け継がれてきたものであり、いまもどこかで誰かがもちいている共有物でもある。次の人にバトンタッチしたい気持ちはある。そのためには、つながらないといけない。窮屈だ。

 誰もがまわりの人たちを真似ながら言葉を身につける。生まれたときには既にある制度でありしきたりだから、自分ひとりでどうこうできるたぐのものではない。他人がいて言葉がある。自分が口から発したり文字にする言葉は他人との関係で揺れる。自分から出た瞬間に、もう素知らぬ顔で他人に媚びを売っているかのような不実な面をそなえている。憎らしい。でも、かわいい。

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 借りるは返すと貸すを想定している。するとされるは、一つの絵におさまるという意味で同義。たとえば、追われる夢のなかでは、追うという視線と視座が夢の主語として眺めている。人は夢の主語なのか。夢自体が主語なのか。ひょっとして外から来た言葉が主語なのか。

 動物にえさをやる幼児のうれしそうな表情。乳や食べ物を与えられる側にいつづけたおさなごは、食べ物を与える行為のなかで「される」側の居心地の悪さから切り離された自分を感じる。解放の喜び。するとされるを一つの絵として見ることは、フィクションの芽生えかもしれない。

 自他の区別ではなく、むしろ自他の並置。される側の自分とする側の他者。距離、相対化、虚構化、どれも嘘くさい。視点という抽象。いかがわしい。

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 貸し借り、かりる・かえす・かす、交換、贈与、婚姻、供物、祝儀、ギフト、文化人類学、経済学、心理学、文学、法学、政治学記号論、哲学。

 カネ・貨幣は仮値。おそらく本値はないだろう。そもそも貸し借りできないものは人には見えない。というか、人は目に見えないもの(知覚できないもの)を交換の対象にしない。必ず目に見えるもの(知覚できるもの)に交換して、さらにその代理を交換するという手続きを踏む。人にとって見えないものはないのと同じだからだ。「現金な」とは、まさにこのこと。

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 仮の名と偽りの名は異なるのだろうか。ことなし、ことあり、ことなる。仮と偽とのあいだには何があるのか。どうずれているのか。仮免と本免があるように、仮名は本名にいたるまでの一時的なもので、確信犯じみた偽名とは別物と考えるべきなのか。仮は変化を前提とし、偽には居座り続けるふてぶてしさがある。仮は出る、お化けや幽霊のように。偽は現われる、神や霊のように。いや、仮であることを次々と重ねていくのなら、これまたふてぶてしいし狡猾とも言える。

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 かな・仮名・仮字とまな・真名・真字という分け方が以前から気になっている。差別のにおいがするのだ。真偽、正誤、善悪、上下(じょうげ・かみしも)、左右(左大臣・右大臣、左きき・右きき)……。本物と偽物という分け方に代表される、あらゆる二項対立つまり事わけ・言わけに、うさんくささと欺瞞を感じる。仮から本へと移ったところで、昇格したわけではないだろうに。移り変わりを上下や真偽、ましてや善悪の比喩で色づけする作業には辟易するほかない。

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 仮面とはマスクのこと。デスマスクもマスクです。春には花粉対策兼疫病対策にマスク、さらには真夏にもマスクをしていた。秋、冬とマスク生活は続きそうな気配。これが仮の姿であってほしい。

 マスクの親戚であるマスカレードつまり仮面舞踏会という言葉をタイトルにしたり、歌詞に取り入れた楽曲が多いのには驚かされる。それだけ人は仮面に魅力を覚えてひき付けられるということか。恋愛と仮面を絡めると話がおもしろくも、ややこしくもなりそうだ。人生は仮面をかぶった人間たちが踊り明かす舞踏会だとも言える。陳腐なたとえ。ひとりまたひとりと姿を消し、舞踏会もいつかは終わる。地球もある意味で仮面舞踏会なのかもしれない。いや、そうにちがいない。そうでないはずがない。

 仮面の反対は何だろう。本面というのはお能の能面関連の言葉らしいが、何なのかは知らない。真面と書いて「まとも」とか「まほ」があるらしい。まともは真面目のことだからわかりやすい。辞書を脇に置いて考えよう。仮面の反対は、すっぴんではないか。お化粧も一種の仮面と言えないことはない。素顔でもいいかも。

 仮面を比喩つまりたとえと考えると、その反対は本性や本心とも言えそうな気がする。本性や本心を隠して仮面をかぶるという比喩。仮面夫婦なんてまさにそんな感じかもしれない。すっぴんでもできるのが顔芸。顔芸最強。おもしろくて話がそれていく。

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 かりにこれが仮の姿であり仮のからだであれば、人はここで借り物である言葉をもちいて、かりの世界を思い浮かべ、からの言葉をつむいでいくしかない。それがフィクションであり、騙り・語りであり、比喩あるいは言葉の綾であり、ファンタジーであろう。仮に借り物をもちいるしかない記述は、既述であり奇術すれすれのまがいにすぎないのかもしれない。

 言葉に限らず、人のあらゆる創作行為は、かりの世界を仮設することだと言えるのではないか。言語芸術だけにとどまらず、絵も音楽も踊りも写真も映画も、仮・借をめぐり、仮・借をもちいて、つくる行為ではないか。真や本をもちいることはできないから、借りて模倣するしかない。模倣するとは、借りることにほかならない。今ここにはないものを仮で仮につくる。その仮が新たな世界となる。仮はひとり歩きする。

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 辞書を読んでいて「借る」に「代用する」の意味があって、どきどきした。代用については、十年前のブログ記事をnoteで再投稿するというかたちでけりをつけたつもりだったが、そうもいかないらしい。「何かの代わりに何かではないものを用いる」とはまさに「代用する」という仕組みのことなのだ。ここでもまた出てきた金太郎飴。また出た幽霊・お化け。

 代理だけの世界。代理としての世界。言葉も知覚も認識も、すべて何かの代わりつまり代理、何でも代行します。代理のひとり歩きに手を焼く人間。言葉のひとり歩きは日常茶飯事。それだけではない。国民の代表つまり代理が我が物顔でひとり歩きどころか暴走しているのは、この国だけではない。

 代理は最強。代理の一人勝ち。代理という仕組みに勝てない人間。責任は代理にはない。

 代議制そのものがあらゆる国と地域で破綻している。代表に権利を委譲すると言えば聞こえはいいが、代理人に権力をかすめ取られているのが実情ではないか。安定した議会での多数に支えられた与党が、権力の後ろ盾なしにはとうてい通らない荒唐無稽な強弁を通している。合法的な独裁と独裁的法治国家は、言葉の綾でもなくギャグでもなく現実になっている。なしくずしに独裁への道が広がる。ネット上の政権応援団が愉快犯から親衛隊へと昇格する日も近いだろう。

     *

「自分」という言葉=語で指し示すと考えられている「何か」は、「代わり=代理=仮のもの=借りもの」である。特に、「借りもの」だという点に的を絞って出まかせを言うと、その「何か」は「引用されたものの断片=真似たものの断片=何かor誰かに成りきったものの断片=何かor誰かの言動を手本として演じたものの断片=何かor誰かを装ったものの断片=どこかから借りてきたor盗んできたもの断片」ではないか。

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 辞書で調べると「仮」と「借」が近いものであると書いてありますが、なるほどと感心する一方で、どうでもいいことだとつぶやく自分がいます。自分にとっては「かりに」と「借りる」が何か似ているなあという感じがすることが大切なのです。あくまでも個人的な思いが大切。ですから、普遍性とかいう、言葉の綾には興味もないし、そういうものを目指そうなどという野心は毛ほども持ち合わせていません。そんな柄ではないことは自分がいちばんよく知っています。

 わざわざ辞書や本の力を借りようとは思いません。そんなことをしなくても、そもそも自分は借りものだと思っているので、自分の中にはいろいろなものに混じる形で、その辺の辞書や本の断片も入っていると決めこんでいます。いまここにあるものを自分でああでもないこうでもない、ああでもありこうでもあるという具合にとりとめなく考えてみようと思います。そうするのが楽しいからです。

 誰々が何と言ったかは知りませんし、知りたいとも思いません。誰々って誰でしょうね。偉い人と世の中で言われている人なら、なおさらかかわりたくありません。というか、偉い偉くないって考え方は苦手です。自分にとって、人については好き嫌いが最優先されるみたいです。

 たとえば、ニーチェが好きです。と言っても、その人については見聞きした記憶はありますけど、ほとんど忘れてしまいました。自分にとっては人と言うよりも、言葉でしかありません。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェを偉い人だと思っている人がたくさんいるというイメージはありますが、ひとさまのことにかかわったり立ち入る気持ちはありません。どうぞご自由にという感じです。ところで、ニーチェって偉い人なんですか? 

 というわけでニーチェという人は知りませんが、ニーチェという言葉は自分の中でイメージをかき立ててくれます。一日に一度は頭に浮かぶ言葉です。何ででしょうね。不思議ですが、謎はそのまま楽しむことにしています。

 謎はさておき、ニーチェという言葉は自分にとっては「間断なき射精」なのです。「間断なき失神」という言葉が『批評 あるいは仮死の祭典』の中にあるのですが、それをもじりました。お借りしていじったということですね。「常に射精している」よりも格好よく響きませんか。現代詩のフレーズみたいに。現代詩がお好きではない方には、馬鹿みたいな文句でしょうが。

 いまはニーチェはもう読んでいないというか、その著作の邦訳は処分してたぶん家にはないと思います。あったとしても書棚にではなく、押し入れに積んであるひしゃげた段ボール箱の底に、でしょう。いつなのかは忘れましたが、昔々ニーチェの作品の邦訳をよく読んでいて「すごいなあ、常に射精しているような文章だ」と感動したことが記憶にあって、そのイメージが強烈に自分を刺激し続けていることだけが、いまの自分にとってのニーチェ体験だと言えます。

 ニーチェを知っているとか、ニーチェの著作を読んだとか、ニーチェを論じるという言い回しは、自分に関してはありません。あり得ません。そんな柄ではないです。ニーチェとは、夢の中に出てくるニーチェという言葉でありイメージに他なりません。なぜ夢の中なのかと言うと、ニーチェについて考える時には、自分が夢の中にいるような気分になるからです。とてもうつつの出来事だとは感じられないのです。この感覚は仮や借に通じます。

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「借りる」の反対語。貸す、返す、戻す、およびそれぞれの語の同義語を参照すればいい。類語まで調べればけっこうな数になるだろう。「借りる」の同義語も、辞書を引くかネット検索をすればぞくぞく出てくる。類語まで調べれば切りなし。

「借りる」に揺さぶりをかけてみよう。日本語である「借りる」を揺さぶり、ずらすことで、そのイメージを攪乱する。たとえば、「借りる」を手話辞典や手話動画で調べてみる。和英、和仏、和独などの辞書で調べてみるのもいい。その際には語義と語源の項を読む。共通点はあるだろうが、間違っても普遍なんて目指さないこと。読むと言うよりも、むしろ眺める、模様として見る。「借りる」とはなんぞや、なんて具合に。抽象的で(つまり不正確で)、いかにも安直。日本語である「借りる」に普遍などあるわけがない。

 日本語である「借りる」を見てみよう。仮、借。これだけでも、そのイメージの広がりに驚く。かり、かりに、かりる、かる。これを漢字にすれば分かるが、こんな豊穣なイメージの塊が抽象化できるわけがない。収拾がつかなくなるのが落ちだろう。収拾がつかない自分をだまし、かりに抽象化して痩せ細ったイメージが出てきたとして、それが普遍であるわけがない。不毛の多毛作に陥るだけ。

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 日本語である「わかる」を、ずらし、揺さぶりをかける。「わかるという枠」、「わかるはわからない」、「わかるはプロセス」、「はかる 」。手話や英語の「わかる」に相当する単語を持ってくる。日本語の似た言葉を持ってくる。日本語の「わかる」に揺さぶりをかけるため、普遍を指向したり思考したりするためではなく。読むのではなく、歌う。「わかる」もどきを連れてきて並べて、お経のように唱える、詩吟のように詠じる、歌詞のように節をつけて歌う。読むのではなく、詠む、たわむれる、あそぶ。「わかる」を抽象したところで「わかる」ものか。わかるはわからない。

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 あらゆる生き物は借り物。生まれた時から借り物、そもそも親が借り物、もちろん、はらからも借り物。かりはしぬときにかえす、そしてかえる。借りは死ぬ時に返す、帰す、還す、反す、孵す、そして返る、帰る、反る、孵る、替える、変える、代える、還る。らっきょうの皮。マトリョーシカ

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 あらゆる作品は借り物。作品である以上、そのジャンルや流派で先行する作品を真似る、借りる。それが最低条件。その上でさらに何かを真似る、何かから学ぶ、何かから借りる。ジャンルがなければ、そして作者がいなければ、あるいは「作者不明」という言葉が添えられていなければ、ただの物(下手をすればがらくたとかゴミ)、たわごと(素材が言葉であれば)、雑音(素材が音であれば)。逆に、ジャンルというお墨付きがあり、作者がいて、あるいは「作者不明」という言葉や伝説があれば、何でも作品になる。結果オーライ。アート、文芸、ミュージック、芸の道、学問、宗教、すべてが結果オーライ。きわめて、いいかげん、かげんよし。いい湯だな♬

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 あらゆる作品は借り物。引用、複製、コピー、偽物、模造、剽窃、盗作、翻訳、翻案、パロディ、オマージュ、ミニチュア、蛙の子は蛙、借りてくれば何とでも呼べるのが言葉。そもそも借りる対象が借り物。借りる借りる借りる借りる借りる……。大いなる借りるの連鎖。債務超過。借りすぎに注意!

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 引用。誰々が何と言ったかはどうでもいい。自分で考えるのが楽しい。本を買う必要もない。ネット検索をする手間も省ける。

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 誰々が何と言ったかはどうでもいい。名の知れた人物やある分野で大物とされる人物の名前を文章の中で挙げれば、その文章は格好がつく。人は固有名詞の放つ光に弱い。その固有名詞が挙がっている文章さえ、光に満ちているように見える。固有名詞の光はその周辺の言葉さえ輝かせることがある。虎の威を借りる狐。債務超過。借りすぎに注意!

 固有名詞を列挙すればするほど、その文章はもっともらしく見える。つまり賢く見えるし美しく見えるしすごく見える。それで金儲けができることもある。結局はカネの問題に落ち着く。昔から行われてきた風習であり、何の不思議もない。人においてはよくあること。

 固有名詞にちょっとした解説を付け添えれば、その道の権威に見える。解説付きの固有名詞を集めてデパートを作れば、おおいに尊敬される。日銭程度のお金儲けもできる。時間と労力を費やした対価なのだから堂々ともらえばいい。おめでたい。窃盗とは言わないが詐欺にも言い分はある。それはそれで結構。羨ましい。面の皮を分けてほしい。債務超過。借りすぎに注意!

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 デパート(百貨店)や標本箱やコレクションは楽しい。否定はしない。借り物で飾り立てる。自分の物のように飾り立てる。借り物だと毛にも思わないそして思わせない堂々とした態度が大切。

 引用だって明記しましたよね。ちゃんと引用表示にしてありますけど、何か? きょうび引用なしで物が書けるわけがないじゃん。みんなやってるんだから大丈夫。ヤミ米食べずに死ねとでもおっしゃるわけ? 出典明記、情報源明記、問題なし。借りただけですもの、のーぷろぶれむ。審査なしで即日融資じゃなくて貸し出し可能でおま。ついでに、私が借りたってことも、あなたが忘れてくれるとうれしいな。気づかないでくれるともっとうれしかったりして。やってるうちにわけがわかんなくなるのよね。借りる、ゆえに我あり、気にしない気にしない。引用って空気を吸うのと同じで、誰もがあえて意識しないでやってるのよ。どさくさに紛れて借りまくっているって感じ? 借りてるのに借りてない振りするのもうまくなったし。てか、借りまくっているうちに感覚が麻痺するのは人として当たり前。それが人の道。国だって大借金、話がだいぶずれたかしら。とにかく借りすぎ・多重債務にご注意。

 大英博物館は盗品を陳列した館だなどという戯言に惑わされてはならない。収蔵品は世界各地から避難させ保護したものという理屈。避難させ保護しなかったものについては何も言わない。

 借りる。持ってくる。盗む。「おまえのものはおれのもの、おれのものもおれのもの」(ジャイアニズム出典Wikipedia

 自分の物。人のもの。オリジナル。著作権。見方と立場と利害と時代と場所によって言葉は変わる。紛らわしい。天から授かるまで出てきて、ややこしい。ギフト。天才。天賦。お告げ、ご託宣、神託、投資信託、予言、預言、余弦、コサイン、タンジェント。誰の言葉か分からない。カネ(貨幣、表象、言葉、モノ、サービス)は世間の回り物。責任者不在。致し方なし。結果オーライ。だからあなたもがんばって。

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 何かを論じている文章の思想や意味や意図に至ろうという抽象と詭弁つまりレトリックを指向するのではなく、言葉そのものというレトリックにこだわるという方法で仕事をした人として豊崎光一を思い出します。他に同様の仕事をした人がいるかどうかは知りません。たまたま思い出すだけの話です。

 たとえばミシェル・フーコージャック・デリダの著作にある言葉をまるで詩や小説などの文学作品を相手にするように――論を読むというよりもむしろ歌や詩を詠む手つきで――、丹念にその言葉の修辞(特に比喩)に注目しながら批評を展開したのです(ミシェル・フーコーは『砂の顔』で、そしてジャック・デリダについては『余白とその余白または幹のない接木』「アナグラムと散種」で )。どんな分野に関する論文や著作でも、それが言葉で書かれているならその修辞に注目して批評できます。

 いま言葉と書きましたが、それに数式や化学式なども含めていいと思うものの(数学は言語だというようなレトリックがありますね)、数学や理系の学問にきわめて弱い者としては「含めていいと思う」くらいの言い方つまりレトリックでお茶を濁すしかありません。「数式というレトリック」や「比喩としての数式」なんてわくわくします。

 そうしたフレーズをタイトルにした、あるいはその種のことを論じている文章を読んでみたい気持ちがあるのです。グーグルで検索してみたところ、とうてい読めないような文章が続々ヒットし強烈なめまいに襲われたので諦めました。頭がついて行かないのです。魅力的なテーマであることは確かであり変わりませんけど。

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 借り物は仮象とも言える。借と仮は、はらから、きょうだい。かりのもの、仮のもの、借りのもの。仮面の下に顔を想定するのは致し方ない。想定するなと言うのが無理。仮象、現象、表象、事象、本質……。どこかから借りてきた概念ごっこや普遍ごっこに興味なし。母語は日本語。これで十分。機微まで分かるほどに熟達した外国語なし。翻訳(者)は裏切り(者)。裏切りが悪いとは言えないが。

 仮象。対応物を欠いた、うつろな記号。ただし仮象から連想される事物や有様や出来事はある。仮象と特定の事物や有様や出来事との間に何らかの対応や関係性があるという考え方は魅力的であり、その魅力に抗うのはきわめて難しい。かりに何らかの対応や可能性があるとするならまだ誠実であり正確な物の見方だろう。かりにと保留する態度が正確さへの鍵となる。いま書いたセンテンスもかりにを前提としている、と断らなければならない。やれやれ面倒なこと。

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剽窃から遠く離れて」という記事を書いたことがあります。短いものなのですが、この記事を書くのには苦労しました。よく覚えていないのですが、二、三時間はかかったと思います。

 何に時間がかかったのかと言いますと、夏目漱石の『吾輩は猫である』、芥川龍之介の『杜子春』、紫式部の『源氏物語』、中原中也の『感情喪失時代』、さらにはおまけである、ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarme)の「海のそよ風(Brise maraine)」から引用するのに意外と手間取ったからなのです。

 間違いがあっては申し訳ないので(うそだろ)、きちんと原文を確かめながら、一字一句丹念に写し取ったのです(ほんまかいな)。とくに源氏物語から引用箇所を探すのには苦労しました。あいにく書棚にも押し入れに積んでいるひしゃげた段ボール箱にも、源氏物語の原文はありません。ああ青空文庫があるわ。思いついて、さっそくサイトを覗いてみたところ、青空文庫には原文がないのです。困った困った。ストレスのあまりにトイレに行くはめになりました。

 で、居間に戻りどうしようと考えていて、ひょっとしてと思い立ち検索してみた結果、原文と現代語訳が対訳になっているサイトを見つけたのです。それからが大変です。古文が大の苦手なので、文字を追うだけで泣きそうになり、嫌だ嫌だと声に出しながら、原文を眺めていました。やる気がない作業は能率が上がらず時間がかかるものです。

 何とか記事はできあがりましたが、引用というのは大変な作業だと痛感したと同時に、やっぱり引用はできるだけ控えようという思いを新たにしました。じつのところ、自分の書いた文章や記事からはさかんに引用しますが、ひとさまの文章からある部分を拝借することはめったにしません。とにかく苦手なのです。アホにもアホの芸風というか流儀はあるみたいですね。

 ところで「剽窃から遠く離れる」なんて可能なのでしょうか。「剽窃から遠く離れる」に限らず、レトリックを真に受けると馬鹿を見ますね。この場合のレトリックとはあらゆる言葉と語句と文のことです。言説、ディスクール、テキスト、テクスト、エクリチュール、文言、文句、発言、書かれたもの、話されたこと、何と呼んでもかまいません。いまみなさんの目の前にある記事の駄文はもちろんのこと、どこか別のサイトに飛んで目につくどんな言葉や文もレトリックだと言えます。

 とはいえ、言葉の綾を真に受けるのは人が常にやっていることです。これをしなくなったらひとでなし。どんなにもっともらしい、あるいは馬鹿げた言葉やフレーズも、しょせん言葉。言葉を使えば何とでも言えます。白を黒だと言えます。あるのにないと言えます。ないのにあるとも言えます。あらゆる言説は言葉の綾でありレトリックなのです。真に受けると馬鹿を見ます。とはいえ、いいこともあります。何でもない場合もありますけど。この記事でも、アホがいけしゃあしゃあとあちこちで「言葉の綾を真に受ける」をやっていますね。

 修辞や巧言や言葉の遊びを文字通り受け取ったり真に受けることは楽しいです。何しろ答えなんて出ませんから(出たと思うのは勝手ですけど)、よけいにいらいらわくわくするのかもしれません。むきーっ、でも、たまんねー、なんて具合に。タマネギをむくのと同じで、なかなかやめられません。安心してください。誰にとっても、そうみたいです。だからこそ、自己啓発とかスピリチュアルとか哲学なんて相も変わらず盛況なのでしょう。人間の歴史(histoire)は、自分の作った言葉にもてあそばれ続けてきた歴史であり物語つまり言葉で捏造したフィクションだと言えそうです。

 念のために書き添えますが、いまレトリックに悪態をつくさいにダシに使った「剽窃(ひょうせつ)から遠く離れて」というタイトルは蓮實重彦氏による『小説から遠く離れて』という著作名のもじりです。お借りしていじったということですね。なお、お借りしたその言葉もレトリックであり借り物であることは言うまでもありません。

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 人は誰もが借り物。個人レベルで言えば、「自分」は引用の織物、パッチワーク、ごった煮。いわゆる「意識」のレベルでも、他人によって受け取られる人格やキャラや役割といったレベルでも、生まれ生きて死ぬ生体のレベルでも、人は借り物であり引用の織物。

 DNA、分子、原子に還元される、還る、返る、帰る。受け継ぎ、受け継がれ、食い、喰われ、交わり、混じり、襲い、襲われ、追い、追われる、生体。ヒト、けもの、サル、虫、鳥、魚、菌、植物、ウィルス。等しく繰り返し繰り返される生命。パンタレイ。生者必滅。還る、帰す。土にかえる、海にかえる、空、天ではなく大気にかえる。四元素、四大、五大、火、空気・風、水、土・地。四でも五でもお好きなように。好みの問題。火葬、風葬、水葬、土葬。合掌。

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 パンタレイ、万物流転。輪廻やあの世や天や前世については保留。見た者なし、見たという言葉があるのみ。すべては言葉、物語、フィクション、レトリック。説話、説、伝説、神話、叙事詩、噂話、口承、都市伝説、教義、経典、新聞、ニュース、雑誌、書籍、放送、ウェブサイト。伝聞、捏造、伝達、再現。映像、音声。広義の言葉、言語。言葉、言葉、言葉。

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 人は引用の織物、借り物、パッチワーク。多面体、プリズムという美しい比喩。比喩はたとえ、かりにそうであればというたわごと、戯言、戯事、戯れ言。美しいたとえ。人はたとえというレトリックに弱い。人が人であるゆえん。レトリック、たとえにこころを動かされない者は人に非ず。人非人、ひとでなし。

 人は引用の織物、借り物、多面体、プリズム。あの人、この人、自分、他者、わ、な、てまえ、てめえ、おまえ、かれ、あれ、これ、それが、同時に、あるいはかりに、またはまばらに、ある、いる、おる、おとずれる場。場としての人、自分、意識。仕草、身ぶり、表情、目つきを借りる、まねる、なぞる、にせる、ふりをする、演じる、なりきる、なる。化ける、なりきる、化粧、異装、仮装、真似、仮面、仮名、偽名、改名、変名、a.k.a。この人にあの人を見る、聞く、感じる、似ている。面影、気配、錯覚、忘我、エクスタシー、人違い、なりきり、真似、分身、生き写し、変装、かたり、偽装、擬態、変態、憑依、離人、解離。自分の中にいる別の人、縁者、他人、物、無生物、化け物、化身、かみ、ほとけ、万物。

 たいそうな話ではなく、誰もが日常で経験するささやかな思い、感覚、気分。錯覚なのかもしれない。これはどういうことなのか。軽い意識の障害なのかもしれない。思い過ごし、なりきり、からおけ~~、ぼけー、うわの空、こころここにあらず、意識散漫、ぼんやり、無意識、ああいいきもち、はあ、軽い失神・気絶、お酒なんて一滴ものんれないおー、うぃーっ、眠り、居眠り、夢、夢うつつ。自分が自分でないような。自分の中にいる誰か他の人、あなた、かれ、かのじょ、あれ、それ、It、Es、何かの中にいる自分。いかがわしくうさんくさい話だが否定はできない。言葉、レトリック、言葉の綾、フィクション、かたり、物語であることに変わりはない。特権的な物語、真理・真実、普遍はない。無い袖は振れない。いや、振りがあるのみと言うべきか。

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 人は言葉を借りる。言葉は借り物。借り物から借り物を借りる。この仕組みを人はあやつることはできない。「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みを、人は仕組むことはできないのと同じ。

 言葉を返す、戻す。いまいる誰かに渡す。近くにいる誰かに渡す。遠くにいる誰かに渡す。いつかいる誰かに渡す。渡す、伝えるのではなく、渡すだけ。伝わるわけがない。

 言葉を返す、戻す、渡す。受け継がせる。いつか、この動作も終わる。渡す相手がいなくなる時が来るはず。

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 借りる。借りたものを返す、戻す。貸すは、欲にまみれた返す、戻す。見返りを期待する。みかえる、見返る、見変える。みかえり、見返り、身返り。交換。

 かえすものはなに? 恩、仇、借り、借金、つけ、言葉、からだ、ほほえみ、倍、利子、ナッシング。

 貸し借り、かりる・かえす・かす、返す、返却、返還、返済、返事、返礼、交換、贈与、婚姻、供物、祝儀、ギフト。代価、対価、値。ただ、無償。ただ、只、唯、徒、常、直。

 欲、願い、祈り。欲、五欲、六欲。

 経済学、文化人類学における「借りる」と「貸す」と「返す」。交換。学問、科学であるからには抽象し普遍を目指すという荒唐無稽をおかすしかない。ゲイ・サイエンス、楽問に徹してはどうか。無理だろう。ヒトという種の真理欲、普遍欲、悟り欲は強い。欲深い。ヒトという病。サルという自然。ゴキブリという自然。ウィルスという自然。ヒトだけがあそこを病んでいる。地球を巻き込んで。ゴキブリにも明日があるのに。ウィルスにも明日があるのに。だから、ヒトの欲を全面的に肯定し加担するわけにはいかない。

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 意味、意図、概念を考える時、つまりレトリックを真に受ける時、人はレトリックに負けている。負かされている、任されている。人は言葉になっている。なりきっている。言葉にならない限り、言葉を読めない。反論する、否定する、批判する、論破する、悪態をつく。そうした目論見をいだいたとたんに言葉に負ける。読んだとたんに言葉にねじ伏せられている。

 読む人は、言葉を受け入れざるを得ない。正確に言えば、言葉にならざるを得ない。反論や否定や罵倒は、その次の話。

 言葉、レトリックをやりすごす。真に受けない。模様と音として目と耳でやりすごす。写経、うとうとしながら読む、習字、書道、筆写。言葉を目でやりすごす。お経、念仏、国会の答弁、授業や講義での教師の声、歌。読むのではなく、むしろ詠む、唱える。言葉、レトリックを耳でやりすごす。

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 言霊。意味でも概念でも意図でもない。ひょっとすると音でも模様や形でもないかもしれない。言葉がレトリックになりそこなう時、つまり言葉を真に受けない時に言霊が立ち現れる。とはいうものの、言葉を持つヒトだけに通じるギャグ、お話、フィクション、作り話、でたらめ、たわごと。

 言葉、レトリックはヒトの心身を揺らぎと動きに誘う。経路、筋はすでに敷かれている。人は筋なしに生きられない。筋、経路、いみのいみ。経路、筋が敷かれているのがヒト。ヒトのみ。他の生き物に聞かせても、ぽかーん。馬鹿にすることなかれ。死する、筋を知るつまり死を知るヒトのほうが賢いという錯覚と傲慢、他の生き物にとっての不幸と災い、この星にとっての危難と終焉への道筋。

 初め、言葉は放ち、話し、歌うためのものだった。いつしか人は言葉を真に受けるようになり、言葉は読むものになった。夢との架け橋だった言葉が、うつつでさらに目覚めるための道具になりさがった。言葉には荷が重すぎる。

 それでは言葉がかわいそう。むしろ人には荷が重すぎると言うべき。身の程知らず。だからこそ、人。身の程を知らないから、ここまで来た。言葉を道連れにして。それだけではない、この星の他の生き物たちも道連れにする勢いで。

 そもそも言葉は放ち歌うためにある。いまも人は唱え歌う。憑かれたように唱え歌うことがある。心地よさが忘れられない。頭ではなく身体が覚えている。はなれられない、はなさない。依存。ある意味では病。ただし、せめてもの救いとも言える。人が読むよりも、詠み唱え歌っていれば、この星も安泰。

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『批評 あるいは仮死の祭典』

『仮往生伝試文』

 邪魔なので二重かぎ括弧をはずしましょう。

 批評 あるいは仮死の祭典

 仮往生伝試文

 こうやって並べてみると、批評のあとの一字空けが巧まれた切れ目のようにも見えてきます(この種のことには、蓮實重彦は敏感なはずです)。仮往生伝のあとは意味的に切れますね。一方が和歌か俳句の句、もう一方が漢詩の句のようにも見えると言ったら、笑われるでしょうね。それでもいいです。今は「個人の感想」どころか、もっと荒唐無稽でテキトーな「意味」や「ニュアンス」や「イメージ」の話をしているのですから。さらにほうけましょう。

 両者が韻を踏んでいるようにも見えます。音(おん)ではなく、イメージあるいは意味の韻というか……。あくまでも比喩ですけど、符合(ふごう)と付合(つけあい)の気配を感じます。お叱りの声が聞こえるようですが、さらにボケます。これも比喩ですが、連句連歌の趣すら覚えます。

 音(おん)にも注目しましょうか。かなとラテン文字をつかいます。結局は音といよりも文字の字面に目を配ることになりますが。

 ひひょう あるいわかしのさいてん

 かりおうじょうでんしぶん

 ヒヒョウ アルイワカシノサイテン

 カリオウジョウデンシブン

 hihyo aruiwa kashi no saiten 

 kari ojo den shibun

 io auiaaioaie

 aiooeiu

 うーむ。こうやって眺めてみると、やはり音の韻よりも字面や意味の連想から生じるイメージの韻を強く感じます(進行している難聴も関係あるのかしら)。特に「かし・kashi・ai」と「かり・kari・ai」の放つオーラは強烈です。

 長いあの文芸批評と小説がそれぞれのタイトルに集約あるいは凝縮されているなどという抽象は言いません。今ここにある言葉と文字という具象・かたちとたわむれているだけです。

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『批評 あるいは仮死の祭典』そして / あるいは『仮往生伝試文』

『仮往生伝試文』そして / あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』

 あくまでも個人的な思いなのですが、『批評 あるいは仮死の祭典』で『仮往生伝試文』を読むことも、『仮往生伝試文』で『批評 あるいは仮死の祭典』を読むことも十分に可能だと思います。文字を追いながら、読んでいるのとは別のことを考えるという読み方が身についているので、無意識のうちにそうした読みをしている気もします。一方の本を読みながら、もう一方の本のことを考える。私にとって、これほどわくわくぞくぞくする体験はありません。同床異夢をひとりでやっているような感じなのです。そういう時の私はおそらくひとりではありません。だからわくわくぞくぞくするのでしょう。

 勝手気ままに読むのはじつに気持ちいいものです。眠くなってきました。疲れも感じます。しばらく横になります。仮死あるいは仮往生の夢でも見ることができればいいのですけど……。