3/3『仮往生伝試文』そして / あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』その3

「ふり」を装う身振り

 

 蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』は徹底して死んだふりをしています(じつは生きているふりをしているものの死んだふりなのですけど)。横たわって死に顔をつくり、えへへとこころで笑っているかのようです。ある意味とても面倒くさいです。真性のかまってちゃんなのです。想像してみてください。生きているのに死にまねをしているのですよ。本当は生きているのをみんながわかってくれないから、ひっくり返って、ねえねえ死んでいるんだよとからだ全体で訴えているかまってちゃんなんです。相手をするのは疲れますよね。何が生きているのかというと、言葉なのですけど。

 じつはこういうかまってちゃんって、Mなんです。

マゾッホとサド』(ジル・ドゥルーズによるこの著作を蓮實重彦が訳したのが希有な符合つまり必然に思えてなりません)で指摘された、ずる賢くしたたかなMの資質を具現しているとも言えそうです。とてもじゃないですが、持久力も戦略も狡知も持ち合わせていないSには太刀打ちできません。そもそもSとMのあいだには相性など成立しないほど、両者は隔たっているし異質な存在同士なのです。「ねえねえ、死んでいるんだよ(じつは生きていることを主張しています、面倒くさいこときわまりありません)」と相手を根気よく飼い慣らしあやつり翻弄するM。その相手ができるのは、たとえMでなくてもMの世界の住人でなければなりません。

 それにしても、ややこしいですね。大儀ですね。こういう話は図式化という横着をするのがいちばんだと思います。

        *

*Mの世界:

 基本は、教育と演技(演劇・振りをすること)と遊戯。要するに、プレイ。

 Mはどんな人?:

 教育者(自分が気持ち良くなるためのストーリーと方法を相手に教える教師)。しつこい、根気強い。かまってちゃん。自己中だけど、快感を得るためなら少々のことは我慢する。言っていることと望むことがしばしば真逆(たとえば、「駄目」は「OK」、「やめて」は「続けて」、「死にそう」は「めっちゃ気持ちいい」)。主導権は自分が握る。要するに、めんどくさい。最も重要なポイントは、Mはじつは「ご主人」であること。

 Mの相手には、どんな人物が適するのか?:

 従順。元気で健康体であることが望まれる。Mのお願いや注文(実は命令と指示)に根気よく従う良き生徒。要するに、Mの奴隷。必然的にMの協力者や「共犯者」に仕立てあげられてしまう。なお、Mの相手をMがするという状況は珍しくない。

 Mの相手に最も向かないのは?:

 S。

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*Sの世界:基本は暴力。しかも一方向(一方的)。要するに、攻撃。

 Sはどんな人?:

 自己中で相手に有無を言わせない。忍耐強くない。快感を得るためのストーリーはなく、計画性は希薄で衝動的。ある意味、単純。主導権という観念すらない。とは言え、もちろん、知性や知力とは必ずしも関係があるわけではない。

 Sの相手には、どんな人物が適するのか?:

 従順。元気で健康である必要はない。相手が人間であることは言うまでもないが、極端な場合には相手は物(比喩)でもいい(たとえば、相手は比喩的な意味での切断された四肢であったり、比喩的な意味での死体であったりしてもいい)。なお、被害者や犠牲者になる可能性が高い。したがって、Sの行為は犯罪との親和性が高いと言えよう。

 Mの相手に最も向かないのは?:

 S。

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 お分かりになったでしょうか。SとMは別の世界の住人なのです。世界観が異なるとも言えるかもしれません。

 さらに図式化してみます。

*通念:サディストとマゾヒスト、主人と下僕が相反するペアだと考える。

 Sadist           Masochist

 Master(主人)      Servant(下僕)

 上の図式を見ると、SMではなくむしろMSどす。

*Mから見た関係=Mの世界

 Masochist=Master=自分    Servant(下僕)=相手

*Sから見た関係=Sの世界

 Sadist=Master=自分      Servant(下僕)=相手

 ご覧のように、Mの世界には Servant(下僕)はいても、Sadist の入る余地はないのです。一方、Sの世界にはServant(下僕)はいても、Masochist の入る余地はないのです。

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『批評 あるいは仮死の祭典』の言葉と文章たちは、読む者を根気よく教育します。詩的で抒情的な文体に見えるものの、論理的に組み立てられた文から成り立っています。とはいえ、センテンスがかなり長いために、プルーストの原文を律儀に日本語に置き換えた、井上究一郎訳の『失われた時を求めて』を読むのと同じくらいの忍耐が要るのではないでしょうか。

 合う合わないはおおいにあると思います。合わない読者には、この批評集はフローベールの小説のように退屈きわまりないにちがいありません。とはいえ、比喩ですが「教育者である」この書物は「生徒」を裏切りません。なかなかいかせてくれませんが、ちゃんとその教えに従えば然るべきところにいけるという意味です。ただし、どこかにたどり着くという到達や達成が大切なのではありません。たどり着くまでの過程こそがきわめて重要なのです。性急に結論を求める読み方では読めるものも「読めていない」ままで終わるとも言えそうです。要約やパラフレーズも有効な読み方ではないでしょう。比喩ですが、この書物はいわば動詞・動体であって名詞ではありません。

 ややこしいことを書いて、ごめんなさい。あくまでも個人の感想です。蛇足ですが、付け加えます。『批評 あるいは仮死の祭典』を好んで読む人がいるとすれば、その方はSではないと断言できます。短絡して、Mでなければならないとは言いません(Mの相手をMがしていることは往々にしてありますが)。ただし、Mの世界の住人でなければ読めないのは確実だと思われます。繰り返しになりますが、この書物は動詞・動体です。読むさいにはMの世界の仮の住人、つまり旅人であってかまいません。死んだふりに付き合ったあとは「お疲れさま、バイバイ」というわけです。とはいえ、へとへとでしょうね。Mの相手をするのは疲れます。

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 総じてあれよあれよと読み進めることのできる『批評 あるいは仮死の祭典』なのですが、この書物にはジル・ドゥルーズアラン・ロブ=グリエミシェル・フーコーロラン・バルトジャン=ピエール・リシャールという固有名詞が出てきて、それぞれの人名をめぐって章が分かれるという作りになっています。この本の目次を見るとわかりますが、学術論文のようにきちんとした構成になっています。

 個人的には、ドゥルーズフーコーとバルトを扱った部分では「収斂」を感じて(意識が狭く限定されていくとも言えます)、「なるほど」と思う箇所が多々あります。一方、リシャールを論じた部分では「拡散」を感じ(意識がどんどん広がるとともに薄れてもいきます)、読んでいる自分が崩壊していくような危うい快感を覚えます。

 ロブ=グリエを扱った章では、ロブ=グリエ作の小説『覗くひと』をめぐり、数字の8という細部とそれを横にした無限大の符牒である∞についての指摘に冷ややかな視線が送られている部分に、作品における「謎」への嫌悪と疑問が露呈していて興味深いです。蓮實が後に上梓することになる『大江健三郎論』での数字の扱い方、そして『小説から遠く離れて』での謎の提示と解決という定型への嘲笑あるいは冷笑を予告しているようにも読めます。

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 私は大学の卒業論文ではロラン・バルトを扱いました。バルザックの中編小説『サラジーヌ』をバルトが批評した『S/Z』を批評するというかたちを取ったのですが、このときほど「お勉強」をしたことはありません。在籍していたフランス文学科では論文の書き方が厳格なのです。たとえば、引用した文章が邦訳である場合には、その原文を併記しなければなりませんでした。フランス語の原著を読みこなすだけの力はありませんから、邦訳のある文献と原著探しで数か月間忙殺されました。

『批評 あるいは仮死の祭典』にはロラン・バルトと蓮實氏との「対話」が収録されているので、そこからも引用するつもりでいました。大学では蓮實氏が非常勤講師として教えていらっしゃったので、原文を手に入れたいと同氏に申し出ました。対話を録音したテープならあるが、どこにあるかわからない。文字にはなっていない。そんな意味の返事だったと記憶しています(先生、間違いでしたら、ごめんなさい)。指導教官に事情を話し了承を得たので、その部分だけは原文を添えずに論文を提出しました。

 学部段階での卒論ですから、たいしたことを書いたわけではなりません。種本にしたのは、スティーヴン・ヒース(Stephen Heath)という、主に映画評論を手がけていた英国人による Vertige du déplacement (日本語にすれば「変移のめまい」つまり、「あちこち目移りして、とっかえひっかえしているうちに、目が回っちゃった」)という書物でした。「めまい」というのは、「めくばせ」とは違いますが、個人的にはとても気になる言葉です。

 バルトは、批評の対象をとっかえひっかえする「変移」の人でした。何しろ飽きっぽいのです。あちこちをクルージングするのですが(ここは意味深です)、すぐに退屈してテリトリー、つまり研究の対象である分野を転々と変えました。このバルトの身振りについては、『批評 あるいは仮死の祭典』所収のバルト論にある「対話」のなかでバルト自身が興味深い発言をしています。「ステレオタイプ化された言語に対する吐き気」という言い回しなのですが、おおいに共感したのを覚えています。

 あの卒業論文のコピーが押し入れのなかにあるはずです。久しぶりに読んでみようと今思ったのですが、お腹が急に痛くなってきたのでやめます。

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 学生時代にはフーコーとバルトには並々ならぬ興味があったのに、今ではぴんとこないどころか、あたまのなかにほとんどないのです。その一方で、現在気になるとりとめのないさまざまなことは、ドゥルーズが問題にしていたような気がする(ドゥルーズの著作をほとんど読んでいないので「気がする」としか言えません)という思いがあります。飲みこみの悪い人間なので、考えるのに時間がかかっているみたいです。しつこいですね。ねちっこいというか。だからこそ、半世紀近くにわたってMな書物の相手をしているのでしょう。私がMないし(Mの相手をMがすることはよくあります)Mの住人であることは確かだと思われます。では、どんなことが気になっているかと言うと、言葉と言葉との(概念と概念との、ではなく)関係性だと要約できるような気がします。

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『批評 あるいは仮死の祭典』にある「Ⅰ現界体験と批評――現代フランスにおける<知>の相貌」に「Ⅴ現界体験と批評」という文章があります。そこでは最後のほうになって安岡章太郎藤枝静男への言及があるのですが、学部生時代にここに刺激を受け、さっそく両作家の小説を読み漁りました。一九七四年刊の『批評 あるいは仮死の祭典』に続き『「私小説」を読む』(志賀直哉論・藤枝静男論・安岡章太郎論)が一九七九年に上梓されたさいには、対象になっている三人の作家を集中的に読んだものです。結果的には、安岡と志賀は読んでも楽しめないままに終り、藤枝はこの十年ほどのあいだに俄然おもしろくなり現在もときどき読んでいます。

 それはさておき、『「私小説」を読む』でも感じることなのですが、蓮實重彦フロベールの言葉を対象にした批評の言葉と方法を獲得するために、フランスの思想家や作家や批評家を論じ、さらには日本の作家を論じたという気がしてなりません。誰について論じても、それはフローベールを語るための余技であり、他の書き手を出しにして実際にはフローベールの言葉を論じているとも言えそうです。

『批評 あるいは仮死の祭典』でいちばん好きなのは、フローベールという文字(これは固有名詞であり言葉なのですがあえて文字とします)が出てきたときの、文章の醸しだす色気です。「フローベール」と書かれたとたんにその周辺の言葉がなまめかしい仕草と表情を見せるのは、いったいどういうことなのでしょう。「フローベール」は蓮實氏にとって特権的な文字だとしか言いようがありません。

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 蓮實重彦の『批評 あるいは仮死の祭典』では、ミシェル・フーコーアラン・ロブ=グリエジル・ドゥルーズロラン・バルトジャン=ピエール・リシャールが扱われていますが、フーコードゥルーズとバルトについてはインタビュー(バルトを除いて蓮實がその自宅やアパートに訪ねていく)があり、またその生の人物像が語られていて、私のミーハーな気持ちを満足させてくれます。ルポルタージュ形式の小説みたいなので、楽しく読めます。

 これだけ臨場感にあふれるフランス思想のテキストは他にはないのではないでしょうか。何しろ見てきたように語られているのですから。実際、そうなんですけど。

『批評 あるいは仮死の祭典』で印象に残っている「ルポルタージュ」があります。一九七二年の一月にパリで三日間にわたってプルーストをめぐるシンポジウムが行われ、「プルーストとヌーヴェル・クリティック」という会が持たれたという。その発言者たちの顔ぶれがすごい。ロラン・バルト、ジャン・ルッセ、ジャン・リカルドゥー、ジェラール・ジュネット、セルジュ・ドゥブロウスキー、ジル・ドゥルーズ。しかも聴衆の中に小説家クロード・シモンや批評家ジャン=ピエール・リシャールがいた。

 その会場にいた蓮實が耳に挟んだという隣席の男のつぶやきが当時の状況を伝えていて興味深い。

(前略)今夜の客を見ろ、あれがプルーストって顔かよ、(中略)、ほらあの女の子はバルトの本をかかえている、連中はみんなバルトを見に来たんだ、(中略)、彼等はサインでももらえればとっとと帰ってゆくんだ(後略)

蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』p.38、丸括弧内は引用者による。)

 ミーハーな私はこのあたりの描写で、もうため息吐息でめろめろへろへろになります。その会でジル・ドゥルーズが登場して、会場の雰囲気が一変するのですが……。それはいったいどういうことなのか。これ以上引用も要約も私にはできません。この本を読んでいただくのがいちばんいいと思います。

 お祭り騒ぎの雰囲気のイベント。数々の新しい手法を用いた批評のプレゼン大会。ミーハーな観客たち。そんな現場を活写した蓮實の文章はいま読んでもスリリングです。とりわけ、新しい批評がフランスという場でどのような登場の仕方をし、どのように受け入れられていったか、については歴史的な文脈に置いて考えることが不可欠だと感じます。新旧の対立とかせめぎ合いという単純な構図には収まらない「事件性」があったのです。そして蓮實はその事件に立ち会ったのです。

『批評 あるいは仮死の祭典』が出版された時期の日本はどうだったか。雑誌「エピステーメー」をはじめ、雑誌「パイデイア」、雑誌「海」といった雑誌におけるさまざまな書き手の活動が、当時の状況を歴史的な文脈として考えるさいの資料になると思います。いま振り返ると、フランスとは状況がかなり異なっていたのが分かります。とくにアカデミックな場での状況は日仏では大違いだったみたいです。

 日本では――哲学や思想界ではなく――むしろ文芸や文芸批評の担い手たちが、フランスの新しい哲学と思想を紹介・導入する際に積極的で大きな役割を果たしたことは注目していいと思います。

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 蓮實重彦著『フーコードゥルーズデリダ』をときどき拾い読みします。通して読むことはないです。思考停止的な印象、つまり個人の意見および感想で恐縮ですが、この著作でのフーコー論は物語みたいです。何度も読み返さないと分からない物語。読み返しても分からない物語。それでいいのだと思います。あれよあれよと読み返しています。

 ドゥルーズ論は現代詩という感じがします。とうてい言葉では伝えられないし説明できないような「何か」をレトリックでほのめかす。そんなポエムです。詩ですから、理解というよりも鑑賞するつもりで読むといいかもしれません。

 デリダ論は、この著作ではいちばん読みやすいし分かりやすい気がします。記述が図式的なのです。チャート式ということですね。明晰という言い方もできそうです。読むとすっきりします。言語学のまとめとか整理に最適の解説だと思います。

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 言葉が言葉に対してどんな仕草をし、どんな表情をまとうのかを文章というかたちで示す。概念にさからいながら、そして意味の固定化にあらがいながら。その文章は、言葉が生きていることを言葉の死にまねというかたちで、しつように読む者に訴える身振りを取る。ねえ、見て。ねえ、かまって、と。

 哲学や文学に付きものの概念や、作者の人生や思想という抽象と、哲学用語や文学理論でもちいられる語のいかがわしさに向けて、徹頭徹尾流し目を送りながらも、決して同調しない。ねえ、死んでいるのよ(=生きているのよ)、それでもいいの(=きてきて)? この挑発に乗ってくる者がいれば、根気よく調教する。生きていることに頑迷なまでに目を向けようとしない愚鈍な相手には、それしか方法がないかのように、愚鈍なまでに粘り強く頑迷に。

 あるいは、次のようにも言えるかもしれません。

 じつは生きている「ふり」をしているものが死んでいる「ふり」をするという言葉に起きている事態を言葉が語る以上、その言葉は読む者が性急に求める概念化や意味の固定化にさからわざるを得ず、要約やパラフレーズを無効にするための修辞と表記をもちいて、根気よく読む者を導こうとするほかない。つづられる言葉はどうすればいいか。徹底して「ふり」を装うしかない。まねるとか演じる(プレイ)と言ってもいい。つまり、Mの常套手段である(言うまでもなく書き手がMという意味ではない)。たとえば、上述の『フーコードゥルーズデリダ』での各論考の冒頭に見える、論文の文章と言うよりも小説や詩に似た文章のように、「とりあえず」と。「かりに」こうだったらとか、「たとえば」こうも言えるのよというふうに、ひたすら「ふるまう」つまり「ふり」を装う。周到かつ執拗に断定は避けつつ。いずれにせよ、「ふり」を装う身「振り」が読む者にとってある種の読みにくさ(タマネギをむき続けるようなもどかしさ)につながるのは言うまでもない。

『批評 あるいは仮死の祭典』で起きていることを、あえてたとえるとすれば、そんな感じではないかと思われます。