言葉は外から来るもの

こういうことはよくあります

 自分の言ったことや書いたことについて、後になってよくあれこれ思いをめぐらします。ああでもない、こうでもない、ああでもある、こうでもある、という具合につっこみを入れるわけです。ひとさまの文章や発言にそうする習慣はありません。 

 要するに、往生際の悪い、うじうじした性格なのでしょうね。

        *

 世界は似たものに満ちている。
 世界は顔で満ちあふれている。

 似ているはいたるところにある。
 同じや同一はない。
 似ているは印象。

 同じと同一は検証しなければならない。それも機材を用いて科学的に精密に。
 似ているが人にとっての体感できる現実。
 同じと同一は人にとっては抽象でしかない。

(拙文「剽窃から遠く離れて あるいは引用の織物」より引用)

        *

 繰り返してばかりで恐縮ですが、「似ている」は個人の印象であり感想であり意見です。「違う」もそうじゃないでしょうか。あるものとそれとは別のものが本当に違うかどうかは、かなりマジにそれこそ機械とか器機を使って検証しないと判断できないのではないでしょうか。

 見ただけでは分からない気がします。「違うんじゃないの」としか言えないという意味です。もちろん、さきほど上で述べたように、明らかに違うと思うもの同士を人は比較しないという前提があっての話ですよ。そう、話なんです。論とか説なんてものじゃありません。

 その意味で「違う」は、「同じ」とか「同一」と同じです。検証しないと判断できないという意味で似ています。そっくりです。そっくりなところがそっくりなのです。

(拙文「世界は顔で満ちている ――人は夜になると洗濯をする――」より引用

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 上で書いたことについて、さっきから考えています。

 人にも感知できる「同じ」と「同一」があるのではないか。それだけでなく「違う」や「異なる」もです。今はそんな気がします。こういうことはよくあります。ですから、また前言を撤回する可能性が高いと言えます。

 これは、たぶん、私が正解とか正答(あるいは悟り)を求めていないからだと思います。だからこそ、フランスの現代思想と呼ばれるものに惹かれたのかもしれません。ミシェル・フーコージル・ドゥルーズジャック・デリダジャック・ラカンといった人の著作を読みながら、正しさとか本当とかを求めているかに見える人がいるのには驚きます。

 何をどう読もうと、人それぞれですし、その人の勝手であることは言うまでもありません。

        *

 話は少しずれますが、かつてフランスの現代思想が日本に紹介された際にその担い手となったのは、哲学者やアカデミックな哲学研究者ではなく、むしろ文学研究や批評に携わる人たちが多かったのを思い出します。

 後者の人たちには、紹介する対象となる著作に唯一の解(まして真理など)を求める傾向は希薄であり、徹底して対象であるテクスト(言語作品)と戯れるという姿勢が基本にあった気がします。あたかも経典や聖典のように有り難く戴いて読むという態度からはほど遠かったという意味です。

 特に記憶に残っているのは豊崎光一先生のなさったお仕事です。

        *

 ジャック・デリダという、やはりフランスの人が聴覚的な比喩を多用した思索家であったとすれば、フーコーは視覚的な比喩を用いた思想家でした。デリダの文章では、声や鼓膜を始め、ティンパニだの太鼓だの鐘だのが出てきた記憶があります。それに知的アクロバットのような駄洒落の連発が特徴でした。

 一方、フーコーは、襞(ひだ)を視る【※フーコーについてのドゥルーズの見解だったかもしれません】とか刑務所の監視塔とか砂浜の光景とか絵画・美術作品などをめぐって長文の論文を書きました。駄洒落はあまり得意ではなかった気がします。

 なんて、見てきたような、つまり自分で原著を読んだような口調で話しましたが、デリダフーコーについての以上のお話は、豊崎光一先生の著作からの受け売りです。豊崎先生は哲学書と呼ばれるであろうテクストを、文学作品を読むときと同様の手法で丹念かつ精緻に読んでいました。その手際は斬新で、目を開かれる思いがしました。残念ながら、故人です。その著作は、今では入手しにくいと思います。

(拙文「病室の蛍 【モチーフ&断片集】」より引用・【 】内は引用に際して加筆したもの)

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 パリ・フロイト派だの、フロイト大義派だのという「言葉=レッテル=ラベル=レーベル」がまつわりついている、ジャック・ラカンが考えていたらしきことには、とても興味がありますが、ラカンは、ジャック・デリダ同様に「ダジャレ」=「比喩の多用」の名人=迷人ですから、フランス語から日本語に翻訳するのは無理でしょう。読んでも大儀なだけです。良心的で丁寧な解説書(今あたまにあるのは、ラカンの解説書ではありませんが、豊崎光一による、ドゥルーズ=ガタリリゾーム・・・序』、『余白とその余白または幹のない接木』(デリダ論)、『砂の顔』(フーコー論)です)を読んだほうが、ましだと思っていますが、現在では、あいにくその方面に疎くて、解説書にもめぐりあっていません。

(中略) 

 2項対立は、すっきりしすぎていて=きれいすぎて=話ができすぎていて、実に、あやしい=いかがわしい=うたがわしい=うさんくさい感じがします。えっ? 「うさんくさいのは、おまえだろう」ですか? 確かにそうだと思います。返す言葉がありませんので、話を変えます。

(拙文「かく・かける(6)」より引用)


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 詩への評に、デリダドゥルーズの著作についての「余白」への書き込みを『引用の織物』に織り込んだ宮川淳氏のお仕事も忘れられません。

        *

 フランスの現代思想および文芸批評の分野で活動していた人物を、ルポルタージュする一方で、その著作にある「思想」ではなく、あくまでも書かれたテクストの言葉たちの演じる身振りに視線を這わせながら、日本語の身振りとして演じた書物として、蓮實重彦氏の『批評 あるいは仮死の祭典』と『フーコードゥルーズデリダ』を挙げたいと思います。

 総じてあれよあれよと読み進めることのできる『批評 あるいは仮死の祭典』なのですが、この書物にはジル・ドゥルーズアラン・ロブ=グリエミシェル・フーコーロラン・バルトジャン=ピエール・リシャールという固有名詞が出てきて、それぞれの人名をめぐって章が分かれるという作りになっています。この本の目次を見るとわかりますが、学術論文のようにきちんとした構成になっています。

 個人的には、ドゥルーズフーコーとバルトを扱った部分では「収斂(しゅうれん)」を感じて(意識が狭く限定されていくとも言えます)、「なるほど」と思う箇所が多々あります。一方、リシャールを論じた部分では「拡散」を感じ(意識がどんどん広がるとともに薄れてもいきます)、読んでいる自分が崩壊していくような危うい快感を覚えます。

(拙文「3/3『仮往生伝試文』そして/あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』【後篇】」より引用)

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 蓮實重彦の『フーコードゥルーズデリダ』をときどき拾い読みします。通して読むことはないです。思考停止的な印象、つまり個人の意見および感想で恐縮ですが、この著作でのフーコー論は物語みたいです。何度も読み返さないと分からない物語。読み返しても分からない物語。それでいいのだと思います。あれよあれよと読み返しています。

 ドゥルーズ論は現代詩という感じがします。とうてい言葉では伝えられないし説明できないような「何か」をレトリックでほのめかす。そんなポエムです。詩ですから、理解というよりも鑑賞するつもりで読むといいかもしれません。

 デリダ論は、この著作ではいちばん読みやすいし分かりやすい気がします。記述が図式的なのです。チャート式ということですね。明晰という言い方もできそうです。読むとすっきりします。言語学のまとめとか整理に最適の解説だと思います。

(拙文「3/3『仮往生伝試文』そして/あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』【後篇】」より引用)

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 話を戻しますが、自分の書いたことを読み返しながら右往左往するのは、思考云々というよりも、やはり性格的に煮え切らなくて、ふらふらしているということでしょうね。でも恥ずかしくはありません。そんな自分には慣れました。

「違う」は、「同じ」とか「同一」と同じです――。と書いた時点から、そうなるのは当然であり、ただ気づくのに時間がかかったというお粗末な話なのです。こういうことはよくあります。

 繰り返しますね。人にも感知できる「同じ」と「同一」があるのではないか。それだけでなく「違う」や「異なる」もです。今はそんな気がします。


言葉は外から来るもの

 唯一、「同じ」とか「同一」とか「違う」とか「異なる」と人が感知できるものがあります。それは、言葉ではないでしょうか。

 言葉こそが人にとって唯一体感あるいは感知できる「同じ」であり「違う」であるという気がします。おそらく、「違う」が地で「同じ」が模様ではないでしょうか。基本が「違う」でその上に「同じ」や「そっくり」や「似ている」があるとも言えそうです。

 地にある「違う・異なる」は言葉以前だという気がしてなりません。その意味で「わからない」であり「しらない」であり「おそろしい」という状態であり感情なのかもしれません。知覚や感知以前の感覚だという気がします。

  同一

  同じ

 そっくり

 似ている

違う・異なる(わからない)(しらない)(おそろしい)

 なぜなら、おそらく、人にとって、言葉は外から来るものであり、外との接点でもあり、外のものだとも言えるし、たぶん外そのものだからだかもしれません。そもそも、信用することに無理があるのです。

        *

 赤ちゃんは耳から聞こえてくる、そして空気や身体の振動でもある、言葉を外から自分に入れる。それを真似る・真似ぶ・学ぶ。そして自分もはっする・放つ・離す・話すようになる。

 同時に表情や印や仕草を目にし、それに反応したり、それに対して自分も似たようなものを発するようになる。

 文字の存在も知り、それを真似る・真似ぶ・学ぶ。なぞり、引っ掻き、掻く・描く・書くようになる。

 言葉はみんなのもの。
 誰もが生まれた時に、既にあったもの。

 言葉は真似るもの。
 誰もがまわりの人の言葉を真似て学んだ。
 まねる、と、まねぶ、と、まなぶは、きょうだいだったらしい。

 自分が口にする言葉は既に誰かが言ったもの。
 自分が書いている言葉は既にどこかに書いてある。

 言葉は借り物。
 既にある言葉を借りて使わせてもらう。

 借り物は返さなきゃならない。
 次の世代のために残すもの。

 だから、大切に使おう。

(拙文「剽窃から遠く離れて あるいは引用の織物」より引用)

        *

 とはいえ、依然として、言葉が外から来たものだという違和感が残り続ける。言葉をつかってうまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。うまくいかないことのほうが大きく感じられる。悩ましい。いらいらする。つらい。

 言葉をめぐって人は悩み苦しんできた。そう言えそうです。もちろん、こんことで悩むのはごく一部の人です。悩んでいいことなど、これっぽっちもないからです。

チャンドス卿の手紙 - Wikipedia
ja.wikipedia.org

 

言葉は後押ししてくれる

 あれとこれが似ている。同じかもしれない。同じだろう。同じに違いない。同じはずだ。同じと決める。同じだ。

 あれとこれが似ている。でもちょっと違うみたい。違うかも。違うだろう。違っているに違いない。同じわけがない。違うと決める。違う。

 だって、犬と猫だもの。イヌとネコはちがうでしょ? inuとnekoは音だって違う。文字だって違う。見た感じも違う。

 こういう時に、言葉で「違う」ということがどれだけ勇気づけてくれることか。どれだけ判断を後押ししてくれることか。だって、イヌとネコは違う言葉だもん。辞書や事典や検索をすれば「違う」って書いてあるもん。

 言葉は後押ししてくれる頼もしい存在なのです。これに頼るともう抜けられません。事実とは、真理とは、本当とは、言葉なのです。

        *

 言葉の働きは、区別することです。わける、分ける、別ける、わかる、分かる、解る、判る。ね? わかったでしょ? わけるとわかるのです。わけないとわかりません。言葉は魔法。イッツ・マジック。イッツ・ア・ミラクル。

 言葉の基本には「違う」があります。「わける」なんて面倒くさいことを言う前に、違っているのです。

 有無を言わせず、「違う」がある。世界は「違う」からできている。そう感じさせるのが言葉なのです。

 言葉は外から来たものです。育った場所や時代が異なれば、覚えて身につける言葉も異なります。英語、日本語、アラビア語、中世ドイツ語、古代ギリシャ語、古代中国語……。でも大丈夫。翻訳ができます。不思議です。摩訶不思議。言葉は魔法。イッツ・マジック。イッツ・ア・ミラクル。

        *

 言葉の基本には「違う」があります。「わける」なんて面倒くさいことを言う前に、違っているのです。

 有無を言わせず、「違う」がある。世界は「違う」からできている。そう感じさせるのが言葉なのです。

 世界は「似ている」に満ちています。というか、ぼーっとしていると似てくるのです。でも、顔を洗ってしゃきっとすると、世界は「違っている」に満ちたものになります(見えます)。それが知識であり情報であり理解であり教養であり、ひょっとすると悟りなのです。

 しゃきっとする。
 覚醒した気分になる。
 世界がクリアに見える。

 これは強力な、いや最強の嗜好品ではないか。
 最強の嗜好品どころか、きわめて危うい薬物なのではないか。
 嗜癖している相手に嗜癖を説いても、無駄。

「だいじょうぶだお。らりってなんかいないおー」

 いずれにせよ、

 言葉は魔法。言葉ってすごい。
 言葉は魔法。

 無から有を生むのが言葉という魔法。
 そんな言葉を誘い出す嗜好品。

 魔法を生み出す嗜好品。
 嗜好品、恐るべし。
 ヒトにとって言葉こそが最強の嗜好品なのかもしれない。

 自然界では得られない言葉という「嗜好品」を呼び出すために嗜好品をもちいる。

 ヒトはややこしい生き物だ。
 ヒトは言葉に依存・嗜癖している。言葉なしでは生きられない。

 言葉は物神・事神・言神。
 言葉は魔法。

(拙文「言葉を誘い出すもの <言葉は魔法・023>」より引用)


言葉はわける

 言葉はわけます。これが言葉の最大の最強の武器です。わけるから、世界がわけられ、わかるのです。

 違う異なるという漠然とした気持ちを、言葉は音と文字という感知できる形で「違う」「異なる」としてくれます。「違う」と「異なる」が目に見えて、耳で聞こえるのです。こんな心強いことはありません。

「似ている」という曖昧なものをわけることさえ可能にします。「同じ」「同一」「似ている」「そっくり」「違う」「異なる」――これらは全部言葉です。石と卵は違います。見て誤魔化されたとしても、言葉で違うと決めれば、違うのです。

 そうです。決めたのです。決めるのです。言葉があるから、人はそう決めるのです。そうした決まりにケチをつけると笑われます。馬鹿にされます。そう、そんなことをする者は馬鹿者なのです。馬鹿者という言葉があるのだから、馬鹿者なのです。

 ただし半端じゃなく頭のいい人がそういう疑いをもって本を書いたりすると、人は一目置きます。そして考えます。

 言葉は物じゃない、だって? ふーん、そうなかなあ。考えたことないよ。てか、そんなこと考える暇がないし。

ミシェル・フーコー渡辺一民/訳、佐々木明/訳 『言葉と物〈新装版〉—人文科学の考古学—』 | 新潮社
ベラスケスの名画「侍女たち」は、古典主義時代における人間の不在を表現している。実は「人間」という存在は近代に登場したもので
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 そんなふうに疑う人も中にはいるでしょう。でも、ふつうはすぐに忘れます。それが人なのです。そうじゃなきゃ、人なんてやってられません。それでいいのです。

 馬鹿(folie/fou)はどこでもどの時代でも馬鹿であったわけではない、だって? うっそー! 馬鹿は馬鹿じゃん?

ミシェル・フーコー、田村俶/訳 『狂気の歴史〈新装版〉—古典主義時代における—』 | 新潮社
長きにわたって社会から排除され、沈黙の領域に押し込まれてきた狂気を、豊富な例証をもとに探求することを通じて、ヨーロッパ文明
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 SとMは反対ではない、だって? いやだ、冗談は顔だけにしてよ、わたしみたいに。

晶文社ラシックス マゾッホとサド
マゾヒズムサディズムの裏返しではない—。不当に歪められた作家マゾッホの独創性とすぐれた現代性を証すフランス思想の巨星ドゥ
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河出文庫 ザッヘル=マゾッホ紹介—冷淡なものと残酷なもの
マゾッホをサドの陰から救い出し、その独自の新しさ=特異性を発見するとともに、差異と反復の希求というドゥルーズ哲学の核心をあ
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 繰り返しますが、おそらく、人にとって、言葉は外から来るものであり、外との接点でもあり、外のものだとも言えるし、たぶん外そのものなのです。そもそも、信用することに無理があるのです。

 外から来たものと、内なるものの間に齟齬(そご・食い違い)があるのは当然でしょう。そもそも、両者をつながらせようとか対応させようとするのが無理なのです。まさに、どだい無理なのです。

 そのことに敏感だった人の一人にニーチェがいるような気がします。名前だけ知っている人です。ニーチェとは私にとって固有名詞であるにすぎません。でも、その固有名詞のイメージの喚起力は、マラルメと同様に途方もなく強いのです。他人とは思えないほど親しい存在なのです。

岩波文庫 善悪の彼岸 (改版)
ニーチェ(1844‐1900)はキリスト教的道徳のもとに、また民主主義政治のもとに「畜群」として生きつづけようとする人々に
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曖昧放置プレイの名手たち

 マラルメニーチェも結果的に曖昧放置プレイがうまい人だったという印象があります。ニーチェはがむしゃらに矛盾と逆説を具現し、マラルメは徹底してほのめかすという手法で読む者を曖昧に放置しました。

 クロソウスキーはそんなニーチェに付き合って曖昧放置プレイを試みましたが、なんかイマイチの感を拭えません。その点、ドゥルーズは病弱ながらも淡々とお仕事をし、結果的に曖昧放置プレイ感の濃い巨匠になりました。慕う弟子も多いですね。

 禅の公案世阿弥芭蕉、そして腹芸という具合に、曖昧放置プレイがお家芸ではないかと思われるこの国にも、マラルメニーチェドゥルーズの信者が多いのは注目すべき現象ではないでしょうか。

 ちなみに私は曖昧放置プレイ大好き人間です。上で挙げた固有名詞が載っている本をこれまでにどれだけ購入したことか。どれだけそれを読まずに処分したことか。これだけでも私のミーハーぶりがおわかりになると思います。

 今挙げた固有名詞たち――曖昧放置プレイの名人――に共通するのは、真理とか事実とか悟りとか覚醒という言葉が世迷い言だと看破し、概念とか観念とか学術用語とかいう言葉が対応を欠く空虚な記号である、と生真面目に受け止めてしまったという点ではないでしょうか。

 こうなると行き場を失います。そうした考え方や立場がほとんどなかった時代に孤立無援に近い状態でいたわけですから、その孤独感とよるべなさを想像すると感情移入のあまりに苦しくなるほどです。

 この固有名詞たちが行き場を失った時に目を向けたのは言葉であり、言葉の綾、つまりレトリックであったのはうなずけます。

 また、以下のような日本における状況も理解できます。

        *

 日本では――哲学や思想界ではなく――むしろ文芸や文芸批評の担い手たちが、フランスの新しい哲学と思想を紹介・導入する際に積極的で大きな役割を果たしたことは注目していいと思います。

(拙文「3/3『仮往生伝試文』そして/あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』【後篇】」より引用)

        *

 上で挙げた固有名詞たちが残した著作を前にしてやるべきことがあるとすれば、その思想の理解では断じてなく、テキストの分析および戯れとしての多様な解釈なのです。

 言い換えると、経典のようにその著作を有り難く戴いてその思想を理解する――理・ことわり・断り・言わり・事わりを解く・とく・説く――のではなく、その著作を詩や小説のように読解する――読み解く・詠みとく・よみほぐす――ことではないでしょうか。

        *

 ここで、曖昧放置プレイの尻拭いに関して、以下に図式というレトリックを用いて述べる横着をお許しください。

 では、図式的にかいつまんでまとめてみます。

 生真面目なドゥルーズは文学作品を思考の対象とすることでレトリックの整理をしながら洞察に至った。並外れた洞察力を持つフーコーは、文学作品を活動の対象とすることで、その直観を確認した。

 デリダは、線香花火に終わったソシュールの尻拭いをする形でフランス語として破格の駄洒落を頻発することでレトリックを逆手に取ろうとした。ただし、その駄洒落の多くは、たとえば日本語における表記を見れば見劣りするようなものだった。なぜかデリダを自分の問題ととらえてしまう日本人の勘違いにも助けられたもよう。

 諦めきったマラルメは、ふて腐れたようにほのめかしという形のレトリックに走るしかなかったが、今も根強いファンがいる。「何かがあるように匂わせる」というアジア的とも言えるレトリックが功を奏したのかもしれない。

 沈黙を選んでしまったウィトゲンシュタインの寡黙な言葉遊び、つまりレトリックはジョイスベケットの言葉遊びの系譜につらなるのではないか。

 自分が曖昧放置プレイをしているという自覚が最も希薄だったと思われるのは、ニーチェです。矛盾するのに忙しくてそんなことを考える余裕はなかったと言うべきでしょうか。根がミーハーな俗物である私はそんなニーチェに憧れます。

 ちなみに、ここで挙げた名手のうちで、墓石の下でいちばんにんまりとしていると考えられるのは、マラルメです。私はそんなしたたかなマラルメ師に親しみを覚えます。かまってもらえそうだからです。

 もちろん、以上は個人の意見および感想です。というより、ここまで来ると紛れもなく妄想です。

        *

 とりわけ、ジャック・デリダジャック・ラカン――ラカンの残したテクストは少ないのですが、だからこそ、結果的にソシュールマラルメと同じく曖昧放置プレイの名手として名を残しているとも言えます、寡黙、場合によっては沈黙(死者は饒舌なレトリシャンです)と「テクストの不在」こそが最強のレトリックなのです――、ミシェル・フーコージル・ドゥルーズといった書き手は、言葉の多義性や多層性、ひいては言語の限界性を意識したうえで文章(=レトリック)をつづったのですから(ほんまかいな)、その文章について語る文章やその翻訳が、ルビや約物を使わざるをえないのは当然であり必然だという気がします(もちろんこれは趣味とレトリックの問題でもあり、使わない強者もいます)。

(拙文「振る/振られる」より引用)


        *

 そういえば、最近パトリシア・ハイスミスの小説を読み返しているのですが、ハイスミス経由でラカン――この固有名詞の残したテキストの風味(思想ではありません、あくまでも風味です)は、マラルメの散文バージョン、またはマラルメの散文的口述筆記版に思えてなりません――という曖昧放置プレイの名手を思い出しました。ジャック・ラカン(1901 -1981)にはスラヴォイ・ジジェク(1949-)という人がついていて、精力的な活動をしています。

 ジジェクの『斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ』という本は、いわゆる大衆文化を題材に斬新な精神分析学的分析をおこなっていて、私はときどき目を通して目まいを覚えます。めちゃくちゃ面白いという意味です。

 ジジェクという人が、大衆を対象とした映画や小説、あるいは政治などについて、どれくらい刺激的な考察をおこなう人なのかは、YouTubeの動画をご覧になると一目瞭然だと思います。私はこの人が大好きで、動画(検索するとたくさんあります)をよく見ます。

 それにしても、ジジェクさんは、すごいレトリシャンですね。レトリックだけで成り立っているような話術。

 このレトリックの大家にはいつも励まされます。

       *

 レトリック、表面、器、細工、装飾、水平運動、アメンボ、砂浜、浅瀬、顔、表情、表現、襞、皺、タトゥー・入れ墨、模様、綾

 レトリック、トリック、修辞、美辞、巧言、美辞麗句、ほのぼのれいく、言葉の綾、手品、イリュージョン、錯覚、やってる感、空っぽ、うつせみ・空蝉・現身、あなた・貴方・彼方

外から来るものとの出会い

「つなげる」のはいいのですけど、どういう具合につながっているのかは、きわめて「曖昧=テキトー=あんまり考えていない」場合が多いですよね。結論から申しますと、

*「AとB」に真ん中にある「と」は、「何でもありー」だ。

さらに、

*つなげてみないとわからない

*つなげてみてもよくわからない

と言えそうなんです。

だから、

*眺めているしかない

とも言えそうです。ああでもないこうでもないと言いながら。

(拙文「言葉は「と」(言葉は魔法・第8回)」より引用)

        *

 何かについて言葉を使って言う場合には、とりあえず

*言ってみないとどうなるかはわからない

*言ってみたところでよくわからない

だから

*眺めているしかない

それに

*一人で眺めているとよくわからない

から

*複数で眺めてみるとよけいにわからなくなる

        *

 サイコロの目は外から来るものだという気がします。マラルメのことを久しぶりに考えていて、そう思いました。以前は、マラルメ師といっしょになってサイコロ遊びをしていたのです。


 話を戻します。

 サイコロの目は外から来るもの。どんな目が出るかはわからない。目が出ても、その目が何なのか(どういう意味なのか)はわからない。ひょっとすると目が出ていることもわかっていないのかもしれない。

 わからないようになっている。わからないようにできている。わからないように仕組まれている。そうとしか思えない。

(中身が見えそうな衣服をまとった人の写真を見て、子どもが横から覗こうとしたり、裏返して見ようとするのと似ている。見えないようになっている。でも、見えるとしか思えない。それくらい、うまくできた仕組みなのだ。それを見るとすれば、想像するしかない。)

 わかったと思うのは錯覚。わからないのもやっぱり錯覚。

 サイコロの目は外から来るもの。外から来るものとの出会いとは、そんなものなのかもしれない。


言葉は外へと帰って行く

あなたが口にした

    文字にした

    つづった

    紡いだ

    奏でた

    唱えた

    歌った

    語った

    伝えた

    吐いた

    叫んだ

言葉たちは

あなたとは関係なく流通していく

         受け継がれていく

         放って置かれる

         無視される

         忘れ去られる

         消える

言葉は外から来るもの

   外との接点

   外のもの

   外そのもの

だから

言葉は外へと帰って行く

言葉は外から来て外へと帰って行く

死とともに人は言葉から解放される

言葉に染まっている人たちを残して

        *

飼い慣らされた外と言うべきなのかもしれない。
舌と唇で転がせる外など、外であるはずがない。

ペンやキーボードを操作して自由につくることができて、変えることができて、消すことさえ可能な外、つまり言葉。

言葉は外から来たものであるとしても、やはり外そのものではない。
ただし、それしか人にとって外を感知できるよすがはない。

消すことさえ可能な外。
ただし、消しても痕跡は残る。

こればかりはどうにもならない。
言葉は人の身体に痕跡を残さずにはおかない。

これこそが言葉が外から来ことを人が感知できるよすがなのかもしれない。
言葉の身体性とはそういうことなのかもしれない。

つまり、いや、たぶん、記憶として。ざらざらとした感触として。痛みとして。視覚的なものであったり、風景ではなく。砂の顔でさえなく。