テリトリー
言葉は外から来るもの――。
最近、上のようなことを考えていて、テリトリーという言葉を思い出しました。テリトリーについて考えることは、外、内、辺境といった言葉とイメージについて思いをめぐらすことになります。
普通テリトリーというと、人の集団が作る縄張りを意味しますが、個人としての人間にもテリトリー、つまり外、内、辺境があるのではないでしょうか。個人のプライベートなスペースというのではなく、人の身体と意識が一つの「内」という場であるというイメージです。
この記事では、共同体のレベルと個人のレベルのテリトリーを重ね合わせたり、両者の間を行き来しながら、外、内、辺境について考えてみようと思います。
言葉は内から来るもの
言葉は外から来るもの。
このフレーズの一文字を変えてみます。私の文章をお読みになると分かると思いますが、私は論理的思考が苦手です。そんな私は、よくこうやって言葉をいじって、思いをめぐらします。眉間にしわを寄せるような作業ではなく、楽しいからです。こんなふうに遊んでいると次々と言葉が出て来ます。
一種の出任せなのです。何に任せているのかは分かりません。
話を戻します(私の文章はよく話が逸れます、ごめんさい)。一文字を変えてみるのでしたね。
言葉は内から来るもの。
今はそんなふうにも思えてなりません。「言葉は内から出るもの」とも言えますが、内も外だという気がするので、「出る」ではなく「来る」としておきます。
言葉が内から来るとは、翻訳や他言語の習得をイメージしていただけると分かるのではないでしょうか。人類が積み上げてきた知識の集積のほとんどが翻訳と写本および印刷の結果だという気がします。人類にとって当たり前の行為だったというわけです。珍しくも特殊なことでもありません。
Aという言語をBという言語に置き換える。Aという言語の話し手がBという言語を習得する。またはその逆もある。こうした行為が可能であるなら、他言語間には共通する基盤があるはずです。
もっと具体的な例を挙げましょう。ここに米国で生まれたばかりの子どもがいるとします。父親は日本語を母語とし、母親の母語はアラビア語です。両親はその子どもを何語で育てるかを相談するでしょうね。
この場合、米国で暮らすことになる、この子どもは日本語かアラビア語のどちらかを母語とすることになるでしょう。両親が英語も読み書きできれば、英語が選ばれるかもしれません。
あっさり書きましたが、よく考えると不思議でなりません。おそらく、その子は今挙げた三つの言語のどれか(複数かもしれません)を使うようになるのでしょう。日本語でもアラビア語でも英語でも、環境を整えれば、その子は使いこなすようになるのです。
人の内には「言葉・言語の素地」(内なる言葉と言ってもいいでしょう)みたいなものがあるのではないか。さもなければ、言葉・言語は習得できない。こう考えるのが普通ではないでしょうか。
言葉は内から来るもの、とはそういう意味です。
また、内も外だという気がするので、「出る」ではなく「来る」としておく、と上で述べたのは、自覚や意識されない「内」は「外」と言ってもかまわないのではないか、という意味です。
以前に、私はこういう「内なる言葉」(自覚されない内)みたいなものを「経路」と勝手に呼んで、ああでもないこうでもないと書いたことがあります。正直言って、えらい目に遭いました。収拾がつかなくなったのです。それだけは覚えています。
身の程知らずな冒険をするものじゃありませんね。今ではもうそんな元気はないですけど。
*
*ノウ、ノン、ナイン、ニェット、ノ、ノ
*英、仏、独、露、西、伊
(中略)
*「 ん 」「 n 」「 む 」「 m 」「 う 」「 u 」
(中略)
*n が、否定的な意味の印(しるし)だ、素(もと)だ、
ということは、英、仏、独、露、西、伊だけでなく、その周辺から、はるか遠くにあるイラン、インドにまで達する「現象」らしい。さらに言うなら、
*n × 2 = m
*m も、否定的な意味の印だ、素だ(※たぶんですけど)
という駄洒落か嘘みたいな話も、全面的に否定するわけにはいかないらしい。
では、
*n × (-1) = (上下ひっくり返して) u
*u も、否定的な意味の印だ、素だ
ということが、あったとしても不思議ではないかもしれない。あくまで、「かも」「たぶん」ですが。
(中略)
上で書いた、「 ん 」「 n 」「 む 」「 m 」「 う 」「 u 」です。
「な」「ん」で、こ「う」「な」る「の」、でしょうか?
根拠など、「な」い。実証も、でき「な」い。
単なる「 accident = 偶然 = アクシデント = 事故 」だ。
果たして、そうなのか? それとも、何らかの学術的な説や法則があるのか? あったとして、それは既に定説なのか?
(拙文「「ん」の不思議」より引用)
*
で、不思議でならないのは、その
*言語がヒトの集団によってばらばらである。
ことです。それなのに、
*言語を習得するために必要な「経路=回路=道筋」が、ヒトに共通して備わっている。
らしいのです。
*ヒトであればどの人種や民族の赤ちゃんであっても、ある言語を用いてある年齢まで育てると、その言語を母語として習得する。
ようなのです。
*外部(=世界の諸言語)はばらばらなのに、内部(=たぶん脳)には一本筋が通っている。
という感じです。これが不思議でなりません。
*翻訳とは、「ばらばら」を「一本の筋」を頼りに「つなげる=こじつける」ことである。
と言えそうです。
(拙文「翻訳の可能性と不可能性」より引用)
*
*反意語とは、ヒトが本当は体で分かっている、あるいはかつて体で知っていたことを忘れた結果として陥っている錯覚から生じる言葉のペアである
と、簡単にまとめさせてください。何しろ、
*ヒトは、「〇△X」という言葉を作り、その次に「〇△Xとは何か?」と問い、思い悩む生物なのである
からなのです。
(中略)
*「わかる」は日本語の一つだ。
を体感するためには、
*「わかる」をズラしてみる。
方法があります。
(中略)
*「わかる」と「理解する」の「ズレ=違い」は何か?
くらいに、簡単なフレーズでも、それに答えようとすると、思わず「うーむ」とうなってしまいます。
ややこしいですね。なぜ、ややこしいのでしょう。
きっと
*「枠」に突き当っている。
からだと思います。
その
*「枠」
というのは、さきほどの、
*ズレ=違い=差=差異=際・きわ=間・あい・あいだ・あわい=隔たり=分かれ目=境い目=境界線=辺境=縁=ふちっこ=枠
という一連の「言葉=語=イメージ・意味・表象・代理・でたらめ・恣意的なもの」の総称だと考えてください。
(拙文「わかるという枠」より引用)
内、外、辺境
「内、外、辺境」をめぐって思いつくままに言葉を並べ、関連サイトへのリンクを貼っていきます。
かなり広範な内容のテーマが多くなるもようなので、無理に整理せず順不同に資料を羅列していくことになりそうです。
今後の記事のためのメモや見取り図のようなものになるかもしれません。論理的思考が苦手で構想力がないため、こうやって物事を並べていきイメージを膨らませるしかないのです。そのうち、書きたいことや書くべきことが分かってくるかもしれません。
要するに出まかせです。何にまかせているのかは不明ですが、いつもその何かに助けられています。誰に頼まれたわけでもないのに、やっています。こういうことは一人でやっていると寂しいので、お付き合いいただければ嬉しいです。
一種の連想ゲームであり、ひとりでやるブレーンストーミングみたいなものです。引用の織物、コラージュ、ブリコラージュでもあります。ひとりよがりな。
*
外の思考、内的体験
*
extraterritorial、extra-terrestrial、deconstruction、由良君美
ズレ、違い、ギャップ、差、差異、際・きわ、間、あい、あいだ、あわい、隔たり、分かれ目、境い目、境界線、辺境、縁、ふちっこ、枠、辺、偏、変、端、端っこ、はみっこ、はみ出す
export、import、exit、exterior、interior、without、within、in、out、inbound、outbound、étranger、stranger、outsider、excentric
ex、extra
X 、X JAPAN、ex
X+I=*、ex- + in- =*、
×、Ӿ、*、⁑、⁂
detour、decline、incline、decentralize、decompose、demerit、devalue、decertify、deconstruction、decontaminate、decrease、increase
*
追放、流罪、流刑、長期の異郷(異境)生活、亡命、バビロニア捕囚;国外(他郷)に追放された人、流人、異境生活者、亡命者
放浪、遊牧民、難民、引き揚げ者、無国籍者、移民、移住、入植、植民地、異国生活者、宣教、宣教師、御雇外国人、クラーク博士、フェノロサ
*
越境作家、外国語(非母語)での執筆、母語での執筆、他言語・多言語での執筆
*
ヘミングウェイとガートルド・スタインの国籍はアメリカ合衆国ですが、ヨーロッパおよび英国となると、地続きであったり、海峡で隔たっているだけですから、祖国を離れて活動する作家や音楽家や芸術家の例は枚挙にいとまがないと言うべきでしょうね。
そういえば、今集中的に読んでいるパトリシア・ハイスミスも祖国を離れて創作していた作家だと気がづきました。英仏両語での著作もあるサミュエル・ベケットもそうです。多言語に通じたナボコフ。ルーマニア語だけでなくフランス語で書いていたシオラン。同じくルーマニア出身のエリアーデもいたなあ。英語でも書いたウィトゲンシュタインも、そうなのか。そうだ、フランス語で書いたアゴタ・クリストフがいた。
話がいつの間にか非母語で書く作家へと越境してきました。人は移動し越境する生き物なのだとつくづく感じます。このテーマは奥が深そうで、収拾がつかなくなってきたようなので、この辺でストップします。
(拙文「もう一つの言葉 ――言葉は外から来るもの」より引用)
*
鑑真、西遊記、お経、写経、印刷、中国語、サンスクリット語、梵語、梵字、パーリ語・巴利語
聖書、ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語、『車輪の下に』、神学校
筆写、南方熊楠、大英博物館、コリン・ウィルソン、『アウトサイダー』、『至高体験ーー自己実現のための心理学』由良君美・四方田剛己(四方田犬彦)訳、大英図書館、カール・マルクス、無国籍者
母語で書くことも「外国語」で書くことであるという考え方
【さらには、母語で書くことも「外国語」で書くことであるという考え方もできます。いつかはこの視点で記事を書きたいのですが、ご興味のある方には、参考文献として『カフカ マイナー文学のために』(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ共著 宇野邦一訳)をお薦めします。私は学生時代に読んだのですが、新訳が出たもようです。刺激的な著作です。】
(拙文「もう一つの言葉 ――言葉は外から来るもの」より引用)
*「うつせみのたわごと」(1から14)はいわば「自分語」で書いた文章です。長いので一箇所に集めました。書いた時には、それなりに本気だったのです。愛着のあるシリーズです。ただし、こんなことをする元気はもうありません。
*
今でも、「たわごとシリーズ」を書いたことは、後悔していません。また、いつか、大和言葉づくしで、文章をつづってみたいという気持ちもあります。
収穫というとおおげさになりますが、枠をずらして書く、あるいは、言葉をつくりながら書くという体験は、当たり前だと思っている、ことや、ものや、さまを、それまでとは異なった視点からとらえる機会になった気がします。とらえなおす、見なおす、考えなおす、感じなおす、という感じです。枠をずらすさいには、
1)ある漢語系の言葉に相当する大和言葉系の語を、辞書などで探しだして使用する、
2)大和言葉系の語を組み合わせて説明的に書く、
3)大和言葉系の語を用いて比喩をつかい、ほのめかす、
以上の3つの方法があるように思います。
(拙文「「外国語」で書くこと」より引用)
自分語
自分語、造語、文体
ジェイムズ・ジョイス、フィネガンズ・ウェイク、柳瀬尚紀、ニュースピーク、ジョージ・オーウェル、時計じかけのオレンジ、ナッドサット、アンソニー・バージェス、吉里吉里人、井上ひさし、河童、芥川龍之介、ガリヴァー旅行記、レーモン・ルーセル、アフリカの印象、ロクス・ソルス
*
で、思ったのですが、動詞を名詞とみなしてもいいのではないでしょうか。当たり前ですよね。「詞」を辞書で調べると、語義のひとつとして「言葉」と書かれています。ちなみに、広辞苑によると、以前には動詞を作用言とか活語と呼んでいたそうです。すると、「詞・言・語」というふうに、ずらすことができます。やはり、動詞=名詞となりそうです。
「『動く』行為や状態」に名を付け、名詞化すると、「動く・動き・動くこと」となる。「言葉を介する=言葉を代理とする」限り、「動く・動き・動くこと・動くさま・動き方・動くという行為・動くという動き・動くという揺らぎ」を、名詞としてしか認識できない。そう言えるのではないでしょうか。動詞という名の名詞ということです。
ヒトである限り、動きを動きとしてとらえることの限界性=不可能性を、ひしひしと感じます。狭い意味での言葉、つまり、書き言葉と話し言葉をもちいる限り、動きを動きとしてとらえられない。極論を言えば、「動く」であれ、「揺らぐ」であれ、名詞でしかない。なぜなら、「言葉=言語=言=語=詞」の使用においては、そういう仕組みが働いていているからだ。そんなふうに思っています。この前提に立つと、ヒトの限界性をイメージしやすくなります。空間的広がりや時間的経過を、知覚すること。さらに、認識・記憶・想起すること。ならびに、空想・想像すること。また、思考・捏造(ねつぞう)すること。以上の「すること」の限界性=不可能性。そんな感じです。
(拙文「動詞という名の名詞」より引用」
*
言葉というものは、ヒトを錯覚させます。「見る・見える」という言葉があり、その「見る・見える」をつかうことによって、ヒトは「見た・見えた」気持ちになってしまう。「見る・見える」と「見た・見えた気持ちになる」とでは、大違いです。これは、いわゆる五感とか知覚という言葉のキーワードである、「見る」「聞く」「嗅ぐ」「味をみる」「触れる」だけでなく、いわゆる思考や意識という言葉のキーワードである、「思う」「考える」「分かる」「理解する」「意識する」「感じる」についても、言えるような気がします。気がするだけですけど。たった今、つかった「気がする」も、思考や意識について語るさいに出てくる言葉ですね。
気がする。気がするという気持ちになる。要するに、この駄文もきわめていかがわしく、うさん臭いものである、ということになります。「そんなの百も承知だ」という、みなさんの声が聞こえてくる気がします。気がするどころか、実際、そうにちがいありません。この駄文をつづっているアホ自身が、いかがわしいなあ、うさん臭いなあ、と思っているのですから。
(拙文「名詞という名の動詞 (前半)」より引用)
*
このブログで出てきそうな「固有名詞+する」、つまり、「夢の素」のうちの人名バージョンを解説付きで挙げてみます。
*「(ロラン)バルトする」:とっかえひっかえ興味の対象やテーマを変える。
*「(ステファヌ)マラルメ」する」:1)言葉に徹底的にもてあそばれる。; 2)言葉というサイコロを振ることで、思索=詩作=試作する。
*「(ジャック)デリダする」:駄洒落と「考える」をシンクロさせる。
*「蓮實重彦する」:1)言葉の表情・身ぶり・目くばせに目を凝らしながら、読む、あるいは書く。; 2)映画を好きだとは、ほかの人に言わせないと言うほどまでに、映画に淫する。
*「坂部恵する」:大和言葉系の語にこだわりつつ、日本語で哲学する。
書名バージョンもあります。
*「(ギュスターヴ・フローベール作の)『紋切型事典(紋切型辞典)』する」 : ヒトは決まり文句しか話さないという視点から物事を論じる。
*「(ギュスターヴ・フローベール作の)『ブヴァールとペキュシェ』する」 : 言葉で書かれたものが現実であると錯覚するというヒトの習性に注目して、物事を論じる。
*「(ニーチェ作の)『善悪の彼岸』する」 : 論理的矛盾や破綻といった批判を物ともせず思考を重ね、言説の断片を積み重ねていく。
以上のように、だいたいが一面的で、その固有名詞で呼ばれている各人の、業績や仕事や私生活でのさまざまな役割を切り捨てています。それ以上のことを望むわけにはまいりません。たとえば、基本的に「見る」人であると思われるミシェル・フーコーについて、多面的に「固有名詞+する」しようとすると、次のようになります。
*「ミシェル・フーコー」する : 見て、観て、見つめ、認められ、見られ、見入られ、魅入られ、見せられ、魅せられ、身を張り、身をかけ、見舞われ、診られ、看られ、看取られる。【※ 合掌。】
書物であれば、上記のように、ある書物のある部分だけをとらえた、ひとりよがりで根拠の乏しい印象だけに焦点を絞ることになります。つまり、ごく個人的なイメージをもとにして、遊んでいるだけです。ですから、こうしたひとりよがりな言い回しをもちいるさいには、どんな意味で使っているのかが読者に伝わるように、前後関係の記述に工夫をします。
(拙文「名詞という名の動詞 (後半)」より引用)
内なる言葉
それにしても、翻訳は不思議ですね。翻訳ということができる、このおかげで人はここまで来ることができたのです。さもなければ、人類はばらばらで、知や情報を伝達したり共有したり継承することはできなかったに違いありません。
(拙文「もう一つの言葉 ――言葉は外から来るもの」より引用)
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やはり「内なる言葉」が気になります。関係ありそうなのはチョムスキーだと思われますが、チョムスキーは大の苦手なのです。ヴィゴツキーのほうがとっつきやすかった記憶があります。
レフ・ヴィゴツキー - Wikipedia
ja.wikipedia.org
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いつだったか、フーコーとチョムスキー対談する動画をぼーっと眺めていて感じたのですが、フーコーとチョムスキーの話が噛み合わないのは、「内なる言葉」に対するとらえ方に違いがあるからではないでしょうか。
動画では、直接的には「内なる言葉」について両者は語っていませんが、思ったことを以下に書いてみます。なお、本来は語り得ぬものについて語ることになるので、レトリックを多用するのをお許しください。
チョムスキーにとって「内なる言葉」は数字(比喩です)ではないでしょうか。数字ですから、抽象です。
※チョムスキーについて考えていると、いつの間にかモーリス・ブランショについて空想(妄想)していることがよくあります。私の中ではつながるみたいなのです。
フーコーにとっての「内なる言葉」は顔(比喩です)、すなわち「(皮膚を備えた)身体」だという気がします。ただし、砂の顔のように消えます。消えるのは顔の宿命です。
*
ついでに、思ったことを付け加えます。
ドゥルーズにとって「内なる言葉」は表情(比喩です)、表情ですから消えます。ただし、「チェシャ猫」(ルイス・キャロルの『不思議な国のアリス』)の「笑い」みたいに、消えてもしばらく残るのです。
ニーチェにとって「内なる言葉」は仮面(比喩)です。仮面といっても、デスマスクに近いものだという気がします。デスマスクもマスクです。ニーチェを読む際には、この仮面をかぶって踊るのがよろしいかと思います。踊ることなしに、ニーチェを読むのは難しいのではないでしょうか。
用言体
用言体と勝手に呼んでいるものについてお話しします。あくまでも個人的な呼び名なので分かっていただけるか心もとないのですが、説明させてください。イメージとしては古井由吉の小説やエッセイに見られる文章のつづり方で、主語が省かれていたり、抽象度の高い名詞や人称代名詞や固有名詞の放つ強い光を避けながら書いていく方法なのです。
「主語を省く」というのは分かりやすいですね。ああ、確かにこのセンテンスでは主語が書かれていない、というふうに誰が読んでも確認できます。お断りしますが、「主語が省かれている」とは「主語が隠れている」とか、あるいは「主語は書かれてはいないが誰の動作や状態なのかは読んでいて分かる」という状態を指します。
古文と呼ばれる日本語の文章では主語が省かれている場合があるが、隠れた主語がちゃんと分かるように書かれている。そんなことを中学と高校時代に習ったにもかかわらず、古典が並外れて苦手なのでずっと逃げてきました。いまも古文は読めません。
用言体は古文ではありませんが、主語が省かれている(隠れている)場合には、ある行為や状態が誰のものなのかに注意しながら読む必要があります。ただし、主語が省かれていたり隠れていることが用言体の必須条件かと言えば、そうでもありません。
大切なことは、主語があろうとなかろうと、抽象度の高い名詞や人称代名詞や固有名詞による目くらまし的な光(読む人を分かった気分にさせる虎の威みたいなものです)よりも動詞の身ぶりが目につくように書かれているかどうか、なのです。どう書いてあるか、どう書かれているか、これがもっとも重要な点です。いまお話ししているのは、あくまでも書き方の問題なのです。内容ではありません。
*
以上は、拙文「用言体 <動詞について・003>」から引用したのですが、これは一種の自分語である「うつせみのたわごと」からかなり後に書いた文章です。
こうやってみていると、自分の中に母語に対する違和感があるのが感じられます。
大和言葉と用言にこだわることで、「内なる言葉」に近いものを探している、あるいは作ろうとしているようなのです。
このことは、私が詩と哲学を苦手としていることとつながっているような気がします。
詩は読めないし書けません。
かつては自分は哲学をしているという自覚があったのですが、どうやらこの国で哲学と呼ばれているものは、自分のやっていることとは遠いらしいと思うようになりました。
記事に「哲学」というハッシュタグを付けないのは、そういうことから来る配慮なのです。いわば誤配を避けるためです。
なお、用言体という言葉でイメージしているのにいちばん近い文章の書き手は、古井由吉と蓮實重彦です。そのため、一年ほど前までは、この二人の書いたものばかり読んでいました。快かったからです。私は気持ちのいいことしかできないのです。
*
今後の記事を書くためのメモができました。とりあえずのものですが、これを頼りに、書いていきたいと思います。