人のつくるものは人に似ている/人のつくるものに人は似ていく

*なぞる

 なぞるは枠をつくること。なぞるうちに枠が見えてくる。見えてきた枠に縛られる。枠が当然のものに見てくる。枠は人を安心させる。人は枠に嗜癖する。枠なしでは人は生きられない。人は枠を意識することがない。

        *

 たぶん枠は人の内にある。誰も枠を見ることはできない。枠をなぞる。なぞるだけで見えているわけではない。

 枠をつくる。枠はつくるもの。人のつくるものは人に似ている。

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 同期するメトロノームたち。

 身振りは似ていても、あるいは同じであっても、各メトロノームは同じではない。同じ=同一は、一つしか存在しない。その意味で、メトロノームたちは同じではなく似ているのだ。

 それぞれがそれぞれとしてある、またはいる。それぞれがそれ自身にそっくりなのだ。そっくりな点がそっくりなのである。

 自分自身にそっくりという意味なら、同じとか同一と言えるのかもしれない。似ている、似た身振り、仕草、顔、表情が世界にあふれている。

 その身振りを読む。あるいは、なぞる、真似る、まねぶ、学ぶ。または、うつす、写す、映す、撮す、移す、遷す。そうやってふえる、増える、殖える。

 世界は顔で満ち満ちている。

(拙文「似ている」より引用)

*人のつくるものは人に似ている

 よく聞く話。人のつくるものは人に似ている。確かに、人に似せてつくっているとしか思えないものがある。

 器、スプーン、箸、椅子、寝台、座布団。手袋、シャツ、ズボン、靴下、ストッキング、衣服。

 丸みを帯びたやかんの注ぎ口を見ていて、どきりとすることがある。ソファに体を沈めると懐かしさで涙ぐむことがある。

 人の体に触れる。人の体に当てる。人を包みこむ。つくったものに人が合わせる。

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 窓、煙突、家。荷車、馬車、自動車、乗り物。

 窓が人の顔に見えることがある。遠くに家の窓を見てほっとすることがある。人の顔を見たように心が安らぐ。車を正面から見ると、どうしてもそこに顔を見てしまう。にやにやしてしまう自分がいる。子どもはあらゆるものに顔や表情を見ているのではないか。

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 人形(ひとがた)、像、図、絵、絵本。おもちゃ(玩具)。

 動くもの。動かないもの。動かすもの。動いていると想像するためのもの。動いている。ぜったいにあれは動いている。

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 人面〇〇。枯れ尾花。錯覚、錯視、幻聴。幻覚。幻想。妄想。空想。想像。

 経済、ビジネス、宗教、音楽、文学、芸術、スポーツ、科学、哲学、数学、報道、宣伝。

 言葉、お金、音、物語、フィクション、映像、ルール、法則、公式、概念、数字、イメージ。

 人は存在しないもので動く。人はないもので動く。

*枠がぼやける

 文字が人の顔に見えることがありませんか? ひらがなでも、カタカナでも、漢字でも、数字でもいいです。

 フォントや大きさにもよると思います。また手書きの文字や書道なんかの文字だと、これまた印象ががらりと違ってきますね。

 学校で書道の授業の時、筆をつかっているうちに、文字が文字ではなくなっていく感じがしたのを思い出します。何をなぞっているのか、自分が何をしているのか、わからなくなるのです。たまにペンで文字を書くと、そういう不思議な気持ちになることが今でもあります。

 文字は意味があるのに、その意味が消えて形だけになるとか、他のことが頭に浮かんでしまうなんてことはざらにあります。書いている最中だけでなく、読んでいる時にもです。

 なぞっているうちに、なぞっているものがぼやけてくるのです。枠がぼやけてくるのです。それがなぜか気持ちいい。気が遠くなるほど気持ちいい。不思議でなりません。枠は窮屈です。

*冷蔵庫はお母さんに似ている

 人のつくるものは人体に似ている。人体の構造と似ているものがある。人と似た、またはそっくりな仕草をするものがある。人の顔や姿や身体の一部を想起させるものがある。

 楽器、食器、容器、道具、文房具、便器、浴槽、介護用品、医療器具。時計、装置、電気器具、家具、農機具、機械。

 気味が悪いほど似ているものがある。見ていてほっとするものもある。

 鏡、眼鏡、望遠鏡、映画、テレビ、パソコン、スマホ。蓄音機、レコード、電話、電話機、ラジオ、マイク、イヤホン、テープレコーダー、テレビ。

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 冷蔵庫はお母さんに似ている。イメージしているのは、旧式のそんなに背も高くなく大きくもない白い冷蔵庫。

 幼児にもどった気持ちになって、しゃがんだり身をかがめ、目線を下に構えて、そばに立ってみると、そんな気がする。どっしりとしていて、幼児でなくても、小学校の低学年くらいが抱きついて、ちょうどいい重量・体積・質感がある。

 エプロンみたいに白くて、いろんなものが貼り付けてあって、よく耳を澄ますとぶーんというやさしい音がして、熱を発していて温かく、扉を開くと、どんな望みもかなえてくれそうで、こころがやすらぐ。

 子どもたちが帰宅すると、すぐに飛んでいくところが台所。そして、真っ先に冷蔵庫を開ける――。そんな話をよく聞く。大人も、同じ。帰るなり、まっしぐら。ネコまで、ついてくる。

「衣食住」のうち、もっとも切実なものが「食」だという気がする。その人にとって基本的な欲求を、最初に満たしてくれた存在。お乳を与えてくれた存在。それがお母さん、あるいは、その代理を務めてくれた人。

 その意味で、冷蔵庫はお母さんに似ていると思う。 

*枠、タブロー、スクリーン

 人のつくるものは人に似ている。人の外面だけでなく内にも似ている。人の意識をうつしているとしか思えないものがある。

 書物、巻物、タブロー、銀幕、スクリーン、ディスプレー、モニター。

 見えないものを真似ている。聞こえないものを真似ている。感知できないものを真似ている。知らないものを真似ている。

 なぞる。何かはわからないままになぞる。なぞっているという意識なしになぞる。

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 人のつくるものはどこか人に似ている。なるべくして、そうなっているのかもしれない。

 人のつくるものが人の内にある「何か」と似ていても不思議はないのではないか。

 人はなぞる。空(くう)をなぞるように見えて、枠をなぞっている。形をなぞっている。形はなぞっているうちに形となる。なぞった瞬間に形は謎となる。

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 枠、frame、フレーム、figure、フィギュア。

 仏壇、位牌、写真、卒塔婆、墓、墓石。棺桶、棺、火葬炉。

 地獄絵、極楽絵図。

 イコン、アイコン、アバター、分身。

*枠、テリトリー

 枠を眺める。枠に見入る。枠は縛る。縄張りも枠。テリトリーも枠。

 内、辺境、外。ここからはうち、ここからはよそ。あなたたちはみうち、あいつらはよそもの。こっちとあっちしかない考え。

 あっちにもこっちがあることに思いがおよばない。

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 境、境目、わかれめ、きわ、かぎり。へり、辺、片、偏、変。

 辺は蛮、辺は変。

 はし、はしっこ、端、ふち、縁、淵。辺境、フィロンティア、境界、線。

 内は中心で光の源、外は魔の棲む闇。

*世界は劇場/工場

 世界は祭壇。世界は窓。

 スクリーン、銀幕、枠、モニター、ディスプレー、画面、フレーム。

 劇場、芝居小屋、舞台、観客席、コンサート、ゲーム、観る、見上げる、見せ物、演じる、かぶく、うたう、舞う、プレイ、演じる、遊ぶ、競技をする。

 世界は劇場。グローバル座。

 コロシアム、競技場、闘牛場、観客席、ドーム、ホール、アリーナ、公民館、市民会館、ライブハウス、寄席。

 映写、写像、像、鏡像、映像、写本、筆写、印刷、インターネット、網、フィギュア、姿、形、フィルム、写真、映写機、写真機、スマホ、撮影、撮す、映す、写す、移す、反射、鏡、胸像、ポジとネガ、陰影、陰翳、印影、判子、印鑑、印象、スタンプ、御朱印、スタンプラリー。

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 世界は祭壇。仰ぎ見る。

 世界は劇場。みんなが舞台を見つめている。

 世界は映画館。みんなが影に見入っている。

 世界はホール。みんながアーティストの姿を見つめ、声と演奏に聞き入る。

 世界は競技場。みんながプレイヤーの動きに目を見張る。プレイヤーと観客。

 主体と客体。主語と述語。subjectとobject。自と他。あるじとしもべ。

 枠、フレーム、舞台、観客席、桟敷、貴賓席、S席、一般席。中心と辺境。

 うちとそと。疎外。排除。選別。支配と被支配。

 かみとしも、上下。階層、カースト、ピラミッド。

 アイドル、偶像、スター、星。祭壇、祝祭、供物、生け贄、スケープゴート、祭司、巫女、まつり、まつりごと、政治。

 まつる、あおぐ、あおぎたてまつる、ささげる、ひれふす、みる、みられる、みいられる、みいる。

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 世界はゲーム。世界はゲームセンター。プレイヤーはプレイするのか、させられるのか。

 ルールって何? シナリオって何? ロール(役割)って何?

 枠。縛り。人は縛られるのが好き。人は枠に収まると安心する。人はきまぐれ。枠や縛りも人に似てきまぐれ。

 ルールは時とともに移り変わる。ルールはところによって異なる。

 人は自分のお気に入りのルールを通そうとする。自分のルールと自分のスクリーンと自分の枠に固執する。

 それが世界だから。それがすべてだから。邪魔する者を消そうとする。嗜癖している人の行動の特徴。

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 世界は無数のスクリーン。世界中でみんながスクリーンを見ている。

 やめられない、とまらない。人はスクリーンに嗜癖している。ひれ伏ししていることに気づいていない。気づいても、忘れる、または信じない。

 世界は網。世界はネットワーク。世界は蜘蛛の巣。世界は巨大なウェブ。

 蜘蛛のために何もかもがつながってしまった。今世界は疫病でつながっている。

 退治するためには、つながるしかない。

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 世界は網。寝っ転がって見るスクリーン。歩きながら見るスクリーン。手のひらにのるスクリーン。どんどんスクロールできて次々と切り替わるスクリーン。

 スクリーンには枠がある。スクリーンにはフレームがある。でも、誰も気づかない。気にもしない。

 枠とは、気づかず、気にしないもの。自分が嗜癖していることに気づいていない。

 人がつくるものは人に似ている。

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 世界は工場。世界は機械。

 生産、自動生産・オートメーション、複製、大量生産。誤差、失敗、故障、暴走、バグ、ノイズ、変異。反復、くりかえす、かえす、かえる。反復、うつす、うつる、ふえる。

 似ているがどんどん繰りかえされる。似ているがどんどんふえていく。

 そっくりなところがそっくりなものたちがそっくりな身振りを繰りかえす。うつるがうつる、うつすがうつす、ふえるがふえる。とまらない運動。いつかはとまる運動。

*人に似ているものに囲まれる

 ホームセンターや電気製品の量販店などで、いろいろな商品を見ていて思うのは、「ヒトがつくるものは、ヒトに似ている」です。

 お茶わん、湯飲み、箸、スプーン、フォークといった「食」に関係のある物たち。椅子、テーブル、机、布団、ベッド、枕などの広義の「住」関連の物たち。そして、シャツ、上着、ズボン、スカート、下着、手袋、帽子といった「衣」に関する物たち。こうした物たちを観察すると、ヒトに似ています。

 なかでも、手袋なんて、手と激似です。湯飲みなんて、開いた口です。椅子やソファやベッドを見ていると、四つん這いになったヒトに見えます。こうやってこじつけているうちに既視感を覚えて、何だろうと思ったのですが、被害妄想にそっくりな心もちがします。

 そう考えるとそういうふうに見えてくる、ところが似ているのです。

 似ているは、比喩と同じで、似ているから出発するだけでなく、似ているという暗示から生まれることも大いにある気がします。「似ている」は知覚からだけではなく、想像からも生まれるとも言えるでしょう。

「似ている」は増える。エスカレートするのです。

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 器類は、水をすくう時の片手あるいは両手の形に似ています。口をつける湯飲みやグラスには、口があります。やかんや急須の注ぎ口と管の部分は、ヒトの食道の延長に見えてきます。

 そもそもヒトの体は管だというレトリックを見聞きします。単純化すると、口から飲み食いした物が肛門や尿道から出て行くという消化器系を重視した比喩になりますね。食道、胃、腸という流れがあり、流れる場が管というイメージです。

 循環器系だと液体が流れる血管やリンパ管があり、呼吸器系だと鼻から始まって気管と気管支という流れになるようです。気体が流れる管というイメージでしょうか。ストローやホースや笛みたい。

 箸やフォークは指に似ています。椅子には背も足=脚もあります。ふっくらとした座布団の感触は、どこかお尻に似ています。衣類は、からだに当てるわけですから、とうぜん、その当てる部分にそっくりにつくられています。

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 さらに、こじつけをするなら、自動車なんて正面から見ると、顔に見えてしかたがない方、いらっしゃいませんか? これこそまさに「人工の人面〇〇」です。人面魚や人面岩を見て、うわーっと驚くだけではなく、自分でつくった物を見て、うわーっとびっくりするわけですから滑稽な感じもします。

 機関車や電車と言った乗り物も、そうですね。正面から見ると、表情をそなえた顔に見えます。あの不気味にも見えないこともないトーマス君なんて、とても分かりやすいイメージです。

 テレビもそうですね。というか、そうでしたね。テレビ時代の初期には、受像機の上部にウサギちゃんのお耳みたいなアンテナが付いていたのをテレビで見たことがあります。

 あと、こじつけると、銃なんて男性器に似てませんか? 水鉄砲はもちろんのこと。ロケットもそうかな。

 その他に、ヒトやヒトの身体のある部分に似たものを挙げるなら、口を開けたポスト、長針と短針が表情を刻々と変えるアナログ時計、先端に毛のついた歯ブラシ、鉛筆やペン(どういうこっちゃ)、チューブ入りのケチャップやマヨネーズ(ぐにゅっと出てくるさまを思い浮かべてください)、ケータイ、ゲーム機のコントローラー、ガラス張りのパチンコ台……。こじつけが、だんだん苦しくなってきましたね。

 被害妄想と同じで、あれもこれもと人や人の一部と似ているものを感じるのは、つらいものがあります。そうやって見なければならないような義務感を覚えるようになるのです。誰に頼まれたわけでもないのに、です。

 まるで擬人化地獄。

 このオブセッションを克服するには、人でなしになるか人外境に逃れるしかないのかもしれませんが、人という枠から外れることは凡人には無理なようです。

 世界は顔に満ち満ちている。

 人はいたるところに顔を見ます。一説によると、人面〇〇どころではなく、左右の目と口に当たる三点があると、もうそれで顔を認めるのに十分なのだそうです。こういう空想は子どものほうが得意だといわれています。

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 というか、二点だけでも、私には十分です。目は口ほどにものを言う。

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 どうでしょう? 見ていて気持ちがやすらぎませんか? 

 人形(ひとがた)や玩具の持つ力を軽んじるわけにはまいりません。また、ないものの力をないがしろにするのは、人として賢明な生き方ではないでしょう。

 森羅万象に人や顔を感じなくなった時、その人はきわめてあやうい状態にある気もします。顔や表情は、言葉とか意味とかイメージとか、そういう人に備わった「枠」の芽だからです。

 そんなわけで、胸は張らないまでも、地味にせっせと擬人化に励もうと考えています。

*鏡は、ずれを見るためにある

 鏡は自分の姿を見るためにあるのだろうが、鏡に映っているのは自分だろうか?

 鏡に映っているのは姿や形というよりも時間だという気がする。正確に言えば、時間ではなく、ずれなのだろう。抽象である時間を、人は「見る」ことができず、「前」と「今」とのずれとして感知するしかない。

 ずれは印象であり、計測も検証もできない。その意味で「似ている」に似ている。鏡だから「似ている」に似ているわけではない。鏡は「似ていない」も写すし映る。

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 鏡を前にしてのお化粧は、刻々と目の前に現われるずれとの追っかけっこ。先を越されないように必死で見ていなければ、顔は見えないし、化粧品ののり具合を確かめることはできない。だから、ずれを深く受けとめている暇も余裕もない。

 お化粧をする時には、鏡の中の自分、つまりずれとは妥協するしかない。いつまでも眺めているわけにはいかない。考えこんでいる暇もない。ま、いっか、と唇を噛んでつぶやいてその場を去るしかない。ずれとまともに向き合えば喜劇や悲劇や惨劇になる。

 数年前の写真を見るのは恥ずかしいものだ。恥ずかしくてまともに見られない。髪型も化粧も服装もださくて見るに堪えない。ただし顔そのものは見ないだけの体感的な知恵がそなわっている。というか、おそらく見えないのである。

 ずればかりがやたら目につくのだ。だから、顔や姿は目に入らないと言うべきかもしれない。映っている人を卒業したという優越感と、それがちょっと前の自分だったという屈辱感のあいだで揺れるとも言える。要するに、ちょっと前の自分は恥ずかしいと同時に憎い。ちょっと若いから小憎らしい。つまり、ライバルなのだ。

 免許証とか証明書の写真がそうだ。恥ずかしさと屈辱だけが映っている。だから正視できないし正視に耐えない。これは、ずれがダイレクトに襲ってくるからではないか。恥ずかしさと悔しさ、つまりずれを感じとるだけの余裕ができているということ。

 昔の写真とか子どもの頃の写真だと、ずれをもろに受け入れる余裕ができているから、見ていてもそれほど恥ずかしくはないし憎らしくもないし悔しくもない。むしろ、懐かしくて見入ることがある。もはや、他人となった自分。まあ、かわいい。この子、誰? 天使を見る人もいる。我が子や甥っ子や姪っ子や孫を見るのに似ている。似ているけど、自分ではない誰か。今の自分以外に自分はいない。

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 人は鏡や鏡に似たものに取り憑かれているとしか思えない。絵や写真や映画や動画は、鏡に似ている。人はそれらを前にして、鏡に面するのと同じ仕草や動作をする。見る、見入る、かんがえこむ、かんがみる。

 絵、写真、映画、動画は自分を映すためのもの。世界は自分に似たもので満ちているから、風景を描いても撮っても、人以外の生き物を描いて撮っても、他人を描いても撮っても、そこに描かれている映っているものは自分。広義の自分。複数形の自分。おそらく赤ん坊にとっての「自分」。

 人は自分に似たものを目にすると、幼児返りや赤ちゃん返りをする。たぶん、ごく短い間だけ、またはとぎれとぎれに。人はいくつになっても、まばらな幼児、まだら状の赤ん坊。

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 鏡、絵、写真、動画がどんどん増えていく。人が真似てつくり、複製するから、当然のこと。鏡は自然に増えるわけがない。人がつくる。

 つくるだけはない。似せて、真似てつくる。何に似せ、何を真似るのかといえば、鏡。鏡に似せて、鏡を真似て、つくる。どんどんつくる。

 世界は鏡に満ち満ちている。人は、ふだんは、それに気づかない。意識しない。だから、よけいに増えていく。

 言葉も鏡。人も鏡。人は自分に似たものを真似てどんどんつくっていく。

*似る、似せる、成りかわる

 似た小説や映画には事欠かない。ある小説を読んでいて、あるいは映画を観ていて、あれっというふうに既視感を覚えることは多い。前にも読んだことがあるような話、見たことがあるような身振りや行動、聞いたことのあるような科白、聞いた記憶のあるメロディー。

 他人の家に入る。その家にある服を着る。物を食べる。座る、歩く、その辺にある本を読む、トイレに入る。その時、入った人は、その家の主を真似ることになる。

 似た話、似た光景、そっくり、デジャビュの洪水。軽い目まいすら覚える。

        *

 似ている、似せる、似る、成りかわる、成る。

 誰かに似ている。その誰かに似せるように努力し、その結果似る。それだけでは済まない。その人物に成りかわるのだ。そしてついにその人に成る。お察しの通り、これはサスペンスであり犯罪小説。怖い話。

太陽がいっぱい

 そんな小説がある。小説とは異なる部分もあるが映画にもなっている。

*究極の似ている

 文学も芸術も映画もスポーツも「似ている」に満ち満ちている。世界は「似ている」に満ち満ちている。

 何かを真似て似たものをつくり始めたのはいいが、人はそのつくったものに似たものをどんどんつくることを無意識に覚え、その結果、複製文化どころか、複製文明と大量生産文明を築き上げ、今日にいたるのではないか。

 似ているの増殖、似ているの自動生産、大量生産。どうにもとまらない状態。そして世界はどんどん暖かく暑くなっていく。

 とはいえ、誰も目まいを起こしたくないから、「似ている」ことには目を向けないし、耳を傾けないでいる。「似ている」や「そっくり」とは、ほどほどのお付き合いをするべきということか。

        *

「似ている」と「そっくり」――。何かに似ている、そっくりだと思い、何だろう何だろうと考えていて、文学も芸術も映画もスポーツ、複製文明と大量生産文明、大量生産と思いをめぐらしていて、はっとする。

「似ている」と「そっくり」は、お金に似ているし、そっくりなのだ。そして、その身振りは人に似ている、そっくりなのだ。

 もし地球外生命体が、地球を見たとするなら、人はあちこちで同じ仕草と動作と表情を演じているように感じるのではないかと思えるくらい、そっくり。多量のさまざまなそっくりを生みだし、そのそっくりとそっくりな身振りを演じている。

 自己引用、自己擬態、自己形態模写。ひょっとすると地球外生命体は笑ってしまうかもしれない。ギャグとしか思えなくて。

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 究極の「似ている」と「そっくり」は紙幣、つまりお金。お金は「似ている」どころか「そっくり」どころか、「同じ・同一」に限りなく近くなければならない。精巧をきわめる。偽造を防ぐため。

 ほぼ「同一」だから、計器によって計測可能。人の知覚だけでは真偽は判断できない。

 お金は何に似ているのか? 数字ではないか。抽象度マックスな数字。似ているやそっくりの世界ではなく、同じ・同一の世界。

 数字と同じく抽象だから、何にでもかえられる、換えられる、変えられる。こんな便利ですごいものはない。素晴らしいものをつくったものだ。だから、どんどん刷る。

 真似てつくる。そっくりにつくる。間違いは許されない。似ていなかったらアウト。下手すると犯罪、いや下手しなくても立派な犯罪。

 本物のお金をどんどん刷らなければならない、鋳造しなければならない。印刷機や鋳造機でどんどん刷る。究極の精巧さで複写し複製し、大量生産する。

 刷ることができるのは一部の人だけ。政府だけ。正確に言えば、政府の銀行と造幣局だけ。こども銀行は、こどもにだけ許される。

 そっくりの本物がどんどん増えていく。実体なんて関係ない。人は存在しないもので動く。おとなのやることはほんまもんやからこわいわ。どんどん増やす、ついでに殖やす。実体はなくてかまわない。そんなところも数字と激似。

 私には、印刷されていく紙幣のありようが人の身振りに見えてならない。

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 電子マネー、ポイント、スマホ決済。

 記号と化したお金、マネー、紙幣。触ることも見ることも匂いもしない記号。似ているやそっくりのない、おそらく同じや同一もない世界。

 虚ろな記号。似ているやそっくりのない記号。実体のない、ふえる増える殖える。

 ふえるという身振りだけが空転する。人は存在しないもので動くの進化であり洗練なのか? その新たな展開なのか? あるいは、その枠内での展開にすぎないのか?

 紙幣のない印刷機、硬貨のない鋳造機。機械の音だけがむなしく響く工場。

 何だろう? 

 何かに似ている気がするが、何に似ているのか、思いつかない。ひょっとすると、何にも似ていないのかもしれない。似ているが空転する。なぞるをなぞっている。

 なぞるをひたすらなぞる、空(くう)をなぞるというのは、人の身振りそのものではないか。人はなぞるをつくりだし、それを無自覚かつ無意識に模倣しているのではないか。こんな荒唐無稽な空転が永遠に続くわけではない。

*人のつくるものは人に似ている/人のつくるものに人は似ていく

「人のつくるものは人に似ている」と「人のつくるものに人は似ていく」は、おそらく同時に起こっている。

 見るはつくる。見ることで人は像をうつすというよりつくっている。でっちあげていると言ってもいい。みるにせよ、うつすにせよ、つくるにせよ、そのものではないから。遠隔操作でしかありえない。

「人のつくるものは人に似ている」と「人のつくるものに人は似ていく」は、おそらく同時に起こっている。しかも常に起こっている。

 鏡を覗きこむ身振りそのものではないか。鏡の中の自分の像をつくり、それに似る。言語活動と同じではないか。言葉をつくり、言葉に合わせる。表象行動と同じではないか。表象をつくり、表象に擬態する。

 表象を信じ、ひいては表象になりきっているとしか思えない。

        *

 俯瞰、拡大、X線写真、CTやMRIというものは、人がつくったもの。自分の知覚に合わせてつくったもの。見えているから見えていると錯覚しているが、それはつくったもの、でっちあげたもの、似せたものという意味での偽物であり、フィクションにほかならない。または、きわめて精巧な影絵を使った遠隔操作とも言えるかもしれない。

 俯瞰や拡大を手にした人は、世界はちょろいと思っているにちがいない。

*大→小 or 大←小

つまり、

*●→ ・ or ●← ・

あるいは、

*全体→部分 or 全体←部分

 図式化すると、上のようなイメージになる。ちょろいものだ。だから、俯瞰と拡大をやめられない(置き換えているだけなのに)。そんな映像ばかりを撮るし、そんな映像ばかりが流通し拡散される。

 小さくして手玉に取る。ちょろいものだ。「●→ ・」のことではない、「●→ ・ or ●← ・」というふうに誤魔化して、てなずけるのだ。錯覚を利用しているだけであり、代理=表象を使う限り、「そのもの」にはぜんぜん近づけない。影絵を利用しての遠隔操作であることに変わりはない。

 フィクションや遠隔操作にも有効性があるのは言うまでもない(有効性があるからこそ人はつくり、利用している)。たとえば、その有効性のおかげで火星の探査が可能になっているし、地球の気温も高くしている。それが科学の可能性であり限界であり、いわば賭けなのだ。結果がどうなるか(どう出るか)はわからない。


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 私には、上の動画の羊が、犬が、魚が、鳥が、人の身振りをなぞっているように見えてならない。これとそっくりな動きを人がしているという意味だ。だから、人はこんな映像ばかり撮る。

 これらの動画の被写体は人でもある。見ていると同時に見られてもいる。自分を見ているとも言えるだろう。あくまでも見ているのは人。ただし、それはおそらく「見えている」のであり、それを「見ている」とは限らない。

 人は自分が関心のあるものしか見ない。自分の関心のあるものとは、人であり、人のような、つまり人に似ているものだ。また見えているものを自分の思いや内に合わせて見えるようにもする。人は人という枠の内でしか、見ないとも言えるだろう。たいていは、自分に似たものとして見る。しかも、それに気づいていない。気づいてもすぐに忘れる。

 人は、つくるものに似ている。人は、内なるものをつくっているからだ。書物や銀幕やスクリーン(ディスプレイ)と同じく、人は内なる仕組みや枠を、外でつくっている。つくり、使っている。利用しているつもりが、利用されているのかもしれない。

*言葉になれないから、人は言葉になりきり、なりすます

 人は言葉を信じ、(言葉にはなれないから)言葉になろうとし、言葉を模倣し、(言葉にはなれないから)言葉になりきる、そしてなりすます。「言葉」を「表象」、「記号」、「鏡像」、「映像」に置き換えても事態は変わらない。

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*言葉を話すことは、自分以外のものに「なる or なりきる」ことである。

と以前から思っています。「自分以外のもの」って何でしょう? 「何でもあり」だとイメージしてください。「自分」以外なら「何でもあり」。では、その「自分」って何でしょうか? 分かりません。

*分からないようにできている

のです。というか、

*分からないような仕組みになっている

あるいは、

*分からないように仕組まれている

とも言えそうです。なぜなら、

*Aの代わりにAでないものを用いる。

という、言葉の仕組みの大前提があるからです。

 なお、

*ヒトは、「〇△X」という言葉を作り、その次に「〇△Xとは何か?」と問い、思い悩む生物なのである

という、言い方もできますが(ここでは「〇△X」が「自分・あたし・おいら・わい」に該当します)、このあまりにも身も蓋もない言い方を採用すると、ヒトのお馬鹿さんぶりおよびお茶目ぶりが露呈して、話が終わってしまう恐れがあるので、ここでは扱いません。

 さて、人類というレベルでのヒトという種が、物心がついたころからずっと「自分って何」と考えてきた。それこそ数えきれないたくさんのヒトたちが、この惑星のあちこちで「私って何」と考えてきたに違いありません。それなのに、究極的な結論が出たという話は見聞きしたことがありません。というか、物好きな人たちがそれぞれ勝手に結論を出してきたというのが、正確な言い方かもしれません。いずれにせよ、「決定打=コンセンサスを得られるだけの結論」は出なかった。だから、「自分とは何か?」という問いは保留するしかありません。

「自分とは何か」を保留するのですから、「自分以外のもの」=「何でもあり」=「森羅万象」=「世界」=「宇宙」とは何かも、きっと保留するしかないでしょう。個人的な意見を述べるなら、「自分」も「自分以外のもの=何でもあり」も、「まぼろし」なのではないか、と考えています。つまり、

*すべては、まぼろしである。言葉自体も、言葉が「指し示している=意味している」とされるものごとや現象も、すべてがまぼろしである。かもね。

という感じです。これは、このブログでよく述べている、

*Aの代わりにAでないものを用いる。

という、言葉の仕組みの大前提と深くかかわっています。

     *

*言葉を話すということは、ヒトが一時的に、あるいは部分的に自分以外のものに「なる」ことである。

と、「なる(6)」で書きましたが、またもや変更を加えます。

*言葉を話すということは、ヒトが一時的に、あるいは部分的に自分以外のものに「なる・なりきる」ことである。

「なる」に「なりきる」を付け加えただけですが、これって「自然の成り行き」をヒトが演じるという意味を込めた駄目押しのつもりなんです。「なりきる」という言い方が、気に入ってしまいました。いかにも「人間ぽい=ヒト特有だというニュアンスがある」言い方だとお思いになりませんか?

 ところで、

*言葉を話すということは、ヒトが一時的に、あるいは部分的に自分以外のものに「なる・なりきる」ことである。

のは、言葉が外からやって来るものだからなのですが、このことについてはいつか別の場で書きます。

     *

「かわる・かえる」という言葉も「かわりはてる」という「コンプリート=完全版」にまで至ってしまうと、「自然の成り行き」という感じは希薄な気がします。誰かの企みやせっぱ詰まった事情によって、やむを得ずそうなってしまったあげくに、「元にはかえることができない」=「もどれない」感じがしてなりません。

 さて、「なる」のコンプリート=完全版である「なりきる」について考えてみましょう。この言葉は、さきほど述べたように、ヒト独特の行為という気がします。「思い込む」とかなりかぶる=ダブる=重なる面があるからかもしれません。

 唐突ですが、ここで書いてきた二つのフレーズを合体させてみます。

*「まぼろしとは、ヒトが知覚している森羅万象=世界=宇宙である」

     + or ×

「言葉を話すということは、ヒトが一時的に、あるいは部分的に自分以外のものに「なる・なりきる」ことである」

     =

「ヒトは言葉を使用することによって、自らが知覚している森羅万象=世界=宇宙=まぼろしに、一時的に、あるいは部分的に「なる・なりきる」

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「なりきる」は、まず、不自然なことをするという意識から出発します。しかし、その意識が薄れます。ほとんどなくなるところまでいきます。「思い込んでいる」からです。もっとも、「思い込み」には程度の差はあると思われますけど。

*「なりきる」とは、「かわる・かえる or 化ける or 演じる = 装う」という言い方の「代わり」に、「なる」という別の言い方を「当てる」=「こじつける」ことである。

という考え方もできそうです。ややこしくなるのを覚悟で、もっと詳しく言うと、

*「なりきる」とは、「かわる・かえる or 化ける or 演じる=装う」という言い方の「代わり」に、「なる」という別の言い方を意識的に「当てる」=「こじつける」と同時に、「なる ⇒ なった」という状態にほぼ無意識のうちに陥ることである。

とも言えそうな気がします。自己催眠、錯覚、酩酊、夢想、妄想、忘却などという言葉が頭に浮かびますが、そうしたラベル=レッテルは、ここではあまり重要ではないと思われるので、深入りするのはやめておきます。大切なのは、「なりきる」が「思い込む」から強くバックアップ=サポートされていることです。

(拙文「なる」より引用)

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 ややこしい箇所を引用してごめんなさい。

 ものすごく簡単にまとめてみます。

 よく「父親(母親)になる」とか「父親(母親)らしくする」とか「長男(長女)だから長男(長女)らしくしなさい」と言いますね。子どもらしく、教師らしく、生徒らしく、お客らしく、店長らしく、課長らしく、人間らしく、〇〇教徒らしく、〇〇市の市民らしく、日本人らしく……。

「父親が父親になる」この場合の、前者は父親という言葉=レッテル=表象を貼られた生身の人間で、後者は父親という言葉=レッテル=表象を信じた=なりきった生の人間なのです。人は言葉にはなれません。だから、父親という辞書の語義、父親像というイメージになりきるのです。「なりきる」から「なりすます」はほんの一歩です。

 なれないからなりきるというところが大切です。つまりフィクションであり物語なのです。この「なりきる」を「信じる」とか「まねる」とか「引用する」とか「擬態する」と置き換えても事態は変わりません(人は言葉を獲得して以来、言葉と現実を混同しつづけているとも言えるでしょう)。見方が変わるだけです。「見+方」です。

 話は飛躍しますが、人がなりきるのは「父親」という、人の属性を示す言葉だけではありません。リンゴでも、犬でも、スズメでも、ミジンコでも、茶碗でも、路傍の石でも何でもいいのです。ミジンコを、民主主義、科学、AI、客観、真理、不偏、愛、神と置き換えると、事の重大さを感じていただけるのではないでしょうか。

 こういう言葉に接した瞬間、人はその言葉を信じて、その言葉になりきるのです。それが言葉を「聞く・読む・話す・書く・理解する」であり、たとえその言葉に反論したり批判をするさいにも、まず受容するという形での信じるがあるのです。

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 ちょっと廉さん、冗談は顔だけにしてよ。私は言葉と現実を混同なんてしていません。口紅という物と口紅という言葉が違うことくらいわかっています――。

 こんな幻聴が聞こえたので、補足説明をします。例によって自己引用させてください。自己引用は、noteでピン芸人をしている私の芸風なのです。

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 あなたはあなたなのですが、人である限り、いろいろな言葉のレッテルを貼られる運命にあります。言葉が現実を反映していないとか、言葉が必ずしも当たり前のものではないと感じるのは、たとえば自分の意志や意思に反して、不本意なレッテルを貼られた時なのです。とてもじゃないけど自分は母親というレッテルを貼られたくないという女性がいても不思議ではありません。

「おんな」と言われるのが大嫌いな人を知っていますが、言葉というレッテルにとても敏感な人でした。森鴎外の小説についておしゃべりしていたとき、「娘」という言葉に抵抗があるとも言っていました。当時の私と同じく翻訳家志望だったその人は、鴎外の『舞姫』における「彼」という人称代名詞についても卓抜な意見を述べていらっしゃいました。実は、いま引用した記事は、その女性を思い出しながら書いたのです。

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 話を戻します。

「父親が父親になる」この場合の、前者は父親という言葉=レッテル=表象を貼られた生身の人間で、後者は父親という言葉=レッテル=表象を信じた=なりきった生の人間なのです。人は言葉にはなれません。だから、父親という辞書の語義、父親像というイメージになりきるのです。「なりきる」から「なりすます」はほんの一歩です。

 なれないからなりきるというところが大切です。つまりフィクションであり物語なのです。この「なりきる」を「信じる」とか「まねる」とか「引用する」とか「擬態する」と置き換えても事態は変わりません(人は言葉を獲得して以来、言葉と現実を混同しつづけているとも言えるでしょう)。見方が変わるだけです。「見+方」です。

 話は飛躍しますが、人がなりきるのは「父親」という、人の属性を示す言葉だけではありません。リンゴでも、犬でも、スズメでも、ミジンコでも、茶碗でも、路傍の石でも何でもいいのです。ミジンコを、民主主義、科学、AI、客観、真理、不偏、愛、神――「神」とは人の口癖だとも言えます、もちろんいま挙げたどの言葉もそうです、そういうものがあるのではなく、そう口にすることを人は好むという意味です――と置き換えると、事の重大さを感じていただけるのではないでしょうか。

 こういう言葉に接した瞬間、人はその言葉を信じて、その言葉になりきるのです。それが言葉を「聞く・読む・話す・書く・理解する」であり、たとえその言葉に反論したり批判をするさいにも、まず受容するという形での信じるがあるのです。

 という話でしたね。

 いずれにせよ、ややこしいですね。いま挙げた「言葉」を「歌」だと思ってください。歌を歌うとき、人はその歌になりきります。一種の催眠状態に入るわけです。けっこうな長さの時間で、旋律や歌詞やそのイメージになりきることができますね。言葉をつかうときには、その「なりきる」が一瞬に起きると考えてもかまわない感じがします。

 言葉をつかうとき、人は一時的にその言葉の語義やイメージを信じて、それになりきるのです。言葉を聞く、言葉を見る、言葉を読む、言葉を話す、言葉を書く。そうしたときに、人はその言葉になりきるのです。そして、なりすます。なりきり、なりすまさない限り、その言葉は認識されないという感じ。

 人は同じことと同じものを繰りかえし目にしたり耳にすると、それが普通であり当然であると思いこむ、つまり信じこむとはよく言われていますね。「愛」も「ミジンコ」も「資本主義」も「真実」も「リンゴ」も「民主主義」も「客観」という言葉は、本に書いてあるし、テレビやネット上で飛び交っているし、辞書にはその語義が書いてある。

 おびただしい数の「愛」(という言葉)が地球上にあるのです。これは、引用と複製と翻訳と拡散のおかげでそうなっているのです。これを信じないほうが無理と言うべきでしょう。つまり、言葉と現実を混同するなというほうが無理という意味です。

 そうなのです。お気づきになったとおり、私たちの一人ひとりが、上で触れたブヴァールとペキュシェなのです。私たちはボヴァリー夫人であるだけでなく、ブヴァールとペキュシェでもあるのです。

 表象であるはずの言葉を信じて(「信じる」とは人が考えているよりもずっと恐ろしい行為なのです、人にはこれしかないというほど人にとって本質的な行為なのです)、言葉になりきらない限り、人はこんな文明を築きあげることはできなかったにちがいない。そんな気がしてなりません。

 気がするだけです。この「なりきる」を比喩やレトリックであると取っていただいてもかまいません。というか、たぶん、そうなのでしょう。

 ところで、「人が言葉になりきる」とか「なりすます」という荒唐無稽な、つまりありない言葉をお読みになって、一時的にでもその言葉の身振りになりきりませんでしたか。あるいは、その言葉の身振りをなぞりませんでしたか。つまり、何らかのありえない馬鹿げたイメージや光景が一瞬浮かびませんでしたか。もしそんなことがあったとすれば、それが「言葉になりきる」なのかもしれません。