名詞至上主義

名詞依存症

 名詞は強いです。今回は、名詞が強いというお話をします。

 まず、図式化とか見える化をしてみましょう。

*名詞 > 形容詞・副詞 > 間投詞・感動詞 > 動詞 > 助詞 > 助動詞

 こんな感じです。私の印象であり妄想ですので、ご了承ください。なお、各品詞については辞書で引くなりしてお調べください。私は文法や文法用語が苦手で、辞書を見ながら上の図式を作るさいにはそれぞれがどういうものなのかは覚えていたのですが、作り終えた瞬間にきれいさっぱり忘れてしまいました。

 次に名詞の中での序列というか番付表です。

*固有名詞(特に人名) > 難しそうな名詞(専門用語、学術用語) > ふつうの名詞(たとえば、トマト、イワシ、金魚など)

 これはシンプルですね。今回はややこしい話になりそうなので、なるべくシンプルに書こうと思います。ただしシンプルに書けば書くほど話は雑になる、つまり不正確になりますので、その辺はやむをえないと覚悟しております。

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 寸劇というか、コントみたいなものを作ったのでご覧ください。

 以下は人と人が出会って挨拶をし、言葉を交わすさいのサンプルです。場所は飲み会、パーティ、あるいはSNS上のチャットを想像してください。人が話しているのを立ち聞きしたという感じで読むとよろしいかと思います。

「ほう、キュービズムに関心をお持ちなのですか、ピカソですね(イッヒッヒ)」――

マーヴィン・ゲイ――。マニアックですね。あなたとの、この巡り会いに感謝します(えっへっへ)」――

「ロシアフォルマリズムが出て来たのには驚きましたよおー。この人はいったい、何者だろうなんて感じでえー」――

南方熊楠をご存じなのですか? いやー、奇遇ですね、私、熊楠の『十二支考』の上下を持っています。高校生だったときの社会の先生に薦められて買ったものの、書斎のどこかで積読状態ですよ、はっはっ」――

フーコードゥルーズデリダに興味を持っていらっしゃるようですね。私は学生時代に原書でフーコーだけを読んだことがあります。(小声で)本当は翻訳だったんですよ。正直に言いますけど、難解でした。いやー、あの頃に戻りたいですねえ、構造主義でしたっけ?」――

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン――。さすが、ヴィトゲンじゃなくてウィトゲンと表記なさっていますね(ウムウム)」――

「確かに、あんな問題はもう解決済みですよね。そうですか、T・S・エリオットが新批評も記号論も先取りしていたというお話、おもしろく拝聴いたしました。『荒地』つながりで、今度は西脇順三郎の先進性と前衛性についてご教示願います」――

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*固有名詞(特に人名) > 難しそうな名詞(専門用語、学術用語) > ふつうの名詞(たとえば、トマト、イワシ、金魚など)

 この序列を感じ取っていただけましたか? 上の架空の科白においては、(書かれてはいませんが)相手の人とは話が通じているようで通じていない気がします。固有名詞や難しそうな名詞は、決まり文句として機能しているのがふつうだからです。

 中身があるようでないところが、こうした会話の特徴です。要するに、議論ではなく、おしゃべりなのです。犬の甘噛みに似ています。忖度しあったり、相手が面倒くさそうだと深入りを避けるように人は訓練されています(例外もいますけど)。

 固有名詞や難しい言葉を知っているということを、たがいに確認しあうだけでオーケーという意味です。それが目的だからです。

 本気になったり深い議論になったら殺気だって、たぶん喧嘩みたいになるでしょう。こういう名詞をよくご存じの方々はお鼻が高いのです。はしたない言いあいは避けるだけの分別をお持ちです(もちろん例外はありますけど)。傷つきたくないという心理もあるでしょう。やっぱり甘噛みですね。

 いずれにせよ、固有名詞(人名)や難しい言葉には重みがあり認知度が高い、つまりパワーがあるわけですから、それを利用しない手はありません。ご承知だとは思いますが、こうした言葉を記事のタイトルに混ぜたり、ハッシュタグにするとリアクションやアクセスが増えますね。

 間違っても「あう」とか「ずらす」なんて、動詞を使ってはいけません。「は?」なんて感じで、まず来てくれません。キーワードはスリーBです。ビッグネーム、ビッグワード、ビッグマウス。遠慮しちゃ駄目です。読まれてなんぼ。頑張りましょう。私も頑張ります。

名詞的と動詞的

 今回は名詞と動詞について書くつもりなのですが、ここで名詞的な性質と動詞的な性質というきわめて事務的な図式をします。シンプルを求めるとこういうふうに杜撰になります。ごめんなさい。

*名詞的な性質:
1)固定と安定を指向する。
2)印刷と相性がいい、あるいは親和性がある。
3)普遍や真理を目指す、あるいはその存在を信じている。
4)シンプルや簡潔を求める、あるいは他者にも求めたり強制する。
5)名詞至上主義あるいは名詞原理主義(当たり前)。
6)結果重視。どこかに到着することが目的。「わかった!」。概念。悟り。
7)S。⇒「S、M、そしてM寄りのH」
8)端正、重い、厳めしい、存在感あり、がちがち、ごちごち。頼りになる。実は抜けている。短い。簡潔。すっきり。固体。
9)テリトリー。定住者。トーテムポール。男根。顔。まな、真字、真名。ステーキ。
10)文字。読書。図書館。記述・記憶・記録。よむ、かんがえる、ろんじる、かたる。

*動詞的な性質:
1)揺らぎとブレを指向する。
2)ネットと相性がいい、あるいは親和性がある。
3)随時あるいは常時更新中。「とりあえず」が常態。
4)多様性や多層性に対して開かれている。他者への干渉を諦めている。
5)とにかく動く(当たり前)、揺らぐ、うつる(映る・移る・写る・遷る・流行るんです)。ゲリラ的な動きをする。
6)プロセス重視。⇒「わかるはプロセス」。「ドライブは途中が楽しいよ」派。「えーっと、えーっねえ……」。体感。直感。
7)M。⇒「S、M、そしてM寄りのH」
8)いびつ、軽い、飄々、とりとめがない、ひゅるひゅる、ほわん。きわめてテキトー。意外としたたか。長い。冗漫。ぐたぐだ。気体。
9)草原。遊牧民ノマド)。リゾーム。器官なき肉体。表情。かな、仮字、仮名。スキヤキまたは鍋物
10)音声。歌。口承。かく・しるす・よみがえる・かえる・かえす・うたう・となえる。

 何だか性格占いみたいで楽しいですね。しょせんお遊びの図式ですから、楽しいに越したことはありません(こんなことは本気で真面目にやるものではありません)。ところで、あなたは、どっちが/どっちの タイプですか?

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 ところで、人は基本的に名詞依存症です。例外なく誰でも。私もそうです(ただし隅っこ暮らしです)。そうでない人には出会ったことありません。

 名詞に依存しながら、動詞に目が行く不届き者がいます。浮気者とも言えます。こういう人はときどき目にします。ここにも一匹います。というか、ある人がそういう面をちらりとのぞかせたり、そうした仕草をおそらく無意識にしてしまうことがあるのをたまたま目にするのです。一時的なもの、要するに浮気なのです。本気ではありません。

名づけることで人は癒やされる

 言葉にはいろいろな性質や働きがあり、一様に語るわけにはいきませんが、ここでは言葉のうち名詞と動詞の「いやす」側面について考えてみます。

 上では名詞の悪口を述べているという印象を持たれたとすれば、本意ではありません。名詞のいい面、特に「いやす」側面について書いてみます。

1)人間関係を円滑にする――。これは、上で述べたとおりです。議論ではなく、中身のないおしゃべりのことです。例の甘噛みです。「いい天気ですね」「ほんとに」と同じ。がちの本噛み(言葉によらない腕力や武力を用いた争い)を避けるための知恵でありガス抜き(言葉という代理=表象を用いた代理戦争)とも言えます。

2)名詞という形で「何か」わけのわからないものとか、「得体の知れない」怖い物や事を名指すことで、気持ちが安らぐ――。診断名がそうです。病気や、障害としての認定がそうです。とりわけ目に見えない事態については、それを名指し、名前を付けることが心理的な安定につながることはみなさん実生活の中で体験なさってきたのではないでしょうか。

 名のない相手ほど怖いものはありません。顔が見えない、姿が見えないのと同じくらい恐ろしいからです。得体の知れないものを言葉で置き換えるというのは人間の優れた特性であり防衛の手段だと思います。

夜になると人は洗濯をする

 やっぱり見えます。人の顔です。似た人を知っています。何を見ているのかと申しますと、天井の染みなのです。二十年以上前から、そこにあります。何度見たか知れません。やっぱり見えます。見ないつもりでも、見てしまいます。

 よく考えれば、テレビも、映画も、写真も、絵も、パソコンのモニターも、「「それ」そのもの」ではないにもかかわらず、「それ」を見てしまうという錯覚を利用したものです。でも、それは意図的にそうなっているのであって、不意に出あってしまうという体験をしているわけではありません。

 それなのに、出あってしまう。出あってしまった。出あってしまうだろう。出あってしまうかもしれない。そんなことがあります。人間をやっている以上は、あります。何かに何かを見る。これって、人である限り、仕方がないみたいです。

 たとえ、不意をつかれたとしても、正々堂々と出あってしまえばいいのです。そういう体験の恥ずかしさとか後ろめたさとか格好悪さを薄めるためのいいおまじないの言葉があります。それは、「あらわれる」です。

「○○が見える(見えた)」の代わりに「○○があらわれる (あらわれた」とするだけでいいのです。「見える(見えた)」が自分の責任なのかどうかは、誰にも分からないと思いますが、とにかく責任を転嫁する。それだけで、だいぶ、気が楽になりませんか? 

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 このように言葉は、時として、人を助けてたり救ってくれます。あの天井の染みの中に見える人の顔は、「あらわれている」のだ。そう思うと、気持ちがいくぶんやわらぎます。

 ところが、同時に「ぞくっとくる」のです。こっちに落ち度はない。責任はない。そこまではいいです。じゃあ、なぜ? でも、なぜ? なぜ、あらわれるの?

 責任だか何だか分からないものを押しつけたのはいいけれど、その「押しつけられたもの」 とか 「押しつけたこと」が気になってくるのです。なぜ? どうしてなの? 何が起こって、そうなっているわけ? 

 こういうことは、深く考えることではなさそうです。考えてみても、いいことなど、これっぽっちもないみたいだからです。

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 世界は顔で満ち満ちている。そんなふうによく思います。

 人面○○という言葉がありますね。たくさんありそうです。こうした現象に共通するのは、いろいろなものに、人の顔を見てしまうという点です。人間以外の生き物の顔、毛皮の模様など人間以外の生き物の身体の一部、人間の皮膚にできた出来物はもとより、無生物、つまり、壁や天井の染みの一部、カーテンの模様、空に浮かぶ雲、石や岩といったものに、見えるはずのない人間の顔を見てしまうのです。

 きわめて主観的な現象のようですが、複数の人たちに共有される感覚だということになると、主観的では済まされないという思いに、人はとらわれるみたいです。ただ事ではない、という感じでしょうか。人面○○だけでなく、イエスや聖母の顔・姿、あるいは観音像が何かに出現したという噂をめぐって、大騒ぎする例があるのも、理解できる気がします。

 人は、人の顔や表情に大きな反応を示すと言われています。人間が赤ん坊のときから、観察される習性のようです。顔と表情とは区別して、つまり「分けて」考えるべきだという気がします。「顔」が即物的な意味合いを持っているのに対し、「表情」という言葉にはトリトメがないというか、抽象的なニュアンスを感じます。

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 顔をつくる。これも、人特有の習性みたいです。

 表情をつくる。お化粧をする。仮面やお面をつくる。人や人以外の生き物を描く。「にんぎょう・ひとかた・人形」をはじめ、人以外の生き物に「似せた」ものをつくる。今挙げた一連の行為には、たいてい、「顔をつくる」という行為が含まれていると思われます。

 顔を構成するパーツは、目、口、鼻、頭という順序で重要度が決まっているのではないかと、個人的に感じています。どういうわけか、哺乳類・爬虫類・鳥類・両生類・魚類・昆虫には、たいてい、目、口、鼻、頭が備わっているように「見えます」。

 とりわけ目が特権的な位置をもっている気がします。目を「見て」、あるいは、目に「見られて」、やすらぎを覚える場合もありますが、怖い、不気味だ、心が乱されるという思いにとらわれることも多いです。人面○○のたぐいだと、後者がほとんどだという気がします。

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 生き物の生態を写した映像を、テレビなどで見るとき、人間以外の生き物をつい擬人化している自分を意識し、はっとすることがあります。そうした映像に添えられるナレーションが、被写体である生物を擬人化した物語となっていることにも気が付く場合があります。

 テレビや映画に限らず、身の回りを見ると、「にんぎょう・ひとかた・人形」だけでなく、擬人化された生き物を模した玩具のたぐいや絵が多いのに驚かされます。いわゆるキャラクターという映像つまり視覚的イメージや、キャラクターグッズという物体や、人面○○と呼べそうなものに取り囲まれているのにも驚かされます。

「何か」に似たものに囲まれているというぼんやりとした感じから、世界そして宇宙は比喩あるいは暗号であるという確信までは、ほんの数歩だという気がします。その「何か」とは、必ず人の属性を備えているように思われます。

 人間にとって、森羅万象は「人間のようなもの」なのかもしれません。もしそうだとすれば、こんなのは人間だけがやっている気がします。そう思うと、人間はある種の「心の病」にかかっているとも言えそうです。

 それはさておき、ところで、意味とはもともと顔や表情ではないでしょうか。意味の前にあるものは意識されません。それが意味となって初めてその顔と表情が意識されるという意味です。意味はちょっと踏ん張らないと意識されない気がします。踏ん張りすぎると別のものになってしまう気がします。

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 擬人化されたものが、夢にまで出てくるのには、閉口し感心もします。思いつき、つまりでまかせですが、夢というのは、擬人化という仕組みを原理としているのではないでしょうか。夢のなかでは、何もかもが、人である自分と通底しているように思えてなりません。大風呂敷を広げると、夢には個人レベルではもちろん、人類レベルでの「他者」がいないのです。

 その一方で、夢の主語は自分であり、同時に自分と万物のイメージをつなげる、非人称的で匿名的でニュートラルな仕組みだという感じもします。「非人称的で匿名的でニュートラルな」というのは、人間に深くかかわりながら、人間がコントロールできない自立した状態にあるという意味です。だから、人は夢のなかで自由であると同時に不自由を感じている、という気もします。

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 人と、人が知覚する森羅万象とは、人の意識および無意識のなかで「つながっている」というか、比喩的な意味で「血縁関係にある」のではないか。もしかすると、それは、人の知覚と意識のなかにおいてだけでなく、宇宙に広がっている仕組みなのではないか。ふと、そう思いました。

 ヒトという種に特有の、身の程をわきまえない不遜な考え方だと反省しつつも、こういったことについ思いをめぐらしてしまいます。致し方ない気もします。人間からこの性癖を取り除いたら、何が残るのでしょう。尻尾のないおサルさんたちのなかでも、とりわけひ弱い種というだけでしょうか。⇒「【小説】テラ取り物語」

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 話は変わるというか、飛びますが、「似ている」と「違う(異なる)」は同じとは言いませんが、似ているのではないでしょうか。つまりかなり近いことだという意味です。

 世界は似たものに満ちている。
 世界は顔で満ちあふれている。
 似ているはいたるところにある。

 同じや同一はない。
 似ているは印象。
 同じと同一は検証しなければならない。それも機材を用いて科学的に精密に。

 似ているが人にとっての体感できる現実。
 同じと同一は人にとっては抽象でしかない。

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「似ている」とか「そっくり」は個人の印象とか感想です。複数の人の間で、意見が異なるのはよくあることです。ひとさまが言葉で述べた印象とか感想の内容を調べるわけにはいきません。相手の脳や神経に流れているデータを調べたり、ましてや視覚化する技術はまだなさそうです。

 要するに、ひとさまが何を考えているのか、何を思っているのか、何を感じているのか、何を知覚しているのか、何を認識しているのか、は分からないし、検証できないというのが現状みたいです。

 仕方ないですね。無いものねだりの話をしても空しいだけですので、有るもの、あるいは自分で感じ取れるもので我慢しましょう。

 そんなわけで、「似ている」とか「そっくり」は個人の印象とか感想なのですが、これは程度の問題ではないでしょうか。

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 何かを比較して「似ている」とか「違う」と思う時、人はその対象が既に似ていると予め決めているように思えてなりません。「似ている」という予感とか決めつけがあってはじめて、比べるのではないでしょうか。

 明らかに違うと思うもの同士を人は比較しないとも言えます。ここは大切です。

 石ころと草の葉を比べて同じか違うかとは、ふつう考えないと思います。比較する気がさらさらないのです。「石ころと草の葉を比べる」は言葉の綾なのです。言葉を使うと何とでも言えるので、暇つぶしにそう口にしてみたくらいの感覚だと言える気がします。

 石ころと卵となると違います。まず「似ている」と意識的か無意識に感じ、次に比べて「やっぱり違うわ」と判断する。一種のやらせですね。「違う」の前に「似ている」があるわけですから。

 石ころと綿を比べる場合もあります。マジに比較するのです。その場合には、原子とか分子とか素粒子とか、そういうレベルでの「似ている」があってはじめて「比べる」のだという気がします。これは科学者の見方でしょうね。ふつうはこういう比較はしないと思います。先立つ「似ている」がないからです。

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「似ている」と「違う」とか「異なる」は程度の問題だとも考えられます。「似ている」と「違う」とか「異なる」を「反対である」というふうに見ることもできるでしょう。物事を反対だととらえることの苦手な私は、「AとBは反対の関係にある」と言われると、「うっそー」とか「えーっ」という気持ちになります。

 確信なんてありません。私は論理的思考がきわめて苦手なので、何事についても「かもしれない」とか「気がする」のがふつうで、ぜったいに「こうなんだ」なんて思ってことはありません。ですので、あくまでも一個人の話だということでご勘弁願います。

 右と左、西と東、悪いと良い、善と悪、男と女、かたいとやわらかい、あついとつめたい、直線と曲線、有と無、正と誤、SとM、先生と生徒、始まりと終わり……

 思いつくままに並べましたが、表裏一体、ものは言いよう、見方の相違、利害関係、でかいっちゃでかい・ちっちゃいっちゃあちっちゃい、明日は我が身、そのうち何とかなるだろう、なんて言い回しを並べると、「反対なんてあるのかなあ」という気持ちになるのです。

 右は左の類語、SはMの親戚、婦人服と紳士服は兼用可能、直線と曲線や点と線はきょうだい、先生も生徒も教祖も信者もご飯を食べるし排泄もするし、なんて口にしてみると、それぞれのペアが似ているどころかそっくりに思えてくるのです。

 冗談はさておき、こういうのは、見方や見る人の立場やその時の機嫌によって似ている時も似ていない時もあるとも言えるでしょう。

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 ところで、ここまでの文章をお読みになってお分かりだと思いますが、私は論理的であったり体系的な思考が苦手でできません。おまけに話がすぐに飛びます。

 私の場合には、ものを考える時に、AとBを並べてああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもある、と考えることはあっても、Avs.Bという具合に対立させて議論を発展させたり、論を積み上げていくなんていう芸はできないと言えそうです。

 そもそもそういう発想がないのです。

 AとBを並べると、「似ている」が目につきます。でも「似ている」を見る時には、必ず「似ていない」も見ているのです。ただ「似ている」と「似ていない」は対立するのではなく、むしろ共存して、そこに「ある」のだという気がします。

 いや、「ある」は言い過ぎかもしれません。「似ている」と「似ていない」は共存してそこに「ある」のが「見える」ではないかという気がします。これを「似ている」と「似ていない」と区別して言うのは、言葉の綾ではないでしょうか。レトリック(修辞、美辞、巧言)とか、トリックとも言えそうです。

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 繰り返してばかりで恐縮ですが、「似ている」は個人の印象であり感想であり意見です。「違う」もそうじゃないでしょうか。あるものとそれとは別のものが本当に違うかどうかは、かなりマジにそれこそ機械とか器機を使って検証しないと判断できないのではないでしょうか。

 見ただけでは分からない気がします。「違うんじゃないの」としか言えないという意味です。もちろん、さきほど上で述べたように、明らかに違うと思うもの同士を人は比較しないという前提があっての話ですよ。そう、話なんです。論とか説なんてものじゃありません。

 その意味で「違う」は、「同じ」とか「同一」と同じです。検証しないと判断できないという意味で似ています。そっくりです。そっくりなところがそっくりなのです。

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 基本に「似ている」があって、その上に「違っている」があるようにも思えます。人にとって世界は「似ている」だらけなのです。「違っている」はふつうは意識されません。

「似ている」は安らぎをもたらします。「違っている」は人を恐怖と不安に落とし入れます。だから、ふつうは「違っている」を意識しないのかもしれません。直視すると心をやられてしまうからではないでしょうか。人の知恵なのかもしれません。こういう鈍感さを持った種だけが生き残ったとも感じられます。

「違っている」は言葉であり、「似ている」は体感だとも思います。「違っている」を意識するのには言葉による「意味づけ」が必要なのです。ぼーっとしていては「違っている」は知覚できません。ある程度気張って目を凝らさないと知覚できない気がします。

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 人は夜になると洗濯をします。洗濯機を回すのではなく、自分の手でごしごし洗うのです。

 何を洗うのかというと、心、意識、魂、記憶です。魂の洗濯、意識の洗濯なんていうと何だか難しく聞こえますが、誰でもやっていることなのです。

 言い直します。

 何を洗うのかというと、汚れではありません。断じて汚れではないのです。染みなのです。正確にいうと、たぶん、模様です。顔かもしれません。その何かに似た染みというか模様をごしごし洗うのです。

 命の洗濯という言い方がありますね。日常のしがらみから逃れてのんびりすることですが、命をごしごし洗うなんて、いいたとえだと思います。夜になると各自が一斉に命を洗うなんて絵になります。

 でも、私が今思っているのは、それとはちょっと違います。

 人は夜に洗濯をするという場合に私の頭に浮かぶのは、マネーロンダリングです。漠然としか知らない言葉なので意味を調べてみると「お金を洗ってその出所を消す」とかいう比喩なの現実なのか分からない説明が書いてあります。

 言えている気がしてなりません。人は夜に「昼間の記憶を洗ってその出所を消す」のです。

 そんな気がします。そんな気がするだけです。

 人は眠っている間に夢を見て、その夢の中で何か日常生活で起きたことの整理をしているというか、記憶のおさらいをしている。あんなことがあったなあ、こんなこともあったなあ、と。

 そのうちに、あれはめちゃくちゃ怖かったなあ、あの時には恐ろしくておしっこを漏らしそうだったよ、と恐怖の記憶も出てくる。

 ここなんです。この恐怖をおさらいし整理することで、実はごしごし洗濯をしているです。振り返ることで恐怖を飼い慣らすといえば、お分かりいただけるでしょうか。

 記憶にまといついた意味づけを放棄するとか、あったことを虚構化する、つまり距離を設けることで、ベールに包んだり、場合によっては改変したり、さらにはなかったことにすらして、すっとぼけるとか、しらーっとやりすごすとも言えそうですが、ややこしいですね。

 でも、記憶の痕跡は消せません。何かの形で残っているのです。染みは消せないということですね。

 いずれによせ、こういうのは洗濯をしているように思えてなりません。やはり一種のマネーローンダリングだという気がします。そんな気がするだけです。出所を消して綺麗に見せて、要するに誤魔化しているんですよ。なぜって、めちゃくちゃ怖いから。

 さもないと、人間なんてしんどくてやってられません。

 そんな気がします。

 ちなみに、この洗濯で使う洗剤には「名前」が付いています。洗濯の後には「言葉」の香りがします。とてもいい香りなのです。

(拙文「世界は顔で満ちている」より引用)

名づける、なつける、手なずける、なつく

 メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン(原題:Frankenstein: or The Modern Prometheus)』に出てくる怪物には名前が与えられていないことを思い出しましょう。フランケンシュタインとは、主人公であり、死体を継ぎ接ぎして怪物を創造した人物の名前なのです。

 この小説は、数千、数万という言葉を費やして、名がないものをなつく(ならす・てなずける・かいならす)ように努める物語として読むこともできるでしょう。この小説の結末は、ネタバレになるのでお話しできないのが残念です。ぜひ読んでみてください。私は大好きです。名前がなくて、「なつかない」まま「なくなって」しまう、あの猫が出てくる漱石の小説と同じくらい切なく悲しいがゆえに大好きです。

 名づけえぬものを手なずける。得体の知れないものを見えるものにする。名前を与え、言葉にすることで手なずける。なつければなつく。名付ければ懐く。