まぼろし・その1

幻影

まぼろし」と「かげ」が合体しているからでしょうか、「幻影」という言葉を見聞きすると、いろいろな言葉とイメージが頭に浮びます。思いつくままに、並べてみましょう。

 影絵、幻灯、幻灯機、スライド、スクリーン、銀幕、活動写真、セピア、スチール写真、映画、映写機、映画館、シネマ、キネマ、写真、フィルム、カメラ、明るい部屋、暗室、現像、拡大、引き伸ばし、焼き付け、オーバーヘッドプロジェクター

 そういえば、かつて「幻影城」という本や雑誌の名前もあった記憶があります。

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 幻灯つまりスライドは小中学生のころに、よく学校で見ました。確か、教室の窓という窓を遮光性のカーテンか何かで被うのです。幻影には、あのしっとりとした暗闇が欠かせません。

 人工的な闇の出現に、わくわくしたものでした。幻灯を見終わって、カーテンを取り外し始めるときに目にするまばゆい光も、強く印象に残っています。いわば非日常的世界から日常に連れもどされるわけですが、一瞬、逆転を感じるのです。

 日常である光に満ちた昼間の世界が白っぽい光景となって、ほんの短いあいだですが、闇の世界に劣らないほどの非日常性を帯びるのです。闇で感じるわくわくするような体験ではなく、目を細めるしかない、全身の皮膚を硬い毛のブラシで撫でられるような感覚なのに、なぜか心地よかったのを覚えています。

 それもつかの間、がっかりした思いが体じゅうによみがえってきます。朝目覚めたときに覚えるやれやれという脱力感に似ています。遠いところから帰ってきたときの快い疲労感にも似ています。

まぼろし

まぼろし」を、「魔を滅ぼす」とか「間を滅ぼす」とか「真を滅ぼす」と読み換えるたぐいの遊びを、よくします。自分勝手に、言葉とたわむれるのが好きなのです。

 大きめの辞書を引いて、言葉の語源をたどるのもおもしろいですが、語源には「正しい」対「正しくない」といった二項対立の影がつきまといますから、どうしても窮屈です。それに対し、たわむれるさいには、夢を見るのと同じで、気兼ねも遠慮も無用です。

 夢の中では、すべてが肯定されるように、夢想のさなかには、疑問をいだくことはありません。何でも許されてしまうのです。幻灯や映画を見るのと似ています。あれよあれよという感じです。それがまぼろしでしょう。

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 魔を滅ぼす。この魔って何でしょう。ネガティブな意味合いが濃い言葉ですが、ネガティブとポジティブは反対の関係にあるというより、表裏一体ではないかと、つねづね思っています。見る者の立つ位置によって変わる。そんな感じもします。

 科学では、観測者という視点が重要性を増しているという話を、何かで読んだことがあります。共感を覚えます。そもそも「見る」とは、一介の生き物にほかならないヒトという種にとって、広義の主観的行為であるはずです。

 それが忘れられがちなのは、残念なことです。

 話をもどします。

「魔を滅ぼす」でしたね。実は、魔という言葉は、他の言葉を呼び寄せる枕詞か触媒のようなもので、あまり意味はないというか、興味がありません。むしろ「間を滅ぼす」や「真を滅ぼす」のほうに、個人的にはおもしろみを感じます。

ま、魔、間、真

 魔、間、真というように、「ま」という音を、漢字に置き換えてみる。分光する、と言ってもいいかもしれません。つまり、「ま」という表音文字が喚起するイメージを、漢字という表意文字を当てることによって、「分ける」のです。そして、また「ま」に送り返してやる。

 すると、「ま」というひらがなと、それを口にしたときに発せられる「ma」という音に、「たましい」が、いわば「やどる」。そんな遊びなのですが、よくやります。もちろん、個人的な次元でのたわむれであり、いたずらです。

 こういうのは本気でやるものではありません。少なくとも私にとってはそうです。

 意味と音。この二つを、いったん分けて、その中身を確認し、再びくっつける。それこそが、自分にとって、「まをほろぼす」という音と字の発する意味なのです。まさに、まぼろしですね。

「ま」

 幻を「まぼろし」と読んだ場合に、「ま」という音と字に、つい気が行ってしまいます。魔、間、真……という漢字の意味とイメージがちらつくのです。すると、「ま」がひとり歩きしはじめます。

「まほう」、「あくま」、「まら」、「たま」、「たましい」、「ことだま」、「まがさす」、「まがたま」、「まがる」、「まがまがしい」、「まがあく」、「まをとる」、「まをうかがう」、「まがわるい」、「まあい」、「まあるい」、「まりも」、「まごころ」、「まにうける」、「まもる」、「まぼる」、「まあ」、「まま」、「mother」、「mammal」、「magic」、「Marks」、「マキロン」、「まーぼーどーふ」という具合です。

 人とは勝手な生き物ですから、たとえを用いて、ありとあらゆる物・事・現象同士をこじつけ、さまざまな妄想にふけります。げんに、いま、言葉を使って、妄想の結果を記述しています。単純化するなら、脳の中で起こっている妄想を、言葉という代理に置き換えて作文していると言えそうです。

 よろしいでしょうか。こういうのは本気でやるものではありません。少なくとも私にとってはそうです。

言葉を掛ける

 比喩こそが、この惑星に生息する生き物すべての行動の根幹にあるメカニズムではないか。そう思っています。これは、知覚という仕掛けを重視した考え方と言えるでしょう。知覚とは、隔たったものを「近く」にあるものに感じられるようにする仕組み、つまり「間を滅ぼす・間をなくす」ことにほかなりません。

 だから、「まぼろし」なのです。訛っていますが、もちろん、これは言葉の遊びです。というか、辞書にもよく「訛って」とありますね。言葉は時間的にも空間的も広がるにつれて、訛るものです。言葉は「無傷」では移らないし伝わりません。何らかの変化や痕跡をこうむります。

 間を滅ぼす、間をなくす、だから、まぼろし――。

 ところで、どうして、こうした苦しい駄洒落にふけっているのかと申しますと、自分には何もなく、取っ掛かりがないので、仕方なく、言葉に引っ掛けているのです。いや、逆に、こっちが言葉によって引っ掛けられているというのが、正確な言い方かもしれません。

 いずれにせよ、圧倒的な偶然性が支配する宇宙において、自分が宙ぶらりんな状況にあるために、何かをつかまないと、つまり何かに引っ掛からないと安心できない。とりあえず、思い浮かんだ言葉や気に掛かっている言葉に、手を伸ばしてみようという感じです。とりあえずの行為である限り、これは賭けです。何の根拠も確証もありません。でまかせだとも言えるでしょう。

 いや、出るに任せているのですから、でまかせにほかなりません。ちなみに、「でまかせ」という言葉のなかにある「ま」が気になって仕方ありません。出魔枷、出真仮世、出間桛……。イメージが膨らみます。こういうときには出るに任せます。

まかせる

「でまかせ」という言葉とイメージが好きです。「出る」と「任せる」を合わせた言葉らしいのですが、さまざまな意味とイメージを呼び覚ませてくれます。たとえば、「出る」と言えば、決まって「うんち」を連想します。なぜかは、分かりません。

 自分の中では、「あらわれる」と違って、「出る」とは、「なぜか分からないけど出る」状況を指します。ひとさまのことは知りません。こんなことを質問できますか?

 イメージとは、このように個人レベルで各自が勝手にいだくものみたいです。だから、人それぞれです。共同体や複数の人たちが共有するイメージがあるという考え方もありますが、個人的には興味はありません。積極的に、他人様とイメージを共有しようとは思いません。

「まかせる」は多義的な言葉だと思います。この語を広辞苑で引くと、「まく・任」「まかる・罷」と同源と記してあります。「まかす」という言葉も並べてあります。こうした記述を見ると、もう止まりません。辞書を閉じて、言葉を書きつらねたくなります。

 掛詞(=かけことば)が、次々とあたまに浮かびます。掛詞の例として「かける」を挙げるのは、ややこしいのですが、こういう自己言及的な倒錯が好きなので、ついやってしまします。

 たとえば、気懸かりな「掛ける」が、頭の中を駆けめぐり、「書く」がその語源だという「引っ掻く」と重なって、全身がむず痒くなり、無性にあちこちを掻きたくなります。すると、体が熱くなってきて、汗まで掻きます。体質であり性格のようです。

「(偶然性に)まかせる・任せる・負かせる・巻かせる・蒔かせる・撒かせる」、「まける」、「まく」、「まかる」、「まかふしぎ」、「まがまがしい」、「おまかせ」、「でまかせ」、「まけ」、「おまけ」、「まげる」、「まがる」、「まげ」、「ちょんまげ」……。

 まさに、でまかせで、でたらめですね。でも、こういう遊びが好きです。

言葉が乱れるというまぼろし

 辞書を引いていて、語源に関する記述を読んでいると「~の転・転じて・転じた」、「当て字」、「約・約音・約言・約転」、「訛り・訛って」といった言葉をよく目にします。

 要するに、言い間違いや書き間違いや発音上のアクシデントが起こったり、簡略化や勘違いが生じたという意味でしょう。言葉を使うのは人の自然ないとなみですから、そうなるのが当然です。

「正しくない」がたくさん起きて、言葉が変遷する。そう理解しています。それが豊かさなのではないでしょうか。「正しい」ばかりだと人は心が貧しくなるという気がしてなりません。栄養不足をまねくように思われます。

「正しくない」が頻発して言葉が生き、そして変わっていくのだと考えを見聞きすると、「正しい」対「正しくない」という対立や、「正しい」が「正しくない」を駆逐すべきだという考え方に違和感と嫌悪感をいだいている身としては、うれしくなります。

 また、「美しい○○語」や「正しい○○語」とか、「正しい言葉遣い」や「正しい漢字の読み方」や「正しい文章の書き方」といった言い方や考え方が、幻想(まぼろし)であり、歴史的に見れば劣勢に立たされてきたのだという証しを確認できて、心強く感じます。

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 最近国語が乱れてきた。正しくない言葉遣いが氾濫している。こうした趣旨の意見が跡を絶たないのは、「正しい」対「正しくない」を根拠にしているようで、実は自分にとって「快い」対「快くない」に基づいているようだと考えられます。

 言葉に限って言うと、「正しい」とは、「正しい」と教えられ、そう思い込まされたものです。思い込みは洗脳とほぼ同じですから、「正しい」に根拠なんてありません。また、思い込みは「快い」の源泉だと言えそうです。

 考えなくていいから楽なのでしょう。ぬるま湯につかるようなものです。もちろん、ぬるま湯も心地よいです。だから困ります。

 たとえば、「当て字」や「らぬき言葉」や「新語・流行語」に対して批判的な意見を述べる人たちは、それが自分にとって「快くない」ために悪態をついているように見えます。

 恐怖感の表れ、あるいは保身のためだという気もします。異なるものを受け入れるのには、努力と寛容さが必要になります。ときには、勇気も要るでしょう。それが面倒だと感じる人がいるようです。

 言葉は変わる。それも、勝手気ままに変わる。これが、言葉における変遷のありようだと私は考えます。人それぞれですけど。

当て字

 当て字と言えば、明治から大正にかけて活躍した、ある作家を無視するわけにはいきません。一般には「文豪」と呼ばれている人なのですが、その言葉が好きではないので使いません。「人」や「作家」と書くだけにとどめます。

 著作権にかかわる場合を除いて、固有名詞はあえて挙げません。固有名詞は強い光を放つので、その前後にある言葉たちの影が薄くなるという弊害が生じるからです。

 その人の漢字の使い方は「感字」と表記すべき感覚的なものでありながら、理にもかなっているように思えます。その人の残した諸作品は、的を射た絶妙な当て字の宝庫です。

 ただし、虎の威(この威ですが、個人的には感字で衣を当てたいところでです、豪華で厳めしいトラの毛皮をイメージします)を借る狐のように、その人がやっているのだから、当て字を正当化するといった真似はしたくありません。

 当て字については、言葉をめぐっての「正しい」対「正しくない」という幻想とかかわるために、批判的な意見を述べる人が必ずいます。どうして批判するのかというと、自分にとっての居心地のいい世界が脅かされる気がするからだと思われます。自分にとって、居心地がいい空間を、とりあえずテリトリーと呼んでみましょう。

テリトリー

 テリトリー(領土)では、考えるという作業をする必要がほとんどありません。軽度の、人によっては重度の思考停止状態というのでしょうか。快い閉じた世界です。「まほろば・まほろ・まほら・はほらば」という言葉を連想します。

「まほる・まもる」と関係があるのかしらん。専門家ではないので知りません。無精者の素人ですから、知ろうとせず、言葉やイメージとたわむれるだけです。

 自分のテリトリーを侵されている。テリトリーに危害がおよぶ恐れがある。そんなふうに感じた場合、他の多くの生き物と同様に、人は攻撃的になります。いまの私がそうです。

 ちょっと戯れてみますと、テリトリーは、「まぼろし・魔を滅ぼす・魔滅ぼし」と関係がありそうです。魔物やよそ者を成敗する、という発想ですね。

 困ったことに、人は自分たちのテリトリーにおける居心地の良さ、つまり価値観や掟を、よその人たちにまで押し付ける習性があります。あれこれ思い悩んだり、考える必要のない土地を拡大したいのかもしれません。

 横着なだけでなく、残酷ですね。他人様を犠牲にしてまで、楽をしたいのですから。楽のおすそ分けどころか押しつけは、ご免こうむりたいです。

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 テリトリーの類語に「なわばり・縄張り」があります。人の場合には、縄を自分の土地を囲うためにだけでなく、異なる人たちを縛るのにも使おうとします。こうした魔こそ、滅ぼし、無くなってほしいと願っています。

 でも、まほろばをつくるために、まもり、まをほろぼさなければならないとするならば……。まよってしまいます。まよう・迷う、まどう・惑う、まどう・魔道、まどう・償う、ですか。先の戦争が思い出されます。

 現時点において世界各地で起こっている紛争や戦争にも思いがおよびます。いくさばかりでなく人は広い意味でのまほろばをまもろうとし縄張りをつくり続けます。人の歴史からまほろばをめぐってのいさかいを除くと何が残るのでしょうか。致し方ないのでしょうか。

 まどえども まほろばとおし ままのかわ