なる(1)-なる(5)

なる(1)

 春になると、いろいろなものが「はる・はれる」、そして、いろいろなものを「はる」。だから、春なのだそうです。辞書には、そのように書いてあります。

(1)植物の芽や梅や桜などのつぼみなどが「張る」。

(2)土地を「墾(は)る」。荒れた野原などを耕し(=田を返して=掘り返して=切り開き)新たに田畑にする。あるいは、冬の間に放置してあった田や畑を耕し、作物をつくる準備をする。

(3)どんよりとした天候から徐々に「晴れ」た日が多くなる。日が照ることで気温が高まる。

 こうした説明を聞くと、「なるほどね」、「すごいこじつけだなあ」、「分からないことないけど、その説明ってちょっと苦しいんじゃない」、「へえー、そうなんだ」、「うさんくさい」、「で、それがどうしたの?」、「勉強になりました」、「かんけーねー」など、人はさまざまな反応を示すでしょう。自然で当然のことです。なお、(3)の「晴れる」の説明については、どの大きな辞書にも少々自信なげに書き添えてあります。

 日本の国語辞典や英和辞典は、伝統的に孫引きが行われてきたと言われています。確かに、版を重ねた、古くからある辞書には、どれにも似たり寄ったりの説明や定義が書いてありますね。いわゆる学会と出版界というギョーカイの内部事情から、そうなっているのでしょう。

 学者の世界では、徒弟制度が未だにはびこっているそうですから、現在でも辞書という商品がほぼ規格化されているのは、当然の結果だと思われます。学派と呼ばれる派閥間の争いもあれば、一匹狼もいれば、在野の学者もいるみたいですが、詳しいことは知りません。

     *

 いずれにせよ、「はる」です。「はる」について、勝手気ままに考えてみたいです。思いきり、こじつけてみたいです。こちらはアマチュアですから、当然のことながら、いわゆる専門家たちの書いたものから孫引きをする作業が出発点になります。では、遊んでみたいと思います。

*「はる」=「張る」=「貼る」=「墾る」=「晴る・晴れる」=「霽る・霽れる」=「腫る・腫れる」=「脹る・脹れる」

*「はらう」=「払う」=「掃う」=「祓う」

「はらう」まで書いたのは、「晴れる」と「はらう」のイメージが似ていると感じた。そして「祓う」という言葉が気になる。それだけの理由からです。こじつけに使えそうです。

 言葉は、一部のヒトたちの占有物でもなければ、管理下にあるものでもありません。みんなのものです。好きなように使い、好きなように遊びましょう。ちなみに、タイトルは入力ミスではありません。「なる」については、いずれ書きます。

なる(2)

 春を、「はる」=「張る」=「貼る」=「墾る」=「晴る・晴れる」=「霽る・霽れる」=「腫る・腫れる」=「脹る・脹れる」にこじつけてみましょう。まずは、個々の言葉のイメージを、複数の国語辞典や用字用語集を参照しながらみていきます。

*「張る」 ⇒ ふくらむ、ふっくら、ぷくっ、ぷくぷく、ぱんぱん、こわばる、かちかちの寸前、はちきれそう、のびて広がる、うんと広げる、しわのない状態にする、広げて使える状態にする、準備完了、いつでも来い、おれってこんなもんよ、わたしってこれだけもってるのよ、すごいでしょ、あたりにひろがる、たるみをなくす、ぴんとはる、つき出る、つっぱる、せま苦しい、つっかえる、緊張する、こちこち、張りきっちゃう、力をこめる、がんばる、元気はつらつ、対抗する、負けてたまるか、いけいけ、押し通す、ばりばり、ぴったり張りついて監視する、離れないでじっと狙う、ストーカーする、度を越す、リミットぎりぎりまでいく、これって高すぎだよ負けてよ、満たす、目いっぱいにする、(平面状のものを糊や釘で別のものにはりつける)、(ぴったり)、(ぺたり)、(べたっ)、平手でぴしゃり、ああ痛い、というイメージ。【注:( )でくくってあるものは、他の表記にも当てはまるという意味です。】

*「貼る」⇒(平面状のものを糊や釘で別のものにはりつける)、(ぴったり)、(ぺたり)、(べたっ)、というイメージ。

*「墾る」⇒ 「今年はここ? こんな荒れた土地で野菜(or 米)がつくれるかな」「とにかく、鍬(くわ)やスコップや鋤(すき)を使って、まずは地面を掘り返して耕していこう」「冬の間にずいぶん地面がかたくなっちゃったなあ」「去年は豊作だったんだ。だいじょうぶさ。まあ、ぼちぼちやろう」、というイメージ。

*「晴る・晴れる」=「霽る・霽れる」⇒ 雨、雲、霧、靄がなくなる、日がさしてくる、空が明るくなってくる、ぱっとなる、こころにあった不快な感情や気がかりがなくなる、ああすっきりした、くもりがなくなる、疑われていた状態でなくなる、やっとで無実の身になった万歳、見えなかったものが見えるようになる、おお見える見える、視界が開ける、すかっとする、さっぱりする、というイメージ。

*「腫る・腫れる」=「脹る・脹れる」⇒ 皮膚が炎症を起してふくれあがる、ぶくぶく、ぷっくり、さわると痛い、さわると熱っぽい、針で突くと何かぴゅっと液体が出てきそう、かゆいし手でさわりたいのだけど我慢しとこ、というイメージ。

【※辞書で「春」の語源として候補に挙がっているのは、「張る」=「墾る」=「晴る」です。「貼る」と「腫る・腫れる」は、こじつけ用に勝手に並べただけです。】

     *

 さて、各言葉のイメージが何となく頭で分かったところで、体を動かしてみましょう。「春」を自分の知り合いに身ぶり手ぶりで伝えるとすれば、あなたはどんな動作をしますか? 「春」の語源らしき「張る」=「墾る」=「晴る」を参考にして考えてみてください。

 想像しながら、同時に体で表現してください。どうですか? 「春」の語源として、最も有望らしい「張る」の動作をする方は、あまりいらっしゃらないのではないでしょうか?

 では、感覚的にみて、最も有望そうに思われる「晴る・晴れる」で試してみましょう。たとえば、空を仰ぐような動作をし、両手を合わせてかかげ、その手をいきなりぱっと開いてみせる。あるいは、両手の指をピアノを弾くように動かし、前面で上下させて雨が降っているさまを表し、急にその動作をとめて、うれしそうな表情で空を見上げる仕草をする。そうすれば、「晴る・晴れる」は伝えられそうな気がします。でも、そこから「春」までどうもっていくか? 頭をひねりますね。「墾る」から「春」を表現するのも、ちょっと難しそうです。

「晴る・晴れる」と「墾る」の動作を使う場合には、ある程度のストーリー性を持たせる必要がありそうです。まず、寒い冬を表し、冬が終わって、晴れの日が多くなり暖かくなっていくさまを表す。これだと何とか「春」になったことを伝えられそうな気がします。次に、土地を耕す動作から、「春」が来たことを駄目押しする。うん、これなら、成功するかも。もやもやしていたものがなくなり、気持ちが晴れてきました。

     *

 理屈が好きな人や、意地の悪いへそ曲がりな人だと、ここで「待った」をかけます。「外国人を相手に、それって通じる?」なんて、言い出します。「そりゃあ、通じるに決まっているでしょうが」と、相手を馬鹿にしたような表情で言い返すと、「赤道直下に住んでいる人にも通じる?」なんて、澄ました顔で尋ねてきます。絶句していると、相手はすかさず「ひょっとすると、地球上には、四季のない地域に住んでいる人たちのほうが圧倒的に多いんじゃない?」なんて付け加えてくるでしょう。

 悔しいけど、言えていますね。「春」という言葉が、そもそも存在しない言語があるのは確実です。また、読み書きができない人が圧倒的に多い地域も、世界には数多くあります。いわゆる識字率が低い地域ですね。「春」という言葉がない言語を話している、読み書きのできない人たちに、「春」をどう伝えるか? 念のために。申し添えますが、「読み書きができない=知識が乏しい=いわゆる知能が低い」ということではありません。

 たとえ読み書きができなくても、世界には四季というものがある地域があり、「春」というものがあるらしい、という知識を持っている人たちはたくさんいるはずです。逆に、そうした知識のない人たちも多数いるはずです。後者の人たちに、「春」をどう伝えればいいのでしょうか? 言葉が通じないので、身ぶり手ぶりで示すほかしかない。今述べた条件・状況で、そうした人たちに「春」を分かってもらうためには、あなたならどうしますか?

     *

 答えは容易には出ないと思います。また、出す必要もありません。おそらく「これしかない」といった正解もないでしょう。大切なのは、想像力をうんと働かせることです。いわゆる「頭に汗をかく」ことです。そして、文字通り、実際に汗をかくことです。ご一緒に、頭を働かせ、体を動かしてみませんか?

なる(3)

「春」の反対って何でしょう? たいていは「秋」だという答えが返ってくるでしょう。「春」の有力な語源候補が「張る」、つまり草木の芽がふくらんでくる時期であるなら、春の反対は「成(=なる)」ではないか。こじつけが好きな偏屈者の中には、そんな突拍子もないことを言う人がいるかもしれません。ここにもいます。

 草木が芽をふくらませ、その芽が枝や葉や花などに生育していく。そして、いわば総括として、実をつける。あとは、冬を待つだけ。これって、秋ですよね。

*「なる」=「成る」=「生る」=「為る」=「慣る・慣れる」=「馴る・馴れる」=「狎る・狎れる」=「熟る・熟れる」=「鳴る」

 このブログでは、よく「=」を使用します。もちろん、数学的な意味はいっさいありません。「感字」の一種だと考えてください。上の言葉の羅列では、「=」は「同じ読み方をします=同音です」という意味です。たった今書いたセンテンスでの「=」は、「似たような意味です」という意味です。感覚的にとっていだいて構いません。学術論文を書いているわけではないので、その程度のテキトーさはお許し願います。

 さて、上でこじつけ用に並べた言葉から、「春」と関係深そうな「成る」=「生る」=「為る」のイメージを調べてみました。

*「成る」=「生る」=「為る」 ⇒ 物事が新しく形をとって現れる、こんなになっちゃった、えっこれがあれだったの、おっできた、植物が実を結ぶ、うまそうなものができたぞ、実がなる、みのる、豊作だ神様に感謝感謝、生物が生まれ出る、かつてとは別のものや状態にかわる、これがこんなふうになったの、質や内容がかわる、ある状態にたっする、驚き桃の木山椒の木、ある時に達する、もうこんな時間か、あるものごとの機能や役目を果たしたり演じる、すっかり○○になりきっちゃって、役に立つ、こりゃ使える、完成した状態になる、仕上がる、最終結果にいたる、一件落着、組み立てられる、構成されている、成立する、おめでとうよかったよかった、うまくいく、成功する、おっとやったね、やったあ、というイメージ。

 したがって、

*「なる」とは「はる」の結果である。

 二つの言葉に限定すると、以上のよう言えると思います。

     *

 さて、春夏秋冬をサイクルで言い表すなら、次のように言えるのではないでしょうか。

*「はる」から「そだつ=かわる=わかる」という過程をへて、「なる」という状態で一応の「決着=成功」に至り、次に「ねむる=やすむ」という態勢をとりながら再び「はる」の状態を待つ。

「秋」の語源については、辞書の記述は頼りなげです。秋空が「あきらか=すみきってあかるい」からかもしれない。収穫が「あ(=飽)き満ちる=十分に満足する」からかもしれない。ひょっとすると、植物の葉っぱが「あか(=紅・赤)くなる=紅葉する」からかもしれない。広辞苑という辞書には、そうした意味のことが書いてあります。

「こんな説明では、あきまへんなあ」、「あんたら、言葉で、あきないして、おまんま食うてるんやろ。しっかりせんと、あかんわ」。関西の方なら、そうおっしゃるかもしれません。ちょっと違いますか? やっぱり……。えせ関西弁をお許しください。あきまへんとあきないを使いたかっただけなのです。

     *

 ちなみに、英語で秋は fall と autumn の二つがありますね。fall のほうが古い言い方でゲルマン語系(※日本語の大和言葉系にあたります)、その意味は「落ちる=葉っぱが落ちる=落葉」で米国英語で使われている。主に英国などで用いられている autumn は、「収穫期=成熟期=熟年・衰え・老化が始まる時期」という意味のラテン語系(※日本語の漢語系に当たります)の言葉から来ているそうです。autumn ってまさに「なる」ですよね、などとこじつける人がいそうです。ここにもいます。

 ついでに申しますと、春は spring ですね。語源は古いゲルマン語系の言葉で、「はねる=突然ぴょんと飛び出す」とか、「流出口」(※何ですか、これは?)とか「春」(※そのまんまじゃないですか!)とか辞書によってまちまちです。まちがいじゃないでしょうね。昔のことなので、あやふやなんでしょうか?

 でも、現在使われている spring の意味を見ると、何となく納得=体感=「感字」できます。

*「春」のほかに、「はねる、とびはねる、おどる、穴から飛び出す、はじく、わきでる、生える、芽を出す、ぜんまい、スプリング、泉、源、水源」など。

の意味があります。言い方を換えると、

*ぴょんぴょん、うごうご、ひょっこり、びょーん、ぷしゅーっ、こくこく、わーい、というイメージ。

ですね。

 やたら元気がいい。激似とは言いませんが、日本語の「はる=張る」と、張り合ってませんか=かぶりませんか?

「はる=張る=春」の反対が「なる=成」だったら、おもしろいのに……。

 いや、こじつけっぽくすぎて=あたりまえすぎて、おもしろくないですね。前言撤回します。言葉の仕組みはわけが分からないほうが、想像力=創造力を鍛えてくれそうです。

なる(4)

「はる」の反対が「なる」ではなく、「あき」だというのは、語源から解釈すると「晴れてすみきった春の空」から「晴れてすみきった秋の空」に戻ったということです。では、その間にある「なつ」と、その後に続く「ふゆ」には、「晴れてすみきった 夏の or 冬の空」はないのでしょうか? そんな屁理屈を言いたくなります。そこで大きな辞書で調べてみました。まず、「なつ」を引いてみました。

 あっと、驚きました。前回の記事「なる(3)」で、こじつけた「なる」が出てきたのです。語源の説明として、いろいろな説が自信なげに並べてある中で、なんと、いけしゃあしゃあと、「満州語の『春』と語源がいっしょか?」とか、「『あつ=暑い』、『なる=生』、『ねつ=熱』からなどとも言われているらしい」なんて意味のことが書いてあるのです。辞書には「?」も「らしい」も使ってはありませんけど、よく分からないので専門家として恥ずかしいのだと推測されます。いずれにせよ、

*「あつ」+「なる」+「ねつ」=「なつ」

 国語辞典様が、こんなテキトーな=でたらめな=自由奔放な=大胆な式で、「夏」を説明しているとは! 「なる」ほどと「なっ」とくできるどころか、「ねつ」いもへったくれも「あっ」たもんじゃありません。それにしても、「なる」が「あっ」たのには、たまげました。「あっちっち」と「ねつ」と「なる」とが、合同結婚式を挙げたのでしょうか? ところで、もしも三人で結婚したならば、法律的には重婚になるのであろうか、などと要らぬ心配をしてしまいました。

     *

 開いた口を閉じるのを忘れたままに、次に「冬」を調べました。これには、笑っちゃいました。こじつけが好きな自分としては、わくわくもしてきました。のっけに「ひゆ(=冷)」と書いてあったので、「ひゅーひゅー、北風さんは……」とかいう、幼いころに読み聞かされた童話の一節が頭に浮かびました。そりゃ、そうですよね。

「冷たさ=寒さ」を「冬という時期」に転換する。これって、格好をつけてお上品に言えば「比喩=ひゆ」ですね。簡単に言えば「たとえ」です。ややこしく言うと、「Aの代わりにAでないものを用いる」という、言葉の大前提みたいな「代理の仕組み」です。こうしたヒトの行為を、このブログでは、ずばり「こじつけ」と呼んでいます。

 さて、辞書に記述してある「冬」の説明に話を戻します。「ひゆ(=冷)」に続けて、「一説に」、寒さが力を「ふるう=奮う=振る」の意味があるので、「ふゆ=振」か? あるいは、「ふるう=ふるえる=震」か? または、「ふゆ=殖=殖える」という説もあり。ということが書いてあります。つまり、寒くて、外へ出るのもおっくうだから、家の中で「子づくり=生殖」に励むってことでしょうか。体が温まるでしょうね。なかなか説得力があります。

     *

「夏・なつ」と「冬・ふゆ」については、以上のようことが書いてあるのです。いやはや、「こじつけ」=「だじゃれ」=「オヤジギャグ」=「地口(じぐち)」=「(広い意味での)たとえ」=「(広い意味での)比喩」の力はすごい。事実関係=因果関係=歴史的経緯はあってもなくても構わない、というか、「そんなの知ったことか」という神経=精神の産物である「こじつけ」は「正しい」。パワーがある。こじつけは脳を活性化し、想像力(=イマジネーション)=想像力(=クリエイティビティ)を養う。何だか、「はる=張る=春= spring =ばりばり=ぴょんぴょん=ぴちぴち」の気分になりました。元気をありがとう、という感じです。

     *

 それにしても、辞書にある「一説によると」、「……という説あり」、「……の意からなどともいう」、「……なる意からとも」といった記述の「歯切れの悪さ=うじうじぶり=みじめったらしさ」ですが、なかなかいい味をかもしだしていますね。情緒と悲哀と風情を感じさせます。

 さらに、「……と同源か」、「……であるところからか」という具合に、「?」を省いた「潔くない=往生際の悪い」表記も、おちゃめでチャーミングですね。苦しいんですよ、きっと。いや、けっこう、楽しんでいるのかも……。

 辞書づくりに励んでいらっしゃる学者さんたちやそのお弟子さんたちが、子づくりと同様にせっせと汗をかいて苦労なさっているさまを垣間見る思いがします。作る楽しみ、産む苦しみ、ですか。

*素人も、自信をもって、こじつけをやっていいのだ。言葉はみんなのものなのだ。

 これが、ここまでのとりあえずの「強引なこじつけ=結論」です。

なる(5)

 言語学という学問とそれを研究するギョーカイがあります。どの業界でもそうですが、さまざまな人がいて、いろいろなことを言いますから、喧嘩やいがみ合いも当然起こります。縄張り争いもあります。さらに言うなら、嫉妬あり、中傷あり、イジメあり、献金あり、です。議論とか論争とか言っても、中身は嫉妬・中傷・イジメ・カネがらみという点では「同じこと」で、どろどろの果し合いです。百家争鳴、百花繚乱といった、りんりんらんらんかんかんほあんほあん的言い方も可能です。「何と名づけようと」、喧嘩は喧嘩です。

 その「何と名づけようと」「同じこと」に注目した言語学者が、昔いました。言い換えれば、言葉とその言葉が指しているものごとの間に必然性=因果関係=因縁=切っても切れない関係=腐れ縁などない。要するに、両者の関係は、でたらめ=でまかせ=テキトー=恣意的=気まぐれ=こじつけだ、というわけです。確かスイスの人でした。名前が浮かばないのですが、そのうち出てくるでしょう。気配がするというか催すのです。

 ぺらぺらの薄っぺらい言の葉を、お大根の皮をかざせば透けて向こうが見えるほどに超薄切りにする板前さんみたいに、異味スルコトと忌身サレルコトにわけわけするなんて、ある意味とってもシュール、イッツ・ソォ・シュール。あ、出ました。

 思わずシニフィアンのトチ狂イを演じてしまいました。解離、離人、憑依かしら。「なる・なりきる・擬態・生成」恐るべし。魔に入られたのかもしれません。

 軌道修正します。要するに、意味されるものと意味するものの関係性は、お刺身とその味のように、人それぞれ、人生いろいろ、口にする人によって味は変わる、同一人物でもそのときどきの気分でまちまち、ちまちま、同一物でも、時がたてば味も移り変わる、諸行無常、パンタレイ、男心と秋の空。つまり、きわめて気まぐれで、恣意的で、テキトーだという意味です。何だか、現代詩みたいなややこしい説明になってしまいました(現代詩さん、ごめんなさい)。

 とにかく、言語学のギョーカイでは画期的な出来事=事件みたいだという話です。

 ですので、

*「秋」を「あき」と言おうと、 fall と言おうと、autumn と言おうと、「なる=成」と言おうと、どうぞお好きなように、正解なんてなし、

という感じです。

     *

 でも、というか、ところで、その「秋」って何でしょう? 四季のない地域に住む人たちにとって、「秋」は体感=知覚できないものです。たとえば、赤道直下に住むたちを考えてみましょう。

 アフリカ、インド洋の島々、東南アジアとオセアニアの間、南太平洋の島々、南アメリカには、赤道直下の地域があります。そこには、「春夏秋冬」という「現象」 or 「観念=概念=五感で知覚できないもの」である「春夏秋冬」を知らない、あるいは聞いたことがあるけど経験したことがない人たちがたくさんいます。さて、そこで暮らしている人たちは、どんな言語を話しているのでしょう?

 大昔から先祖代々伝わってきた、いわゆる「現地の言語」を話している人たちもいれば、歴史的な経緯から「現地の言語」を奪われて、そもそもヨーロッパで話されていた言語を話している人たちもいるでしょう。かつて、インドネシアの周辺や南太平洋のアジア寄りの地域では、日本語で教育を受けた人たちがいましたね。いつだったか、南太平のある島に住むかなり高齢の現地の男性が、流ちょうな日本語を話しているのをテレビで見て、びっくりしたことがあります。

 その人は、幼いころから数年間日本人が作った学校に通い、日本語で教育を受けていたらしいのです。当然、「秋」という言葉も習って知っているでしょうね。教科書は、当時の日本で使われていたのと同じものだったようです。「春夏秋冬」、それに「雪」なんて「言葉」も「知っている」に違いありません。でも、

*「雪」という「言葉」は「知っている」けれど、「雪の実物」を見たことも触ったこともないだろう、

とも想像できます。

 これも、想像ですが、その人が住んでいる島やその周辺の島々には、現地の言語が「奪われる」ことなく残っていて、現在、日常生活ではその言語を話している可能性もあるでしょう。いや、日常生活では、新しい支配者の言語である英語とかフランス語とかを話しているかもしれません。それでもなお、現地の言語がまだ残っている可能性は捨てきれません。

 ふだん複数の言語を話している人たちは、世界的な規模でみると意外と多いみたいです。特殊なのは、むしろ日本みたいな国だと言えそうです。話を戻します。さきほどの、南太平のある島とその周辺の「現地の言語」が、英語などと併用される形で、依然として使用されていると仮定しましょう。その言語に「春夏秋冬」、「季節」、「雪」という言葉に相当する言葉があるでしょうか? たぶん、ないのではないでしょうか? あったとしても、外来語として存在すると考えるのが妥当だという気がします。

    *

 とはいうものの、そうした状況は、この国に住んでいてもざらにあると思われます。たとえば、アマゾン川流域にしか生息していないという動植物。ものすごく多いらしいですね。言葉としては、辞書や百科辞典に載っている。または、グーグルやヤフーで検索すれば、ひらがなやカタカナや漢字で表記され、その映像(=写真・動画)まで目にすることができるかもしれません。

 言葉=名前と映像で知っているけど、実際に知覚=見たり触ったりしたことはない。そういうものが存在するということが、不思議でなりません。当たり前のようですが、よく考えると摩訶不思議。あくまでも個人的な感想ですけど。

 話が大きくなりすぎましたね。もっと身近な例で、考えてみましょう。テレビをつけてみたとします。実際に、近くにテレビがある方はつけてみてください。そこに映し出されているものを、実際に見たり触ったりしたことがありますか? あるいは、画面に映っている場所に行ったことがありますか? 100%のうち99.9999…%の確率で、「ない」のではないでしょうか?

 CMを見ながら、「いや、あるよ。ほら、今CMをしていた、あれと同じシャンプーなら、うちにもあるよ」なんて叫んでいる方もいらっしゃるでしょう。同じシャンプーには違いないでしょうが、同一のシャンプーですか? もし、そうなら、あなたか、そのCMに出ている人のどちらかが盗んだことになりません? 

 それから、あなたが行ったことがあるという、その場所ですけど、同じ場所には違いないでしょうが、同一の場所ですか? もし、そうなら、あなたは今、そこにはいないことになりません? 人はある瞬間に二つの場所に同時に存在することはできないような気がしてなりません。記憶や想像の中での場所なら話は別ですけど。

 今問題にしている、同一とはそういう意味です。抽象ではなく、極めてリアルな、つまり今実際に知覚=見たり触ったりできる、「そのもの」と「ここ」を問題にしているのです。

     *

 いやですね。こういう屁理屈、こじつけ。へそ曲がり、偏屈者の言うゴタク。不毛なスコラ哲学の議論(スコラ哲学に悪いですね、ごめんなさい)や、もったいぶった禅の公案(禅の公案に悪いですね、ごめんなさい)や、いかがわしい宗教などでの洗脳の際に用いる戯言や、絶対多数を得ているからこそ看過されている与党の強弁みたいです。

 こういうのって、本当にいやですよね。話をすり替えやがって、上の「同一の話」は、おまえが言ったんだろう、ですか? そ、そうですね。とにかく、ごめんなさい。頭の体操をしていると思って、許してください。冒頭で、言語学のギョーカイなんて書いたので、ついねちっこい口調になってしまったようです。え? 絡み酒なんかじゃありませんよ。昼間からお酒なんか飲んでいませんし、そもそもお酒は体質的に無理なんです。

 どうやら、この連載のタイトルである「なる」に共振して、またもや、なりきり=擬態=憑依が起こったみたいです。私はふだんはこんなにねちっこくはないですよ。とにもかくにも、冒頭の文言が影響したのは確かだと思われます。自己嫌悪と被害妄想とそれらへの言い訳が収拾つかなくなってきたので、ここで止めます。ああ、「なる・なりきり・生成」は恐ろしい……。

     *

 話をもっと簡単にしましょう。

*言葉が何を「指している=意味している」のかは、分かっているようで、よく分からない。

*「言葉」と「その言葉が指すもの」の関係はかなりテキトーであるらしい。

 そんなふうに言えませんか? でも、こんなことを考えながら、生きていく=生活していく必要も義理も責任も全然ないことは確かです。ちょっと、頭に揺さぶりをかけてみる。たまには、そんな頭の体操をして、脳を活性化させてみましょうよ。頭がかっかしてくれば、それでもう上の話は忘れましょう。それだけが、目的だったのです。