まぼろし その2

「ま・間」

まぼろし」を「間を滅ぼす」と読んだときの、「ま・間」という言葉の意味とイメージですが、説明しにくく感じます。たとえば「間の取り方」というときの、「間」を他の言葉を使って説明しようとすると、困ってしまいます。辞書で語義を調べるという手もありますが、すぐに辞書を引くのではなく、自分で考えてみるのもおもしろいです。

 とは言うものの、芸も知識もありませんから、せいぜい類語や似た言葉で置き換えてみるくらいが限度です。とっさに、あたまに浮かんだのは「あいだ・間隔・隔たり・すきま・休み・休止」です。「ま・間」をセンテンスで説明しようとしても、できそうもありません。

 観念して広辞苑を引くと、語義に「リズム」という言葉が見えました。日本的だと思い込んでいる「間」という言葉の説明に、外来語が紛れ込んでいるとドキッとします。「拍子・ころあい・まあい」という言葉を使って定義を試みている辞書もありますね、なるほど。

 ある言葉を辞書で引いて語義を確認したのち、その語義で使われている言葉を同じ辞書で、あるいは他の辞書で調べてみた経験はないでしょうか。「ま・間」の場合には、さらに「リズム・拍子・ころあい」を国語辞典で引いてみるとか、「rhythm」を英和辞典で調べてみたりするという具合にです。

「リズム」については、「時間的な諸関係(広辞苑より引用)」、「音の長短や強弱の組み合わせ(新明解国語辞典より引用)」、「構成要素の相関的調和・不随意行動のパターン(リーダーズ英和辞典より引用)」、「周期性・周期的な変動(ジーニアス英和大辞典より引用)」というフレーズが目を引きました。

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「間」という漢字と「あいだ」という読みを頼りにしながら、辞書をさまよっているうちに、「間」には「かん」という音読みのほかに、「あい・あわい」という訓読みもあることが分かります。

 音読みは漢語系の読み、つまり中国語での読み方を日本風に読んで記したものですね。いく通りかの読み方がある場合には、時代や地域による発音上の違いみたいです。一方、訓読みは大和言葉系の読み方、つまり漢字にその意味に相当する日本語を当てた時の日本語の発音だと理解しています。

 まず、訓読みのおもしろさを味わってみましょう。たとえば、「ま(間)」が、「ma」という音と同音の他の語や、「ma」のつく言葉やフレーズを、呼び寄せてくれます。「ま(魔)・ま(真)・ま(摩)……」や「まよう・まもる・とんま・まま・おしまい……」という具合です。この時には、「ま」の意味は希薄になり、あるいはまぼろしのように消えて、代わりに「ma」という音が前面に出てきます。

「ま(間)」が「間」という漢字と一体になって、「間」のつく言葉やフレーズを、引き寄せる場合もあります。たとえば、「間合い・床の間・隙間風・間が悪い……」が、これに当たります。「ま」と「間」が合体しているというか、音と意味とがぴったりと重なり、くっ付き合っている感じがします。

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 音読みをすると、どんな感じでしょう。「かん・けん・げん(間)」ですから、たくさんありそうですね。「間隔・空間・世間・人間・間接税」は序の口で、続々出てきそうです。中国から伝わった言葉もあるでしょうし、日本でつくられたフレーズもあると思われます。その区別や実例については知りません。

 いずれにせよ、音読みをした場合には、音と字と意味という三者の間にある関係は曖昧なようだというのが、個人的な感想です。分かるような分からないような感じとでも申しましょうか、つかみどころがないのです。ひょっとすると、音読みする漢字のフレーズ、つまり熟語は抽象的な意味のものが多いからではないかという気もします。

 大和言葉と、漢字と、漢字の音読みと訓読みとの間には、何があるのでしょう。「あわい・ま・あい・かん・けん・げん・間」と文字を並べて、声に出してみたり、じっと眺めてみたりする。そのうち眠くなる。そんなことが好きです。

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 思いつきというか、でまかせなのですが、どうやら、「間」という漢字は、日本語に流れている、漢語系と大和言葉系という二つの系統を浮き彫りにしたり、両者をつなぐ役割を担っているという気がします。

 このように、漢字という、いわゆる表意文字をながめることで、その字の意味とイメージが広がります。でも、表意文字と言っても、同時に音も表しているわけですから、漢字は表音文字でもあるわけです。

 一方、ひらがなやカタカナやローマ字は、表音文字と呼ばれています。でも、その字面を見ていると、音以外のものを感じます。字の面と書くのですから、顔みたいなものですね。それぞれの文字が持つ形には、音でも意味でもないイメージや動きや表情とでもいうべきものが感じられます。

 字面という視点から見ると、表意文字表音文字という構図は意味をなくしてしまいます。すべてが、形としてとらえられるからです。ヒトが個人レベルでその時の気分や事情に応じて書く文字には、違いがあるはずです。また、印刷された活字の書体による差異に注目すると、なかなか奥深い世界に導いてくれます。

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 大学三年生になり、就職について考えはじめたころに、活字のデザイナーを志したことがありました。写植機(写真植字機)のオペレーターになろうとも思い、その操作を教える学校にも通いました。タイポグラフィーと呼ばれる分野の本、印刷会社や活字メーカーが出している書体見本を集め、虫眼鏡で書体ごとの特徴を鑑賞する楽しみも覚えました。

 一口に印刷物と言っても、紙やインクの質、刷り上り具合やレタッチ(写真製版の修整)の状態によって、ふだんは気にも留めない違いが生じるのを知ったのが、そうした時期でした。今でも、新聞・雑誌の文字や写真を、虫眼鏡で拡大して見る習慣があります。趣味と言ってもいいかもしれません。ときどき熱中しすぎて、時が経つのを忘れてしまいます。

 テレビ画面やパソコンのモニターでも同じです。画質、書体(同じ書体名でもメーカーごとに違いがあります)、画面の明るさといった条件の違いで、同じ文字や文字列の印象が異なり、印象が変わります。そういえば、パソコンでは、フォントという言葉が使われていますね。パソコンを操作してこの言葉を見かけたら、ちょっと休憩するつもりで、たくさんある書体のそれぞれの美しさや、活字の大きさによる印象の違いを、ぜひ楽しんでみてください。

 以上挙げた例も、一種の「ま・あいだ・あわい・かん・間」ではないでしょうか。「あわい」という言葉に「あわ・泡」を見て、「淡い」という言葉を連想しました。まぼろしは、はかないです。あわいはあわい。そんな気がします。

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 意味という点では、「間」と「関」とは、それほど隔たっていないように思われます。もう少し長くして、「間隔」と「関係」という言葉を比べてみるのも、おもしろそうです。「隔たり」と「関わり」という意味を持つ語の、隔たりと関わりをながめ、思いにふける。その再帰というか回帰というか、たとえて言えば、脳が脳について思考するみたいな遊びが、好きです。

 比べるとは、違い、つまり差異について考えることだと言えそうです。「さい・差異・際・再・采・賽」と並べてみると、その言葉たちが「差異」という「祭」を演じているようで、見ていて飽きません。

 こんなふうに、何でもつなげてしまう、あるいは何とでも言えるのが、言葉の働きの一つではないでしょうか。もちろん、つなげるのはヒトです。もっと正確に言うなら、脳の仕組みなのかもしれません。ひょっとすると、脳の仕組みを超えた、さらに大きなもの、または多くのものにかかわっている仕組みなのではないか。そんな気もします。

 そう考えると、つなげているのか、つながっているのかが、分からなくなります。もしかすると、このあたりに言葉の限界、つまりヒトの思考の限界があるのかもしれません。

 いずれにせよ、こうしたことは、ヒトには「分かる」ことではなく、「想像する」しか、あるいは「たとえる」しかないたぐいの話にちがいありません。「ま・間・さい・際・差異」は「きわ・際・きわみ・極み・はて・果て・かぎり・限り」でもありそうです。

 ヒトにとっては、宇宙は「まぼろし・幻界」であり、「ぎりぎり・限界」ということですね。身の程を知るべきだ、ということでしょうか。

「ま・真」

まぼろし」を「間を滅ぼす」と読んでいると、知らぬ間に「真を滅ぼす」とも読んでいるような気持ちを覚えます。事物や現象のあいだの隔たりをなくす。これが「間を滅ぼす」だとすれば、その行為は、「真」つまり「真実」と呼ばれているものを、無化するとまでは行かないまでも無力化する作業に近づくと考えられます。

 つまるところ、「真を滅ぼす」とは「真をなくす」です。「真を生かす」お話をしているのではありません。その意味では、殺伐とした場に立ちあうことだと言えそうです。

 間・差異・違い・隔たりがなくなっていく様子は、真実と虚偽という対立した構図が薄れていくさまと重なって見えます。すべては、まぼろし、つまり幻想である、という安易な話におさまってしまいがちです。

 ところで、今、こうしてイメージとたわむれながら書いているのは、あくまでも、うさんくさくて、いかがわしい物語です。実体、現実、事実、そして真実といった言葉が指し示していると信じられている、うさんくさくて、いかがわしい神話とは次元が異なるように思われます。言葉が足りず、ややこしい言い方をしてしまい、申し訳ありません。

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 ここに書かれている駄洒落に満ちたたわいない話も、論証や実証といった手続を踏んだいかめしい科学・学問の話も、うさんくさくて、いかがわしいという点では共通しています。うさんくさいとか、いかがわしいというのは、人知の及ばない事象を、知ったり分かったりできると思い込んでいる状態くらいの意味です。明らかに語弊のある言葉ですが、大切だと思うことを訴えたいときに使っています。

 自分たちにとって免れることができない限界を、ヒトという種は受け入れ、自覚しているでしょうか。これは大切な問いだと思っています。ヒトは、何かの代わりに、その何かではないものを用いるしかない。言い換えると、言葉以前の物・事・現象の代わりに、言葉以前の物・事・現象ではないもの、つまり言葉・記号・象徴を用いるしかない。これが、ヒトの限界です。うさんくささであり、いががわしさです。

 具体的に言えば、知覚という仕組みです。知覚器官から脳にいたるまでの各所で生じているという、信号あるいは情報の伝達と処理(外界から受けた刺激の情報化=データ化)という形でしか、ヒトは世界および宇宙を知覚できないらしいのです。

 こうした仕組みは、ヒトに限らず、この惑星に生息するほぼすべての生き物に共通した知覚の手段だそうです。でも、その仕組みを自覚し、受け入れることができるのは、おそらくヒトという種だけみたいなのです。

 もし、そうであれば、自覚し、受け入れようではありませんか。自分たちの知覚に備わった、うさんくささと、いかがわしさを認めようではありませんか。敗北を認めようというのではありません。むしろ限界を自覚することで、科学や学問の精度は高まるのではないでしょうか。それだけでなく、この惑星での無軌道な行いに歯止めをかける一助になるかもしれません。

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 自分を含め、ヒトのなすことはすべて、いかがわしく、うさんくさい。そうした思いを前提に、ああでもありこうでもある、ああでもないこうでもない、ああでもありこうでもない、ああでもないこうでもあるという具合に、「さまよい・さ迷い・呻吟い」ながら、言葉とたわむれていこうと思っています。

 真剣にならずに本気に、本気にならずになら真剣に、という感じです。何についてもそうですが、半酔または半睡というのでしょうか、一途になって、のめり込むのを避け、風通しをよくしておくことが必要ではないかと自戒しています。

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まぼろし」という言葉を口のなかで転がしていたら、「マーボー豆腐のロシア風」が転じて「ロシア風麻婆豆腐」という、荒唐無稽とも言えるイメージというか言葉があたまに浮かびました。

 ボルシチをベースに絹ごし豆腐をぐつぐつと煮込むなどという、レシピにまで思いをめぐらしそうになりました。意外と、おいしいかもしれません。冬なんかに、熱々の「ロシア風麻婆豆腐」をスプーンにすくって、ふうふうと息を吹きかけながらすすると、からだが温まりそうです。

 そんなまぼろしに浸っていると、「うつつ・現」つまり現実が、「うつうつ・うつらうつら・うとうと」つまり「ゆめうつつ・夢現」に侵され、やがては「ゆめ・夢」へと移ろっていくようで、いい気持ちになります。夢はすべてを肯定してくれます。それは、夢の主語が何か、あるいは誰かという問いと関係がある気がします。とはいえ、答えは誰にも分かりません。

 いずれにせよ、安心して身をまかせられるのが、夢の魅力です。夢には矛盾はありません。あると感じたら、それはむしろ覚醒ではないでしょうか。夢の後の記憶としては、いくらでも矛盾を指摘できます。一笑に付すこともできるでしょう。覚醒は、その意味で退屈きわまりない体験です。夢では退屈はあり得ません。あれよあれよが夢です。

「ま・ma」

まぼろし」という言葉のなかでも、とりわけ気に入っている「ま・ma」という音を発して遊んでいたら、官能的とも言うべき体験を味わうことができました。

 まず、口をしっかりと閉じます。両唇に力を入れるのがコツです。これが、「m」の発音の構えです。そのまま、声を出そうとしてみてください。鼻から空気が抜けてハミングする状態になりますね。鼻の奥から喉にかけて、わずかな隙間に残っている空気が震えるのを感じ取ってみましょう。

 次に、上の口の構えから、一気に息を吐き出す要領で、大きく口を開けます。口の後部にある軟口蓋と呼ばれる皮膚の外壁と、鼻の奥が、そこを通る空気と共に振動します。これが「a」です。

 以上の「m」から「a」への移行を、繰り返してみましょう。口の動きと状態に集中し、できれば、あたまを「から・空・殻」にして、何度か試してみてください。

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 学生時代に、言語学や音声学をかじったことがあります。そうした分野では、「ma」という音、一つを取っても、それをさらに意味素、形態素、あるいは音素という言葉で「分ける」作業を行っていました。現在でも、あのような言葉が使われていて、あのような作業をしているのかどうかは知りません。

 そうした作業に意味があるのかどうかは分かりませんが、話としておもしろかったことは確かです。そのこじつけの妙技と、荒唐無稽なところが、おもしろかったのです。うさんくさいとも言えます。

 今になって思うのは、たとえば「ma」を分けることで、「何か」が「分かる」のかと言えば、それははなはだ疑問だということです。「分ける」作業で、「何か」が「分かる」のではなく、「生じる」のだとすれば、「まぼろしをいだく」ことではないかという気がします。「ma」と発音してみることで「何かは分からない何か」を「感じ取る」ことのほうが、ずっと刺激的な体験ではないかと思っています。

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「ma」と発音しながら、その行為を「何か」に置き換える作業は、二つに「分けられる」気がします。一つは、意味素、形態素、あるいは音素という具合に、その音の構成要素に「分ける」方法です。もう一つは、「ま・間・魔・真・麻・馬……」というふうに意味やイメージに「分ける」やり方です。

 繰り返しになりますが、両者に共通するのは、「置き換える」、つまり「すり替える」という動作が行われているらしいということです。これは、ヒトにとって免れない行為のようです。

「ma」と発音する行為だけでなく、話を広げて話し言葉と書き言葉について考えてみても、事態は変わらないみたいです。言葉を発する、つまり話したり書いたりする、ヒトという種に特有の行動は、「置き換える・すり替える」という仕組みを基本としていると言えそうです。

 一見、遠いようですが、「置き換える・すり替える」と「まぼろし」とは、深くかかわり合っている。そんな気がします。ふだんは意識されないのですが、そうなっているのに気付くこともあるみたいです。「あれっ」とか「おやっ」とか「あらまあ」という感じでしょうか。

「あはっ」とか「なるほど」とは違います。「分かる」や「ひらめく」のではなく、あくまでも「気付く」のです。「分かる」や「ひらめく」には、あらかじめシナリオが用意されている気がします。やらせや出来レースみたいです。だから、驚きはなさそうです。確認できた喜びならありそうです。

 いずれにせよ、「まぼろし」には驚きが伴う場合が多いようです。喜びが伴うという保証はない感じがしますが、「思い込み」という「まぼろしまぼろし」というか、「二重のまぼろし・ダブル・double(※この単語を大きめの英和辞典で引いてみてください。おもしろい意味がいろいろあります。)」にはあるみたいです。

 一方で、「すり替わっている」のに気が付かないケースも、意外と多いみたいです。「まぼろし」は「化ける」のがうまいのでしょうか。ヒトが迂闊(うかつ)なだけなのでしょうか。

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「ま・ma」という、音であり言葉であるものの持つ、イメージの喚起力と意味の生成力は、かなり強そうです。「ま・間・魔・真・麻・馬……」という意味の連鎖や、「マーボー豆腐のロシア風」転じて「ロシア風麻婆豆腐」といった荒唐無稽なイメージについての話とは別の考え方をしてみます。

 とは言っても、基本的には似たような「置き換え・すり替え」作業をしているだけなのですが、たとえば、日本語以外の言語で使われている、母親を意味する「ママ・マー・マーマ・マーム・マンマ・ママン」、古い日本語で乳母を意味する「まま・めのと」、ご飯を意味する日本語の「まんま、まま、めし」、日本語以外の言語で、乳や乳房と関係のある「mammal(英語で「哺乳類」)・ mammalian (近代ラテン語で「乳房の」)(※以上はジーニアス英和大辞典を参照しました)」という語に、目を向けて考えてみます。

「ma」という類似だけでなく、さらに細かく「m」と「a」に「分ける」ことも、言語学上は可能らしいです。その上で「m」に注目してみます。すると、「milk (英語で「乳・母乳・牛乳」)・ meolc および milc (古英語で「人間・動物の乳や乳汁」)(※以上はジーニアス英和大辞典を参照しました)」との類似にまで、話を「つなげる」ことができます。

 以上の話を、単なる「こじつけ」とみなすヒトがたくさんいそうです。無理もないことだと思います。確かに、いかがわしくて、うさんくさい話ですよね。それとも、「なるほど」と納得なさいますか。

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「こじつけ」で「でまかせ」ですが、「ma」に言語とまぼろしの根源を見る思いがすることがあります。「リアル」だという、まぼろしの特徴を備えている点が、まさに「まぼろしっぽい」のです。

「ma」という音を出すさいには、「m」から「a」へと口の構えと呼吸を移行させていきますね。「m」とは言語学上は子音と呼ばれているのですが、日本語ではローマ字とは異なる制約があるために、「む・ム・無・无・武・牟・務・夢……」というふうにしか記述できません。

 どうしても「mu」のように、母音の「u」が伴います。もっとも、実際にはあいまいに発音されるようです。「すきやき」や「キムチ」が「sukiyaki」や「kimuchi」ではなく、「skiyaki」とか「kimchi」と発音される場合が多いのとほぼ同じです。

「m・mu」というと、その音に相当するものが数多くあるにもかかわらず、個人的なイメージでは、「無」を特権化させてしまいます。「何もない」という意味の漢字ですね。好きな文字です。めったに目にしない漢字ですが、「む・无」も「何もない」という意味らしいです。

「a」については、「あ・ア・阿・吾・我・彼・亜・嗚……」のうち「阿」を優先させたい気持ちになります。「阿吽の呼吸」というフレーズのイメージが、強いからかもしれません。「阿」を広辞苑で引くと、「阿字(=あじ)」・「阿字観(=あじかん)」・「阿字本不生(=あじほんぷしょう)」などいうフレーズにまで導いてくれて、その意味のうさんくささに驚き入ってしまいます。

 ここでは、「どうだ!」・「梵語だよ。分かんないの?」・「密教だよ。大したもんだろう!」・「真理様の象徴だよ。いやだ、ご存じない?」という具合に、虎の威を借りる狐のような真似はしたくありませんので、ご興味のある方は、大きめの国語辞典で、上記の「阿」の付くフレーズをお調べになってください。意味をお確かめになり、感動なされば、そんないいことはないと思います。

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「あうん・あーむ・おおん・おーむ・おうむ・aum・om」という、言葉とも音とも言えるような言えないような声の出し方があるそうです。インド哲学や仏教と関係ある「聖なる音」らしいのですが、詳しいことは知りません。「ま・まー」や「ma」が「m」から「a」への移行だとすれば、「あうん・あーむ」は「a」から「m」への移行だと言えそうです。

 両者は逆だと考えられるみたいだし、連続して繰り返して唱えれば、「えん・円・縁・延」、つまり「わ・輪・環・和」を延々と描いているようにも思えます。ヒトが口をぱくぱくさせながら「話している」さまを見ていると、そんな気がします。だから、「わ・話」なのでしょうか。「話す」は、両唇を「離す・放す・放つ」、あるいは、声つまり息を「発する・発す」なのでしょうか。

 こういう、でまかせで、トリトメがなく、いかがわしい思いに耽るのが好きです。根拠がないというのは、個人的には、自由という状態を意味します。宙ぶらりんですが、心地よいです。

 唐突ですが、ジャンガリアンハムスターを見ていると、「あーむ」という感じで背伸びをしながら、あくびみたいな仕草をしますね。かわいいです。その様子を見ながら連想したのですけど、ヒトの赤ちゃんの泣き方は、あくびの逆で「むあー」とも聞こえなくもないです。一言発するのではなく、繰り返して「むあーむあーむあー…」と泣くのですから、逆ではなくて、やっぱり「わ・輪」なのでしょうか。

「むあー」と「あーむ」が、始原的な行為だという気がしてきます。なんだか、話が、宗教・カルト・スピリチュアリティ・オカルトめいてきました。一緒くたにくくってしまい、関係者の方には失礼かと思いますが、個人的には苦手な分野です。こうしたたぐいの生業(なりわい)とは、これまで無縁で来ました。この先も無縁でいたいと思っています。

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 宗教、カルト、スピリチュアリティ、オカルト……と、つぶやいていたら、「近親憎悪」という言葉が浮かびました。実際、自分の言動は、うさんくさくて、いかがわしいと思えますし、自意識過剰だからでしょう。

 自意識とは、文字通り、自分の意識について考えることですから、それが近親憎悪とかかわっているかどうかを決定する側にはありません。ですから、何とも言えませんが、「近親憎悪」という言い方に対し、いい気持ちがしないことは確かです。もしも自分の意識のなかに、生業としての宗教・カルト・スピリチュアリティ・オカルトめいたものがあれば、「まぼろし・魔を滅ぼす・魔滅ぼし」したいです。

 もっとも、群れることには大きな抵抗感があるので、仮に魔を滅ぼせなかったとしても、組織には属せないだろうと思います。組織には、ふつうリーダーが必要です。程度の差はあるでしょうが、個人崇拝は避けがたいと思います。そう考えると、やっぱり群れるのは嫌です。でまかせは、ひとりでやるほうが気楽です。罪つくりにもならないと思われます。