かわる(6)-かわる(10)

かわる(6)

「かわる・かえる」と「わかる・わける」にそれぞれ漢字を当てることによって、両者の持つイメージ、つまり意味の広がり=構造がわかるような気がします。かつて自前の文字を持っていなかったらしい日本語に、中国の文字が加わったというか入りこんだ状態になった。そして、漢字の形を少し変えてひらがなとカタカナを作ったというようなことを、学校で習った覚えがあります。

 こうした経緯についての専門的な知識はありません。したがって、あくまでも素人として、手持ちの知識を動員して自分なりに考えてみたことを書いてみます。話し言葉だけで存在していた大和言葉に、漢字を当てる過程では、大雑把に言って次のような作業が行われていたのではないでしょうか。

 漢字は表意文字だと言われています。文字通り受けとれば、意味を表す文字ですが、当然のことながら、音声もまた表しています。その漢字に、音声だけで存在していた大和言葉を当てる、という作業をしたわけです。これは、このブログで何度か用いてきた

*「感字」

にほかなりません。

*「 kawaru 」にこの漢字を当ててみようじゃないの

という感じです。音の似ている中国語に、大和言葉の音を当ててみたのです。そして、「かな=仮名=仮の名」を作ったということでしょうか。「仮の名=かりのな」を「借りた名」と当て字してみたい誘惑に駆られます。

 昔々に、こんなことができたなんて、きっと当時のインテリ階級の人たちでしょうね。正確に言うと、バイリンガルな少数の知識人たちです。帰化人もいたかもしれません。そういう人たちの「輪=ネットワーク=サークル」があったのではないか、と想像します。そうだとすれば、ある程度の統一性=共通性のある表記が定着しつつあったのではないか、とまで推測できます。

 もし、すでに漢字を変形して仮名ができていたとするなら、次の段階は、音ではなく、大和言葉の意味を表すために、仮名と漢字を「当ててみた=組み合わせてみた」。つまり、

*「 kawaru 」の意味に「近い=相当する」中国語の「文字=漢字」と仮名を当ててみた。

 この場合の「当ててみる」とは、たぶんくっつけてみることだと考えられます。

 その結果として、

*「かわる」=「変わる・変る」=「代わる・代る」=「替わる・替る」=「換わる・換る」ができた。

 要するに、いわゆる「送り仮名」が決められた。そして、誰かによって決められた「当て字と送り仮名」が普及すると、それが手本=見本=標準=規範=いわゆる「正しい」表記法となった。きわめて大雑把ですが、簡単に言えば、そうした作業が行われたのではでないでしょうか。

*感字とは、論理的であるようで、意外と感覚的=いい加減=テキトー=暫定的=とりあえず的な作業だ

と思っています。現在の慣用的な表記もまちまちですが、とにかくその複数の慣用的な表記法ができるに至るまでには、きっと紆余曲折を経てきたことでしょう。文部科学省といったお役所も、出版界といった導き手も、文壇という権威も、全国ネットの新聞社という知識・情報の普及の担い手もなかった時代のほうが、ずっと長かったのですから、そうにちがいありません。

     *

 要するに、

*日本語の表記はばらばらだった

のです。それが、現在になって一応の落ち着きを見せている。でも、あくまでも「一応」です。お役所や、権威や、知識・情報の普及の担い手などが、ちょっとした違いはあれ、せっかく「統一された」表記法を完成させたのに、20世紀の終わりころに「強敵=手強い掟破り」が現れたのです。

「強敵=手強い掟破り」とはネットです。

*インターネットやケータイが「国語を乱し始めた」

のです。感字という、ダイナミックス=運動=活動=勝手きままな動き=「何だか知らないけど、みんながやり始めたからやってみよう」=「おもしろい、この言い方(or 書き方)「こんなのは、どうかなあ」=「ねえねえ、こういう言い方(or 書き方)が流行っているんだって、うちらもやってみようよ」が、ネットによって加速化=激化=活発化=活性化されてきたように感じます。

「かわる・かえる」と「わかる・わける」に話を戻します。両者のイメージを、リスト化=チャート化=見える化してみて、言葉がいかにぐちゃぐちゃした=ほぼ支離滅裂状態にあるかがわかりました。具体的には、「かわる(4)」では「わかる・わける」を、そして「かわる(5)」では「かわる・かえる」のぐちゃぐちゃぶりを調べてみました。

     *

 そういうわけで、ここでは、「わかる・わける」も「かわる・かえる」も、ぐちゃぐちゃしているという前提で、話を進めます。その「トリトメのない=テキトーな状態」に、とりあえず「理屈=道筋=ルール=約束事」をつけて「感字 or 当て字 or 送り仮名」を採用することにより、何とか整理がつき、ぐちゃぐちゃしているなりにも、多くの人たちに納得 or 妥協 or 追随 or 支持される形で、慣用的な表記法が仮設されたというべきでしょうか。

 もっとも、「仮設」ではなく「確立」ではないか、と主張なさる方もいらっしゃるに違いありません。でも、現在の日本人が明治時代、江戸時代、あるいは平安時代と同じ言葉を話したり書いたりしていないのですから、「仮設」としておきます。

 で、「仮設」という語を採用したことからおわかりになるように、少しばかり、あやういんです。カーテンを「取り替える」とするか、「取り換える」とするか? 中には「取り変える」でいいんだ、と言い張る人もいそうです。じゃあ、中をとって「取りかえる」にしておこう、と言う人も多いでしょう。一方で、ネット上では「今日、部屋のカーテン、とっかえた」とか「きょう、部屋のカーテン、CHANGEしたっス」なんて書かれていても、全然不思議ではありません。

 いずれにせよ、これくらいのレベルでは、大した問題にはなりません。たとえ、これ以上のレベルで言葉遣いが変化をしたとしても、何とかやっていけるでしょうし、実際にやってきたのであり、現にやっているのではないでしょうか。

「ぐちゃぐちゃ」から「すっきり」へ。正確に言うと、

*「ぐちゃぐちゃ」であるのに、「すっきり」だと勘違いしてしまう。

そうした「勘違い=錯覚=思い込み」ができるのですから、ヒトはやっぱり、頭がいいです。いずれにせよ、

*ああでもない、こうでもない、ああでもある、こうでもある、と言いながらも、それなりに=テキトーに、ヒトはコミュニケーションをしてしまう

のです。

かわる(7)

 AとBという二つの言葉=語のグループがあったとします。グループと書いたのは、二つの言葉=語を辞書で引いてみるとわかるように、複数の意味がある場合が多いからです。日本語では、特に大和言葉系の語の意味が厚い、つまり多層的=多義的である傾向がみられますね。さて、AとBが別々の言葉=単語として扱われているとします。

 辞書でも別の項目として記載されているし、普段使いながらも意味は別の言葉だとたいていの人が思っているとします。ところが、このAとBの「意味=辞書の定義」や、それぞれの言葉の使用例をみてみると、深い関連性があるような気持ちになってくる。大きな辞書で語源を調べてみたけれど、どうやらつながりはなさそうだ。でも、似ているというか、何かつながっている気がしてならない。今回は、そうした話をテーマにしてみます。

     *

「かわる」と「わかる」という二つの言葉のイメージ=意味=使われ方を調べて、いかにもアマチュアらしい簡単なリスト=見取り図をつくってみて、上で述べたAとBという言葉のような印象を抱きました。実は、以前から、そんな気がしたのですが、わざわざ二種類のリストを作って見比べるまではしませんでした。

 で、いざ、試してみたところ、共通点というより、何か関連性があるように思えるのです。このブログの過去の記事(「かわる(4)」と「かわる(5)」に載っている、「わかる・わける」と「かわる・かえる」の見取り図もどきを参照していただくと、これから書くことの意味をとる助けになるかと思います。

 二つの言葉のグループから、キーワードを取り出して並べてみます。それぞれの言葉のリストには、見出しが付いています。


(a)(表象・認識・知覚)「代理」-「交換」-「理解」-「判断」

(b)(学問)「代理」-「変換」-「理解」-「誤解」-「解釈」-「分析」-「分類」-「識別」-「判断」-「判明」-「解明」

(c)(経済)「交換」-「変動」-「代金」-「為替」-「換金」-「兌換」-「換算」-「判子」

(d)(社会・生活)「代理」-「分類」-「区別」-「差別」-「解明」-「理解」

(e)(政治・立法・行政)「代理」-「代行」-「代表」-「代議士」-「代議制」-「変化」-「変革」-「変節」-「変心」-「判子」-「変身」-「政変」-「事変」

(f)(司法)「代理」-「代行」-「解明」-「理解」-「解釈」-「分類」-「区別」-「代表」-「判事」-「裁判」-「判決」-「審判」


 とりあえず、六種類のリストを作ってみました。六種類の見出しと関係のある言葉を取り出したものです。以上のリストから、次のようなことが言えるように思います。

*「かわる・かえる」と「わかる・わける」は深く結びついているらしい。その結びつきは、「かわる・かえる」と「わかる・わける」という動作=運動=身ぶりが、シンクロ=連動し合っていることから生じているらしい。

     *

 ところで、二つ以上のものの間に共通点や関係性を見出し、それに理屈をつけたり、規則性を当てはめることを、「こじつけ」と言います。

*「こじつけ」

がポジティブに受けとめられると、

*「法則」とか「理論」とか「説」

という栄誉ある言葉を与えられることがあります。ネガティブに受けとめられると

*「でたらめ」とか「でまかせ」とか「めちゃくちゃ」とか「ばーか」など

の罵声が浴びせられるか、単に無視されます。

 それはそれでいいとして、みなさんに考えていただきたいことがあります。

「かわる」および「かえる」と、「わかる」および「わける」という二種類、数え方によれば四種類の「動作=運動=身ぶり」に「共通性 or 関係性」があるでしょうか?

 それを知るためには、想像力が必要になります。というわけで、あくまでも、「 kawaru 」「 kaeru 」「 wakaru 」「 wakeru 」という音声として、それぞれの「動作=運動=身ぶり」をイメージしてみてみましょう。

 とりあえず、上の(a)から(f)の六種類のリストは、いったん忘れちゃってください。シンプルに、「かわる」「かえる」「わかる」「わける」をそれぞれイメージしてみてください。頭だけで考えていると難しいですよね。では、体を使って表現してみましょう。

     *

 自己流にジェスチャーやパントマイムをしてみるのです。つまり、自分の母語が通じない他言語の話し手に、四つの言葉=語の意味を説明する、あるいは伝えるために、身ぶり手ぶり、場合によっては表情や顔芸を用いてみるシミュレーションを実行してみましょう。一瞬の動作である必要はありません。物語性があって時間がかかる動作でも、一向に構いません。

 また、「おーっ」とか「はっ」くらいなら、声を出してもいいことにしましょう。物は試しと言います。実際に、ひとりでこっそりと試してみませんか。他人様(ひとさま)に提案しておいて、自分は何もしないのは失礼ですので、こちらでも、その作業をしばらく実行してみます。本当は、こちらの動作を見て受けとめてくれる相手がいるとベストなのですが……。

 蛇足とは思いますが、このブログではいったい何をやっているのだとお思いの方のために、ここでお断りしておきます。本気です。正気とは申しませんが、本気です。念のため。

かわる(8)

 ヒトが用いている言葉というものが、どんな仕組みを持ち、どんな働きをしているかを知るためには、一つの方法として、「言葉の発生」という「物語=神話=フィクション=作り話」を自分なりに考えてみるのがいいと思います。

 なぜ「作り話」なのかと申しますと、言葉の発生を実証的に知る手段がないからです。タイムマシーンに乗って「言葉の発生」する現場に行き、確かめることなど不可能だからです。超能力に頼ろうとするヒトたちもいるでしょうが、その方々が成功されたさいには、世界を驚かせてほしいと思います。

 また、なぜ「自分なりに考えてみる」なのかと申しますと、「言葉の発生」を確かめることができず、定説もないのであれば、自分で想像して自分なりに納得すれば、きっと得るものが多いと信じるからです。専門書(※辞書や話し方・プレゼンの指南書や文章読本の類)を読むとか、専門家(※国語学者であったり、コミュニケーションの達人と呼ばれるヒトなど)の話を聞く。そういう選択肢もあります。

 でも、しょせん他人の「作り話」です。専門家の意見が「正しい」とか「偉い」というのは、言葉に関する限り眉唾物だと個人的には思っています。参考にする程度ならいいでしょうが、妄信するのは疑問に感じます。大切なことは、自らの実践と試行錯誤ではないでしょうか。

     *

 物理学や数学の用語・法則・知識とは異なり、言葉(※手話やボディランゲージ、表情、赤ちゃんの仕草や泣き声などを含む、かなり広い意味でとってください)は、言葉を使うことのできない一部の障害者の方々を除き、たいていのヒトが日々使っているものであり、誰かの占有物ではありません。

 さらに言うなら、ヒトは一人だけで言葉を使っているのではありません。言葉は、コミュニケーションや、知識・情報を得るための道具であると言われています。つまり、他人との関係において用いられるものです。ヒトは一人で生きてはいません。とはいうものの、

*言葉に関しては、誰もが「専門家」

なのです。誰もが自分の使う言葉に責任を持つべきである一方で、自分の好きなように言葉を使ってもいい自由を持っているという意味です。本来は、素人と専門家の区別などないのです。

     *

 さて、「かわる」「かえる」と「わかる」「わける」ですが、これを言葉が通じない他の言語の話し手に伝えようと、「自分なりに考えてみる」ことを実践し、その四つの言葉を「動作=運動=身ぶり」を用いて相手に伝える努力を「体」を使って実行してみることは、擬似的に「言葉の発生」に身を置く体験になります。いわゆるシミュレーションになります。

「動作=運動=身ぶり」に意味を付加しようと、自分の想像力(=頭)と顔を含めた体の動きを動員してみる。知恵を絞り、体を動かし汗をかいてみる。これが大切ではないでしょうか?

 たとえば、脳梗塞脳出血などで言葉を失ったヒトがリハビリをするさいには、頭(=脳)だけでなく、体全体を使った機能回復が必要だと言われています。重労働らしいです。言葉の仕組みと働きを知るためには、ただ考えているだけでは、得られるものは少ないと思います。身体全体を動かすことが大切です。

     *

 かつてフランス語をフランス語で教えるフランス政府公認の学校に通っていたことがありますが、そこでは、やたら体を使うのです。日本語に訳して教えるのではありませんから、当然です。頭だけを使って習う中学や高校での英語の授業とは大違いの方法でした。個人的には、大きな収穫がありました。

*「演技」

および

*「演じる」

という言葉を思い出しましょう。

*「演じる」とは、自分が別の「もの(※物であり、者です)やこと」になる様(さま)を想像し(=シミュレートし)、その想像を体で実際に示す(=表現する)こと

です。言い換えれば、ある「ものやこと」を自分なりに「わかった」と仮定し(=台本を手にし)、自分をその「ものやこと」に「かえて」みること、あるいは、自分がその「ものやこと」に「かわって」みることです。

*「ものやこと」を「わけ」、「かえて」みる。 = 「ものやこと」に対して、「わかる・わける」と「かわる・かえる」という動作を加える。

 今、「=」を用いて書いた二つのフレーズは、「かわる・かえる」と「わかる・わける」の関係を、自分なりに言い表したものです。この二つのフレーズは、

*言葉の仕組みと働きを、「たとえ」=「演技」として表現するための「たとえ」=「演技」でもある

のです。ややこしい言い方になりました。次のように言い換えることもできるかと思います。

*言葉を使うとは、森羅万象(=ものやこと)を知覚して(=わけて)、音声(=話し言葉)や文字(=書き言葉)や身ぶり(=手話や身体言語など)に置き換える(=かえる)ことである。

 そのさいに、決定的な役割を果たす言葉の「仕組み」および「働き」とは

*「Aの代わりにBを用いる」という、「動作=運動=身ぶり」=「たとえ=装うこと=演技」

なのではないでしょうか。

     *

「かわる・かえる」と「わかる・わける」という、言語の仕組みと働きについてきわめて象徴的な意味を持つ言葉を、知恵を絞り想像力を働かせると同時に、実際に体を動かし汗をかいて演じてみる。これは、このブログの記事「かわる(7)」 で提案したことです。

 これを実行なさった方なら、以上書いたことの意味がわかっていただけると信じています。これが、言葉の仕組みと働きを考える第一歩だと考えています。よろしければ、さらにこの先を一緒に歩んでいただければ、うれしいです。

かわる(9)

 言葉の仕組みと働きを説明するのに、

*「かわる・かえる」

*「わかる・わける」

という言葉を使うのが便利だということが、偶然の一致なのか、何か因縁めいたものがあるからなのかは、わかりません。単に、そのように思い込んでいるからなのではないか。そうも思います。

 いずれにせよ、この四つの言葉(※数えようによっては二つですが)を用いて、言葉の仕組みと働きを説明するのために、どれだけのこと(=こじつけ)ができるか、試して(=遊んで)みます。

*わかるからかわる。 = 分かるから変わる。 = わけてかわる。 = 分けて変わる。 = 理解(=判断=識別)することで変化(=変心)する。

*かわるのがわかる。 = 変わるのが分かる。 = かわってわかる。 = 変わって分かる。 = 変化(=変動=変心)することを理解(=判断=識別=解釈)する。 = 変化(=変動=変心)することにより理解(=判断=識別=解釈)する。

     *

 以上の二つの例から、

*「わかる・わける」が「知覚=認識=思考すること」

そして

*「かわる・かえる」が「身体の運動や動きや働き、大きく言えば生きるといういとなみ」

を指し示している

と言えそうな気がします。つまり、言葉とヒトの間にある基本的な関係を言い表しているのではないでしょうか。めちゃくちゃこじつけている、と言われれば返す言葉がありません。とはいうものの、たとえば大和言葉に漢字を当てる「感字」という作業がかなりのこじつけめいた行為であったことを思い返すと、これくらいのこじつけは許してもらえるかな、とも思います。

     *

*かわるからかわる。 = 変わるから変わる。 = かわってかわる。 = 変わって変わる。 = かえてかえる。 = 変えて変える。 = 変化するに伴い変化する(=連動・シンクロナイズ・連鎖反応)。 = 変化し、さらに変化する(=連続・加速化・長期的な変貌)。 = 改変(=改革)し、さらに改変(=改革)する(=発展=発達=進歩=進化)。

 以上の「動作=運動=身ぶり」は、ヒトの普遍的でさまざまな行動・ヒトの経済活動・半ば一人歩きしている状況にある経済の動き・さまざま面から見たヒト(=人類)の歴史・ヒトとは無関係の森羅万象の変化(=変動)など、かなり広範囲な「動き」にこじつける(=当てはめる)ことができそうな気がします。

     *

*わかるからわかる。 = 分かるから分かる。 = 分かるから分かるへ。 = わかってわかる。 = 分かって分かる。 = 一度理解することによって次々と理解が深まる(=進歩)。 = 理解が理解を呼ぶ(=コミュニケーション=伝達=ネットワークの拡大=輪の広がり=平和=和解)。 = 解釈が解釈を呼ぶ(=進歩=発展=深化=議論・論争・対立・批難の拡大)。

 以上の「動作=運動=身ぶり」は、特にヒト同士の関係性と、人類としてのヒトのいとなみにまで、こじつける(=当てはめる)ことができそうな気がします。

     *

 ここまで書いてきたことから、次のようなことが言えるのではないかと思います。

*「かわる・かえる」ことなしに「わかる・わける」ことはない。

*「わかる・わける」ことなしに「かわる・かえる」ことはない。(※「わかる」の基本的な身振りは「別々になる」ことのようです。「理解する」だけではないという意味です。ヒト以外の生物でもそうですが、特に無生物の場合には「分かる・分ける」を「分解・分裂・分割・分離・解体・溶解」のイメージで考えてください。)

「かわる・かえる」と「わかる・わける」とが、「シンクロ=連動している=関連し合っている」、あるいは、見方を変えれば、「重なり合っている=かぶっている=関連している部分がある」と、先に書いたのは、こういう意味だったのです。

     *

 いくらかわかっていただけたでしょうか? 「このブログを書いている、うさんくさいやつは、いったい何を考えているんだ」という思いが、ちょっとだけでも変わってきたでしょうか? 妙な文体で、ややこしいことを書いているのは承知しております。でも、少しでも構いません、ご理解いただけたなら、うれしいです。

かわる(10)

 こじつけることが好きなヒトがいます。大好きなヒトもいます。ここにもいます。「こじつける」とは、どういう行為なのでしょう。いい語感はありませんね。今、辞書で意味を調べてみましたが、案の定、自分がこれまで何度も浴びてきた類の悪態もどきの言葉が書かれていました。

 普通、批判や罵倒されたり罵声を浴びるとすぐにへこんでしまうたちなのですが、「こじつけ」「屁理屈」「牽強付会(けんきょうふかい)」といった類の言葉には、免疫・耐性ができているらしく、その種の文句を投げつけられても、さほど傷つくことはありません。やはり、好きなのです。逆に喜んでしまいます。

*ヒトはこじつける生き物である。

 たった今書いたフレーズは、日ごろから感じていることを文字にしたものです。これまでの経験から、むっとなさる方が多いだろうと想像します。「こじつける」という言葉を「脱色=解毒=中和=中性化」できないでしょうか? たとえば、「こじつける」を「複数のものごとに関係性を見いだす」なんて言い換えてみてはどうでしょう。少しは響きがよくなりましたか?

「複数のものごとに関係性を見いだす」と書いたとたん、思わず笑ってしまいました。「こじつける」の強引さと、図々しさと、ちょっと恥ずかしいという気持ちが薄れて、迫力がなくなったというか、間が抜けた感じがするのです。どう言えば、わかっていただけるでしょうか。そうだ。普段は正装などしないのに、おめかしをして、やたら気どった表情をして鏡の前に立った時の気分に似ています。とってつけたようで、似合わないのです。やはり、「こじつける」でいきます。

     *

 広い意味で言葉を考えてみましょう。話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(※家庭だけで通じる断片的な手話)、さまざまな標識や記号などをいっしょくたにして、「言葉」と、ここでは呼ぶことにします。自分とは違う言語を話すヒト、いわゆる言葉の通じないヒトに、「かわる・かえる」と「わかる・わける」という言葉=動作を、ボディランゲージを用いて伝えてみよう。そんなお遊びというか実験をやってみませんかと、このブログの記事「かわる(7)」で、みなさんに呼びかけました。

 伝えるのは別の言葉や動作でもよかったのですが、

*「かわる・かえる」と「わかる・わける」の持つ、言葉の根源的な動態=有り様(※あくまでも個人的な意見で、単なる思い込みかもしれません)を頭(=想像力)と体全体(=体力)を使って演じてみることが、言葉の仕組みと働きを考えるうえで、助けになるに違いない。

と思ったからでした。さて、そんなややこしいことは抜きにして、たとえば、ペン、パソコン、ケータイ、消しゴムといった身の回りのものや、朝ご飯を食べる、歯医者へ行く、風邪を引く、乗るつもりだった列車に遅れる、といった日常的な動作や状況を、身ぶり手ぶり表情などを用いて、誰かに伝えるつもりになって演じてみる。そんなお遊びをしてみませんか? きっと、「こじつける」という、ちょっとワルな響きのある言葉を体感できると思います。

 具体的には、

*我流の「ジェスチャー=身振り・手振り=ボディランゲージ」

が考えられます。あるいは、

*手話

という言語(※念のため、駄目押しに強調させていただきますが、たとえば日本語や英語と同じく、手話は言語です)を学ぶことも視野に入れてよいのではないかと思います。

     *

 ここで、話を飛躍させます。上で述べたような「広義の言葉」を使う(※既にあるもの=手本を使う)、あるいは、作る(=自分が表現したいものごとを表現する手本がなかったり、伝えたいものごとを伝える手本がない場合には、工夫して自前で作るしかありません)さいには、その前提に「こじつける・こじつけ」があるのではないでしょうか。

 考えてもみてください。Aというものがあれば、それを相手に見せれば、それで済みます。でも、Aが手元や近くにないために、A以外のものでAを表すのです。これって、こじつけではないでしょうか。それこそ、こじつけだという言葉が返ってきそうですが、さきほど書きましたように、幸いにして免疫・耐性があるみたいで、めげたりへこんだりしません。というわけで、さらに性懲りもなく、いけしゃあしゃあと、こじつけをさせていただきます。

*言葉とは、Aの代わりにAでないものを用いるこじつけである。言葉というこじつけが、ヒトをヒトとならしめている。

 そうこじつけてもいいのではないでしょうか。つまり、こじつけをこじつけているわけです。「こじつける・こじつけ」という言葉が、どうしても気に入らない。人間様である自分のプライドが許さない。そんなふうに思われる方のために、解毒済みバージョンを用意しました。

*言語の使用とは、Aの代わりにAでないものを用いるという、人類の英知から生じた崇高ないとなみである。言語を使用するという行為が、人間を人間ならしめている。

 いかがなものでしょうか。言い「かえて」みました。お「わかり」いただけたでしょうか。

     *

 以上をもちまして、「かわる」(1)~(10)の締めくくりと致したいと思います。お読みいただき、どうもありがとうございました。