まぼろし・その3

似ている、つなぐ、顔、擬人

 類似、つまり「似ている」という感じを、ヒトは重視しているようです。「似ている」は、「つなげる」、「こじつける」、「たとえる」にも、「似ている」感じがします。

「比喩」という、抽象度が高く、強い響きのある漢語でくくることもできそうです。「比喩」というと、個人的には、「表象・表象作用・再現・ルプレザンタシオン(représentation)・代理・代行・再現代行・代行作用・上演・再現前・再現前化」など、ある種の人たちが多用する一連の類語を連想します。

 学生時代には、そうした言葉たちがよく使われる領域を勉強していました。今は、そのたぐいの分野の勉強はしていません。もともとお勉強は好きではありませんでした。好きなことだけ学ぶ。そんな感じでした。年を取るごとに学ぶことすら億劫になってきて、この数年間は、読むより書く時間のほうが長くなっています。

 インプットするよりアウトプットするという具合に、横着な態度が身についてしまいました。アウトプットと言っても、出るに任せて書く、つまりでまかせを並べているだけですから、やはり横着としか言いようがありません。書くといっても、かゆい皮膚を掻くようなものです。かゆい。確かにむずがゆいです。

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 ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている。

「比喩」や「たとえ」を、今述べたフレーズに、言い換えることもできそうです。「その「何か」ではないもの」とは、「何か」の「代理」であるわけですから、「何か」と「その「何か」ではないもの」とのあいだに、「似ている」という「感じ」がすることが、ヒトにとっては大切な基準となると考えられます。あくまでも、「感じ」つまり「イメージ」です。あるいは、もっと生物学的に記述して「知覚」でしょうか。

 唐突ですが、「似ている」と「まぼろし」とは「似ている」と感じられます。「まぼろし」を「間を滅ぼす」と読み、「複数のものたちのあいだにある隔たりをなくす」という考え方をするならば、両者は「似ている」ほどの意味です。ここでも、「ま・あいだ・あわい・間・さい・際・差異」という言葉とイメージが、かかわってくるようです。

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 人面○○という言葉がありますね。たくさんありそうです。こうした現象に共通するのは、いろいろなものに、ヒトの顔を見てしまうという点です。ヒト以外の生き物の顔、毛皮の模様などヒト以外の生き物の身体の一部、ヒトの皮膚にできた出来物はもとより、無生物、つまり、壁や天井の染みの一部、カーテンの模様、空に浮かぶ雲、石や岩といったものに、見えるはずのないヒトの顔を見てしまうのです。

 きわめて主観的な現象のようですが、複数のヒトたちに共有される感覚だということになると、主観的では済まされないという思いに、ヒトはとらわれるみたいです。ただ事ではない、という感じでしょうか。人面○○だけでなく、イエスや聖母の顔・姿、あるいは観音像が何かに出現したという噂をめぐって、大騒ぎする例があるのも、理解できる気がします。

 ヒトは、ヒトの顔や表情に大きな反応を示すと言われています。ヒトが赤ん坊のときから、観察される習性のようです。顔と表情とは区別して、つまり「分けて」考えるべきだという気がします。「顔」が即物的な意味合いを持っているのに対し、「表情」という言葉にはトリトメがないというか、抽象的なニュアンスを感じます。

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 顔をつくる。これも、ヒト特有の習性みたいです。

 表情をつくる。お化粧をする。仮面やお面をつくる。ヒトやヒト以外の生き物を描く。「にんぎょう・ひとかた・人形」をはじめ、ヒト以外の生き物に「似せた」ものをつくる。今挙げた一連の行為には、たいてい、「顔をつくる」という行為が含まれていると思われます。

 顔を構成するパーツは、目、口、鼻、頭という順序で重要度が決まっているのではないかと、個人的に感じています。どういうわけか、哺乳類・爬虫類・鳥類・両生類・魚類・昆虫には、たいてい、目、口、鼻、頭が備わっているように「見えます」。

 とりわけ目が特権的な位置をもっている気がします。目を「見て」、あるいは、目に「見られて」、やすらぎを覚える場合もありますが、怖い、不気味だ、心が乱されるという思いにとらわれることも多いです。人面○○のたぐいだと、後者がほとんどだという気がします。

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 生き物の生態を写した映像を、テレビなどで見るとき、ヒト以外の生き物をつい擬人化している自分を意識し、はっとすることがあります。そうした映像に添えられるナレーションが、被写体である生物を擬人化した物語となっていることにも、気が付く場合があります。

 テレビや映画に限らず、身の回りを見ると、「にんぎょう・ひとかた・人形」だけでなく、擬人化された生き物を模した玩具のたぐいや絵が多いのに驚かされます。いわゆるキャラクターという映像つまり視覚的イメージや、キャラクターグッズという物体や、人面○○と呼べそうなものに取り囲まれているのにも、驚かされます。

「何か」に似たものに囲まれているというぼんやりとした感じから、世界そして宇宙は比喩あるいは暗号であるという確信までは、ほんの数歩だという気がします。「何か」とは、必ずヒトの属性を備えているように思われます。

 ヒトにとって、森羅万象は「ヒトのようなもの」なのかもしれません。そう思うと、ヒトはある種の「心の病」にかかっているとも言えそうです。

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 擬人化されたものが、夢にまで出てくるのには、閉口し感心もします。思いつき、つまり、でまかせですが、夢というのは、擬人化という仕組みを原理としているのではないでしょうか。夢のなかでは、何もかもが、ヒトである自分と通底しているように思えてなりません。

 夢の主語は自分であり、自分と万物のイメージをつなげる、非人称的で匿名的でニュートラルな仕組みだという感じもします。「非人称的で匿名的でニュートラルな」というのは、ヒトに深くかかわりながら、ヒトがコントロールできない自立した状態にあるという意味です。だから、ヒトは夢のなかで自由であると同時に不自由を感じている、という気もします。

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 ヒトと、ヒトが知覚する森羅万象とは、ヒトの意識および無意識のなかで「つながっている」というか、比喩的な意味で「血縁関係にある」のではないか。もしかすると、それは、ヒトの知覚と意識のなかにおいてだけでなく、宇宙に広がっている仕組みなのではないか。ふと、そう思いました。

 ヒトという種に特有の、身の程をわきまえない不遜な考え方だと反省しつつも、こういったことについ思いをめぐらしてしまいます。致し方ない気もします。ヒトからこの性癖を取り除いたら、何が残るのでしょう。尻尾のないおサルさんたちのなかでも、とりわけひ弱い種でしょうか。

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 ここであることは、むこうでもある、同時にいたるところである。大雑把で、飛躍しているうえに、いかがわしい考え方かもしれませんが、そういう気がします。根拠はありませんが、そこに「つながり」、しかも「血のつながり」を感じます。「血」とは、もちろん比喩です。

 すべてのものが「血でつながっている」から、さまざまなしがらみや制約から意識が解放されている夢のなかでは、何もかもが肯定されるという形で、知覚され意識されるのではないか。そんなふうにも思います。

 知覚器官と脳とのあいだの各所で、情報あるいは信号が伝達および処理される。これがヒトにおける知覚および意識だとすれば、よく見聞きする安直な考え方である、「すべては幻想である」という物語に行き着きそうです。その考え方を部分的に拝借すると、夢と現(うつつ)とは、幻(まぼろし)つまり、「まを滅ぼす」という仕組みによって「つながる」と言えるように思えます。

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 ヒトは、「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」を用いている。

 ヒトにおいては、知覚器官と脳とのあいだの各所で、外界から受けた刺激が、情報あるいは信号として、神経と脳で伝達および処理されていて、それがヒトにおける知覚および意識を成している。

 存在をめぐるすべての物語や神話は、今述べた、個人的に気に入っている二つのイメージの変奏なのでしょうか。このイメージが思い込みとなっているために、「(世界や宇宙においては)何もかもがつながっている」とか「(夢のなかでは)何もかもが肯定される」と感じられるだけなのかもしれません。

 きっとそうです。思い込みの産物でしょう。心の病のあらわれでしょう。投げた言葉は、たいてい自分自身にかえってきます。メタな立場に立つ、つまり自分を棚に上げることのできるヒトはいません。自分で自分を見下ろす視点はないように思われます。幻界は言界であり現界でもあり限界だと言えそうです。

似ている、そっくり、同じ、同一

 ふつう、「そっくり」とは、「似ている」を強めた状態だと考えられている気がします。「そっくり」がさらに強まり、ジャンプすると「同じ」という状態になる、と思われている気もします。この調子で行くと、「似ている」の究極の姿が「同一」ということになるのでしょうか。

 いわば、「似ている」、「そっくり」、「同じ」、「同一」という格付けです。こうしたイメージは、個人的なレベルでいだくものですから、人それぞれだと思われます。

 たった今書いた「格付け」を見ているうちに、「そっくり」は「似ている」が強化されたものではないような心持ちになりました。両者は次元が違うような気がしてきたのです。もちろん、これもまた、個人的なレベルでの印象の話です。

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 スーパーの棚に置かれた、プラスチック製容器に入ったヨーグルトを思い浮かべてください。何種類かのヨーグルトが陳列されています。各メーカーの販売している、ある特定の品名が容器に記された「そっくり」なヨーグルトが複数並べられています。「そっくり」なのは、大量生産されたからです。他のスーパーでも、その商品と「そっくり」なものが並んでいるにちがいありません。

 次に、電気製品の量販店で売られている、パソコン用のマウスを例に取ってみましょう。ヨーグルトと同様に、メーカーによって、あるいは同じメーカーでも違った色・形・大きさのものが置かれているはずです。そうした店では、透明のプラスチックに収められたマウスが、長いフックに吊るされて並んでいるのを、よく目にします。これも、「そっくり」なものが、たいてい複数ぶら下がっています。他店でも、同じように販売されていることは、ほぼ間違いないと思われます。

「そっくり」なものとして、ヨーグルトとマウスを例として挙げましたが、お茶漬け海苔、サンマの煮付けの缶詰、ジュース、冷蔵庫、乾電池、ポールペン、紙おむつなどについても、ほぼ同じ状態が想像されます。共通するのは、大量生産され、大量に流通し、大量に販売され、大量消費されていることです。それが、「そっくり」の大前提だと言えそうです。

 キュウリ、ナス、キャベツ、サンマ、イカ、ウナギも、「そっくり」と言えば「そっくり」な状態でずらりと並べられたり、積み重ねられて売られています。農産物や魚介類の場合には、大量に栽培され、または漁獲されるのが共通点と言えそうです。これらが、大量に流通し大量に販売され大量消費されるのは、ヨーグルトやマウスなどの場合と同じと言っていいと考えられます。

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「似ている」は、「別のものに似ている」が前提になっている気がします。それに対し、「そっくり」は、「そのもの自体に似ている」が前提であるように感じられます。当然のことながら、あくまでも個人的な意見です。思いつきであり、でまかせなので、たいした根拠はありませんが、おいおい説明するつもりです。

「似ている」も「そっくり」も「言葉」、つまり「代理」ですから、いかがわしく、うさんくさいことは言うまでもありません。「いかがわしい」や「うさんくさい」というのは、「いかがわしくない」や「うさんくさくない」を確かめる方法も手段もヒトは手にしていない、くらいの意味です。

「いかがわしい」か「いかがわしくない」か、および「うさんくさい」か「うさんくさくない」かを、ヒトは決定できない点が、「いかがわしい」し「うさんくさい」というふうにも言えると思います。

「いかがわしい」や「うさんくさい」を、「根拠がない」という言い方と同義だと、理解することもできそうです。ただし、ヒトという種(しゅ)の知覚と意識に、絶対的な信頼性と有効性を認めているヒトたちには、縁遠い考え方だろうと想像されます。

比喩、たとえる

「似ている」が、兄弟姉妹、親子、親戚といった血縁関係を比喩にして語ることができるとするなら、「そっくり」は、コピー機での複写、印刷、大量生産にたとえられそうです。

 ところで、比喩、つまり、「たとえる」という行為は、有効性に支えられています。たとえば、AをBにたとえた場合、AとBとのあいだに認められる共通性および関係性がどこまで有効であるかで、その比喩の説得力が決まるという意味です。

「似ている」は、血縁関係のある人たちの間だけでなく、他人同士の間でも、成立する様態です。それなのに、どうして血縁関係という比喩を優遇するのかというと、「つながっている」という属性を強調したいからだと言えます。

 また比喩を使うことになりますが、たとえば、他人同士であっても、同じ○○人であったり、同じヒトという種であったりするわけですから、「つながり」はあります。でも、話に説得力を持たせるためには、系図という、いわば「見える」形でプレゼンテーションできるくらいの「濃いつながり」が必要なのです。

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「似ている」の根拠となる「関係性」と「共通性」という基準を支えている比喩である、「(血が)濃いか薄いか」は程度の問題だと言えそうです。「関係性」と「共通性」という言葉の正体らしい「説得力」というものが、いかがわしく、うさんくさいのは、根拠を欠いている場合がほとんどで、またもや、たとえて言うなら、「声が大きいほど」説得力があるからだと言えそうです。

「関係性」と「共通性」の実体らしい「血縁関係」および「血の濃さ」という比喩、言い換えると道具立てですが、これは「声の大きさ」、つまり「説得力」とほぼ同義ではないかと考えられます。

 万が一「何らかの根拠に基づく有効性」と「声の大きさによる説得力」とが別物であったとしても、混同されやすいだろうと推測されます。これを「見分ける」ことは難しそうです。いずれにせよ、「似ている」を成立させているらしき条件は、やはり、いかがわしく、うさんくさいと言えそうです。

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 学問および科学と呼ばれるものの基本的な作業の一つは、「見る」と「分ける」、つまり「見分ける」みたいです。当然のことながら、「比べる」作業が伴います。「似ている」かどうかを判断する必要があると考えられます。同時に「異なる」かどうかも判断する必要があると言えそうです。

「似ている」および「異なる」ように「見える」の根拠となる「関係性」と「共通性」は、「血縁関係」つまり「血の濃さ」(※ともに比喩です)と、「声の大きさ」つまり「説得力」(※ともに比喩です)という基準で決定されている。仮説の段階でも、実証・観測のレベルでも、その基準は変わらない。そんな気がします。

 以上のような事情で、学問および科学における説や法則はぶれるのであり、揺るぎない場合には、声の大きな、そしてたぶん腕力に優れた特定グループの支配に支えられているからだという気がします。

 たとえば、ノーベル賞のうち、比較的ハードな物理学賞や化学賞であれ、ソフトな経済学賞や平和賞であれ、上述の力関係(=ダイナミックス)に、左右されているように思われます。進歩、貢献、普遍性という言葉は、このたぐいの賞にはそぐわないという印象をいだいています。建て前と現実の違いという言葉で説明できそうな感じもします。

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 物理学では、現在、従来の考え方に代わって、量子という考え方、および量子に関する考え方が、揺るぎない地位を獲得しつつあるとのことです。

 もし、ヒトの五感に基づくイメージと実証・観測の結果であるならば、当然のことながら、限度と制約があるわけですから、「血縁関係」つまり「血の濃さ」(※ともに比喩です)と、「声の大きさ」つまり「説得力」(※ともに比喩です)によって、「真偽」が決定されているという話の域を超えるものではなさそうです。

 いつか、量子という考え方と量子に関する考え方にぶれが生じ始め、やがて揺るぎなさが持ちこたえられなくなったときには、別の「血縁関係・血の濃さ」を基準とする「有効性・関係性の存在」つまり、いわゆる「説」や「理論」の「有効性」を主張する、「声の大きい」つまり「説得力のある」新興グループの「説」や「理論」に取って代わられるのではないかと予想されます。

 量子という考え方と量子に関する考え方が、ヒトの五感に基づくイメージと実証・観測以外の有効性に支えられた結論であったり、あるいは、その考え方を支持するグループの「声の大きさ」つまり「説得力」が揺るぎなく維持されている限りは、近い将来に交代劇は見られないだろうとも考えられます。

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「似ている」が前提として想定しているのは、オリジナルとコピー、本物と偽物、出来事と出来事の再現、という一連の神話であり物語です。

 今挙げたペアには、かなり「濃い血縁関係」(※比喩です)がなければなりません。なぜなら、各ペアの間で、激しい勢力争いが生じるほどの類似性、言い換えるなら、各ペアの一方が主となってもう一方を従として卑しめる、あるいは、一方がもう一方を排除するという事態が起こったとしても、双方がその役目を立派に果たせるだけの類似性が備わっていなければならないからです。

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 さかんに比喩つまりたとえを用いていることに、辟易(へきえき)なさっている方もいらっしゃるにちがいありません。言い訳をさせていただきますと、それしか頼るものがないからなのです。

 ヒトにおいては、知覚器官と脳とのあいだの各所で、情報あるいは信号が伝達および処理されていて、それがヒトにおける知覚および意識である。

 ヒトは、「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」を用いている。

 今挙げた二つの限界であり幻界であり言界でもある現界のなかに投げ込まれているらしい、ヒトという種は、森羅万象と直接出合うことはできず、森羅万象の「代わり」を務める「処理された情報」つまり「その「何か」ではないもの」という「代理」を相手にするしかないと言えそうです。蛇足ですが、「事実」と「意見」を「分ける」ことも、ヒトにはできそうに思えません。ただ、努力目標にしたいというのであれば、その気持ちは理解できる気がします。

 比喩しか頼るものがない状況というのは、そういう意味です。せいぜい比喩という仕組みを意識しつつ、(森羅万象の一部の)比喩つまり代理を用いて思考するなり記述するなり働きかけるという方法で、(森羅万象の一部の)比喩に向かい合う。そんな感じでしょうか。いかがわしく、うさんくさい話ですが、致し方ありません。

 比喩という仕組みを意識する。言うのは簡単ですが、実行するのは、きわめて難しいと思われます。できれば、考えたくない、忘れたいというのが、人情みたいです。

 比喩という仕組みを忘れたり、忘れた振りをするのではなく、常に意識しつつ、(森羅万象の一部の)比喩つまり代理を用いて思考するなり記述するなり働きかけるという方法で、比喩の仕組みそのものを対象に、徹底的に取り組むというスタンスも可能かと思われます。個人的に魅力を感じている姿勢です。これもまた、いかがわしく、うさんくさい話ですが、致し方ありません。

 以上の話が、個人的な思い込みの産物であることは言うまでもありません。まぼろしです。