かく・かける(1)-(2)

かく・かける(1)

 賭け事や占いが好きか、と尋ねられたとしましょう。好きにしろ嫌いにしろ、答えるさいに、何か気おくれに似た気持ちをいだきませんか? 就職試験の面接、または、多くの人たちを前にした公の場で、「はい、好きです」と素直に答えられるでしょうか。うーん。仮に好きだとしても、勇気が要りますね。どうしてなんでしょう。賭けは博打(ばくち)、占いは迷信といったステレオタイプ化したマイナスのイメージがあるからかもしれません。

 ただ、それだけではなく、もっと深いところに「気おくれに似た気持ち」の源があるのではないか、と考えています。賭けと占いとは、多分に似たところがあるように思えます。「好きだと他人に言っても、ぜんぜん、後ろめたさは感じないよ」と、おっしゃる方もいらっしゃるにちがいありません。残念ながら、多数の人に尋ねて回った経験はありませんが、おそらく、大多数の人が、賭け事と占いが好きだと他人に言う場合に、何か気おくれを感じるのではないか。そういう想定のもとに話を進めてみます。

     *

 さて、

*「賭ける」と「占う」の背後=根底には、「負ける」=「降伏」と「任せる」=「服従」がある。

のではないか、と考えています。では、何に「負け」、何に「任せる」のでしょうか? 「負ける」と「任せる」が語源的につながっているのかどうかは、手元の辞書で調べたかぎりでは、よく分かりません。ただ、「自分の身をゆだねる」という点で、きわめて接近した意味があるように感じられます。というわけで、

*何に、自分の身をゆだねるのか?

と言い換えて考えてみましょう。これは、それぞれの人が何を信仰しているかにも、関係がありそうです。ただし、この国は、一神教が生活・文化・政治などあらゆる面で、強い影響力をもつ濃密な風土にはありません。年末年始に、キリスト教の教会、神社、お寺を平気で「はしごする」という、宗教的には希薄な風土が存在する国です。欧米でも、占いに関しては、自分の信仰する宗教とは違ったレベルで接するヒトたちがほとんどのようですから、賭け、占い、宗教をあまり強く結びつけて考える必要はないかもしれません。

 賭けと占いにおいて、何に自分の身をゆだねるか? ですが、こんな答えが予想されます。

*神、神々、仏、先祖、霊、教祖、超越者、天、イワシの頭、宇宙、宇宙の摂理、人知を超えた力、運命、カルマ、確率、あるいは「無」……。詳しくはないのですが、たとえば、競馬、宝くじ、血液型占い、星占いにおいては、お馬さん、数字、血液型、星の運行自体

に、自分の身をゆだねるというよりも、そうした

*表面に現れている=表れている現象や物事

そのものではなく、その

*背後にある「何か」

に身をゆだねているという気がします。

 背後にある「何か」に、身をゆだねるとするなら、これは大変なことです。「背後にある」のですよ。「何か」なのですよ。これじゃ、「わけが分からない」ではありませんか? それこそ、

*背後にある「何か」そのものが、賭けと占いの対象になり得る。

というギャグみたいな状況になるような気がします。いや、ギャグというより、見方を変えれば、

*初めに「負ける」「任せる」ありき。

とも言えそうです。

 つまり、

*初めから負けっぱなし=全面降伏

ということです。圧倒的に「強い・崇高な」存在。こうなると、対処するための切り札は1つしかありません。

*信じるのみ

です。

 ありゃー、という感じです。このレベルになると、絶句、つまり、どんなに言葉を重ねても意味はない事態となります。言うことなし。問答無用。出口なし。行き止まり。思考停止。エポケー=判断中止。ここから先へ侵入するべからず。おしまい。ピリオド。

 それくらい、「信じる」という行為は強い。手強い。どうにもならない。なすすべがない。でも、これって、ヒトにとってはなくてはならない「いとなみ」=行動=心理ではないでしょうか。計算式を立てるなら、

*ヒト - 「信じる」 = O = ゼロ(何も残らない) = ヒトでなし

と表しても、算数のテストで◎をもらえるのではないか、という気がします。

 この場合の「信じる」は、かなり広い意味にとってください。宗教的なレベルだけの話をしているのではありません。無神論者でも、生後間もない赤ちゃんでも、状況は同じです。「意識する」=「知覚する」に近いレベルまで含むものとして、「信じる」を広く考えましょう。すると、

*生後間もない赤ん坊も、「賭けたり」「占ったり」している。

と言えるように思います。

     *

 一昨日まで、「信号」と「信号論or信号学」というツール=玩具をつかって、いろいろなことを考えたり、いろいろな現象に当てはめる=つなげる=こじつけるという「お遊び」=楽問=ゲイ・サイエンスをしていました【※「スポーツの信号学(1)」から「信号論(3)」ですが、安心してください。過去の記事をお読みにならなくても分かるように書きますので。】。慣れない「学問ごっこ」をして、しんどかったことは確かですが、とても面白かったことも事実です。そこで、この「かく・かける」シリーズでも、「信号」という言葉をぜひ使いたいのです。たとえば、

*生後間もない赤ん坊は、さまざまな「信号」を相手に、「賭けたり」「占ったり」している。

みたいに使いたいのです。

 そこで、今後このシリーズで使いそうなツールを、ここで説明させてください。お断りしておきたいのは、以下に挙げる三語は、別個のものであるというより、森羅万象を対象にした「切り口」=「切り分け方」だということです。そして、その「切り分ける」作業に先立ち、「目的」があることが重要な点です。

(1)「表象」 : 「Aの代わりに「Aでないもの」を用いる」という代理=代行という働き=仕組みを利用したい場合に使用する。森羅万象が「表象」になり得る。

(2)「トリトメのない記号=まぼろし」or「記号」 : 「そっくりなものがずらりと並んでいる」 and 「そっくりなものが他の場所にも数多く存在する可能性がある」 and 「お母さんのコピーとして生まれたものの、お母さんの権威や支配とは無縁で、いわばコピーのコピーとして存在している」という特性を強調したい場合に使用する。森羅万象が「記号」になり得る。

(3)「ニュートラルな信号」 or 「匿名的な信号」or「信号」 : 「ノイズと熱が常に存在する環境において、「まなざし=合図」の発信と受信が、一方的、または双方的に行われる」というメカニズムを問題にしたい場合に用いる。森羅万象が「信号」になり得る。

 以上のツールのなかで、さっそく使いたいものがあります。「表象」です。

 半端じゃなく強い存在に、ヒトは太古から気づいていたふしがあります。その圧倒的に強い「何か」(※いろいろなヒトたちがいろいろな名で呼んでいるので、中を取って中立的に「何か」と呼んでおきます)対して、大昔のヒトたちはどう対処してきたでしょうか? 歯向かうとか、戦うなんて、馬鹿なことはしませんでした。なかには、そうしたお馬鹿さんもいたでしょうが、ここでは無視します。

     *

 この問題について、「1カ月早い、ひな祭り」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)という記事のなかに、「占い」と宗教の発生がらみで書いた部分がありますので、横着をして、自己輸血=自己引用=コピペをさせてください。ちょっとおふざけ気味の文体ですが、それは内容のシリアスさを薄めるためです。本気で書いたものですので、そこのところをご理解願います。

     ★

「 ひな壇 」とピラミッドは、司法・立法・行政には付きもの。代理、代行、代議士、代表、総代が、うようよ。ハンコぺたぺたのペーパーワーク。このへんが不明の方は、当ブログのバックナンバー、「 あなたなら、どうしますか?」 、「 やっぱり、ハンコは偉い 」 を参照、願います。面倒な方は、このまま、引き続き、どうぞ。「 ひな壇 」は「 虎の威=衣 」とセットで、クラス分け、棲み分けして、暮らすわけ。これが代々続けば、二世、三世、そして、世襲。仲間うちで譲ったり、譲り合えば、天下り、渡り、渡る天下に鬼はなし。

 蛇足ながら、「 虎の威=衣 」は「 虎の位 」であり、ピンからキリまで、枚挙にいとまなし。フェイクファーのパンツから、スマトラ産の超高級品の上下一式の被り物まで、多岐にわたる。引退後は、民間人をさておいて、真っ先に褒章、勲章までもらえる。ワッペン張って、大威張り。首から下げて、涙腺を緩めるのが、最後のご奉公。なんでこれがご奉公? 公僕、最後のご奉公? ここまで来ると、もうめちゃくちゃではないか? それなのに、庶民が一揆を起こしたり、騒がないのも、究極には「 表象の働き 」の奥深さがあるのではなかろうか? もっと考えてみたいけど、きょうは、それ以上考える暇なし。貧乏暇なし。なぜか、突然、なるほど、

 「 タモちゃんのお代理様 」

は、やっぱり言えている、と思う。

 言えてるどころか、きっと、そうに違いない。「 でまかせ 」ではなく、「 言えている 」とか「 きっとそうだ 」にしてもいいでしょうか、偶然と必然のオーソリティー(= 権威 )だったマラルメさん? ここで権威にすがる自分が、情けない。それはともかく、ヒトよりも、もっともっと偉い存在がいて、ヒトはその代理を務めたいという、願望、欲求、祈り、野望、をもっているのではないでしょうか、マラルメさん? Aにはなれないから、Aの代わりを演じます。Aみたいな顔をしてみます。Aの仮面をかぶり、表情をまね、ときにはお化粧もし、かつらも付けたりもしてみます。

 どうです、似合うでしょう? 様になるでしょう? だって、これだけ化ければ、○○様なんて、呼ばれるんですもの。偉く見えるんですもの。いいじゃないの。

 という具合に、偉く見えるから、崇め奉られる。ちやほやされる。甘やかされる。

 「 どうか、雨が降って豊作になりますように 」、「 作物が駄目にならないように、大雨が止みますように 」、「 ニワトリとブタが増えますように 」、「 隣村の馬鹿どもが攻めてきませんように 」、「 今度の戦( いくさ )に勝てますように 」、「 あいつとの賭けに勝てますように 」、「 おとうさんの怪我が早く治りますように 」、「 娘がいいところにお嫁にいけますように 」、「 亡くなったあとに天国に行けますように 」、「 元気が出ますように 」

 「 お任せあれ。任せとき。だいじょうぶ。ところで、あれは、ちゃんと用意しているかな? このあいだは、ちょっと少なかったぞよ 」

 万が一、でまかせが当たらなかったり、何かとんでもないことが起きて、都合の悪くなったときには、仮面を外し、お化粧を落とし、表情をしおらしくして、かつらもとって、わたしは代理ですと言って責任を転嫁すればいい。または、「 あんたの信心がたりんからじゃ 」と、これまた、責任を転嫁すればいい。「 代理人 = 代行者 」は、気楽で、いい商売だわい。

 これは便利。超便利。魔法みたいに便利。呪術みたいに便利。イッツ・ア・マジック。マジでマジック。マジで絶句。ヒューマニズムよりも、シャーマニズムコミュニズムよりも、キャピタリズム。デモクラシーよりも、ビュロクラシー。

 ★から、以上までが、引用部分です。

     *

 宗教と、占い=預言=予言と、半端じゃなく強い「何か」の威=衣を借りて、他のヒトたちの上に立つという「政(まつりごと)=支配体制=政治」の成立というシリアスな問題を、紙芝居的に描いたおとぎ話です。きょうのテーマの一つである、「占い」のメカニズムもご理解いただけたのではないでしょうか。

 さて、今度は、歴史ではなく、一個のヒトの成長という視点から、特に「赤ちゃん期」に注目しながら、考えてみましょう。

*生後間もない赤ん坊は、さまざまな「信号」を相手に、「賭けたり」「占ったり」している。

に話をもどします。

 健常者の赤ちゃんは、さまざまな形の「信号」を、主に五感、および第六感(※もし、そのようなものがあればですけど)を総動員して、発信し、受信=知覚しています。そのさいに、

*赤ん坊は、「賭け」と「占い」という行為のなかへと、否応なしに、いわば「投げ込まれている」。

と言えそうです。

 それほど、ヒトの赤ちゃんという存在は無力なのです。

 生後 or 孵化後、数時間で、オトナのミニチュアのような容姿となり、立ち上がったり、動き回ったりする、たとえば、お馬さんの赤ちゃんや、イカさんの赤ちゃんを思い浮かべれば納得できると思います。もちろん、程度の差はあります。ある期間中、お母さんの腹部にある袋(=育児嚢(いくじのう))で保護されているカンガルーさんの赤ちゃんや、巣の中で毛の薄い頼りなげな姿で巣立ちまで過ごしている鳥類の赤ちゃんも確かにいますね。

 なお、ヒトの赤ちゃんの「よるべなさ=無力さ」には、「ネオテニー(=幼形成熟」という現象が関係しているという説があるそうです。語弊を覚悟で申しますと、ヒトは「早産」し、子を「未熟児」として産むということらしいです。だから、自立するまでに長期間を要するという理屈みたいです。このへんの事情については、他の問題とからめて「交信欲=口唇欲」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)、「オバマさんとノッチさん」でも少しだけ触れましたので、ご興味のある方は、ご一読ください。

     *

 さて、ヒトの赤ちゃんが「賭けたり」「占っている」というのは、「ニュートラルな信号」を「合図」という形で発している、つまり、「オギャー」と叫んだり、笑みを浮かべたり、じっと「まなざし」を向けるという具合に発しているのは、オトナの目から見て、

*期待=欲求というメッセージ

を送っているという意味です。

*期待と欲求は、これから先の出来事に向けられている。

と考えれば、「賭ける」「占う」との関連が分かると思います。

 ここで大切な点は、

*期待・欲求 → これから先の出来事=未来の出来事 ← 予測・予想

と図式化するさいに用いることも可能な、「→」と「←」という符号=「信号」にあります。何を言いたいのかと申しますと、

*「→」と「←」という符号=「信号」は、「向き」=「方向」を示している。

という点が大切なのではないか、ということなのです。

 さきほどの「信号」の定義で、森羅万象が「信号」になり得る、とあったのを思い出してください。「→」と「←」も、立派な「信号」です。「向き」=「方向」を示しながらも、それ自体は「ニュートラル」な「長短の3本の線の組み合わせ」でしかないのです。

*たとえ何かのメッセージを担おうと、「信号」は、あくまでも「ニュートラル」であり、「匿名的」なものである。

という特性は、いくら強調してもしすぎるということがないくらい、重要です。言い換えると、そうではないと思われやすいということです。

「信号」の担う「メッセージ」が、「色づけ=意味づけ(=ニュートラルではない)」され、「ある特定の目的を志向する(=匿名的ではない)」ということは、「信号」が然るべき「経路」へと「向かう(=「→」と「←」)」という点においてのみ、「意味」があり、「必然性」が認められるという、「きわめて不安定な基盤」に立っているのです。もちろん、それとは逆に、これを「安定した基盤」に立っているとみなす考え方もあるでしょう。

 でも、ヒトの赤ちゃんを例に取れば、現在の日本という国の比較的恵まれた好条件=好環境を基準にするかぎりにおいて、「安定した基盤」に立った「信号のやりとり」を行っていると言えるにすぎず、この惑星の圧倒的多数のヒトの赤ちゃんたちと、ヒト以外の生き物たちの赤ちゃんたちと比べた場合には、きわめて「きわめて不安定な基盤」に立っていると言ったほうが、残念ながら、適切だと思われます。いわゆる

*生存率という確率

を思い出してください。いかに、赤ちゃんの「賭ける」と「占う」が危ういかが体感できるかと思います。

     *

 このように、

*「ニュートラルな信号」が、然るべき「経路」にまで「向かう(=「→」と「←」)」過程をとらえるには、確率というツールが不可欠になる。

と言えそうです。事態はそれだけにとどまりません。ここで、「信号論(3)」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)で利用した、きわめて大雑把な私的「カンニングペーパー」を、コピペさせてください。

A:ノイズ+熱 ⇒ ニュートラルな「信号」 : 合図・視線・まなざし・表情・刺激
   ↓
B:ノイズ+熱 ⇒ 経路・通路(光・電波・波動・電線・管・ニューロンなど) : 線・糸・揺れ
   ↓
C:ノイズ+熱 ⇒ 回路・知覚器官・知覚組織・解読版・グリッド : 色づけ・分ける・知覚・見る・解読・解釈・識別 : 網・濾過記=フィルター・カメラ・マイクロホン
   ↓
D:ノイズ+熱 ⇒ スクリーン・膜・細胞・機械・器械・画面・スピーカー・発信装置=受信装置 : 幕・器
   ↓
E:ノイズ+熱 ⇒ 映像・音声・震動・運動・動作 : 動き・まぼろし・イメージ
   ↓
F:ノイズ+熱 ⇒ 賭け・ギャンブル・偶然(accident) / 成功=不成功・当たり=外れ・作動=誤作動・正常=異状or異常・順調=不調・OK=エラー

 上の図を見ていると、話がしやすいのです。正確さという点からは、まったく信用できない「トンデモもの」ですが、このブログ自体がいわゆる「トンデモ本」の親戚の「トンデモブログ」みたいなものですので、恥を忍んで掲載させていただきます。

 さて、いったん発信された「ニュートラルな信号」は、上図のAからEまでの全過程において、確率に大きく左右されています。

*「信号」の「ニュートラル性」とは、「信号」が常に確率に左右されている状態だ、と言い換えることができる。

とも言ってもよい、とさえ考えています。

 正直申しますと、自分は確率・統計は大の苦手なのです。かつて一種の売文業をしていた頃に、仕事上、どうしてもこの分野の知識を使わざるを得ない事態に陥り、三冊の参考書をもっていますが、今読んでも、さっぱり分からないのです。こういう場合には、「確率」と書いてあっても、比喩であったり、お飾りであったり、はったりであったりしがちですので、せいぜい、「比喩」くらいで使っているのだと理解してくだされば、幸いです。

     *

 では、きょうのまとめをします。

「賭け事」「占い」の背後には、たいてい「後ろめたさ」がつきまとっている。それは、何ものかに自分の身をゆだねているという心理があるからだ、と考えることができる。「身をゆだねる」というのは、体(てい)のいい表現であり、ぶっちゃけた話が全面的に「任せている=負けている」という負い目である。

 この「負け」はヒトにとって、根本的で、始原的とも言えるものある。ヒトは太古から無力であり、圧倒的に強い「何か」に対し、その「代理」を務めるという方法と、その代理人に「占い=預言=予言」をしてもらうという方法を考え出した。また、ヒトは1個の生体としても、生まれて以来無力な存在として存在する。頼りになるのは、自分の「期待・欲求」を伝えるために発する「信号」である。しかし、その「信号」が然るべき「経路」を経て、受信され、最終的にその目的を達することは、「賭け」「占い」である。つまり、確率に左右される。

 という感じです。こう考えると、「信号」をちゃんと受けとめてもらえる赤ちゃんって、幸せですね。母親や母親に代わるヒトのせいでほったらかしにされていたり、そうした保護者とは無関係の何らかの事情によって、メッセージが届かず不幸な目に遭う赤ちゃんが、この世界にはたくさんいるのにちがいありません。

 みなさん、身のまわりにいる赤ちゃんを見守ってやりましょうね。うちの近所にも、赤ちゃんたちがいます。裏の家の軒下に巣を作っている(※「巣をかける」とも言いますが、確かにあれも「かけ」なのでしょうね。まさに命をかけての行為でもあります)ツバメさんちの赤ちゃんです。四羽います。かわいいです。でも。なかには、巣から落っこちちゃう子っているんですよね。悲しいです。あれも、自然の摂理ってやつでしょうか。いずれにせよ、あまり近寄らず、距離をおきつつ、見守っているところです。

 さて、きょうは、ちょっとですが、引用部分にマラルメさんにも出演していただいたため、元気が出ました。あの人は、以前の記事では常連の賓客=ゲストスターだったのです。「賭け」と「ダジャレ」の名人です。このシリーズでは、お手を借り、ご活躍を願おうと思っております。

 あすも、引き続き、「かく・かける」をテーマに書く予定です。ぜひ、また、この楽問=ゲイ・サイエンス=「楽しくお勉強しよう」サイトに遊びに来てください。お待ちしております。

かく・かける(2)

 ギャンブルという英語の語源は諸説があり、そのなかでゲームと親類だという説に興味をもちました。「人生は賭けだ」「人生はゲームだ」と並べてみると、「なるほど」と頷きたい気分になります。もっとも、game にはいろいろな意味があります。大きめの辞書で意味を調べると、驚くような語義もあり、想像力を刺激されます。いったい、どうつながっているんだろう、という感じです。

 個人的には、お金がらみの賭け事も、ある規則に沿った遊びという意味でのゲームにも、興味も縁もありません。いわゆる賭け事を最後にしたのは、大学1年のときに生まれて初めて1回だけやったパチンコでしょうか。宝くじは、もらったことはありますが、買ったことはありません。いわゆるゲームを最後にしたのは、10年ほどまえにPCでやった「ぷよぷよ」くらいでしょうか。囲碁、トランプはまったくやりませんし、自分が参加するスポーツもありません。まさに芸無の芸無し人生です。だからその反動で、ひとりでゲイ・サイエンス=楽問をやっているのかしらん。

 にもかかわらず、さきほど挙げた「人生は賭けだ」「人生はゲームだ」とつくづく感じているので、実際には、自分はれっきとしたギャンブラーであり、ゲーマーであると信じています。というわけで、自分にとっては、毎日がギャンブルであり、毎日がゲームなのです。真剣勝負です。

*ヒトである以上、「賭け」と「ゲーム」には無縁ではいられない。

 これは実感です。「賭け」とは、きのうの記事で述べた、半端じゃなく強いパワーをもつ「何か」に自分の身をゆだねることです。「ゲーム」とは、半端じゃなく強い拘束力をもった規則のようなものに従って生きることです。自由意志という言葉がありますが、そんなものが通用するような状況に、ヒトは置かれていない、という「諦め」に似た意識を強くいだいています。神仏は信じていないつもりですが、

*半端じゃない「何か」

を信じているのは確かなようです。

 特定の言葉を用いて何と呼ぼうと、とにかく、その「何か」としか言いようのないものが気になって仕方ありません。精神衛生上は、その「何か」を世の中に流通している=よく使われている言葉で特定し、その言葉を用いている人たちと一体感を共有するのが、いいに決まっています。でも、その特定の言葉が、今のところ見つからないのです。というわけで、個人的には、「人生は賭けだ」&「人生はゲームだ」くらいで、当面はお茶を濁しておきたいと考えています。

     *

 さて、前回の続きです。きょうは、「かく・かける」と、それと関係深そうな「かかる・かかり・かかわる」を、言葉のレベルで整理してみるつもりです。

*「かく」 : 書く・描く・画く・掻く・欠く・掛く・懸く・繋く・構く・舁く・駆く

*「かける」 : 掛ける・架ける・懸ける・賭ける・駆ける・駈ける・翔る

*「かかる」 : 掛かる・懸かる・繋かる・架かる・罹る・皹る

*「かかり」 : 係り・掛かり合う・掛り・繋り・懸り

*「かかわる」 : 関わる・係わる・拘る

 以上の言葉の羅列を見ていると、「かく・かける」と「かかる・かかり・かかわる」の多義性=多層性=豊かさに、あらためて驚かされます。すごいです。基本的に表音文字である大和言葉系のひらがなが、「漢字+ひらがな」という大発明である送り仮名で処理され変貌している様は、実に感動的です。奇跡に立ち会っていると言ったら、大げさでしょうか。でも、そんな感じなのです。

 とはいえ、ふと気づいてみると、何げなく使っているPCのワープロソフトの文字変換は、その「大発明」を機械が代行してやってくれているのです。この事実を噛みしめると、すごい、としか言いようがなくなってしまいます。実際、日本語を処理するワープロソフトはすごい。

 で、さきほどの言葉の羅列ですが、国語の専門家として、言葉をながめているわけではないので、その羅列をにらみながら、自分は自分なりに気になる点だけを、以下に書きとめておこうと思います。要するに、記事を書くためのメモ作成です。

*文字や文章を「書く・書ける」ということと、「賭ける」こととの「係わり合い」。

*「書く」と「引っ掻く」の「掻く」との「係わり合い」。

*「書く」と「描く(=かく・えがく)」とはどう違うのか?

*書き表す・書き込み・書き記す・書き付け・書き留める

*「掛ける」の多義性=多層性をチェック。

*駆け引き・駈け引き・掛け引き

*「掛詞=懸詞(=かけことば)」における、「掛ける・懸ける」が非常に「気に掛かる」。気掛かり・心掛かり

*願を懸ける・命を懸ける・神懸かり=神憑り・神に懸けて誓う

*賭け事・金品を賭ける・社運を賭ける・賭けに勝つ

*生活が懸かる・優勝が懸かる・メンツに懸けて・神に懸けて・賞金を懸ける

*目を懸ける⇒めかけ・妾

*目掛ける・めがく

*掛け合わせ(=交配)・○と△を掛け合わせて新種をつくる・掛け算(※割り算)

*かき回す・引っかき回す・掻き混ぜる=掻き雑ぜる・掻き分ける

*十字架・仮空⇒架空

*架け橋を渡る(※具体的)・夢の懸け橋(※比喩的)・未来への懸け橋(※比喩的)・友好の懸け橋(比喩的)

*「□とかけて○と解く。して、その心は……」のメカニズムは? このフレーズでの「かける」の意味は?

*医者に掛かる

*声を掛ける・掛け声・掛け合い漫才

 以上は大和言葉と漢字の戯れに注目しましたが、次に、気になる漢字を漢和辞典で調べ、特に「解字」(=文字の成り立ちの説明)に焦点を当ててみます。

*書 : 聿(※筆・ふで)+音符の者。一箇所に定着させる。紙や木簡に筆で字を定着させる。

*賭 : 貝(※財貨)+音符の者。集中する、つぎこむ。

*掛 : 圭(※ケイ)は、△型に高く土を盛るというイメージ。そこから転じて、/\型に何かを高くかけるイメージ。卦(※カ)は卜(※うらない)のしるしをかけるの意。掛=手+音符の卦で、/\型にぶらぶらさげておくイメージ。

*懸 :県は、首をひっくり返した形。つまり、首を切って宙づりのイメージ。縣(※ケン)は、県+糸(※ひも)の会意文字で、ぶらさげるということ。懸は、心+音符の縣だから、心が宙づり状態、つまり気持ちが決まらず、気がかりとなる。

*掻 : かゆいかゆいの蚤(※のみ)と関係あり。蚤の上の部分は、爪(※そう)、つまり「つめ」の形。それに虫が下の部分にある。つめでかきたくなるくらいかゆいかゆいの元となる蚤。掻=手+音符蚤となり、「手の爪で掻く」となる。

 蛇足とは思いますが、こうした「お勉強」は、

*「正しい」 vs. 「正しくない」ごっこという学問

をやっているのではなく、

*「正しくなくていいんだよ」の精神での、楽問=ゲイ・サイエンス=「楽しいお勉強ごっこ

でやっているのです。

 ですので、上の文字の羅列や、漢字の解字は、

*こじつけって、めちゃくちゃ面白いし、楽しい

という気持ちで実行しています。

 もちろん、こうした「こじつけ」=「ほぼ学問」=「アラガク」=「around 学問」が苦手な方もいらっしゃるでしょう。どうか、あまり、真面目に=真剣に、眉間にしわを寄せたり、肩に力を入れたりなさらないように、お願いいたします。

 以上の記述が面倒くさいと思われる方は、読み飛ばしていただいて、いっこうにかまいません。

     *

 で、「かく・かける」を各種の送り仮名バージョンでながめたり、「かく・かける」に「当てた」漢字の解字を見ているうちに、「かく・かける」の中心的なイメージ=コア・イメージを自分なりに感じました。それは、

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の1シーンに似ている。

つまり、

*半端じゃない圧倒的なパワーの手から垂れた糸につかまって、ぶら下っているヒト

というイメージです。

 芥川の短編にある前後のストーリーは無視してください。ただ、

*ヒトが細いの糸につかまって宙ぶらりん

という状況だけが肝心なところなのです。そんなイメージを膨らませていると、一方で、糸にぶら下っているのがヒトではなく、クモにも思えてきました。

*何かに引っ掛かった細い糸に宙ぶらりんとなって、空気の流れに身をまかせて揺れ動いているクモ

 クモは糸を出して巣を作ります。その巣を英語では web と言いますね。そうです。インターネット= Internet の net の親戚の WWW = World Wide Web のウェブです。あなたとこのブログの開設者を結んでいるネット=ウェブ。web には、「織物」という意味もありますね。「織物」と言えば、text =テクスト=テキスト、つまり書かれたもの。

*クモの巣= web =織物= text =テクスト=書かれたもの

とつながってしまいました。

 こじつけ=ダジャレ=言葉の遊び=「存在の大いなる連鎖」=でたらめ=でまかせ=偶然などと、何とでも呼んでください。

 クモをイメージした場合には、巣を

*かける

という能動的な表現もある一方で、風に飛ばされて、糸が引っ掛かる、つまり、

*かかる

という、受動的=風まかせ的=なりゆきまかせ的=身をゆだねる的な、言い方もできます。実際、そんなふうに風に飛ばされて「引越しをする」クモを見たことがあります。個人的には、その受動的なイメージが気に入っています。うん、

*宙ぶらりん

でいきましょう。

 これが「かく・かける」のコア・イメージ=核となるイメージです。

     *

 いろいろ書いてありましたが、個人的に興味があるのは、特に、マラルメがらみの、

*「書く・書ける」と「賭ける」

なのです。

 この問題については、またじっくり取り組むことにし、少しだけ話題を変えましょう。

「もらって嬉しいもの」の話です。「信号論(1)」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)でも触れましたね。病気以外なら、たいてい、何をもらっても嬉しいのではないかって話です。「もらう」というと、ふつう、具体的な「物」を思い浮かべませんか? 消費期限がある、生菓子に代表される「物」。スナック菓子みたいに比較的保存がきく、賞味期限がある「物」。

 これらはだいたいが食品ですが、電気製品のように保証期間が明記された、保証書付きの「物」。手作りの「物」。調度とも呼ばれる、家具や道具などの「物」。こうした「物たち」を、よその家の人や、身内からいただくということはよくあります。今、挙げた「物たち」の特徴は、

*手で触れたり、突いたり、場合よっては叩いたりできる

ということです。

 でも、「もらう」ものがすべて、そうかというと、どうやら、そうでもなさそうです。コドモの頃を思い出してください。小学校時代に、

*Oや◎

を、もらうのってとても嬉しかったですよね。

「よくできました」とか「たいへん、よくできました」なんて書いてあるスタンプを押して「もらう」のも、嬉しかったです。そのスタンプの延長上に、通知表の数字があります。5段階評価なら、「5、4、3、2、1」の順で、嬉しいとなります。もっとも、2や1だと、嬉しいというわけにはいかないかもしれませんけど。

「Oや◎」に、話をもどしますが、次のようなことを何かで読んだ記憶があります。確か、外国の小学校の話です。ある女性の先生が、児童のテストや宿題の「丸付け」をするさいに、赤インクではなく、青インクを使っていた。なぜなら、

*赤で「Xや/」のしるしを付けると、人の心を傷つける

からだ、というのです。

 正直言って、意外でした。なるほど、とは思いませんでした。あくまでも、個人的な感想です。みなさんは、今の話を読んで、どうお感じになりましたか? 赤のインクで記された「Xや/」を先生からもらって、それが単に「赤い」という理由で「グサッ」とか、「グサリ」とか、こころが傷ついた方は、いらっしゃいますか? 「うんうん、わかる、その気持ち」なんて、しきりに頷いている方がいても、驚きはしません。

 ただ、自分には意外な話でした。個人的には、色よりも、むしろ、大きく「Xや/」と描いてあったほうが、大きなショックを受けそうな気がします。絶対そうです。今、小学生にもどった気になって想像してみたら、実際に涙が出そうになりました。理屈より自分のからだを信じます。思いっきり大きな「Xや/」が描かれたテスト用紙や宿題帳が返ってきたら、きっと泣いちゃいます。「赤い」からではなく、「でかい」からです。

*しくしく ⇒ めそめそ ⇒ わーん!

でしょうね。

 それはそうと、青のインクやフェルトペンで描かれた「Oや◎」や「Xや/」って不気味じゃないですか? これも、個人的な感想ですけど、自分はそんなふうに感じます。もしかすると、現在のように、ピンク、薄めのグリーン、柔らかい色調のパステルカラーなどのボールペンや色鉛筆やフェルトペンがなかった時代の話だったからかもしれません。自分が、パステルカラーの水色で「Xや/」をもらったとしたら、強いショックを受けることはないのでは? と想像します。

 少々話がそれてきましたが、何を言いたいのかと申しますと、

*もらって嬉しいものとして、物体のほかに「印(しるし)」がある。

逆に言うと、

*もらって嬉しくないものとして、物体のほかに「印(しるし)」がある。

ということなのです。この理屈でいえば、お祝いや励ましの言葉、癒やしに満ちたメッセージなども、もらって嬉しいものだと言えます。逆に、悪態、罵倒、呪いの言葉などを、もらって嬉しくないことは言うまでもありません。

 で、ここでは、話が広がりすぎないように、あくまでも、

*何かの物体に、印した「印(しるし)」

に的を絞ります。

「印(しるし)」とは、もとはと言えば、尖ったもので引っ掻いた跡、筆で書かれたor描かれた墨の残りかす、染料や顔料の残りかす、乾いたインクの細かい粒、鋭いもので彫られたor刻まれた痕跡などであったりするわけで、「物体」とみなしてもいいわけですが、そこまで厳密には考えないでおきましょう。

*目で知覚できる痕跡

くらいに定義し、具体的には、

*ちょっとした「目じるし」から「文字」や「印鑑の跡or像or形」(※印鑑や判子そのものではありません)や「刻印されたものに映じる視覚的な像」

を指すものとします。つまり、視覚的イメージを重視します。

     *

 さて、言葉のフェティシストとしては、ここでまた、言葉=文字いじりがしたいです。短いものです。すみませんが、ちょっと、お付き合いください。

*しるし・印・標・徴・験・記し・著し

*しるす・印す・標す・記す・誌す・認す

*しるべ・標・導・知方

 以上です。

 3つめが上の2つと語源的に関係があるかどうかは不明ですが、楽問では、どうでもいいことです。上の言葉たちをながめていると、いろいろな考えやイメージが浮かんできます。それが楽しいのです。さて、さきほど定義したように、

*「印(しるし)」は「物体」ではなく、「視覚的イメージ=像=形」である。

とします。

「印(しるし)」のなかでも、日常的に使用され、しかも、きわめて重要な役割を担うものとしてハンコ=印鑑があります。このハンコについては、「あなたら、どうしますか?」と「やっぱり、ハンコは偉い」で、「表象」という考え方から詳細な分析をしていますので、ご興味のある方は、ぜひ、お読みください。もちろん、お読みにならなくても分かるように書きますので、安心してくださいね。

 で、ハンコの一種である「よくできました」というスタンプにしろ、赤インクの「○や◎」にしろ、通知表の上位の数字にしろ、なぜ、もらって嬉しいのでしょう? また、教室にある自分の机に「ばか」とか「あほ」と書かれた文字や、通知表の下位の数字や、赤インクの「Xや/」や「O(0点という意味です)」をもらうと、どうして嬉しくないのでしょう? たとえば、小学生時代にもどったつもりで考えてください。しょせん、「印(しるし)」です。数字です。文字です。なぜなのでしょう?

 きのうの記事で書いたばかりの文章なので、まことに恐縮ですが、どうしても必要なので、ここで以下にコピペさせてください。

(1)「表象」 : 「Aの代わりに「Aでないもの」を用いる」という代理=代行という働き=仕組みを利用したい場合に使用する。森羅万象が「表象」になり得る。

(2)「トリトメのない記号=まぼろし」or「記号」 : 「そっくりなものがずらりと並んでいる」and「そっくりなものが他の場所にも数多く存在する可能性がある」and「お母さんのコピーとして生まれたものの、お母さんの権威や支配とは無縁で、いわばコピーのコピーとして存在している」という特性を強調したい場合に使用する。森羅万象が「記号」になり得る。

(3)「ニュートラルな信号」or「匿名的な信号」or「信号」 : 「ノイズと熱が常に存在する環境において、「まなざし=合図」の発信と受信が、一方的、または双方的に行われる」というメカニズムを問題にしたい場合に用いる。森羅万象が「信号」になり得る。

 以上の(1)から(3)までが引用です。

「印(しるし)」をもらって嬉しかったり嬉しくなかったりするのは、「印(しるし)」が表象だからです。何の「表象」、つまり「代わり」なのかと言えば、成績、つまり、ある人のある時点でのある学科での出来具合であったり、ある人に対しての、おそらくクラスの誰かがいだいているネガティブな感情であったりするのです。同時に、「印(しるし)」は、「トリトメのない記号=まぼろし」であり、さらには「ニュートラルな信号」だとも考えられます。

「印(しるし)」を「記号」と考えた場合には、採点する先生は、学校の休み時間や、家での家事の合間に、せっせと赤ペンを走らせたり、その学期の各児童のテストの点数とにらめっこしたりして最終決断を下すという意味です。語弊があるかと思いますが、そっくりな製品を「流れ作業」で作るように、次々と採点し、次々と成績を決めるわけです。

 教師という仕事には、そうした単純作業の側面もあるのです。また、いじめっ子は、それなりに「流れ作業的」に、ある標的に対して「ばか」とか「あほ」とか書くという「仕事=作業」を終え、同じクラスメートに対して別の「仕事=作業」をするか、別のクラスメートを標的にして新たな「仕事=作業」に移るわけです。

「印(しるし)」を「信号」とみなす場合には、教師は、まさに曲線と直線から成る形を、ペンとインクという材料を用いて紙の上に記し=描いた形=像に、「成績」=「よくできましたねーorだめでしたねー」というメッセージを担わせたり、あるいは、偽装や偽造を防ぐために、5種類の数字のスタンプを、「通知表」と書かれた紙にポンポンと押していくのです。

 一方、いじめっ子は、標的のいない教室でこっそりと、または、他の児童の目などぜんぜん気にすることなく、にやにやしながら「ばか」なり「あほ」なりと、標的の机の上に、ボールペンか鉛筆かシャープペンで書くというわけです。「ばか」も「あほ」も、単なる曲線と直線からなる形であることは言うまでもありません。「信号」というレベル=「考え方」においては、その「信号」自体に意味やメッセージはありません。

     *

 以上、見てきたように、

*「表象」「記号」「信号」とは、森羅万象を対象とした「切り口」=「物の見方」である。

と考えていますので、たとえば、「印(しるし)」という対象を、3通りに切り分けることが可能です。この3つのツールを、その目的に即して使い分けることで、何かを説明するさいに、説明がしやすくなります。「かく・かける」というシリーズでも、今後、適宜に使い分けようと思います。

 これまでのブログ記事では、「表象」⇒「記号」⇒「信号」という具合に、3つのツールが支える形で、あるいは、生まれる形で、ブログのテーマの流れが形成されてきました。さきほどは、3通りのツールを用いて「印(しるし)」を説明してみましたが、今後の見通しとしては、

*「書く・書ける」と「賭ける」の係わり合い

という、以前から考え続けている、自分にとって非常に大きな問題をどういう「切り口」で書こうか、あるいは、どういうふうに「切り分け」ようか、迷っているところです。

 きょうは「かく・かける」という多義的=多層的な意味をもつ大和言葉系の言葉のうち、

*「書く」および「描く」と表記される「印(しるし)」

について考えてみました。

「書く」という行為を、考古学的および歴史的視点から論じることもできるでしょう。つまり、ピクトグラム(=絵文字)・トークン(=粘土製証票)・象形文字楔形文字・エジプトヒエログラフ(=聖刻文字or神聖文字)・漢字などに注目するわけです。

 でも、自分としては、そうした作業に関心はありません。歴史が苦手なのです。むしろ、「今、ここにある」ものに注目し、手もちの知識と情報で間に合わせるという、きわめて無精で横着な方法を取る癖が身についているのです。

*「素人だから」

と言えばそれまでですが、それを、

*「素人だからこそ」

に転じる、図々しさ=厚かましさ=鈍感さで、ゲイ・サイエンス=楽問=「楽しいお勉強ごっこ」していこうと思っています。

 あすこそは、「賭ける」について「書ける」といいなあ、と願を「かける」つもりです。マラルメ師のご降臨を、ひたすら待つのみという感じです。