かく・かける(3)-(4)

かく・かける(3)

 ポル・ポト(1928-1998)という人名を覚えていらっしゃるでしょうか? 1970年代後半にカンボジア共産党政権を樹立し、大粛清(だいしゅくせい)=大量虐殺の首謀者となった政治家です。仏印という古い言葉があります。かつてフランス領であったインドシナ3国、つまり、現在のベトナムカンボジアラオスを指します。フランスの植民地だったために、高齢者のなかにはフランス語を理解できる方々がいらっしゃいます。かつて、フランスへ留学した人たちも多数いたとのことです。その1人がポル・ポトでした。

 このブログでよく出てくるフランスの詩人ステファヌ・マラルメ(1842-1898)と、ポル・ポトの接点は、その留学にあります。留学時にマラルメの研究をしていたとかいないとか、そんな噂話を聞いた記憶があります(※「マラルメ ポル・ポト」あるいは「Mallarmé  Pol Pot」で検索するとその噂の出所らしきところが複数分かります)。かつて、自分が大学で文学を学んでいたころ、フランス文学の研究者に、旧フランス領の出身者が数多くいるという話を聞いたことがあります。

 自然の成り行きだと感じました。また、イランにも優秀な研究者が複数いるとも耳にした記憶があります。これは、少し意外に感じました。イランとフランスの関係についてはよく知りません。ただ、かつてイラン・イスラム共和国の最高指導者であったホメイニ師が、イラン革命の前に一時期亡命していた国がフランスなのです。なぜなのでしょうね。

 ふと思い出しましたが、1970年代前半に中国に亡命していたカンボジア国王、シアヌークが、旧宗主国フランスの言語を流暢(りゅうちょう)に話している様子を中高生のころに、よくテレビのニュースで見聞きしていました。シアヌークポル・ポトとの関係も、一筋縄ではいかない複雑なものがあります。

 歴史的経緯を見ていると、敵味方という単純な割り切り方ができません。シアヌークが、フランスではなく、共産党の支配する中国に亡命し、フランス語で世界に「信号」を送り続けていた様を、ブラウン管をとおして不思議に見ていた記憶がよみがえってきました。

 フランスへの亡命という話はよく見聞きします。例の「人民の人民による人民のための政治」(※このフレーズ中「人民の= of the people 」の翻訳には異論がありますね。 of を「所有格」と取るか「目的格」と取るか、なのですが、ここでは触れません)とそっくりなフレーズが、フランス共和国憲法の第1章「主権」の第2条にある「原理」としてあります。

 両者にまつわる歴史的経緯は知りません。また、植民地だった米国が、英国から独立した記念にフランスが「自由の女神像」を贈ったことは有名ですね。「基本的人権」という考え方を、言葉だけでなく、実行に移そうという仕組みが、国家のアイデンティティのレベルで働いているのかもしれません。

 思い出すのは、かつてアルゼンチンに軍事政権が樹立されたとき、多数の人たちがフランスへの亡命を認められました。そういえば、現仏大統領サルゴジ氏の父親は、ハンガリーの貴族の生まれで、ソ連赤軍から逃れる形でフランスに亡命したと聞きました。そうしたことを許容する土壌(どじょう)が、あの国にあるのでしょう。

 つい最近まで、東欧諸国は、事実上、旧ソ連の「植民地」でした。パリは、そうした土地からの追放者をはじめ、亡命者、移民、そして自発的な異郷生活者= exile (※一時期のヘミングウェイが好例です)であふれている都市だったし、今もそうであると聞きます。

     *

 このように、植民地政策をとっていたヨーロッパの国々のあらゆる面で、かつて植民地 or 半植民地として支配していた、あるいは、大きな影響力を及ぼしていた国や地域がらみの話は、枚挙にいとまがありません。つまり、支配する側と支配される側、そして「敵」と「味方」(※この対立は表面的なものでしかありませんが)とが、多面的=多層的にからみ合っているという意味です。

 当然と言えば当然の現象です。ただ、その係わり合いが理解しにくい。どうつながっているのかが分からない。予想外な結びつきを発見することがしょっちゅうある。そうした発見をするたびに、疑問をいだくと同時に、複雑な心境になります。このように国際情勢や国際問題をニュース記事という媒体をとおして見ていると、

*さまざまな「信号」がめくばせし合っている。第三者である自分には、そのめくばせの意味=メッセージが分からない。ひょっとすると、めくばせを送っている者たち自身にも分からないのではないか。

とさえ思えてきます。

 それくらい、世界は分からない。ネットにどっぷり浸かってニュースを追ってみても、どうなっているのかが分からない。経済とは、また違った意味で分からない。「信号」だらけなのに、分からない。「信号」だらけだから、分からないのかもしれない――。

 国家、文化圏、言語圏、民族、政治集団、宗教などといった、さまざまな要素が、ニュートラルな「信号」を、垢(あか)や汗や血やその他の体液や言語や思想・主義・宗教という言葉でいかに「汚そう」=「色づけしよう」とも、「信号」はあっけらかんとした表情をまとい、熱とノイズにさらされながら、ただ飛び交うだけ。言い換えれば、

*「ニュートラルな信号」たちは、この惑星の王者を決めこんでいるヒトのてんてこ舞いをあざ笑いもせずに、ただ「まばたきし」「めくばせ」するだけ。

です。

     *

 国際関係とか国際政治という分野がありますね。以前、一種の売文業をしていたころ、仕事に少し関係があり興味を持っていたのですが、現在は疎いです。でも、本や文献を通してですが、一時はいろいろ勉強しました。

 外交や交渉といった「ばかし合い」と「裏切り合い」、「インテリジェンス=諜報やエスピオナージ=スパイ活動」という名の「さぐり合い」と「違法行為・犯罪行為」。まさに「魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)。

 たとえば、交渉の現場では、各種の「信号」が飛び交います。めくばせ、ボディランゲージ、文書の文言、テーブルでの席順、私語、無駄話、トイレに立つ、突然の怒り、突然の笑い……。そうした一挙一動が「信号」になり得る。

 交渉期間中の会場以外での「信号」にも、注視しなければなりません。ホテルでの盗聴、盗撮なんて当たり前。ちょっと観光のつもりで、ホテルの近辺を歩いていたら、スリに遭った。美女 or 美男 or 子供が話しかけてきた。買い物をしたら、おつりに妙な硬貨が混じっていた。レストランで食事をしていたら、妙な味のサラダが出た……。といった感じです。四六時中、気を許すわけにはいかないのです。

 繰り返しますが、「信号」は、あくまでもニュートラルなものです。ある意味やメッセージが託されているかもしれませんが、その意味やメッセージが発信者の思惑通りの作用=効果=働きを発揮するかは、誰にも分かりません。

 国際関係・国際政治という大きな枠内でも、外交・交渉や、インテリジェンス=スパイ活動といったレベルでも、飛び交う「信号」は、ことごとく「解読」「読み」「判断」を裏切る。その意味では、

*「信号」に「正しい」「正しくない」、つまり「正解」「不正解」はない。

と言えそうです。

「信号」だと思った「こと・もの・さま」を相手に「解釈」を試みてもほとんどの場合、「無効」です。せいぜい、「勘違い」が「正解」に限りなく近い、上出来なパフォーマンス=成績=仕事ぶり。そんな感じらしいです。国際政治には、詳しくはありませんが、少しかじってみて、個人的にはそんな感想をいだきました。

     *

 どうして、こんな話を書いているのかと、不思議に思われるでしょう。実は、あるお方を待っているのです。ポル・ポトホメイニ師仏蘭西(フランス)という、意味ありげで、それでいて実は匿名的な「信号」を呼び寄せ、国と国、文化と文化といったテリトリーを「ニュートラルな信号」が易々と飛び越し、無化=無効化する様(さま)を思い出すことにより、

*偶然と必然との「間(=あいだ・あわい)」

そして、

*意味と無意味との「間(=あいだ・あわい)」

に成立しているであろう

*「何か」=「間(=あいだ・あわい)」

あるいは、「AとB」というフレーズの「間(=あいだ・あわい)」にある

*「と」=「間(=あいだ・あわい)」

としか呼ぶしかないものの持つ「匿名的でニュートラルなパワー」が訪れるのを待っているのです。あやういですね。それは百も承知なのですが、この儀式なしには、あのお方は訪れてくれそうもないのです。おふざけではありません。本気です。もう少し、お待ちください。

     *

「国際」という言葉の「際」は「間(=あいだ・あわい)」という意味と重なります。「間(=あいだ・あわい)」という言葉は、「関係=係わり合い」の「関」とも係わり合います。

*「さい=際=賽=賽子=骰子=さいころ=采」 ⇒ 「骰子一擲(とうしいってき)=サイコロの一振り」=「賭け」=「賭ける」=「詩作=思索=試作」

 以上は、おまじないみたいなものです。さいころが出ました。いや、「出した」と言うべきでしょう。やらせなのです。マラルメ師のさいころです。

マラルメのサイコロ

については、「ま~は、魔法の、ま~」、「なぜ、ケータイが」、「ケータイ依存症と唇」、「カジノ人間主義」で、いやというほど出てきます(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)。本人としては、せっぱ詰まった状況で、真剣にサイコロを振っているのですが、その性質上、どうしても、他人様の目からはおふざけに見えてしまうのです。いずれにせよ、

*「さい=際=賽=賽子=骰子=さいころ=采」 ⇒ 「骰子一擲(とうしいってき)=サイコロの一振り」=「賭け」=「賭ける」=「詩作=思索=試作」

は、

*めちゃくちゃなこじつけ

を行った結果としての、おまじないです。

 でも、この記事を書くためには、絶対に「欠かせない」ものです。これがなければ、「何か」の力が「書かせない」というほど、不可欠なものなのです。サイコロは、自分にとって、とても大切なものです。もし、サイコロを振る学問があれば、お勉強してみたいです。サイコロを勉強するのだから、

サイコロジー

となりそうですが、あいにく、その言葉は「予約済み」=「満室」状態です。 psychology (英)も psychologie (仏)も、ダメということです。

 じゃあ、賽学、骰学、采学? それはそうと、もう、「采(さい)は投げられた」のでしょうか。そうです。今は、ギャンブルをやっているのです。その「さい」ちゅうです。

 でも、お金はかけられていません。何をかけているのか。その答えを知るために、かけているのだと言っても、現在の状態を言い表すのに不正確な言い方だとは思いません。

     *

 話を少し飛ばします。

 さきほどの国際政治の話のなかで、インテリジェンスという言葉が出てきました。ちなみに、CIAのIは intelligence ですね。また、ITのIは information ですね。今挙げた2つの語は日本語では、

*「情報」

と訳す場合があります。「信号」という観点に立つと、この「符合(※ふごう)」を、「符号(※ふごう)」=「信号」=「しるし」として見ることになります。何やら、意味深に思えてきます。

*この符合=符号は、只事ではない。

という感じです。そもそも、

*符合

とは、割符(※わりふ)(=「しるし」を2つに割ったもの)の片割れ同士がぴったりと合うことから来ているそうです。要するに、2つのものが

*かみ合う ⇒ からみ合う ⇒ かかわり合う ⇒ くっつき合う ⇒ つながる ⇒ あう

というわけです。

 インテリジェンスでもインフォメーションでも、多種多様な「信号」がめくばせし合い、何かを引っ掛ける=ナンパしようとして、わくわくどきどきや、びくびくぴくぴくや、ぼけーっとしています。何を期待してめくばせし合っているのか? これから先へと目を向けて、何を懸けた=賭けたたうえで、何に懸けて=賭けているのか? 

 マラルメ師の気配を感じます。すぐ、そばにいるような気もすれば、遠くで見ている視線を感じているだけのような気もします(オカルトめいてきましたが、本人はそういう感じではないつもりなのですけど)。

 IとIとで、相合傘。とはいえ、Iと相と合と会と遭は「あった」としても、愛だけは絶対に「ない」だろうという予感があります。そもそもが、ポル・ポトホメイニ師との話から始まった記事です。その2人の名のもとに、どれだけ多くの人たちの命が失われたことか。

 実に、きな臭く生臭い=腐臭に満ちた固有名詞ではないでしょうか。両者の間(=あいだ・あわい)に仏蘭西=フランスという国名で「符合」があったとしても、それは「不幸」と「不合=不仕合せ」の別称=蔑称でしかないのでないでしょうか。

     *

 かなりシリアスな問題を、きっとおふざけだと取られそうな文章でつづり、さまざまな「ニュートラルな信号」を散りばめ、その「信号」たちの交し合う「めくばせ=合図」に目を向けてみたものの、あの人、いや、あの固有名詞が訪れる気配は、まことに頼りなげな「しるし」として「知るし」かない。ここに登場させた、

*「信号=符号」たちの「符合」は、仕組まれた「必然」= necessity =「必要性」なのか、奇しくも表れた=現れた=顕れた、「偶然」= accident =「事故」なのか?

 それを「知る」ためには、

*「やらせ」を試みることで、「やらせ」=「必然と偶然の間(=あいだ・あわい)」を引き寄せる=引っ掛ける=ナンパする。

 これしかない。そんな気がします。

かく・かける(4)

 前々回の記事「かく・かける(2)」で、

*「かく・かける」のコア・イメージ(=中心となるイメージ)は、「宙ぶらりん」である。

という意味のことを書きました。

 あれから、いろいろ考えてみたのですが、自分という一匹のヒトのはしくれが「宙ぶらりん」であるせいか、ヒトあるいは人類という存在自体が「宙ぶらりん」であるように思えてならなくなりました。

「わたしは宙ぶらりんなんかではない。まして、人間は宙ぶらりんな存在では決してない」。そんなふうに、憤(いきどお)りを覚え、お気を悪くされた方には、深くお詫び申し上げます。単なる愚者 or 狂人の戯言だと思って(※思うどころか、実際、そうみたいなのです)、以下の文章をお読みください。

 前回の記事「かく・かける(3)」では、

*「印(=しるし)」は「物体」ではなく、「視覚的イメージ=像=形」である。

とも書きました。

 言い換えると、「ニュートラルな信号」という意味です。

*その「ニュートラルな信号」が、メッセージを担った「合図=めくばせ」であったり、

*そっくりな仲間たちとともに、あちこちに存在する「トリトメのない記号」であったり、

*それ自身ではない、何かの代わりとして存在する「表象」であったりする。

という話もしました。

 たった今、「書きました」「言い換えると」「話もしました」と「述べました」が、実際には、パソコンのキーボードのキーを叩くという形で、「書いている」わけです。

 ただし、現時点において、「書く」という作業は、多様な形で存在しています。歴史が苦手な自分は、やたら、「太古」とか、「大昔」とか、あいまいな表現を用いますが、その「太古」や「大昔」にヒトは、おそらく、「引っ掻く」「傷つける」「削る」「彫る」「並べる」「塗る」「貼り付ける」といった工作で用いる作業や動作で、「書く」という「行為」をおこなっていたものと想像できます。それは「描く・かく・えがく」「印す・しるす」と大差なくおこなわれていたものとも、考えられます。

 そして、現在では、上で挙げた作業=動作に加えて、たとえば、キーを

*叩く or 押す

あるいは、液晶画面に

*触る or 押す

という形で「書く」という作業をおこなっています。ある種の障害者向けに、画面に

*目線=視線=まなざしを、向ける=置く=据える

という形で「書く」作業を可能にしている機器があるらしいことも、知りました。また、スピーカーに向かって、

*話す

ことにより、文字を「書く」ことができることは、もう常識になりつつあります。もっと、ほかの形態もあるでしょうが、思いつきません。

     *

 以上が、現在の「書く」なのです。特に過去10~20年間の科学技術の発展は、「書く」と「文字」の形を飛躍的に広げました。これから先も、その範囲はさらに拡大するでしょう。とはいうものの、基本は、

*しるす・しるし

ではないかと思っています。

「しるす・しるし」の語源は、手元の辞書を引いても分かりません。こういう場合、きのうも書いたように、素人は、素人であるからこそ、かっこうをつけたり、気兼ねをすることなく、

*「今、ここにある」ものに注目し、手もちの知識と情報で間に合わせる

という方法も取れるわけです。

 気取っていえば、クロード・レヴィ=ストロース「印」の「ブリコラージュ」もどき。これって、カーネル・サンダースおじさん手製のフライド・チキンっていうのと、似た響きがありませんか? ブランド(=商「標」=焼「印」=烙「印」)ぽいという意味です。ちなみに、レヴィ=ストロースという、フランス式の発音を英語風に言えば、リーバイ・ストラウス、つまりリーバイスという商「標」をもつ会社名=創業者名になります。ユダヤ系です。

 いずれにせよ、もちろん、ほかの選択肢もありそうですが、身の程をわきまえ、無精者は無精なやり方で楽問します。「正しい vs. 正しくない」ごっこを職業としているわけではないので、「正しくなくていいんだよ」 or 「正しくなくていいじゃんか」のスタンスでいく、という意味です。

     *

 で、思ったのですが、辞書で「しるす・しるし」のあたりを見ていたら、「しる・知る・領る・痴る・汁」なんていうものもあって、そのうちの

*「しる・知る・領る」

に言い知れぬ魅力を感じ、その項を読み耽っているうちに、糟汁(かすじる)を口にしただけで足元がふらつくほどの下戸(げこ)である自分が、その魅力に酔い痴れてしまったのです。あとは推して知るべし。神のみぞ知る。知らぬが仏。Don't be silly. = silly + ass = serious【「なぜ、ケータイが」(安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)からの自己パクリです】というわけで、マジで、

*「これって、もしかして、つながっているのとちゃうか」

と思い込んでしまったのでした。

 どういうことかと申しますと、辞書によれば、

*かつて、「しる・知る・領る」とは、何かを目にしたときに、「これは全部、わたしのものだ。わたしにまかせとき」と主張する、という意味だった。

ようなのです。

 実に欲深くてジコチュー。いかにもヒトらしい。人間らしい。ヒューマン(human)かつヒューメイン(humane)。

 この発見=見解には、少々、不満(「ふまん」)はあるが、犬のフンを「踏まねー」でも済みそうだ。こりゃあ、ウンがいいワイ。ハウ・ラッキー・アイ・アム!=ワイはなんてウンがいいんや。きっとそうだ。そうにちがいない。間違いない。言えてる。言えすぎ。上杉謙信。お家(うち)はやっぱり杉(すぎ)で建てるといい(※このあたりは、真剣に読んだり、深読みなさらないでください、ただ景気づけをしているだけなのです)。

 簡単に申しますと、「ワイ=私=わたくし」ならぬ、ワンちゃんやネコちゃんの

*マーキング行動

を思い出したのです。

*おしっこ(しる=汁)をかける(=「かける」)

ことで、「ここは、わたしのテリトリー」と主張=意思表示する。ネコちゃんの場合には、おしっこ(=「かける」)以外に、あちこち、

*「引っ掻く」=「かく」

こともあります。いずれにせよ、「おしっこ」が出てくるくらいだから、辞書に「知る・領る・痴る」といっしょに並べてあった

*「汁」

も、つなげて、仲間に入れてやっても、罰は当たらないのではないか。そうすると、おやおや、ワラ・コインシデンス= What a coincidence! =「何という偶然であろうか!」。駄洒落を通り越して、ばればれのヤラセですね。牽強付会(けんきょうふかい)とも言いますよね。はい。

 で、念のために、

*マーク= mark

を英和辞典で調べてみたのです。

 図星でした。楽しみは独り占めしたくないので、みなさん、中型以上の辞典で、mark を引いて、そのいろいろな意味を斜め読みし、語源の部分にちょっとだけ目を通してみてください。やっぱり、ヒト=人間様も生き物のはしくれだったのです。文字通り、お里が「知れた」わけです。

     *

 ヒトは、

*テリトリーを持ちたがるし、いったん持ったと決めたなら、ぺぺっと唾をつけて、自分のものだという「しるし」をつけておきたい。

 どうやら、寡黙なマラルメ師は、そばにいるらしい。そんな気持ちになってまいりました。待った甲斐がありました。国際政治の話(「際」とは「間(=あいだ・あわい)」のことにほかなりません)で、道草=無駄話をしながら待った甲斐がありました。

 ダムみたいに無駄ではなかったのです。『ゴドーを待ちながら』のように、デジャ・ヴュを伴う繰り返しのめまいを覚えながら「待った=舞った」甲斐がありました。

 そういえば、バイリンガル作家を余儀なくされたサミュエル・ベケットは、『ゴドーを待ちながら』を英仏両語で書いたという噂を思い出しました。 Waiting for Godot と En attendant Godot の間(=あいだ・あわい)には、何があるのでしょう? 

 また、前回の「かく・かける(3))」で出てきた(※いや、「出した」というべきでしょう、あれは「やらせ」を引き寄せるための「やらせ」だったのですから)、サイコロジー= psychology と、プシコロジ = psychologie との間(=あいだ・あわい)には、何があるのでしょう? 

 さらに言うなら、やはり「かく・かける(3))」で出した、 information と intelligence の間(=あいだ・あわい)には、何があるのでしょう? ちょっと見てみましょう。

*間(=あいだ・あわい)I ・i・ Y・ y ⇒ in ⇒ inter ⇒ inform ⇒ information

*間(=あいだ・あわい)I ・i・ Y・ y ⇒ in ⇒ inter ⇒ intelligent ⇒ intelligence

 ちなみに、Y y は、フランス語では「 i grec 」=イ・グレックと読み、「ギリシャ風の i」という意味です。「 I ・i 」(フランス語ではほぼ「イ」と発音しますね)と、 「 Y・ y 」との間(=あいだ・あわい)には、間(=あいだ・あわい)しか存在しません。なぜ、アルファベットに「イ」が2つ必要なのか、今も不思議です。

 日本語の表記で、「い・ゐ・イ・ヰ」「え・ゑ・エ・ヱ」「お・を・オ・ヲ」があるのと、似ていませんか? アルファベット同様、あいうえお表に今述べた文字のペアがある(ないのが普通ですけど)のは、やはり不思議です。たぶん、お勉強をすれば、その経緯は分かるのでしょうが、勉強嫌いなので、「不思議だな」にとどめておきます。

     *

 それは、さておき、上記の2つの*に連なる「間」に関する「ニュートラルな信号」たちが並ぶ必然性に似たものも、あるいは意味に似たものも、見せ「掛け」にしかすぎません。

 in は、中学1年生の教科書で出てくる単語です。「……の中に(で)、間に(で)」という意味になり得ます。その兄弟の inter は international (国「際」的な)でおなじみですが、その inter =「際」も、「……の中に(で)、間に(で)」という意味になり得ます。

 で、inform には「知らせる」という意味がありますね。だから、information には、「お知らせ・ご案内」=「知識」という語義もあります。一方の intelligence は、スパイ活動という意味の「情報=諜報」に加えて、AI= artificial intelligence =人工知能の「知能=知性」という語義もありますね。

 以上が、「しる・知る・領る」につながり、マーキングとテリトリーにとにからみ、「かく・引っ掻く・掻く・書く」という係わり合いを見せ、「かく・かける・掛ける」と手をつなぎ、「掛け」にまで来たという次第です。

     *

 誰かに頼まれたわけでもないのに、わざわざ律儀に、他人様から見れば「とちくるった」=「常軌を逸した」文章を、解説し弁解しているのは、性分でしょうか。ポル・ポトから始まり、国際関係・国際政治についてのくだくだした話に移り、途中で妙なことを書き出した、あんな紛らわしい文章は、適当に書き改めるなり、削除するなりして、肝心のところだけを記事にしておけばいいのかもしれません。

 でも、自分にとっては、あのお待ちする「儀式」の過程こそが大切なのです。削除すると、言霊が怖いという気持ちも、正直申しまして多分にあります。でも、あの文章は、ここまで来るのに絶対に必要なものだったのです。

*必然なのか、偶然なのか

という、

*宙ぶらりんな

問題=状況=事態を、「かけた・掛けた・懸けた・賭けた・書けた」「欠くこと・書くこと」ができない文章なのです。

 問題は深刻です。少なくとも、自分にとってはマジで深刻なのです。その問題=状況=事態を、「掛け」=「賭け」と言葉にしたところで、何の意味もありません。このブログに書かれている言葉たちと、その書き手の「あやうさ」を、万が一(※たぶん、そんなことはないだろう、とは思いますが)、気に「懸けて」いらっしゃる方のために、以上、とりあえず記しておきます。ややこしいと思われた方は、お忘れになってください。

     *

 さて、ちょっとシリアス( serious )な感じになってしまったので、少々 silly + ass 気味に「軌道修正=シンコペーション」します。

★あすこそは、「賭ける」について「書ける」といいなあ、と願を「かける」つもりです。マラルメ師のご降臨を、ひたすら待つのみという感じです。

と、前回の記事の最後に書いただけのことはありました。

 実は、今回の記事を「書く」ことは、「賭け」だったのです。まったくの「でまかせしゅぎじっこうちゅう」だったのです。ちなみに、「でまかせしゅぎじっこうちゅう」は、かつて短期間やっていたブログタイトルです。日テレの「笑点」的内輪受けギャグになって、申し訳ありません。

 で、「書く」と「印す」については、何とか「書けた」のですが、肝心の「賭け・賭ける」について、「書ける」状態にある兆(きざ)し=「しるし・印・標・徴・験・記し・著し」はありません。さきほど、リーバイスKFCの話あたりで、ちょこっと出た=漏れたくらいです。でも、

*必然と偶然について思索=詩作=試作を重ねた

マラルメ師がそばにいる気配がする以上、このまま「でまかせしゅぎじっこうちゅう」を続ければ、

*何とかなる

という気もしないわけではありません。

 ですので、書き続けてみます。そこで「賭ける」を辞書で調べていたところ、「『掛ける』を見よ」みたいな、素っ気ない記述があり、指示に従ってある項目を読んでみたところ、たいした収穫はありませんでした。

 トートロジーというんですか? 「AはAだからAなのよ、わかったかしら」みたいな感じで、テキトーにあしらわれてしまいました。でも、テキトーは嫌いじゃないので、イヤーな気分になることはありませんでした。むしろ、言葉に関しては、テキトーがトーゼンだと、あらためて痛感=納得しました。

 辞書、特に国語辞典って、そういうテキトーな記述が多いですよね。調べたい言葉の意味の説明というより、調べたい語をちょっとだけ言い換えてあるだけだったり、「○○を見よ or 参照」とか書いてあって、馬鹿正直にその「○○」を見る or 参照すると、ほぼ同じ言葉が書いてあるだけ。そういう失望を何度か味わうと、辞書なんて、もう引きたくなくなります。ですから、辞書を引きたくない、と言う人たちの気持ちは、よく分かります。

 ところで、この失望感は、トイレの落書きで受けるがっかり感に似ていませんか? どういうことかと申しますと、エッチな落書きではなくて、トイレの個室に入って用を足していると、目の前の壁に「右を見よ⇒」とあるのです。そこで、馬鹿正直に右の壁を見ると「後ろを見よ」と書いてあるんです。

 え、何だろう? 用を足しながらの不自由さにもめげず、好奇心に負けてわざわざ後ろの壁を見てみると、「ばーか」と同じ筆跡で書いてあってこころが傷つく……。こういうたちの悪いいたずらに、小学生のころ一度引っ掛かったことがありました。いや、三度でした……。あのときのがっかり感=失望感と、粗悪な国語辞典の「○○を見よ or 参照」が酷似=激似だと言いたいのです。要するにヒトを馬鹿にしているんですよ。プンプン。

 話をもどしますね。

     *

 で、「賭ける」については、宙ぶらりんな状態に置かれてしまいました。

 むっ、……。

 出ました。というか、もよおしてまいりました。マラルメ師の気配を感じます。宙ぶらりん、と言えば、「あれ」ではないか――。さっそく、きのうの記事から「あれ」、つまり大切な部分を自己輸血=コピペさせてください。

 というわけで以下は引用です。

*かかる

という、受動的=風まかせ的=なりゆきまかせ的=身をゆだねる的な、言い方もできます。実際、そんなふうに風に飛ばされて「引越しをする」クモを見たことがあります。個人的には、その受動的なイメージが気に入っています。うん、

*宙ぶらりん

でいきましょう。これが「かく・かける」のコア・イメージです。

 以上が引用でした。

 そうでした。もう、きのう、ヒントが用意されていたのです。これを必然と呼ぼうと、偶然と呼ぼうと、やらせ=出来レースと呼ぼうと、どうでもいいことです。肝心なのは、

*「賭ける」とは「宙ぶらりん」である。

だけです。

 ちょっと想像力を働かせてみましょう。あるいは、実際に、洗濯ロープか何かを、高いところにある釘のようなものに引っ掛ける。いや、これだと首吊りを連想させてヤバいですので、やめましょう。それより、単に、椅子に腰かけて、椅子の脚を部分的に浮かせてみてもいいでしょう。宙ぶらりん状態か、それに近い状態を作るのです。

 今、PCのそばで立ち上がって一本足で立ってみても、または、スマホを手にしたまま鳥さんのように一本足で立ってみても、

*ほぼ宙ぶらりん状態

を体験できます。できれば、つま先で立ちましょう。

*おっとっと。危ない。あやうい。やばい。やべー。マジヤベ。たよりない。よるべない。馬鹿みたい。あほちゃうか。こんなんでいいのかい? 助けてくれー!

 それが、「賭ける」なのです。というより、むしろ、

*「賭ける」の原点=原風景

なのです。

 体感できましたでしょうか? 何となくからだで感じれば、それでいいのです。理屈なんて、いざとなったら、役に立ちません。特に、「賭ける」においては、理屈は無力です。イ・ビョンホン主演の「オールイン」を見ていて、そう感じました(※あのドラマのビョンホン、かっこよかったです)。何しろ、

*半端じゃなく強い「何か」から垂れ下がった糸に、しがみ付いて=引っ掛かっての「宙ぶらりん」

なのですから。

 以上が原点=スタートライン=「位置について、よーい、ドン」です。「何だ、そんなことだったのか」とお思いになっている方々も、いらっしゃるにちがいありません。でも、「そんなこと」で済ませられる問題ではありません。

 この先、

*何に何をかけるか

は、あなた次第です。このあとが大切なのです。「何に何をかけるか」は、あくまでも個人の問題です。しかも、大問題です。ただし、原点だけは同じです。

*「宙ぶらりん」が原点だ

ということです。ヒトも、ヒト以外の生き物たちすべてにとっても、原点だけは同じです。

 ところで、ひょっとして、まだ、片足が宙に浮いたままでいらっしゃる、そこのあなたさま、ひっくり返らないように気をつけてください。