かく・かける(5)-(6)

かく・かける(5)

 英語やフランス語が、26の表音文字で表記されている、と考えると不思議な気持ちがします。たったこれだけで、あれだけのことが書けるのか、という不思議さです。日本語が、漢字+ひらがな+カタカナ+ローマ字で表記されているのも、摩訶不思議です。日々、体験しているはずなのに、よく考えるとどうなっているのか、さっぱり分からない。

 前者も後者も、言葉や理屈では分かった気になっても、それでは分かったと言えない、という感じがします。たとえば、英語やフランス語を母語とする人たちが、漢字+ひらがな+カタカナ+ローマ字で表記される日本語を想像するのは、至難の業(わざ)だと思います。

 その逆の場合も、そうでしょう。実際に、ある水準まで習得しないかぎり、「分かる」に近い感触を得るのは難しいのではないでしょうか。その「分かる」にも、いろいろなレベル=段階、あるいは側面があると考えられます。

     *

 複雑な文字変換を、PCという機械とワープロソフトという仕組みに代用してもらいながら、今、この記事を書いている自分の場合でも、

*漢字+ひらがな+カタカナ+ローマ字で表記される日本語

とは、どういうものなのかと問われると、言葉に詰まってしまいます。

 どう説明したらいいのか、見当もつきません。日本語をぜんぜん知らない人に、分かるように説明する自信がない、という意味です。ところで、日本語は、どれくらいの数の人たちによって使われているのでしょう? 

「使う」という広い言葉を用いると、いろいろなケースが想定されます。「読み、書き、話す」という動作=行動で分けてみると、その3種類の動作=行動がすべてできる人もいれば、事情があって2種類だけ、または1種類だけという人もいるでしょう。

 また、母語か、母語ではない、という分け方も可能です。バイリンガルや、トライリンガルや、それ以上の言語を、ほぼ同等に使える人たちも実際にいます。逆に、そういう人たちにまじりながら複数の言語のどれもが満足に使えない人もいます(※ちなみに、これは深刻な問題です)。

     *

 いつもの悪い癖で、話が広がりすぎました。話題を絞ります。ぎゅっとしぼって、きょうは「書く」こと、そのなかでも韻文=定型詩を書くことに話を限定します。マラルメというフランスの詩人の

*詩作=思索=試作

について、考えていることを書きたい思いがありますが、まだ煮詰まっていません。26の表音文字を用いて、さまざまな規則に沿って詩を書くという、英詩やフランスの詩について不案内である。これが最大の問題点なのですが、別にヨーロッパの言語の詩について専門的な研究をするつもりも能力もぜんぜんないわけで、

*ある制約のもとに何かについて書く

という行為のメカニズムを探ってみたいという、強い好奇心があるだけなのです。そのメカニズムについて深く考えをめぐらしたらしい、マラルメという人というより、

マラルメという固有名詞=言葉=信号を、媒介=シャーマン=巫女(みこ)として、自分のあたまとからだという磁場において、匿名的な言葉=ニュートラルな信号と戯れてみたい。

と願っているのです。困難な作業であるという強い予感があります。でも、やってみたいです。以前から、気になって仕方がないからです。

 この作業に近いことは、「カジノ人間主義」という記事で、1度試みました。記事のタイトルから想像がつくかもしれませんが、そこでも「賭ける」=ギャンブルと「書ける・書く」という言葉が、重要な役割を果たしました。必然と偶然についても触れています。

 あの問題を、もっと深く掘り下げてみたいです。でも、まだ、煮詰まっていません。というより、まだ、機が熟していないというか、マラルメというシャーマンが近くに感じられないのです。オカルトめいた言い方になりましたが、そんな感じです。

 きのうは、一時的ですが近くに、その気配を感じました。この「かく・かける」シリーズでは、「かく・かける(3)」と「かく・かける(4)」という具合に続けて、「書ける・賭ける」について、ちょっとややこしい記事を2本続けて書きました。お読みになった方は、そのダジャレ=こじつけの多さにうんざりなさったことでしょう。申し訳ありません。

 あのようにしか、あのテーマを書く方法を思いつかなかったのです。その結果「書けた」=「賭けた」のが、前回の記事です。書いた後は、ぐったりしていました。

     *

 今回は、日本における韻文=「定型詩・短歌・俳句」に話を限定しようと思います。前回に書いたことを、日本の韻文に当てはめて、なるべく具体的に、分かりやすく書こうと努力しますので、どうかお付き合いを願います。きのうは、話を広げすぎたと反省しています。そこで話を絞ろうとしているのですが、

*詩作=思索=試作

という点では、日本語とフランス語との違いを超えて、共通する部分について考えることもできそうな気がします。

 というわけで、韻文です。韻文の反対は、散文と呼ばれていますね。あまり使われていない言葉です。散文とは、要するに普通の文。たとえば、このブログの記事も、散文のはしくれです。

 一方の、韻文とは、さきほど述べたように、「定型詩・短歌・俳句」を指します。まず、短い俳句なんかを例にとれば、分かりやすいのではないかと思います。俳句にも、流派みたいなものがあり、比較的自由なものもあれば、厳密さを要するものもあります。ここでは、

*5・7・5の音=音節(=拍=モーラ)から成る短い詩

くらいのゆるやかな定義をし、季語、切れなどは考慮に入れないことにします。これだけでも、立派な定型です。定型とは、約束事=規則=「おきて」=ルールです。

*規則とは、自由ではない

という意味にも取れます。「何でもあり」の定型詩なんて、あるわけがありません。

*規則で縛ることにより、ある種の緊張感と規律を保ち、同時に余韻や響きを持たせる

わけです。

     *

 ここで、前回までの記事で盛んに用いていた言葉を持ち出します。

*宙ぶらりん

です。

*「ち・ゅ・う・ぶ・ら・り・ん」

かろうじて7音になりそうですが、そうではなく、次のような細かい規則があります。

「ちゃ・ちゅ・ちょ」といった拗音(ようおん)は、それで1音と数え、「はっぱ」の「はっ」といった促音(そくおん)は2音、つまり「はっぱ」は3音と数える。また、「ノート」であれば、長音の「ー」は1音と数えますから、全部で3音となり、「ん」という撥音(はつおん)も1音に数えるらしいです。

 こういう音節の扱い方は、「モーラ」というそうです。これで、だいたいのところは網羅(もうら)されたと思います。以上は、まさに規則です。したがって、

*「ちゅ・う・ぶ・ら・り・ん」(6音)

 宙ぶらりんが、1音足りずに宙ぶらりんになってしまいますが、「てにをは」を付ければ、「宙ぶらりん」も俳句のなかで何とか詠めそうです。一句浮かびました。

マラルメと ちゅうぶらりんで がちんこか

という具合です。なんのこっちゃ? とても、読めたものじゃありませんけど、とにかく詠めました。

     *

 こうやって、ある規則のもとに、言葉を組み合わせて、意味のあるフレーズを作っていく作業が定型詩=韻文なわけです。この作業=動作=身ぶり=運動を見たり、実際に体験してみると、

*偶然

というものに支配されている自分を感じます。偶然とは、

*必然

と対を成して使われることが多い言葉です。

*偶然性・必然性

と手を加えると、また違った趣(おもむき)を感じませんか? 個人的な感想を申しますと、ちょっと、気取ったような感じがします。こういう細部が、言葉では大切です。特に、俳句のような短い詩では、1音、あるいは1語を変えたり、ずらしたりすることで、趣ががらりと変わることがよくありますね。

*偶然性と必然性とに支えられて、匿名的であるはずの言葉の、意味と無意味とが立ち現れる。

 さて、たった今、上のセンテンスを書きましたが、実は、いわば

*「でまかせ」

で言葉をつづりました。「でまかせ」というと「テキトー」「いい加減」「でたらめ」「たわごと」「支離滅裂」「めちゃくちゃ」などの親戚ですから、響きは悪いです。ネガティブなイメージがある言葉です。

 でも、正直申しまして、自分が他人様に対し、何かを「話す」なり「書く」さいには、多分に「でまかせ」で話し書いていますと、ここで白状いたします。「でまかせ」とは、文字通り、

*「出るに任せる」

ことです。自分は「でまかせ」を悪い意味で取ってはいません。この言葉を使うことに抵抗は感じません。ただ、他人様には聞こえが悪いだろうな、という気持ちはあります。両義的=アンビバレントな感情というやつです。ここまで、話したので、さらに白状いたしますと、特に自分が書く場合には、「でまかせ」に「こじつけ」が加わります。その結果として、

*ダジャレ=オヤジギャグだらけの文章

をよく書くことになります。

 ダジャレはアートであり、芸(=げい・ゲイ)であるとさえ、思うことがあります。マジです。ゲイ・サイエンス=楽問=「楽しいお勉強ごっこ」があるなら、

*ゲイ・アート=楽術=「楽しい言葉の曲芸(=アクロバット)」

があってもいいのではないかと、考えたこともあります。

 でも、しょせん、ダジャレは駄洒落です。とはいえ、ものは言いようでして、

*比喩を多用した文体

と書けば、いくぶん響きがよくなります。かつてジャズが好きな時期がありました。ジャズのどこがいいのかというと、

*即興性=アドリブ

です。

 これも、広義の「でまかせ」「こじつけ」だと信じています。何か、こうしたものに惹かれるのは、「体系的・論理的・終始一貫・筋道を立てる」ということが大の苦手で「直観・直感・飛躍・勘」に頼って、考えるというか、思うというか、空想するというか、妄想するタイプだからかもしれません。

 このブログを読んでいる方は、それを実感なさっていることと存じます。お恥ずかしい限りです。

 で、俳句ですが、これは、「でまかせ」と「こじつけ」にはぴったりの韻文=定型詩ではないかと思うのです。なぜかと申しますと、俳句について調べていて、その起源が、

連歌(れんが)

および

俳諧(はいかい)

というものらしいと知ったからです。連歌俳諧について調べていて、感じたのは、

連歌俳諧は、テキトー=でまかせ=こじつけ=いかがわしい=わけわかんない=ふかかい=みだら、だった。

らしいということです。なにしろ、かつて、

連歌は、「付合(つけあい)」=「ほぼくっつけ合い」と称して、5・7・5や7・7を用いての、複数人物による乱行=乱交=オージー、および夜這い=野合であった(俳句のように、言葉を相手に、「宙ぶらりん」のヒト1人で「くっつけ合い」をするのも大変なのに、複数でやるなんて、すごすぎます)。

また、

俳諧は、5・7・5・7・7の和歌の形式を用いた、おふざけ=お笑い=ジョーダン=ジャスト・ジョーク=「えへへ」=「うふふ」=「くすくす」=「あら、いやだあ」=「深夜はいかい・よばい・やばい・まちがいない」=「何だ、これ?」=「ん?」であった(※ここに、俳句に感じられる、シュール=不条理=ナンセンス=ノンセンスの萌芽があるのかもしれません)。

らしいのです。そう勝手に感じただけですので、あくまでも「らしい」としておきます。「らしい」にしても、それを知って嬉しかったです。さらに嬉しかったのは、前々回の「かく・かける(3)」で、マラルメ師を待つまでに、うじうじぐずぐずしていたときに「でまかせで出てきた」=「やらせで出した」、

*この符合=符号は、只事ではない。

と、

*「信号=符号」たちの「符合」は、仕組まれた「必然」= necessity =「必要性」なのか、奇しくも表れた=現れた=顕れた、「偶然」= accident =「事故」なのか?

というフレーズを、ついさきほどぼんやりと読み返していて、そのなかにあった「符合」という言葉を目にしてデジャ・ヴュを覚え、ありゃ、

*「符合(※ふごう)」と「付合(※つけあい)」は、激似である。

と感じたことです。こうなると、

*この符合(※ふごう)=符号(※ふごう)=付合(※つけあい)は、只事ではない。

と言うしかありません。やっぱり、マラルメ師が見守っていてくれているにちがいありません。

     *

 少々、うろたえています。きょうは、これから家事と親の介護をしながら、この

*符合(ふごう)=符号(ふごう)=付合(つけあい)

について、しばらく考えてみます。次回は、このあたりの不思議さについて、「不思議さを解明しよう」などという気持ちも意気込みも毛ほどもありませんが、いちおう、「こんなふうに不思議です」という感じで、不思議さを整理してみる予定です。

 なお、素人が、本当のことを知ろうともせず、玄人の苦労を反故にするような形で、俳句や連歌について書きなぐりましたことに対し、玄人およびほぼ玄人、並びに、この道の通を自任なさっている方々にお詫び申し上げます。

 事実誤認のご指摘は、馬の耳に念仏、いや、蛙の面に小便で、もったいなく存じますので、ご辞退申し上げます。上の空に秋の空。このブログは、正しい、正しくないごっことは無縁でございます。

 ないないに ないものねだる ないないばぁ

 失礼いたしました。

かく・かける(6)

「いないいないばあ」という、赤ちゃんを対象にした遊びがあります。ヨーロッパにも、あるらしく、フロイトも、fort/da というドイツ語の、この遊びに注目しました。fort (あっち=あれぇ!?=去って=いない)/da (ここに=ほら!=いる=ばあ)、という感じでしょうか。

 本で読んだ覚えはありますが、フロイトがどういうふうに考えていたのかは、忘れました。個人的には、フロイトが、あの遊びに注目したということを、知っただけで十分でした。

 パリ・フロイト派だの、フロイト大義派だのという「言葉=レッテル=ラベル=レーベル」がまつわりついている、ジャック・ラカンが考えていたらしきことには、とても興味がありますが、ラカンは、ジャック・デリダ同様に「ダジャレ」=「比喩の多用」の名人=迷人ですから、フランス語から日本語に翻訳するのは無理でしょう。読んでも大儀なだけです。良心的で丁寧な解説書(今あたまにあるのは、ラカンの解説書ではありませんが、豊崎光一による、ドゥルーズ=ガタリリゾーム・・・序』、『余白とその余白または幹のない接木』(デリダ論)、『砂の顔』(フーコー論)です)を読んだほうが、ましだと思っていますが、現在では、あいにくその方面に疎くて、解説書にもめぐりあっていません。

 とはいえ、

「いないないばあ」は、「いないない/ばあ」と分けることができそうです。すると、

*「いないない/ばあ」=「□/■」=「0/1」=「無意味/有意味」=「偶然性/必然性」=「不条理/条理」=「無/有」=「ノンセンス(ナンセンス)/センス」=「志向or指向/無方向」……

といった2項対立を連想してしまいます。

 2項対立は、すっきりしすぎていて=きれいすぎて=話ができすぎていて、実に、あやしい=いかがわしい=うたがわしい=うさんくさい感じがします。えっ? 「うさんくさいのは、おまえだろう」ですか? 確かにそうだと思います。返す言葉がありませんので、話を変えます。

     *

 とは言いながら、似たような話を続けますが、前回の「かく・かける(5)」では、

*符合=符号=付合

という、個人的には只事ではない=話ができすぎている=うさんくさい事態に遭遇しまして、うろたえてしまい、記事を書いたのちにも、トリトメのないことをいろいろ考えていました。そこで、今回は、きのうテーマにすることになっていて、中途半端な扱いで終わってしまった、

*俳句

について、ふたたび考えてみます。

 5・7・5という音(=音節=モーラ)という枠=規則=約束事に当てはまるように、いくつあるかも知れない日本語の言葉たちを組み合わせる。簡略化すると、俳句とはそういう「遊び」= game です。game と gamble が語源的に関係あるとかいう、あやしい話をあやしいなりに、とりあえず受けとめてみるのも、面白そうです。これを日本語に「かけて」みると、

*遊び・遊ぶ=賭け・賭ける=書け・書く=掛け・掛ける

という感じになります。

 ここで、これまでブログ上でいろいろな言葉たちと戯れた結果として生じた「痕跡=引っ掻いた跡=引っ掻き傷」を、整理してみたくなりました。現在は、コピーペーストという、とても便利で有り難い方法があります。さっそく、そのコピペを駆使して、これまで書いた複数の記事をもとに「考えるためのヒント=カンニングペーパーもどき」の図というか、リストを作ってみます。

 一部、いや、多くの方々にとっては、うんざりするようなものになりそうなので、ざあーっと、斜め読みするだけで結構ですので、お目をお通しください。

A:森羅万象である、「表象」たち or 「トリトメのない記号=まぼろし」たち or 「ニュートラルな信号」たちの「間(=ま・あいだ・あわい)」

「ま・魔・間」

「中・宙・柱・仲・躊・紐」

「うつお・空・殻」

「さい・際・賽・采」

「さい・さいころ・賽子・骰子」

「偶然・偶然性」

「魔界・空間・時空」

「無意味・不条理・無」

    ↓

B:「しるし・印・標・徴・験・記し・著し」

「しる・知る・領る・痴る・汁」

「しるす・印す・標す・記す・誌す・認す」

「マーキング・おしっこをかける・唾をつける」

「しるべ・標・導・知方」

「知・知覚・認識」

想像界・幻想」

    ↓

C:「わかる・分かる・別る・解る・判る」

「分・分別・分解・分離・分析・分類・部分・身分・分際・区分・分割・分配・分譲・分担」

「別・特別・格別・別格・区別・判別・大別・差別・千差万別・識別・鑑別・別個・別記・個別」

「解・解体・分解・解剖・和解・溶解・融解・解放・解禁・解散・解消・解除・解決・理解・誤解・難解・不可解・氷解・解明・読解・明解・詳解・図解・解釈・見解・解説・解析・解答」

「判・判断・判別・判定・判明・判読・判決・裁判・審判・・批判・談判・評判・判子・血判」

    ↓

D:「かく・書く・描く・画く・掻く・欠く・掛く・懸く・繋く・構く・舁く・駆く」

「かける・掛ける・架ける・懸ける・賭ける・駆ける・駈ける・翔る」

「かかる・掛かる・懸かる・繋かる・架かる・罹る・皹る」

「かかり・係り・掛かり合う・掛り・繋り・懸り」

「かかわる・関わる・係わる・拘る」

「書・賭・掛・懸・掻」

    ↓

E:「テリトリー・縄張り・領土・地所・辞書・お山の大将的気持」

「地・自・字・辞・事・路」

「場・縄・壌・城・畳・杖・定・条・帖」

    ↓

F:「表象・代理・代行」

「かわる・変わる(※変る)・代わる(※代る)・替わる(※替る)・換わる(※換る)」

「変・変化・不変・変革・変容・変移・変質・変調・変転・変貌・豹変・激変・劇変・臨機応変・変装・変相・変速・変性・変成・変節・変心・変身・変遷・変更・変異・異変・凶変・地変・事変・政変・変幻・変種・変則・変体・変態・大変・変乱・変事・変換・変動」

「代・代理・交代・身代わり・代人・名代・代表・代行・総代・代官・代議士・代用・代書・代筆・代々・世代・時代・歴代・代償・身代・代金」

「替・交替・替え玉・身替わり・引き替え・引替え・引替・取り替え・取替え・取替・組み替え・組替え・組替・入れ替え・入替え・入替・言い替え・言替え・借り替え・借り替え・着替え・差し替え・差替え・替え歌・替歌・両替・為替・鞍替え・鞍替・付け替え・付替え・クラス替え・商売替え・国替え・国替・組織替え・吹き替え・吹替え・振り替え・振替え・振替」

「換・交換・換え玉・引き換え・引換え・引換・取り換え・取換え・取換・組み換え・組換え・組換・入れ換え・入換え・入換・言い換え・言換え・借り換え・借換え・借換・着換え・差し換え・差換え・置き換え・置換え・変換・転換・換気・乗り換え・乗換え・乗換・換言・換金・兌換・換算」

    │

G:「あう・合う・会う・逢う・遭う・遇う・和う・韲う・敢う・饗う・あうん・阿吽=阿呍・「あ・うん」・ああ・嗚呼・噫・あわれむ・哀れむ・憐れむ・憫れむ・あわれ・もののあわれ・あい・愛」

「あい・愛・会い・合い・遭い・逢い・遇い・間(※あい)・相・哀」

「愛し合う・合鍵・合印・合札・合図・相図・合言葉・合間・合いの手・間の手・合気道・合口がいい・隣り合わせ・意味合い・色合い・兼ね合い・筋合い・組み合わせ・知り合い・付き合い・絡み合い・立会い・立ち会い・立会・御立会い・立ち合い・折り合い・兼ね合い・張り合い・手合い・肌合い・釣り合い・お見合い・寄り合い・間合い・気合・具合・度合い・歩合・地合い・地合・谷あい・山間・山あい・幕間・幕あい・合い方・合口(※あいくち)・匕首・逢引・合挽き・相挽き・合びき・出来合い・果し合い・試合・泥仕合・合鴨・間鴨」

「相対(※あいたい)・相容れない・相呼応して・相携えて・相変わらず・相異なる・相通じる・相打ち・相客・相部屋・相性・合性・相棒・相方・相次ぐ・相づち・相槌・相手・相半ばする・相まって・相乗り・合い乗り・相合傘・相々傘・相打ち・相撃ち・相討ち・愛相・愛想」

「気が合う・通じ合う・話が合う・意見が合う・合口がいい・道理に合う・理屈に合う・落ち合う・巡り合う・折れ合う・話し合う・付き合う・取り合う・計算が合う・間に合う・向かい合う・目と目が合う・張り合う」

「行き会う・行き合う・出会う・出合う・席に立ち会う・死に目に会う」

「災難に遭う・事故に遭う・ひどい目に遭う・盗難に遭う・反対に遭う・反撃に遭う・にわか雨に遭う・地震に遭う・返り討ちに遭う」

「和える・あえる・和え物・あえ物・ごま和え・ごまあえ」

「哀れむ・憐れむ・哀れ・憐れ・物の哀れ・哀れみ・憐れみ・憫れみ」

「間狂言(※あいきょうげん)・間柄・山間・山あい・谷間・谷あい・この間・間の子・合いの子弁当・合服・間服・間の手・合いの手・相の手」

「あいさつ・挨拶・相俟って・敢えて・敢えず・愛する・愛し合う」

「合・会・遭・和・間・相・愛・哀・憐」

「合・合弁・合札・合成・合同・合図・合体・合判・合併・合点・合奏・合流・合致・合唱・合理・合掌・合意・合鍵・合議・化合・付合・会合・投合・併合・和合・架合(※かかりあい)・配合・混合・接合・符合・符号・組合・頃合・都合・場合・集合・統合・複合・総合・適合・調合・請合(※うけあい)・暗合・暗号・話合(※はなしあい)・縫合・融合・顔合(※かおあわせ)・意気投合」

「会・会心・会合・会同・会見・会席・会悟・会得・会釈・会話・会談・再会・社会・参会・協会・面会・宴会・都会・密会・集会・照会」

「遭・遭遇・遭逢・遭難」

「和・和平・和合・和気・和気藹々・和声・和睦・和解・和親・和韻・和議・不和・日和・日和見・中和・付和・付和雷同・平和・共和・協和・柔和・唱和・穏和・温和・調和・緩和・融和・講和」

「間・間人・間者・間使・間諜・間接・間道・間隙・間疎・間隔・間歇・間欠・人間・山間(※さんかん・やまあい)・仏間・広間・合間・中間・手間・世間・谷間(たにま・たにあい)・林間・雨間・空間・夜間・昼間・峡間(※きょうかん・はざま)・期間・時間・晴間・雲間・幕間・瞬間・隙間」

「相・相互・相生・相同・相当・相好・相似・相応・相伴・相対・相乗・相思・相克・相殺・相術・相場・相棒・相違・相続・相聞・相貌・相談・相撲・人相・悪相・形相・手相・世相・皮相・死相・色相・面相・骨相・家相・実相・真相・様相・滅相・瑞相」

「愛・愛人・愛好・愛用・愛惜・愛情・愛欲・愛着・愛想・愛憎・愛撫・愛護・仁愛・友愛・恋愛・情愛・偏愛・割愛・最愛・博愛・溺愛・慈愛・熱愛・親愛・寵愛・同性愛・異性愛・父性愛・母性愛」

「哀・哀心・哀史・哀哭・哀情・哀惜・哀悼・哀愁・哀歌・哀憫・哀憐・哀願・悲哀」

「憐・憐情・憐憫・可憐・哀憐」

    ↓

H:「理・必然性・法・業・因果・意味・条理・有意味・有・在」= 森羅万象の一部として、「表象」たち or 「トリトメのない記号=まぼろし」たち or 「ニュートラルな信号」たちになり得る

    ↓

  (A)

 じっと見てはいけませんよ。目に悪いです。特に、PCのモニターで見ていると、目が、しょぼしょぼします。軽いめまいも覚えます。実のところ、たった今、目薬をさしました。ちなみに、自前のスマホを持っていないので、スマホで自分のブログ記事を閲覧したことがありません。上のリストなんか、どんなふうに見えるのでしょう。やはりめまいを誘うのでしょうか。

 最初のAグループと、最後のHグループを見るだけでも、十分かと思います。上の図をみていると、不思議です。はあーっとため息が出ます。自分で書いておいて、ため息をついているなんて、馬鹿な話ですけど、とにかく不思議なのです。

 以前から、不思議だと思っていたことを、こうやって「チャート化=見える化」してみると、とりあえず、不思議さが整理されますが、整理されたところで、不思議であることは変わりません。

     *

 俳句に話をもどしましょう。俳句を詠む場合、まず、Aグループ状態になります。空(※くう)に目を向ける。ぼけーっとする。宙ぶらりんである自分という存在を、ぼんやりと意識する。そんな状態です。ただし、ただの「ぼけーっ」ではなく、空(※くう)=あるもの=俳句にする対象物に、めくばせをしている=視線を送っている=ナンパをしようとしている。わくわくどきどきもするでしょう。そして、

*(中略)=ややこしいことは抜き

として、Hに話を飛ばします。5・7・5という定型詩が出来上がる。めでたしめでたし、というわけです。しかし、個人的には、ここで、ぜひとも強調したいことがあります。

*作成された=詠まれた、5・7・5という定型詩=俳句は、現に物質としての言葉の連なり(=森羅万象の一部)として存在し、俳句の規則という理にかなった有意味なものであるかのように装っているが、同時に、無意味で匿名的な言葉の連なりとして、規則などとは無関係に、中身のない殻=空(※うつお・くう)を装って立ち現れてもいる。

という考え方です。

 もちろん、個人的な意見にしかすぎません。ほかにも、これと似たような考えをした、あるいはしている、人たちの気配は感じます。でも、気配なだけで、会ったことも、言葉を交わしたこともありません。自分は交際がきわめて薄いです。とはいうものの、そういう人たちと、

*めくばせを交し合ったとか、目と目が合ったとか、すれ違いさまに、わくわくどきどきしている様子を感じ合ったという強い実感と記憶

があります。

 否定しがたく、あります。書物やメディアやネットを通じての、抽象的なレベルでの具体的な話です。

 さきほどの、*「作成された=詠まれた……」で始まる文章について、あれはHからAへと逆戻りしたという意味か? と問われれば、たぶん、そうとも言えると思います、と答えます。でも、「逆戻り」にネガティブな響きを持たせるというなら、そうではないと、きっぱり否定します。

 よく考えてみてください。みなさんは、俳句を詠む場合、まずどうなさいますか? 今まで俳句を詠んだことのない人が、俳句を詠もうとするとき、5・7・5という規則だけをあたまに入れて、いきなり、森羅万象に目を向けるなんてことをするでしょうか? そのまえに、既存の俳句を読むだろうと思います。

*俳句は、いきなり詠むのではなく、まず読む。

のです。

     *

 和歌であっても、漢詩であっても、ヨーロッパの言語の定型詩でも、状況は同じだと思います。さらに言うなら、韻文だけでなく散文でも同じことが言えるような気がします。たとえば、基本的に何を書いてもいい、

*小説は、小説を読んでから書ける(=掛ける=賭ける)。

のです。

 話を一気に飛躍させますが、ヒトの赤ちゃんは、いきなり言葉をしゃべりません。

*赤ん坊は、話し言葉を聞いてから話すようになる。

のです。

 広い意味での「引用」という現象だとか、オリジナリティの不在=否定の問題だ、とも考えられるでしょう。ただ、今挙げた、俳句、和歌、ヨーロッパの言語の定型詩、散文、小説、ヒトの話し言葉に、おそらく共通して言えるのは、さきほど、上で、AグループからHグループに話を、性急に移し、簡略化して説明したさいに、

*(中略)=ややこしいことは抜き

とした部分、つまり、

*B → C → D → E → F ─ G

において、かなり込み入った状況が展開されているだろう、ということです。でも、ここではその問題には、触れないでおきましょう。まずは、大まかな話をしておきましょう。そのほうが、結果的に、こちらも説明しやすいですし、みなさんにも分かりやすいと思います。

     *

 ここで、少し道草をしませんか。

 吉田戦車という漫画家の作品をご覧になったことがありますか? 個人的には、ちょっとだけ好きです。数ページ読むだけで、もう十分だと言えば、ファンの方々に叱られそうですが、そんな感じです。

 昔、不条理演劇というお芝居が流行りました。前々回の「かく・かける(4)」で触れたサミュエル・ベケットのほかには、ウジェーヌ・イヨネスコやハロルド・ピンターという固有名詞があたまに浮かびます。

 正直な感想を申しますと、「わけのわかんない」お芝居です。その意味では、このブログに似ていると言えそうです。いや、ベケットさんたちに失礼ですので、前言撤回します。ただ、言霊が怖いので、文言を削除はしませんけど……。

 で、その不条理演劇ですが、そうですねー、5分から10分見て途中で帰るだけで、自分には十分です。その意味では、自分にとっての能や歌舞伎に似ています。愛好者の方、こんな暴言=妄言を書いて、ごめんなさい。根がアホなのです。野暮で無粋なのです。許してください。

 無粋な自分には、松鶴家千とせ(=しょかくや・ちとせ)師匠の「わっかるかなー、わかんねえだろうな、イエーイ」のほうが合っていて、昔、テレビで食い入るように見ていました。

 以上挙げたような漫画やお芝居や漫談を、よく「シュール」だとか言いますね。シュールレアリズム(=非現実的でわけがわからない)の略らしいです。同じような趣の作品や芸を、「不条理」「ナンセンス=ノンセンス」とも言う人がいます。「不条理」は、欧米で「不条理演劇」とか「不条理文学」と呼ばれるものが流行したときに、「 absurd 」(英語)「 absurde 」(仏語)経由で、古くから日本語にあった言葉が光を浴びた、という経緯がみとめられます。

 で、個人的に注目したいのが、

*ナンセンス=ノンセンス= nonsense

です。このナンセンス=ノンセンス関連の本として、かつて、高山宏氏から、高橋康也氏の『エクスタシーの系譜』『サミュエル・ベケット』、そして、種村季弘氏の『ナンセンス詩人の肖像』を名著だから、と言って薦められて買い求めました。でも、残念ながら、ピンときませんでした。

 ただ、ナンセンス=ノンセンスとは、関係ありませんが、やはり高山宏氏経由で知った本で、種村季弘氏が矢川澄子氏と共訳した、グスタフ・ルネ・ホッケ著の『迷宮としての世界』は、すごく面白かったです。種村季弘氏が単独で訳した、ハンス・H・ホーフシュテッター著『象徴主義と世紀末芸術』と、グスタフ・ルネ・ホッケ著『文学におけるマニエリスム』も、刺激的でした。

     *

 話を、「ナンセンス=ノンセンス= nonsense 」にもどします。なぜ、ナンセンスだけでなく、ノンセンスにこだわって表記したのかと申しますと、 sense という英語の言葉に思い入れがあるからです。このブログの過去記事「オバマさんとノッチさん」で、sense の中心となるイメージ(=コア・イメージ)や、この単語の多義性=多層性について調べた結果を書きましたので、ご興味のある方は、ご一読ください。もちろん、お読みにならなくても分かるように書きますので、面倒な方はこのまま読み進んでくださいね。

 そこでも、少しだけ触れましたが、sense には「意味 vs. 無意味」というさいの「意味」のほかに、「正気」=「本気」=「常識」=「まとも」といった系列の語義があり、さらに「方向」=「方角」=「指向性」=「志向」という「向き」を表す一連の意味があります。

 そのうちの最後に挙げた意味に注目したいのです。つまり、

*nonsense には、無意味=常軌を逸した=「ん?」=「わけがわかんない」=「変だ」=「たがが外れている」=「ほぼエラー・不具合・故障」に加えて、「無方向」=「行き場を失った」=「行き先がわからない」=「よるべない」=「千鳥足状態」=「ふらふら・ぶらぶら」=「宙ぶらりん」という「意味」(※無意味に意味があるという「ん?」)がある。

 あるいは、計算式を立てるなら、

*無意味 - 意味 = 無 = m = n n =ん? ん?

ということです。さきほどのチャートのAを感じるのです。その意味で、俳句とノンセンスとは、自分のなかでは重なり合い=絡み合い=係り合います。

*行き場を失った「信号」たちが、空しくめくばせを繰り返している

さまが、目に浮かぶのです。まるで、

*切れかけた電灯が明滅している

ようにも思えます。

 だから、「おかしい=変だ=ほぼエラー=ほぼ故障中」であると同時に、「空しい=どこかはかない」のです。これがヒトのはしくれである自分が、「ニュートラルな信号」=匿名的な言葉」に感傷的なまなざしを送っているだけだということは、承知しています。でも、そう感じてしまうのです。ヒトである以上、致しかたない=当然=自然です。

     *

 さて、俳句に話をもどします。俳句の魅力の1つは、このノンセンスだと思っています。たとえば、例の、

 古池や蛙飛びこむ水の音

なんか、シュールで、不条理で、ナンセンスで、ノンセンスに感じられませんか? もしも、松尾芭蕉の句だという知識がなかったら、「すごい」とか、「すばらしい」とか、「これは名句」だとか、おっしゃる自信はありますか? 

 それとも、芭蕉作であろうと、爆笑問題作であろうと、松尾伴内(※まつお・ばんない)作であろうと、そんなの「かんけーねー」「知ったことか」「俳句なんて、どーでもいい」とお思いですか? 

 突然=唐突ですが、今、こういうお話をしていて、

*意味と無意味、必然性と偶然性の「間(=ま・あいだ・あわい)」

の気配を感じませんか? 

 …………。

ですよね。