かく・かける(7)-(8)

かく・かける(7)

 ブルガリというブランドがありますね。BVLGARIと表記されますが、どうしてだろう、と思われる方がいらっしゃっても不思議はありません。米国の玩具量販店「トイザらス」のロゴ「TOYSЯUS」も、遊び心があって面白いです。

 日本のブランドや商品名でも、風変わりな表記を使ったものがあります。アンフィニという自動車のシリーズ名みたいなものがありますが、以前は英和辞典なんかで見かける、発音記号もどきの表記が用いられていた記憶があります。ちょっと話はちがいますが、「あ」に濁点「 " 」をつけるなんて表記も、最近、頻繁に目にします。

 今、挙げた例は、それぞれ性格が違いますが、「変わっている」とか「人目を引く」という点では似た働きがあります。日本語の変わった表記については、個人的には「大賛成」派です。一方で、新語や、言葉遣い、表記に限らず、異形(いぎょう)=「今までとは違う」=「よそのものだ」=「変だ」=「あやしい」と感じられる存在や現象に遭遇するたびに、ビビって目くじらを立てる人たちがいます。

 また、「人権」や「○○主義」という言葉を聞くなり、現象のコンテクストや対象の個別性を無視し、思考停止状態になり、パブロフのワンちゃんみたいに、その道のプロ=それでご飯を食べている人たちの言葉の受け売りである、ステレオタイプ化した罵倒や悪態を口にする人たちもいます。こうした人たちに共通するのは、考える、思う、感じる、想像する、という基本的ないとなみを一時的に放棄していることです。

 思いやりのこころを一時的とはいえ、失う人は憐れです。ある程度の年齢に達した人であれば、だらしないです。ただ「うざい」と済ますこともできるでしょうが、個人的には残念です。「新しいもの or よそのもの」に媚びろと言っているのでは、ありません。人にとって、「新しいもの or よそのもの」なんてありません。

 人の知覚は、すべてが出来レースみたいなものなのです(※このことについては、後述します)。異形(いぎょう)と感じられる存在や現象に対し、条件反射的にこころを閉ざす、という行為もそうです。悲しいです。ステレオタイプ化した行為をいったんやめて、思いやるこころを持ちたい。そう思っています。思いやったあと、どう判断し、どう行動するかは、その人次第です。ただ、短絡はやめましょうという意味です。

     *

 世間話は、ここまでにし、今回の本題に入ります。このブログでは、前回の「かく・かける(6)」、そして前々回の「かく・かける(5)」と、俳句について書いてきました。同時に、

*「かく・かける・書く・賭ける・掛ける」とは、「宙ぶらりん」である。

らしい。

*「宙ぶらりん」を、少し格好をつけて言うならば、「偶然性」とも言える。

のではないか、などと考えていました。

 ところで、「偶然」という言葉に自分はかなり違和感を覚えます。「偶然性」にはしっくりしたものを感じます。「必然」と「必然性」との差には、あまりこだわりません。どうしてだろう? と考えていたのですが、「偶然」というと何か、物質性を感じてしまうのです。自分にとって、「偶然」という「もの(=物)」はなくて、「偶然性」という「まぼろし=ほぼこと=(ほぼ事)」はある。言葉にすると、そんな感じです。

*世界は偶然に満ちている。

などというフレーズに出合ったりすると、なぜか、強い拒否反応を起してしまいます。

 隠喩で使われているとしても、です。というより、隠喩として、いわば「確信犯的に」そう言っているのなら、なぜか、なおさら強い拒否反応を覚えます。さらに、「偶然」の対として用いられる「必然」について言えば、偶然の反対が必然だという気がぜんぜんしないのです。

*世界には、「偶然性」だけが屹立(きつりつ)している。

という感じなのです。もちろん、きわめて個人的な感想=愚見=妄言です。こんなふうに強く感じるのは、

*「必然」とは、「ヒトのもの」=「ヒトの幻想」である。

という思い込みが強いのではないか、と自己分析しています。というわけで、「偶然vs.必然」「偶然性vs.必然性」という図式に沿って文章を書くこともありますが、内心では、上で述べたような思いが非常に強いです。俳句についての記事を書きながら、常にあたまの大部分を占めていたのは、

*偶然性(※やはり、「屹立する偶然性」と言うべきだと感じます)

であり、話のついでにつづった「偶然」、「必然」、「必然性」という言葉たちは形式的に並べたようなものです。「偶然性」は、

*宙ぶらりん

と同じで、自分のなかでは、非常に大きな位置を占める気掛かり=気懸かりな言葉です。

 で、家事や親の介護の合間にいろいろ考えていて、はっと気づいたことがあります。デジャ・ヴュのようにも思えるので、以前にもあたまに浮かんだ、あるいは、何かで読んだか、どこかで聞いた話なのかもしれませんが、いちおう書いておきます。

     *

 古い話で恐縮ですが、「有楽町で逢いましょう」という歌謡曲昭和32年頃にレコード化され、大ヒットしたらしいのです。当時は、歌の「賞味期限」が今よりずっと長かったので、多くの人たちによって、何年も愛唱されていたとのことです。

 自分はその歌の出だしだけをはっきりと覚えています。著作権に触れるので、全部引用できませんが、あなたを待っていると決まって雨が降るみたいなことを言い、あなたがびしょびしょに濡れて、

*「こぬかと、気にかかる」

という歌詞となります。ここが、どうやら掛詞(※かけことば)=しゃれ=言葉の遊びらしいのです(※あくまでも「らしい」です、勘違いである可能性が高いです)。

*「来ぬか=来ないか=来ぬか=こぬか雨」+「気にかかる=木にかかる」

という具合です。何かこれに似た、あるいは同じ掛詞を使った和歌が平安時代ごろにあったようなことを聞いた記憶もあります。また、ほかの歌謡曲でも、使われていた覚えもあります。「手垢の付いた」という手垢の付いた言い方がありますが、まさにあのしゃれは、手垢の付いた掛詞だったということです。

 そういえば、「♪ こぬか雨降る○○筋」という、大阪を舞台にした歌もありました。「来ぬか=来ないか=来ないかなあ ⇒ 待つ or しのぶ」というふうに、「こぬか雨が降る」=「人を待つ or しのぶ」という、ワンパターン=受け継がれたパクリ=定型が存在するわけですね。

 このブログでは、

*オリジナリティはどうでもいいというか、そんなものはない。

という立場を取っているので、パクる、パクリについては詮索しません。フランク永井という歌手がヒットさせた、あの歌の歌詞をわざわざ取り上げた理由は、

*あのコドモ時代に聞いた言葉が、「掛詞=だじゃれ」だったと、オジサンとなった今になって気づいた。

からなのです。言い換えると、

*言葉の偶然性の産物である「掛詞=ダジャレ」に、偶然性に左右されて、かなりの時を経て気づいた。

ということです。

 幼かったころの自分は、たぶん、あの歌詞の意味を理解していなかったと思います。その後、何度か、あの歌詞を聞いたり、自分でも口ずさむことがあったことは確かです。でも、ついきのうになって、はっと気づいたのです。さきほども申し上げましたように、デジャ・ヴュも感じますので、以前にも気づいた瞬間があるという気もします。それにしても、です。

*意味の知らない言葉の記憶が、何年も後になって、分かったり、それがしゃれであったりすることに気づく。

という現象が「気にかかった」のです。

     *

 で、話は、ブルガリに飛びます。

*なぜ、BULGARIではなく、BVLGARIなのでしょう?

 ブルガリが何語なのかは知りません。ヨーロッパの言語のうちの1つであることは確かでしょう。

*ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ

 これは、英語で使われているアルファベット26文字です。これって、何なんでしょう? というか、何のためにあり、どうしてこの順番で並んでいるのでしょう? これが、英語をつづる=書くためのパーツだという、よく知られたことは別にしての話です。

 偶然性の産物として、こういうふうに並んでいるのか? それとも、何かの規則なり理由があるのか? ネット検索をすれば、「正しい」答えが見つかる可能性は高いです。でも、このブログでは、あまりそうしたことはしません。書いている者が、無精だということもあります。偏屈だということもあります。とにかく、調べることはしません。

 なぜなら、今、「かく・かける」シリーズをやっているからです。宙ぶらりん、でいいのです。このブログを何回かお読みになっている方は、薄々感じていらっしゃるかもしれませんが、

*このブログで書かれている文章、つまり、言葉たちの特徴として、言葉の身ぶり=運動=動き=めくばせ=表情といったものを、このブログでは、非常にというか、いちばん大切にしています。書かれている言葉たちの意味や内容や指し示すものは、二の次なのです。刺身のつま、なのです。

 また、意味の固定化を嫌います。筋を通すことに、うさん臭さを覚えます。だから、やたら「=」が文章に混じります。あれは、

*言葉が一定の方向を向いたり、1つの意味づけに固着したりしないように、言葉の「向き」をできるかぎり「揺らし」たり、似通った、あるいは、ときには正反対と考えられている言葉を「=」でつなぐことにより、「意味」ができるかぎり「ずれる」ようにと、故意にしているのです。

 どうしてこんなことを書いているのかと申しますと、当ブログのプロフィールにあるメールアドレス宛に(※かつてのブログサイトの話です。今はありません)、ある読者の方から、このブログの文章の「読みにくさ」について、質問というか、クレームを頂戴したからなのです。

 その方宛に、「今は、あたまのなかが整理できておらず、即答ができないので、近いうちに、記事のなかで、なるべく分かりやすいように説明します」といった意味の返事を出しました。

 Tさん、メールをありがとうございました。こんな説明しかできませんでしたが、お分かりいただけたでしょうか? 

かく・かける(8)

 さて、話をもどしますと、現在、「宙ぶらりん」(※気取って言えば、「屹立する圧倒的な偶然性」)について書いているので、アルファベットの謎については、「宙ぶらりん」の状態で、ただし(or つまり)自分の手もちの知識と記憶とでまかせを頼りに(※気取って言えば、「クロード・レヴィ=ストロース印の「ブリコラージュ」もどき」に)書いてみます。

 というわけで、謎は解けませんが、次のようなことを思い出しました。

 中・高生時代に、NHKのテレビ・ラジオの外国語講座を全部視聴するという、あほ=無茶をやっていたことについては、「あう(3)」で触れました。その過程で、ヨーロッパの言語のアルファベットが26文字に限らないことも、当然知りました。

 ロシア語で用いられている、ロシア文字=キリル文字も覚えました。そのおかげで、なぜ、当時のソ連のバレーボール選手たちのユニフォームに「CCCP」と記してあるのかも分かりました。そのキリル文字が――NHKの講座にはありませんでしたが――現代ギリシャ語、および古代ギリシア語の文字に近いことも知りました。ちなみに、冒頭で挙げた「TOYSЯUS」の「Я」は、ロシア文字にありますね。

 念を押しますが、「TOYSЯUS」は「お遊び=デザイン=しゃれ」です。深い意味なんてありません。

     *

 アルファベットについては、フランス語を勉強していた時に、Y y を i grec (「イグレック」みたいに発音します)と読み、「ギリシャ風の I i (ほぼ「イ」みたいに発音します)」という意味だと、講師が言っているのを聞き、「なんで?」と思ったことを覚えています。なんで、「イ」が2つもいるわけ? という感じです。その謎は、お勉強嫌いな自分には、今も解けていません。で、もう1つ不思議なことがあったのです。アルファベットの発音を説明している時だったので、Y y の前に聞いた話です。

 W w をフランス語では「ドゥブルヴェ」みたいに発音し、なんと「二重の=2つの V v (「ヴェ」みたいに発音します)」という意味だというのです。そして、その講師は、続けて以下のような意味のことを話しました。

「英語ではダブリュー、つまり、ダブル・ユー、ユーが2つだって言いますよね。昔は、ユーとヴィー、フランス語ではユ(※カタカナでは書きにくいのですが、いちおう、こう書いておきます)とヴェですが、この2つは同じだったんです」

とあっさりと説明し、それ以上、教えてくださいませんでした。

 でも、それを聞いた自分は、「ええっつ」という感じで一瞬、「宙ぶらりん」状態になりました。

1)英語の W は U が2つという意味。
2)フランス語の W は V が2つという意味。
3)昔々、U と V は同じだった。

 どういうこっちゃ? この講師、もしかして冗談を言ってるのと、ちゃうか? 

1) U は母音ではないか。
2) V は子音ではないか。
3) 昔々、U と V が同じだったって、どういうことなのか? 
4) ただ、文字をよく見ると、W は V + V に見えるから、まんざら冗談でもなさそうだ。

 というわけで、手もちの知識と記憶で説明すると、さきほどの、

*なぜ、BULGARIではなく、BVLGARIなのでしょう?

の答えとしては、

*昔々、U と V が同じだったらしいので、「ブルガリ」は何語か知らないけど、BULGARIではなく、BVLGARIとつづっても、変ではない。

ということになります。

 きわめてテキトーな説明ですけど、そうらしいですよ。理由は、これ以上、聞かないでください。詳しいことは、知りませんので。と言いながら、思いついたことがあります。さきほど書いた、

*昔々、U と V が同じだったらしいので、「ブルガリ」は何語か知らないけど、BULGARIではなく、BVLGARIとつづっても、変ではない。

って、

*日本語には、「い・イ」と「ゐ・ヰ」、「え・エ」と「ゑ・ヱ」、「お・オ」と「を・ヲ」がある。

のと似てませんか? 単なる、出まかせですけど。詳しいことは知りません。

     *

 実は、冒頭でブルガリについて書いたのは、おとといから、日本の定型詩である俳句と同時に、ヨーロッパの言語の定型詩についても、考えをめぐらしていたからです。この連載の「かく・かける(5)」の冒頭が、

*英語やフランス語が、26の表音文字で表記されている、と考えると不思議な気持ちがします。たったこれだけで、あれだけのことが書けるのか、という不思議さです。日本語が、漢字+ひらがな+カタカナ+ローマ字で表記されているのも、摩訶不思議です。日々、体験しているはずなのに、よく考えるとどうなっているのか、さっぱり分からない。

となっていたのは、そのせいです。

 26文字でいろいろな言葉を作って、いろいろなことを書けるのも、不思議ですが、そのパーツである26文字自体が、不思議というか謎なのです。そう書いた今、またもや、デジャ・ヴュに見舞われています。

 あれです。正確な名称は知りませんが、「あいうえお表」とかいうやつです。「お口を空けて、あーん」という記事で、以下のような文章を書きました。少々長いですが、事態がぜんぜん変わっていませんので、コピペさせてください。

★「 あいうえお表 」っていうんですか。小さいころ、親の手製の表が、机の上の壁に貼ってあったのを覚えています。そのとき、不思議だったのが、「 や行 」と「 わ行 」です。親がつくったくれたものでは、確か、

  ( 前略 )
  ま み む め も
  や   ゆ   よ
  ら り る れ ろ
  わ   を   ん

となっていて、表を見るたびに、不思議に思っていました。

 「なんで、あそこが、ぬけてんだろう?」

 今でも、不思議なのは、国語のお勉強をしっかりしなかったからでしょう。あの穴は、たぶん「傷跡」なのだと、思います。かわいそうに……。作家でいえば、丸谷才一氏が、現在も実践している歴史的仮名遣いあたりと関係あるのではないか? でも、よくわかりません。

 これも、グーグルなんかで調べれば、謎が解けるのでしょうが、自分は、これだけは謎のままにしておきたいんです。傷跡はそのまま、そっとしておいて、触れたくない気分です。いつか、傷跡の意味が解けることもあるでしょうが、今のところは、このままでいいです。怠け者だから調べないと言えないこともないんですけど、これだけは、不思議なままでいい。正直なところ、そう思います。一句浮かびました。

 傷跡を 舐める小猫に われ重ね

 ここまで書いて、思い出したことがあります。親の書いてくれたものではなく、学校にあったものです。

  ( 前略 )
  ま み む め も
  や い ゆ え よ
  ら り る れ ろ
  わ い う え を
  ん

 すっかり、忘れていました。こういうのも、見ました。懐かしい。で、今、こうやって、上のと下のとを見比べてみると、あたまが混乱してきました。めまいに似ています。

 いったい、どうなっているんだ!

と叫びたいくらい、今、うろたえています。

 これもまた、専門の本なり、グーグルでしっかり検索しないと、解決しそうもない予感がします。ただ、きょうは、実は「消えてしまいたい指数」が高いんです。80くらいでしょうか? 自分でも、きょうの文章は元気がないなあ、トーンダウンしているなあ、と感じます。だから、調べる気力はありません。やっぱり、謎は謎のままにしておきましょう。

 ★から以上までが引用です。

 ぜんぜん、進歩していません。むしろ後退=退行 ≠ or<コドモ返りしているのかもしれません。あいうえおの謎は謎のままです。抜けは抜けたままです。間抜けですね。無精ですね。だいいち、みっともないです。でも、事実だし、今も変わらない実感なので、長々とコピペしちゃいました。

 さきほど書いた、

*日本語には、「い・イ」と「ゐ・ヰ」、「え・エ」と「ゑ・ヱ」、「お・オ」と「を・ヲ」がある。

と関係がありそうですね。とは言え、これも、きょうは調べる気力がありませんので、謎は謎のままにしておきましょう。

     *

 前回の記事「かく・かける(7)」で触れた、フランク永井の歌った「有楽町で逢いましょう」の出だしのように、はっきり覚えていながら、実は意味が分かっていなかったり、掛詞だと気づいていなかったりすることって、意外と多いのではないでしょうか? 

 ただ、それに気がついていないだけ。アルファベットも、あいうえお表も、よく考えてみると不思議だらけ。にもかかわらず、無意識のうちに、これまでずっと高をくくっていた、そして、今も高をくくっている。そうに、ちがいありません。

 こんなふうに考えていると、自分のまわりにある、慣れ親しんだものやこと、知っているはずのものやことが、「あ」に濁点「 " 」をつけた表記みたいに、異形(いぎょう)のものやことに感じられてきます。「かく・かける(7)」のなかで、やんわりと批判した、パブロフのワンちゃん状態の、思考停止気味の人たちの、鈍感さや、「思いやる」気持ちのなさへの批判が、そっくり自分に返ってきます。

*考える、思う、感じる、想像する、という基本的ないとなみを一時的に放棄している。

 これって、自分のことだと思います。「一時的に」どころか、「いつも」です。異形を異形だと感じなくなってしまっているのです。当たり前だと感じてしまっているのです。書き換えましょう。

*考える、思う、感じる、想像する、という基本的ないとなみを、無意識のうちに長きにわたって常に放棄している。

 でも、これがヒトの常=性(さが)=習性だというなら、悲観する必要はないとも思われます。ヒトは、たくましく=しぶとく=厚かましい生き物です。その根底にあるのは、生来の、

*飽きっぽさ、諦めやすさ、忘れっぽさ

です。こうしたヒトの習性を思うと、

*屹立(きつりつ)する偶然性=「宙ぶらりん」など、どうでもいい

とさえ、感じられてきます。

*屹立する偶然性=「宙ぶらりん」について考えすぎたことへの反動

でしょうか? 

     *

 ここで、再度、長めのコピペをさせてください。個人的にとても愛着のある記事、「カジノ人間主義」から、以下に引用します。

*やっぱり、出来レース、やらせ、八百長らしい。気づいているくせに、あるいは、気がついていないふりをして、または、すっかり忘れて、やらせを本当だと思いこんでいる、もしくは、思いこもうと自分をだましている。

*ある種のスポーツ(※ あえて、名指ししません )や、ある種のテレビ番組(※ あえて、名指ししません )と同じです。嘘、つくりもの、フィクション、編集済み、情報操作されたもの、筋書きなしに見せかけて、本当は筋書きがあるもの――そういうものを見て、ヒトは何とも思わなくなっている。心の底では、嘘だとわかっていても、嘘だと思うと楽しめないから、「 ただ見ている 」だけ。実質的傍観者状態。

*悪いとわかっている、間違っているとわかっている、正しくないとわかっている、正直じゃないとわかっている。でも、都合が悪いから、そういうことは、忘れる、あるいは、忘れたふりをする、または、すっかり忘れてしまっている。

*思い出そうと努力すれば、思い出すことができる、学び直すこともできる、再発見することもできる、「 わかった 」と叫ぶこともできる。なのに、忘れている。思い出そうとしていない。そうした気迫がみられない。都合が悪いから、必要がないから、という言い訳が、心の奥底にある。

*へたなことを口にしたり、実行に移すと、他の人たちから、寄ってたかっていじめられたり、場合によっては、消されるから、思い出さないし、わかろうともしないし、実際に、忘れてしまっているし、わからなくなっている。

*「 わかる 」は「 わける 」ことだから、まだらにしか、わからない。「 わかる 」「 わからない 」ということは、ふるいにかけて、よりわけること。そのふるいに、かからないものは、わからない。そういう、しくみになっている。

*ヒトは、まだらの世界を見ている。おそらく、そのまだら模様は、ヒトに共通している。

*ヒトは、知覚され記号化された情報を、導線と回路を通して、まだらに脳で処理している。その導線も回路も、無限ではなく有限の質と量のものしか通さない。ノイズは、抑制されている。そうやって、脳の過熱による機能不全を防ぐ仕組みが存在する。

カジノ資本主義というものは、上に書きつづったヒトの行動とすごく似ている。激似。酷似。かなりの部分がダブっている、かぶっている、そっくりと言ってもいい。

*答えが最初から出ている、出来レース。筋書きが最初からある、やらせ。何か黒い目的があって仕組まれている、八百長

*すべてが、ぴったり当てはまり、すべてが、正しいとされ、すべてが、わかるような仕組みができている。

*真理や実体なんて、哲学や科学の出来レース。それを支えているものが、表象という名の、代理人。何でも代行屋さん。まいどありー。おおきに。儲けさせてもらっております。

*Aだと思っているものは、括弧にくくられたA、つまり「 A 」。それを、Aだと思いこんでいる。さもなきゃ、人間=ヒト やってられないよー。確かにね。そのとおりだ。それこそ、真理だ。トゥルースだ。ヴェリテだ。誰も否定できない真実だ。

*だから、大丈夫。このままで大丈夫。「 仕組み 」とか「 からくり 」なんて、ちゃちゃを入れる、ふざけたやつは、くたばってしまえ。そんなやつは、人間様じゃない。ひとでなしだ。

     *

 以上が引用です。

 今読んでみると、ずいぶん威勢がいいというか、元気がありますね。ヒトの宙ぶらりん状態を、逆説的な言い回しで、ポジティブに、つまり、裏を返せば、きわめてネガティブに風刺=「弱虫の遠ぼえ」しています。前回に書いた、ややこしいチャート=図表を読むさいの手引きにもなりそうです。以上の引用文で出てくる「出来レース」とか「やらせ」というのは、

*必然性とは無縁の、屹立する偶然性=「宙ぶらりん」に内包されるもの

です。前にも書きましたが、「偶然の反対は必然だ」なんて嘘です。国語のテストだけで「正しい」とされるペテンです。まだ、考えは煮詰まっていませんが、おそらく、

*(偶然性 ≧ or ≠ 必然性) ⇔ 自由(= 幻想)=不自由

だという気がします。

 で、話をもどしますが、上の「*必然性とは無縁の……」で始まるフレーズを、言い換えると、(以上の引用文で出てくる「出来レース」とか「やらせ」というのは、)

*いわゆる「自由意志」や「ヒトの無限の可能性」とは正反対 or 無関係の、「徹底した不自由さ」

です。

 矛盾だらけで、ややこしいですが、とりあえず、そんなふうに感(=勘=観)じています。思えば、「カジノ人間主義」も、マラルメがらみで書いた文章でした。

マラルメ=魔羅縷奴って、もしかしたら、猛毒=毛毒=妄怒苦かもしれない。

そして、

*屹立する偶然性=「宙ぶらりん」って、ひょっとしたら、「身をゆだねる」=「身をまかせる」性質のものではなく、「身をがんじがらめにしばる」=「身を侵す=犯す」ものかもしれない。「賭け」も「書く」も「占う」も「知る」も「分かる」も、何もかもが、圧倒的な偶然性の「前では=もとでは」、無力で空しい。

 ふと、今、そう思いました。

 そう思ったとたん、何だか、悪寒がしてきたので、大事をとって、きょうはここで、失礼をいたします。実は、昨夜から今朝にかけて、あまり眠れなかったのです。

 ポルポトに 我が身を重ね 見た夢は

 今回をもちまして、「かく・かける」シリーズはおしまいにします。お付き合いいただき、ありがとうございました。