書く・書ける(1)-(2)

書く・書ける(1)

 とにかく、すごい剣幕で怒っていました。ケータイ小説について、です。何かの雑誌で読んだのです。

 要約しますと、次のようなことが書いてありました。「ろくに小説を読んだこともないような者たちが、クズみたいな文章で、クズのような内容の小説を携帯電話を用いて書いている。特に、頭に来たのは、これまで小説なんて全然読んだことがない、などとのたまわっていたことである」。だいたい、以上のような意味の批判でした。

 既存の作家なのか、編集者なのか、文芸評論家と呼ばれる人なのか、覚えていません。これに似た意見を、いろいろな媒体でいくつも見聞きしたような気がします。こういうのは、批判でも非難でも見解でもなく。悪態=罵倒と申します。こうした類のものは、書いてある内容を考えてはいけません。中身に意味はありません。悪態=罵倒とは、感情の発露=表れ=現れです。よく、企業のクレーム係のヒトたちが、言いますよね。別に内容は聞かなくてもいいから、とにかく、まず、相手にしゃべらせろ。それで90%は解決だ。なんて。

 それとほぼ同じです。悪態=罵倒に対しては、その内容について本気で考えるのではなく、その裏=根底にある「感情」だけを読みとればいいのです。で、そういう不愉快なことは忘れればいいのです。ケータイ小説に対する悪態=罵倒の数々を分類し、フィクション化し、個人的に「感情語」に翻訳すると、以下のようになります。

     *

*A「嫉妬」 = 本来なら「感情語」で、「くやしーい」とか、「ぎゃあー」の一言で済むのに、なまじっか知性や痴性が邪魔をして、次のように長く語ります。

「こんなに汗水を流して、血の出るような努力を重ねて、日本文学を継承するという崇高なる使命感をもって、たくさんお勉強をしてきた、このわたしの小説が売れなくて、何であんな文学的素養のない者たちの駄文が売れるのでしょうか。危険です。文学は危機に瀕しているのです」

 このような具合ですが、みじめったらしいですね。

     *

*B「恐怖」 = 本来なら「感情語」で、「やべーよ」とか、「お金がない」の一言で済むのに、なまじっか知性や痴性が邪魔をして、次のように長く語ります。

「このままじゃ、困る。現在、出版界は、危機に直面している。敵はネット、つまり、インターネットとケータイにあることは確かだ。それにしても、われわれの劣勢は、どうして起こっているのか? われわれのどこが悪いというのだ? これでも、○○大出だぜ。おら、エリートだど。さっぱり分からない。せっかく、高いカネを払って、大手の広告代理店に請け負わせて、HPを作成させたり、ネットの特性を利用したマーケティングとやらを各種試みさせているものの、成果は芳しくない。発想の転換パラダイムシフトが求められているのかもしれない。ビジネス上有利だと割り切れば、あいつらを利用しない手もないではないか。ちょっと、擦り寄ってみるか」

 という感じですが、いかにも往生際が悪そうですね。

     *

*C「迷い、または動揺」 = 本来なら「感情語」で、「どうしたらよかんべ」とか、「!?」の一言で済むのに、なまじっか知性や痴性が邪魔をして、次のように長く語ります。

「もう食っていけねーよー。文芸誌からの原稿の依頼は、どんどん減っている。講演会やトークショーへのお呼びもない。非文芸誌からも、声がかからない。このままじゃ、マジで飢え死にするぜ。この間みたいに、変装して、深夜のコンビニで働かせてもらおうか? それにしても、○○の野郎は、あちこちのウェブサイトに登場しているけど、どういうコネがあるんだ。性格悪いから、聞いても教えてくんないだろうなあ。いっそ、「ケータイ小説文学論」つーのを、酒でも飲みながら書いて、一山当ててみようか」

 うーんと思わずうなってしまうほど切実そうですね。

     *

*D「思考停止」 = 本来なら「感情語」で、「なんとか言ってやってくださいよ、○○先生」(※たいてい、テレビのコメンテーターの名前が入ります)とか、「えっと、あれ何だっけ?」(※何かを思い出そうとしています)の一言で済むのに、なまじっか知性や痴性が邪魔をして、いや、この場合には、「知性や考える力」はないのですが、次のように長く語ります。評論家とか、事情通とか、識者と呼ばれる人たちの言葉の受け売りや、パッチワークつまり継ぎ合わせになります。したがって、論旨は支離滅裂になります。

「ケータイは国語を乱します。ケータイは青少年の健全な育成の邪魔になります。ケータイ小説はクズです。ケータイ小説に文学性は皆無です。ケータイがらみの未成年を犠牲者とした事件が激増しています。国家主導で未成年のネット規制を実施すべきです。出会い系サイトなんて、口にするのも汚らわしいです。ケータイリテラシーを学校で学ばせましょう。未成年のフィルタリングサービスを義務化すべきです。未成年者を有害情報から保護しましょう。ケータイを使用すると電磁波を浴びることになります。ケータイ小説って、軽薄な響きがありますよね。ところで、モバゲーって何ですか、○○先生? ついでにネトゲ廃人とかいうものについてもご教示願います、○○先生」

 意味や実体を知らないというか、考えたこともない言葉をつなぎ合わせてわめているという感じがしますね。

     *

*E「八つ当たり」 = 本来なら「感情語」で、「何だかしんないけど、むかつくなあ」とか、「こんちくしょう」の一言で済むのに、なまじっか痴性と血の気の多さと性格の悪さとがわざわいして、次のように長く語ります。小さな飲み屋なんかで、ママを相手にぼやく、酔っ払いのセリフが典型です。

「何がケータイ小説だ。きょうは、会社の帰りにパチンコで一万損したし、今月の営業成績は最下位まちがいなさそうだし、何がケータイ小説だ。ママ、おかわり! 昨日の夜、公園でジョギングしてたら犬のうんちは踏むし、誰が置いたかわかんないバケツを蹴飛ばしてつま先を怪我するし、ふんだりけったりじゃねーか、何がケータイ小説だ。外回りさぼって、ネットカフェで2ch入ってXBOXの悪口を言ったら、十人くらいに囲まれてよってたかっていじめられるし、何がケータイ小説だ。ママ、おかわり! ネットカフェを出たら、家からケータイに通話が入って、宅配便ででかい荷物が二個も届いたっておふくろが言うし、よく考えたら、先週、酔った勢いで、夜中についテレビ通販をやって歩行器を買ってしまって、そん時すごくセクシーな声の女の人が、ちょっと早いですけど彼女へのクリスマスプレゼントにもう一台なんてどうですか、なんて言われて、ああいいねえ、なんて返事をしたっけ。おれ、彼女なんていねーのに、何がケータイ小説だ。ママ、おかわり!」

 これは、とりあえず酔いがさめるのを待つしかないようですね。

 以上です。

     *

 ちなみに、個人的には、

*ケータイ使用に対する、国家によるさまざな規制には反対

です。詳しいことは、「なぜ、ケータイが」と「ケータイ依存症と唇」に書いてありますので、ご興味のある方は、ぜひ、ご一読ください。

 さて、ここではケータイそのものではなく、

ケータイ小説について

お話ししたいと思っています。

 結論から申しますと、ケータイ小説はクズだとは思っていません。新しい形態(ケータイ)の小説だと考えております。また、ケータイ小説の書き手が本(※特に既存の小説)を読んでいないと発言したとしても、それは、ご本人が気づいていらっしゃらないだけで、実際には、本(※特に既存の小説)以外から、たくさんの言葉の切れ端を

*「読む」

という経験を積んでいるはずです。だからこそ、

*「書ける」

のです。逆に言えば、

*読んでいなければ書けません。

 これって、

*文学理論

的に申しますと、きわめて「重要な原理=当たり前のこと」なのであります。同時に、こんな理論なんて、どーでもいい、ことでもあります。

 また、小説を書くのに不可欠な、語り=ストーリーテリング=展開の仕方、読者を飽きさせないための小道具、読みやすさのテクニック、といったさまざまなスキルやパーツは、別に、既存の作家、まして古典的文学作品を読まなくても、身につけることができます。

 テレビドラマ、映画、CM、雑誌の記事、知り合いとの会話や雑談や馬鹿話、身近な体験、夢でみたこと……といったさまざまなものやことや現象が発している「トリトメのない記号=まぼろし」という形で、あるいは「ニュートラルな信号」という形で、日々体感=体験=体得しているからです。

 こうなると、広い意味での創作のもと=素材となる「体験」においても、「先行する作品」においても、小説、詩、エッセイ、絵画、彫塑、音楽、演劇、映画、写真……といったジャンル分けは意味をなさないみたいです。すべてが「トリトメのない記号=まぼろし」とか「ニュートラルな信号」なんです。

 ある映画を見ていて、俳句が生まれたり、または小説を書くきっかけになったりする。ある俳句からインスピレーションを得て楽曲がつくられる。こっそり深夜にAVを見た体験から現代詩が書かれる。よく見聞きする話じゃありませんか。

「トリトメのない記号=まぼろし」とか「ニュートラルな信号」が何かについては、ぜんぜん気にすることはありません。もし、ご興味がありましたら、「かく・かける(1)」の真ん中あたりに、このブログでよく使うツール=玩具の説明が1)2)3)と3ケありますので、そこだけを斜め読み願います。

 面倒な方は、もちろん、お読みになるにはおよびません。「トリトメのない記号=まぼろし」も「ニュートラルな信号」も、とりあえず「何でもありー」の一種だと、ご理解いただいて差し支えありません。

     *

 さて、上述の、

*読んでいなければ書けません。

については、「かく・かける(6)」でも触れていたので以下に引用します。

     *

 よく考えてみてください。みなさんは、俳句を詠む場合、まずどうなさいますか? 今まで俳句を詠んだことのない人が、俳句を詠もうとするとき、5・7・5という規則だけをあたまに入れて、いきなり、森羅万象に目を向けるなんてことをするでしょうか? そのまえに、既存の=先行する俳句を読むだろうと思います。

*俳句は、いきなり詠むのではなく、まず読む。

のです。

 和歌であっても、漢詩であっても、ヨーロッパの言語の定型詩でも、状況は同じだと思います。さらに言うなら、韻文だけでなく散文でも同じことが言えるような気がします。たとえば、基本的に何を書いてもいい、

*小説は、小説を読んでから書ける(=掛ける=賭ける)。

のです。

 話を一気に飛躍させますが、ヒトの赤ちゃんは、いきなり言葉をしゃべりません。

*赤ん坊は、話し言葉を聞いてから話すようになる。

のです。

     *

 以上が引用です。

 こういうのは、

 *学ぶは「真似る=まねぶ」

とも重なりますね。

 大切なことなので駄目押しで申しあげますが、比較的自由度が高い=わけわかんないとされる現代詩が、いきなり書かれるわけがありません。何を書いてもいいとよく言われる小説やエッセイが、とつぜんあたまに浮かんで書けるなんていうのも、眉唾物です。

 創作のきっかけにはジャンルは無関係とは言え、創作するさいにあるジャンルを選んだからには、先行するジャンルのお手本を見聞きしているはずだと想像できます。

「よーし、現代詩or小説orエッセイさまを書いてやるのだ」という決意表明というか所信表明みたいなものを、たとえ口に出さなくても、あるいは他人に話さなくても、自分のなかで念じなければ、そのジャンルの作品は生まれないということです。もちろん、上手か下手かとか完成度は別問題ですよ。そもそも評価なんてうさんくさくていいかげんなものですけど。

 ジャンルという制度=しきたりが、膠着=マンネリ=非活性状態にあることも確かです。その点、noteでのハッシュタグの多用は頼もしいですね。「小説」、「エッセイ」、「詩」というタグが同居する記事も珍しくありません(さすがに「俳句」と「短歌」の同居はないみたいですが)。こういう風穴を開けるアナーキー=穴あきーは大好きです。私自身はタグのタグいの使用には抑制的ですけど、ただ面倒なだけで別にポリシーとかはありません。

 あ、一つありました。ポリシーというほどのものではなく、むしろルナシーLUNA SEA じゃなくて lunacy=愚行・きち〇い沙汰=正気のサタデーナイトのほう)なんですけど、記事に「哲学」というタグだけはつけません。世の中の大半のヒトが考えている哲学と私のやっていることは、どうやら違うみたいだからです。誤配を避けるためです。そんだけ~。

     *

 で、話をもどしますと、

ケータイ小説の未来

というか、今後ですけど、たぶん、このまま続くと思います。テレビが登場したとき、映画やラジオや紙芝居がなくなると、嬉しそうに言う、意地の悪い=性格の悪い=根性の悪い評論家たちがいたらしいですが、今も映画とラジオと紙芝居はありますよね。それと同じです。

 いわゆる純文学も、いわゆるエンターテインメント小説も、いわゆるライトノベルも、いわゆるBLも、いわゆるケータイ小説も、いわゆるネット小説も、シェアの増減=変化はあるでしょうが、それなりに共存していくと予想=妄想しております。ステゴザウルスや、ドードー鳥や、ベータマックスや、おニャン子クラブのように消えることはない、と信じています。むしろ、さらにまた、

*新しい形態(ケータイ)小説

が現れるに決まっています。それが、ヒトのたくましさ=厚かましさ=図々しさ=頼もしさです。

 では、この続きは次回に。

書く・書ける(2)

 今回をもちまして、「かく・かける(1)」~「かく・かける(8)」シリーズの補遺=おまけ=付録=追加はおしまいです。そこで、「書く・書ける」というタイトルのもとに、このブログの顧問=アドバイザーであるマラルメ師がらみに、

*「書く・書ける=賭ける」

という問題について、総まとめみたいなことをしてみようと思います。マラルメという人は、昔々生きていたフランス人で、日本の中学校にあたる学校で英語教師をしながら、一般の人たちからは「わけがわかんない」と言われる詩を書いていました。実際、何を考えていたのか、わけがわからない人です。そもそも、誰でもそうですが、

*他人様の考えていることなんか「わけがわかる」わけがない。

のです。

 だから、勝手に想像=推測するしかないわけで、そうならば、いっそ、「□□さんが考えていたこと」なんか、無視して=放っておいて、自分が考えていることを一生懸命に追求したほうが、人としてはまっとうなのではないか、とも思っております。というわけで、というか、何となくというか、このブログでは、なるべく

*「▽▽さんが××って言っていました or 書いていました」

は自粛して、

*今、ここにあるものやことや現象と、手持の知識と記憶を総動員する。

という、無精で=横着で=出まかせ主義的なやり方で、ああでもないこうでもないや、ああでもあるこうでもあるという具合に、のらりくらりとゴタクを並べております。とはいいながら、書いているものは、いつやら、誰かが言ったり書いたことと激似で、

*オリジナリティもハーブティもクリエイティビティもマクビティも、まったくなし

というパッチワーク=継ぎはぎ=ごった煮を書いています。もろ、言い訳になりますが、これって、仕方がないんです。

*物「事」を「書く」ということは、「事欠く」ことである。

というのは、誰も避けることができない仕組み=メカニズム=仕掛け=ネズミ捕りみたいなのです。

 ですので、これから書くことも、いつやら、どこかで、誰かが言ったか書いたものにそっくりなものになると思いますが、いちおう、このシリーズのまとめとして書いてみます。

     *

 で、またマラルメが出てきますが(※マラルメ師などと持ち上げておきながら、呼び捨てご免)、そのマラルメという人は、

*書くことは、「偶然性を装った必然」=「人為的な偶然性」だ。人為的なものである以上、「賭け=書け」は偶然の産物に見えて、実際は「やらせ=出来レース」でしかない。したがって、ヒトは、その意味においてのみ、作品、たとえば、詩を「書ける」にしかすぎない。

みたいに考えていたような気がするのです。

 マラルメの書いたものを原文のフランス語で読んだのは、20年以上も前のこと。それも、たいした読解力もないくせに、ちょっと読んだだけ。あとは、翻訳や、わりと質のいい解説書=あんちょこ(※これって死語でしょうね)を読んだだけ。でも、すごく気になるので、過去の言葉の切れ端を大事に記憶しておいて、たまにあたまから引き出して、いろいろ考えてみる。ずっと、そんなことをしています。

 言葉というのは、匿名的なもの=誰のものでもないという特性があるため、本来なら、もう、マラルメなどという固有名詞にこだわることも、まして自分自身の名前という固有名詞に執着する必要性も、ぜんぜんないのです。でも、言葉には言霊という言葉で言うしかない、畏怖すべき側面があることを、ひしひし感じております。で、たとえば、外国語の名前をカタカナに変換しただけのものではありますが、

マラルメ

という言葉に、ある種のパワーみたいなものがそなわっている「気がして」たまらないので、シャーマン=巫女(みこ)みたいに、その名=言葉を媒介にして、言葉を引き寄せる=引っ掛ける=ナンパするという悪さをしているのです。

 ややこしいことを書いて、申し訳ありません。この文章をお読みになっている方は、さぞかし、ややこしいとお感じになり、うんざりなさっているだろう、とは十分承知しております。でも、このようにしか、書けないのです。

     *

 さて、ちょっと視点を変えます。

「かく・かける(1)」の下のほうでA~Fのついた図表を描きました。いちおう、コピペをさせてください。

A:ノイズ+熱 ⇒ ニュートラルな「信号」 : 合図・視線・まなざし・表情・刺激

   ↓

B:ノイズ+熱 ⇒ 経路・通路(光・電波・波動・電線・管・ニューロンなど) : 線・糸・揺れ

   ↓

C:ノイズ+熱 ⇒ 回路・知覚器官・知覚組織・解読版・グリッド : 色づけ・分ける・知覚・見る・解読・解釈・識別 : 網・濾過記=フィルター・カメラ・マイクロホン

   ↓

D:ノイズ+熱 ⇒ スクリーン・膜・細胞・機械・器械・画面・スピーカー・発信装置=受信装置 : 幕・器

   ↓

E:ノイズ+熱 ⇒ 映像・音声・震動・運動・動作 : 動き・まぼろし・イメージ

   ↓

F:ノイズ+熱 ⇒ 賭け・ギャンブル・偶然(accident) / 成功=不成功・当たり=外れ・作動=誤作動・正常=異状or異常・順調=不調・OK=エラー

 以上なのですが、ちらりとだけ、見てください。

*ノイズ+熱

という文字が6つ見えますね。このもととなった「あう(6)」の最後の3分の1ほどをまたもや、横着をして、以下にコピペしますので、これまた、ちらりとだけ、目をやってみてください。

*論理というものは、案外、熱いものなのかもしれない。

*哲学や論理学だけでなく、数学や物理学を含む自然科学でもいいが、そうした学問を学ぼうとか、研究しようとするヒトは、しばしば強い情熱(感情的、情動的といったほうが正確かもしれない)をこころに秘めている。

*コンピューターは以前には電子計算機と呼ばれていた。つまり、機械である。最先端のもの、そして未来のものは、違った素材が主体になるというが、現在の主流のコンピューターは金属や鉱物が素材である。機械やコンピューターというと、冷たいイメージを連想されがちだが、実際に機械やコンピューターを扱っている人にとって、いちばんの悩みは熱をどう下げるかだという。機械は作動、つまり動く。動くからには熱を発する。熱は機械そのものの素材を変形あるいは変化させる。すると誤作動が起きる。したがって、「熱を下げること」がきわめて重要な課題になる。

*コンピューターも、医療用のカメラやメスも、どんどん小型化されてきている。機械や器材は、「動く」のが仕事である。動くためには熱を発しなければならない。熱くなると動きに狂いが生じる。コンピューターに話を絞ると、コンピューターは、1か0の二進法で情報を処理する。1か0という仕組みを実現するためには、どんなにあがいても、何らかの移動、変化、反応という形態をとらざるをえない。分子、原子、電子、というナノの世界であっても、熱から逃れることはできない。

*数学者も、論理学者も、哲学者も汗をかく。禅僧も、修道士も、修道女も、教祖も、聖人と呼ばれるヒトも、みんな汗をかく。囲碁の名人も、チェスの達人も、汗をかく。コンピューターも、あっちっち。ナノテクも、それなりに、あっちっち。バイオテクノロジーもDNAも、それなりに、あっちっち。理論物理学も粒子も、それなりに、あっちっち。ノーベル賞も、きわめて、あっちっち。

*脳でも、事態は同じらしい。ヒトは生きている限り、熱を発する。食物を摂取し排泄をする存在である以上、必然である。沈思黙考、冷徹な思考などとは、嘘だったのだ。

*プリズムは、勝手にきらきら輝くのではない。そんな魔法なんてない。見る者が、動くからきらめくのだ。

*コンピューターはもちろんのこと、「運動」(※つまり、移動、変化、反応)するものは、常に熱を発せざるを得ない。冷たいようで、実は熱い。死んだようで、実は生きている。比喩を用いれば、蓮實重彦氏の著作のタイトル『批評 あるいは仮死の祭典』にある「仮死の祭典」と言える。死んだふりをしても、熱い。死を装っても、うごめいている。

 以上です。

     *

 どうですか?

*熱

*動く

という文字がいくつも散りばめてありますね。

 実は、これが、このシリーズをまとめる=束ねるキーワードなのです。当ブログは、支離滅裂=出まかせ=でたらめにはちがいないのですが、それなりに「流れ」みたいなものがありまして、個人的な書きものですから、当たり前と言えば、それまでなのですけど、とにかく、「つながっている」のです。

 で、結論から申しますと、ここに来て、またその流れのなかで1つの節みたいなものが出てきまして、それが

*熱=動き=然=燃(≒ノイズ)

なのです。

     *

 では、説明させてください。

 このシリーズでは、偶然性と必然性について、一貫して考え続けてきました。そのさいに手掛かりとしたのが「かく・かける」という大和言葉系の言葉の多重性=多層性でした。これは、送り仮名を添えて「漢字+ひらがな」と表記することで、確認できます。

 また、その作業の過程において、「当てられている」漢字の語義や「解字」を漢和辞典で調べることで、思いがけない発見もありました。で、ふと、「かく・かける」に当てる漢字だけでなく、

*偶然・必然

も「ついでに」調べてみたのです。で、びっくりしました。瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)が出る。鳶(とび)が鷹(たか)を生む。という感じで、

*偶然に偶然出合って=出会って=出遭って=出逢ってしまった

のです。

 それまで出そうで出ない感じだったものが、一気に出てしまった、と言ってもいいです。もよおすことなく出てしまった。つまり、漏れ出てしまった。お漏らしをしてしまった。粗相をしてしまった、とも、似ています。とにかく、

*偶然に、偶然に遭遇してしまった

のです。こういう時に、言霊の気配を感じちゃうのです。あれーっつ、という感じです。とにかく、結果を箇条書きします。

*偶然=遇+然

*遇 : 「あう」「遭遇=ひょっこりと思いがけずにあう」「もてなすことで、相手と関係し合う」「CHANCE」「たまたま=おっとっと=ひょっこり=あら、まあ」「似たもの同士が出あってペアを組む」「符号=符合=付合」「合体・ドッキング・性交(※比喩)・交尾(※比喩)・つがう(※比喩)」「熱い!やばい!間違いない!」(※ご不快なお気持ちをいだかれた関係者の方々に、お詫び申し上げます。でも、すごく言えてるんです)

*然 : 「イエス」「OK」「それしかない」「……みたいよ」「でもねー」「でもさあ、でもさあ」「……だとしたら」「でね」「熱くなる」「燃える」「似てると思うけど、『燃』って字の親戚」「ジュージュー肉を焼く」「脂身を焼く」「『難』っていう字が意味する自然発火とも親戚」

*必然=必+然

*必 : 「ぜったいに(or きっと)……になる/間違いない!」「あったりめーよー」「何が何でも……するわ」「目じるしの棒くい(?)を、両側から当て木をして締めつけて(?)、動くことのないように、ずれることのないように、しっかり固定する(※なんのこっちゃ? とにかく、力ずくで動けない状態=「ほぼテゴメ」にするらしい)」

 複数の漢和辞典で調べた結果、以上のような意味のことが書いてあったのです。

 個人的には、びっくりしました。さきほど、ちらりと見ていただいた、2つの記事に出てくる

*熱

という言葉が、どうして気に掛かって仕方がないのかが、ぼんやりと分かってきたからです。

     *

 さて、ここからは、飛躍します。

 めちゃくちゃこじつけます。まず、チャート化=図式化=カンニングペーパー利用=見える化します。

               ┌────────
                  │ 森羅万象=宇宙
               │ ↓     ↑
偶然性=遭遇=であう ←→   │ 宇宙の揺れ=動き=膨張
               │ ↓     ↑                              │熱の発生(≒ノイズの発生?
                 └────────

   (知覚という枠内)      (知覚という枠外)

          ───────────┐
必然性=人為=ヒトの意思・意志  │
 ↓             ↑     │ =自由=不自由
人工物=機械・器械・機具・言語  │
               ───────────┘

 以上のチャートを説明すると、以下のようになります。

*偶然性とは、絆(きずな)で結ばれた森羅万象のかけら同士が「であう」場=可能性である。

*偶然性とは、森羅万象のかけらである割符の片割れ同士が符合する場=可能性である。

*必然性とは、ヒトが偶然性を装った=真似た結果として、作られた規則性=整合性である。この前提には、ヒトが偶然性に必然性を見ている=錯視しているという状況がある。この人為的な必然性の有効性は、ヒトが製作し操作している機械・器械類、およびそれらを利用しての諸システムにおいて、顕著に観察される。

*ヒトが自らに備わった知覚、特に狭義の言語を通して見た(=錯視した)場合には、必然性と偶然性とは相反する=矛盾するものとして知覚=認識される。

*森羅万象=宇宙が、常に、揺らぎ動いている(=膨張している?)結果=原因として、熱が遍在している。

*森羅万象=宇宙が、常に、揺らぎ動いている(=膨張している?)結果=原因として、遍在している熱と、やはり遍在しているノイズとが、同じものである、あるいは、同じ特性を備えているかは不明。

*熱とノイズとには、ニュートラル=匿名的=特性を特定できない、という共通点がみられるのではないか? 

 以上が、偶然性と必然性についての個人的考察=妄察です。以下は、「書く・書ける・賭ける」についての個人的考察=妄察です。

1)森羅万象である、「表象」たち or 「トリトメのない記号=まぼろし」たち or 「ニュートラルな信号」たちの「間(※ま・あいだ・あわい)」に、ヒトは「何か」を見る=錯視する=知覚する。その「何か」は個人としてのヒト、あるいは、特定の集団としてのヒトによって異なる。

2)ヒトは、1)の過程において、見る=錯視する=知覚する「何か」に対し、自らの所有物である「しるし」を「しるす」習性がある。これを「書く」という行為の源泉とみなすこともできる。

3)ヒトは、2)の過程の次の段階として、見る=錯視する=知覚する「何か」を「分かるもの」に転じる。ここで、知覚だけでなく、言語が重要な役割を果たす。多くの場合には、知覚器官を用いた知覚よりも、脳内に深くつながりを持つ言語のほうが、より優勢になり、脳を中核とした認識作用を促進させることになる。また、言語のうちの話し言葉よりも、文字を用いた書き言葉のほうが優勢な道具として機能することになる。それは、文字の物質性、つまり、文字が保存=記録、携帯=流通=運搬=伝達=通信、複製(※筆写 or 印刷)される特性を備えていることが、大きく寄与していると考えられる。「かく」は、「掻く」あるいは「描く」を経て「書く」へと発展し、特権化されたたと考えられる。

4)ヒトは、3)の段階において、2)の段階において学習=獲得した習性を、具体的な行動に移す。

5)ヒトは、3)の段階において、「表象」の認知と「表象作用=代理・代行の仕組み」を無意識に、あるいは、意識的に学習=獲得する。

6)ヒトは、3)の段階において、4)と5)でみた、言語を中核とした劇的な学習能力=情報処理能力の獲得によって、テリトリーの発生と成長、集団行動の洗練化、および、コミュニケーションの高度化を急速に前進=発展=発達させる。

7)6)での急激な変化=発達は、特定のテリトリー内の「であい」とその深化を加速化するのみならず、複数のテリトリー間での「であい」を加速化させる。

8)7)の結果として、ヒトは「理・必然性・法・業・因果・意味・条理・有意味・有・在」という概念をいだくようになる。これにより、ヒトは、自らがこの惑星でもっとも優れ=進化した存在であるという自信を得る。

9)8)は、あくまでもヒトの幻想=想像であり、ヒトが森羅万象の一部として、「表象」たち or 「トリトメのない記号=まぼろし」たち or 「ニュートラルな信号」たちになり得る状況は変らない。

10)ヒトは、森羅万象だけでなく、自らもまた森羅万象の一部として、知覚=認識する。その結果、森羅万象と自らの両方を、1)で述べた、「表象」たち or 「トリトメのない記号=まぼろし」たち or 「ニュートラルな信号」たちの「間(※ま・あいだ・あわい)」に、ヒトは「何か」を見る=錯視する=知覚する対象として扱うようになる。その「何か」は個人としてのヒト、あるいは、特定の集団としてのヒトによって異なることは、1)でみた通りである。

     *

 以上の1)から10)は、「かく・かける(6)」にある、めまいを誘うほど長たらしい図表をご覧になりながら読むと、理解しやすいかと思います。いや、やっぱり、あの図はご覧にならないほうが、よろしいかとも思います。

 これにて、「かく・かける」シリーズと、その補遺=おまけ=付録=追加はおしまいにします。ここまで、辛抱してお付き合いくださった方に、こころより感謝いたします。