と、いうわけです

と、いうわけです

 トンデモ本というものに興味があります。トンデモ本に関する本を本屋さんで立ち読みしたくらいで、その詳しい定義は知りませんが、トンデモ本たちの紹介を読んでいて、わくわくぞくそくするような、久しぶりに覚える複雑な皮膚感覚とでもいうべき「何か」を経験したのです。

 この「何だか」分からない、わくわくぞくぞく感には、多分に性的なニュアンスも含まれています。妙に甘く懐かしいのです。性という「何だか」わけの分からないものに、本格的に興味を持ち始めた頃の、皮膚的+器官的むずがゆさに似ています。

 そういえば、最近、いつだったか、

*このブログも一種のトンデモブログではないか

みたいなことを書きました。「えっつ? わたしって○○だったの?」という感じです。実際、そのようでございます。

 で、トンデモブログという言葉がつかわれているのかを、グーグルで "トンデモブログ" という形で、ちゃんと "○○" 式に括弧でくくって検索してみましたところ、約472件のヒット数が表示され、驚きました。もっとも、トンデモとブログがくっついていないケースもあるみたいなのですが、ヒトは同じようなことを考えるのだなあ、とあらためて実感しました。ただ、その検索結果に、何となくきな臭い=物騒な気配を感じたので、個々のサイトを覗くのはやめました。

     *

 振り返ると、小学校高学年から中学・高校という時期には、さきほど申しました、

*わくわくぞくぞく感=皮膚的+器官的むずがゆさ=下半身に生温かいお湯をかけられたような気分

を頻繁に感じました。ちょっと間違えると犯罪に走りそうな、

*衝動=欲求=「どうやって、自分を制したらいいのかわからない」気分

なのですが、これが男女に共通する感覚なのかどうかは分かりません。というか、恥ずかしくて他人様に尋ねたことはありません。

 高校生の時、生まれて初めて「詩」を1編だけ書きました。短歌や俳句といった定型詩ではないのですから、自由詩とでもいうのでしょうか。その詩は破り捨てましたが、一部だけはっきりと記憶しています。

――コンクリートを貼り付けた灼熱の地面に蜃気楼の立つこの都市は昼間からもう欲情している。

 東京をテーマにした詩だったのですが、「欲情」していたのは、10代の後半に入って間もない頃の自分だったにちがいありません。誤解のないように、申し添えておきますが、トンデモ本にはいわゆるエロ本や猟奇的な内容の本ばかりが含まれているわけではありません。

 あるにはありますが、それだけではありません。もっと多種多様=豊かみたいです。「トンデモ本」とは、レッテルです。単なる、あだ名です。それ以上でも、それ以下でもありません。念のため、このことは強調しておきます。

     *

 今回は、なぜ、トンデモ本の話をしているのかと申しますと、

*「と」

について、考えているうちに、おっとっとという感じで、とんでもない方向にすべって行きまして、ふと気づいたところ、トンデモ本のほうにまで飛んでしまったのです。とんだお笑い話です、しゃれにもなりません。

と、いうわけです。

 ジル・ドゥルーズという、もう、お亡くなりになったフランスの哲学者がいました。ピエール=フェリックス・ガタリという人とよく著作を書いていました。かつて、そのドゥルーズとよく並んで評された、ミシェル・フーコージャック・デリダに比べると、個人的にはあまり興味を引かれなかった人です。

 興味が引かれなかったというより、何を言っているのか、何を考えているのかが、さっぱりといっていいほど分からなかったのです。自分の貧困なフランス語力を棚にあげて、邦訳に問題があるのかと思い、原文にも当たってみたのですが、フーコーデリダと比較すると、やっぱり、分からないのです。

「波長が合わない」という、あやしげな言い訳がありますが、そんなフレーズを持ち出したくなるほど、分からないのです。ただ、比較的良心的で、また良質だと思われるドゥルーズの解説書が何冊かありまして、それを読んでみました。

 解説書ですから、分かりやすく書かれています。でも、ピンと来ない部分が多かった記憶があります。今では、そうした解説書は手元にありません。ただ、1つだけ、すごく印象深い解説(※過去の記事ではもったいぶって書いていますが、蓮實重彦氏の『批評 あるいは仮死の祭典』です)の一節を覚えているのです。

ドゥルーズは「と」の人だ

みたいな意味のことが、書いてあったのです。で、この1週間くらい、

*「かく・かける(1)」~「かく・かける(8)」シリーズ

*補遺=おまけ=付録=追加である4本の記事 : 「占い・占う(連載「かく・かける」の補遺)」、「賭け・賭ける (連載「かく・かける」の補遺・第2弾)」、「書く・書ける(1)」、「書く・書ける(2)」

を、誰に頼まれたわけでもないのに、せっせと書いていたのですが、そのなかで

*「間(=ま・あいだ・あわい)」

*「際(=さい・きわ)」

ということについても、ずいぶん、いろいろと考えていました。

 話をもどしますが、トンデモ本と呼ばれている本たちの紹介文に目を通していたところ、

トンデモ本とは、人が「ふつう」考えたり、観察したり、知覚する、いわゆるメジャーな部分ではなく、ちょっと、あるいは、とほうもなく、ずれた視点から、いわゆるマイナーな部分に光を当てている本たちである。

らしい、という感想を持ちました。

 だから、比較的ネガティブな目で見られているようですし、「正しい」「正しくない」という、ヒト特有の傲慢な2項対立から見れば、どちらかと言えば「正しくない」とみなされていたり、いわゆる世間=世の中=社会という「曖昧模糊とした」=「テキトーな定義しかできない」とした集団からは蔑視されたり、危険視されたり、無視されたり、規制されたりする存在であるみたいです。簡単に言うと、

*変

だと思われている本たちらしいのです。

 個人的には「変」が好きなので、トンデモ本に興味を引かれているのだと思っております。また、自分自身、「変」だと言われたことが数知れずあります。また「偏」屈だとも、よく言われます。変な話ですけど、「変」と「偏」って、変に=妙に似ていません? 

 トンデモ本というのは、隙間=ニッチ(※隙間市場=ニッチ・マーケットの、隙間=ニッチ=にっちもさっちもどーにもぶるどっぐのにっち)をついているとも言えそうだし、「存在の大いなる連鎖」=「森羅万象がつながる」=「何でもかんでもがむすびついている」とも通じる部分があるし、「たとえ」=「広義の比喩」=「こじつけ」という仕掛け=メカニズムを強引に追及=深化している本も見受けられるし、とにかく、紹介文を見ているだけで、わくわくぞくぞくしてくるのです。つまり、

*いったい、何が書いてあるんだろう?
*いったい、何に取り付かれているのだろう?
*いったい、何がそんなに快=「気持ちがいい」のだろう?
*いったい、何にそんな引きつける魅力があるのだろう?
*いったい、どこへ連れて行ってくれるのだろう?

と、いう感じです。あやしいですね。あやういですね。

     *

 さきほど触れた「間(=ま・あいだ・あわい)」と「際(=さい・きわ)」という話ですが、これを「と」と言い換えることができるなあ、と思い、そういえば、ジル・ドゥルーズという人についての解説書に、「と」の話が書いてあったなあ、と思い出したのです。

 このブログは、あくまでも素人が誰に頼まれたわけでもなく、好きなようにやっている楽問=ゲイ・サイエンスの場であり、学問や学術や研究とは関係ありません。ですので、

ジル・ドゥルーズにおける「と」

などと、肩に力を入れた文章を書くつもりはないです。

 で、「と」なんですが、ジル・ドゥルーズの場合には、正確にいうと、「 et 」なのです。フランス語では、「エ」にみたいに発音しますね。えっ? 「 t 」はどこに消えたの? と不思議に思われている方のために説明いたしますと、とても大雑把な言い方になりますが、フランス語では、「 c、f、l、r 」以外の子音が語尾に置かれた時には、発音しないのです。たとえば、Pas mal. (英語で言えば Not bad. =悪くないね=いいね)は「パ・マル」みたいに発音します。s は読まない。l は読む。ということです。

 で、et は英語の and と、とてもよく似たつかい方をします。すごく簡単に言うと、

*「単語A et 単語B」なら、「AとB」

*「語句Aor文A et 語句Bor文B」なら、「A、そして、B」

のように、つかわれます。

*「と」と「そして」の意味がある

と考えていただいて、かまいません。

 大切なことは、いわゆる接続詞であり、

*AとB、またはそれ以上の複数のものを「つなぐ」役割がある

ということです。このことだけは、つかんでおいていてくださいね。

 で、この

*「つなぐ」

ということですが、「つながる」、あるいは、「つなげる」からには、AとBのあいだには、何か

*「関係」

があるわけです。ここで、整理しましょう。

*「間(=ま・あいだ・あわい)」「際(=さい・きわ)」「と」「そして」「関係=関・係」

 以上の言葉たちに共通するのは、

*「つなぐ・つなげる・つながる・つながり」

という意味=仕組み=働き=メカニズム=運動=表情=仕草です。

 世の中、または、大きく言って、宇宙には、いろいろな、もの、こと、現象、がありますね。そうしたものを、言葉という道具をつかって、ヒトはつなぐことをしょっちゅうしています。想像力=創造力=騒々力ってやつです。知性=痴性=稚性ってやつです。

 だから、コンピューターをこしらえたり、月に仲間を送り込んだり、ベルリンの壁を破壊したり、2000年問題を乗り切ったり、ノストラダムスの大予言をぶっつぶしたりして、この21世紀を迎えているのです。

 もっとも、世界中でお金が足りなくなって、どんどんお札を刷ったり、まだ5月だというのに、真夏のような暑さのなかで、マスクをして外を歩いているという異様な風景も見られます。でも、人間様が「大したもの」=「退したもの」だということだけは、確かなようです。

 まちがっても、

*人類が「トンデモ本」化している。

なんて暴言=妄言=名言=迷言=至言を吐いてはなりません。

     *

 ところで、ここまで書いてきた記事のなかで、「と」と「そして」に当たる意味の言葉をどれだけつかったでしょう。たくさんつかったはずです。このブログでよく出てくる、

で、

というのも、場合によっては、「そして」に近いつかい方をしていますね。

 これ、癖なんです。「それで」なんかに比べると、ちょっと失礼で軽薄な響きのある言葉ですけど、愛着があって、つい、つかってしまいます。ごめんなさい。

 で、「つなげる」のはいいのですけど、どういう具合につながっているのかは、きわめて「曖昧=テキトー=あんまり考えていない」場合が多いですよね。結論から申しますと、

*「AとB」に真ん中にある「と」は、「何でもありー」だ。

と言えそうなんです。

 ややこしい言葉をつかうと、順接(=「それで」「だから」)あり、逆接(=「しかし」「だが」)あり、並列(=「と」「そして」)、理由(=「というのは」「なぜなら」)あり、等値(=「つまり」「言い換えると」)あり、例示(=「たとえば」「例を挙げれば」)あり・・・という具合です。

 で、それを、さきほど述べたことと「つなげて」書くと、

*「AとB」に真ん中にある「と」は、「何でもありー」=「間(=ま・あいだ・あわい)」=「際(=さい・きわ)」=「関係=関・係」という、「つなぐ・つなげる・つながる・つながり」という運動=作用が、働いている=機能している「場=空間」である。

と、言えるように思います。手短に言うと、

*「つなげる」=「こじつける」=「何でもありー」とは関係性の乱交=乱舞=混乱である。

となります。

 これでは、あまりにもあっさりしすぎて、良心がとがめますので、もう少し詳しく説明させてください。この現象について、「めちゃくちゃこじつけて」という過去の記事から引用してみます。

     *

 ちょっと、ここで、関係性について、

*一般論

という横着で杜撰な作業=手続き=ズルを、用いて=使って、考察してみます。

*関係性という抽象度の高い言葉=イメージ

について考えるとき、大雑把に=テキトーに=でまかせ=連想ゲーム的に、言葉=イメージを並べてみる方法を取るのが有効であるように思われます。たとえば、

*AとBというものがあるときに、両者の間にどんな関係性があるか。

と単純に考えてみて、思いつく言葉をどんどん出るに任せて=でまかせに、列挙するのです。では、やってみます。まず、

*対義語を並べるやり方

でいきます。

*大と小・○と被○・やるとやられる・観測すると観測される・マクロとミクロ・無限と有限・絶対と相対・一般と特殊・単数と複数・粒子性と波動性・線形と非線形・受け身と能動的・支配と被支配・SとM・依存と自立・男女・成熟と未熟・もうとまだ・多いと少ない・有ると無い・早いと遅い・速いと遅い・長いと短い・動と静・増えると減る・無限大と無限小・本物と偽物・真と偽・正と誤・安定と不安定・可と不可・可能と不可能・偶然と必然・秩序と無秩序・整合と不整合・論理的と非論理的・快と不快・高いと低い・強いと弱い・硬いと軟らかい・複雑と単純・優れていると劣っている・プラスとマイナス・陰と陽・ポジティブとネガティブ・白と黒・裏と表・偶数と奇数・熱いと冷たい・激しいと穏やか・右と左・初めと終わり・中心と周辺……

 こんな感じです。次に、

*動き・運動に注目する方法で試してみます。

*引き寄せ合う・反発し合う・しりぞけ合う・連動する・シンクロする・共振する・共鳴する・触れ合う・くっつく・集まっている・散らばっている・同化する・矛盾する・○であって△ではない・△であって○ではない・○であって△でもある・○でもなく△でもない・○ときどき△一時□・かかわる・影響を及ぼす・影響を及ぼし合う・一方がもう一方の周りを回る・くっ付いたり離れたりする・一方がもう一方をおかす・一方が一方に取って代わる・交代する・代行する・代理を果たす・まじり合う・一方が一方にとけ込む……

 また、

*関係性を状態・状況・構造としてとらえる

こともできそうです。

*似ている・同じである・等しい・等しくない・異なっている・違う・差がある・ばらばら・つながっている・結ばれている・からみ合っている・かかわりあっている・重なる・重ね合わせ状態・対称・対称性・対称性の破れ・円環状・等価・ひも状・パラレル・まじわる・まじわらない・不確定・不確定性・ずれる・ダブる・かぶる・はずれる・仲がいい・仲が悪い・親和性がある・一方がもう一方から派生している・一方がもう一方を生む・一方がもう一方を生じさせる・上部構造と下部構造・入れ子構造・ツリー構造・フラクタルリゾーム複雑系・カオス・二次元・三次元・四次元・恣意的・表裏一体……

 もっとも安直なやり方ですが、

*「○○関係」という決まり文句=紋切型を集めてみるとか、そのたぐいの類推で言葉を思い浮かべる方法

も有効かもしれません。

*相関関係・因果関係・相互関係・位置関係・二項関係・2項対立・離散関係・関数関係・ねじれた関係・主従関係・親戚関係・親子関係・利害関係・力関係・上下関係・比例関係・反比例・相似・相同・写像・関係がある・無関係・依存関係・共依存・関係が逆転する・関係が交互に逆転する・両立する・両立しない・共存・共生・阿吽の関係・触媒・相乗関係……

 以上のようになりましたが、いずれも基本的に2者を前提としたものですし、他にもいろいろあるはずですが、この辺でやめておきます。ブレーンストーミングとかいう方法に似ていますね。あれは、いわゆるひとつの「でまかせしゅぎ」ですから、似ているのは当然です。それはさておき、分かったことは、

*関係性というものはトリトメがない

という点です。実を申しますと、トリトメがないものが好きです。関係性について、もっと考えたり、でまかせに何か書いてみたいです。

 以上が引用です。

     *

「と」という「一字」については、これくらいややこしくご託を並べることができるのです。

 試しに、ドゥルーズの著作名(副題も含む)の邦訳にある「〇〇とXX」の「と」(=関係性)についてあれこれ考えてみませんか? その邦訳を読む作業よりも、案外「正しく」ドゥルーズすることになるかもしれません。

 大切なのは、「と」に正解などないということです。「〇〇とXX」という言葉の連なりを見て、両者のあいだにある関係性をほぼ思考停止状態で想定してしまう。たとえば

マゾッホとサド

 を目にしたとたんに、両者は反対の関係にある、という具合に即断という名の判断停止におちいるのがふつうです。それはそれでヒトとして当然のことなのですが、果たして「反対」なのでしょうか。いわゆるSとMについて、思考をめぐらせてみる。そうした行為=動作=運動に誘うのがドゥルーズの戦略=方法なのです。『マゾッホとサド』という邦訳を読み、そうか、反対ではないんだと納得し、ふたたび判断停止におちいるとすれば、ドゥルーズしたことにはならないのは言うまでもありません。

  取り敢わない(=取る間がない・間に合わない)のが、

*と

であるとするならば、

*と

とは、あやしげなノイズにも似た、果てしなき運動へと誘う「取り留めのない」記号だとも、「取り敢えず」言えるかもしれません。

     *

 さて、さらにややこしい言い方を紹介することになって恐縮ですが、前々回まで、このブログで、シリーズでやっていて、「とりあえず」の「結論」とした部分から、ちょっとだけコピペをさせてください。

*偶然性とは、絆(きずな)で結ばれた森羅万象のかけら同士が「であう」場=可能性である。

*偶然性とは、森羅万象のかけらである割符の片割れ同士が符合する場=可能性である。

*必然性とは、ヒトが偶然性を装った=真似た結果として、作られた規則性=整合性である。この前提には、ヒトが偶然性に必然性を見ている=錯視しているという状況がある。この人為的な必然性の有効性は、ヒトが製作し操作している機械・器械類、およびそれらを利用しての諸システムにおいて、顕著に観察される。

 以上の3ケの文は、「書く・書ける(2)」から、引用したものです。こうした視点から見ると、

トンデモ本という存在たちが、偶然性に満ちた宇宙において、「正しい」vs.「正しくない」とか、「まっとうな」vs.「いかがわしい」とかいう、人為的な=捏造(ねつぞう)された=「でっちあげられた」整合性である「必然性」の支配する、「言語界」=「想像界」=「(ヒトの)知覚という枠内」のなかで、「偶然性」と戯れながら、人為的な整合性に逆らい、あるいは、人為的な整合性にずれるという形で、森羅万象のかけら同士を「であわせ」「つなごう」としている。

ようにも思えてくるのです。

 その意味では、

トンデモ本たちは、トンデモ本とは呼ばれていない本たちと、同じ資格と条件のもとに、「トリトメのない記号=まぼろし」として、消費され、あるいは保存され、最後には廃棄される運命をたどり、「ニュートラルな信号」として、めくばせを交し合っている。

と言えそうです。言い換えれば、

トンデモ本たちは、かつて異端の書や偽書とも呼ばれ焼かれた書物に似て、神「と」悪魔、本物「と」偽物、真実「と」虚偽、正「と」偽、正「と」負……といった人為的な2項対立とは無縁であるかにみえる、現代物理学におけるある種の理論に似た、トリトメのない=不条理とも思える言葉の戯れと「似た」仕草や動作や表情を演じている。

とも考えられるのです。

 とはいえ、今回のこの記事が、

トンデモ本擁護

と、とられることは本意ではありません。かといって、別にトンデモ本が悪い、と言っているわけでもありません。ただ、このブログは楽問=ゲイ・サイエンスをやっているので、何かを擁護するといったスタンスは似合いません。

 あくまでも、楽しく、時にはくだらないギャグを飛ばしながら、ああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもあるごっこ、をしているだけです。その点をご理解いただければ、幸いです。

     *

 ところで、トンデモ本を研究する人たちが「と学会」という集団をつくっているらしいですね。ということは、類似品の「ト学会」も含めて、「と」について、ああでもないこうでもないとか、ああでもありこうでもあると話し合う、

*「と学」 or 「ト学」

という言葉=お部屋=おトイレは、もうテナント締め切り=使用中= occupied =「入ってます」状態だということになります。残念。

 でも、「学問」があって「楽問=ゲイ・サイエンス」もあるくらいですから、「ト楽」とか「と楽」があってもいいかとも思いますが、そこまで「と」には思い入れが深くないので、とっとと引き下がります。とはいうものの、とってつけたような言い方になりますけど、

*と(=ト)って、とっても不思議

です。例を挙げますね。

*「と」をひっくり返すとカタカナの「ス」に似ていまっス。サッカーの試合の前なんかにコインを放り投げて先攻後攻を決めますね。あれって、英語では、toss =「トスをする」です。偶然性に任せる行為です。投げたコインが、ひっくり返ることもあるでしょう。そこに、トとスですよ。不思議じゃありませんか? 偶然だよ、でたらめの結果だよ、と言われそうですが、まさにその点を問題にしているのですけど……。

*上で書いたサッカーの儀式って、どこか「占い」=「卜」に似てません? コインの表が出るか、裏が出るかで、縁起をかつぐ人もいそうです。疑い深い人がいて、「このコイン、作り物の偽物じゃないか?」なんてケチをつけて、相手が「裏(=仕掛け)なんてないよ。うらない。そんな裏切りはしないぞ」なんて言ったりして……。失礼しました。

*ところで、今つかっているワープロソフトで「けいせん(=罫線)」って入力して、いろいろな形の罫線をみているうちに、「├」「┣」なんて出てきちゃいました。

*そうそう、上の文で書いた罫線の「罫」にも「卜」があります。それもそのはず、「罫」は、「け」とも読んで、易(えき)=易経、つまり、「当たるも八卦(はっけ)当たらぬも八卦」でおなじみの、中国から伝わった占いと関係があります。だから、「卦(け)」が出てきちゃうのです。算木(さんぎ)とかいうパーツに形として現れるものらしいです。詳しいことは知りません。ごめんなさい。

*ちなみに、ハングルにも、日本語のカタカナの「ト」に似た「├」みたいな形のパーツがあって、子音を表す一部のパーツと組み合わせて「あ」「か」「さ」みたいな音を表す母音の役割をしているようですね。でも、そのつかい方などは、知りません。残念ながら、ハングルでの「たちつてと」の「と」に当たる文字には、日本語のひらがなの「と」に似たパーツも、「├」みたいなパーツもないです。でも、しぶとく、めちゃくちゃこじつけようとすれば、ハングルの「と」に相当する文字には「と」と「ヒ」に、ちょっとだけ形が似たパーツが見えます。ちょっとだけ、嬉しいです。

*で、本屋さんでハングルの辞書や入門書を読んでいたところ、なんと「AとB」の「と」(=英語の and )に当たる語に「├」に似たパーツがありました。何だか、ほっ「ト」しました(※この辺の、こだわりには、自分でもやや尋常でないものを感じております)。

*それはそうと、ひらながの「と」は「止」の草体から、カタカナの「ト」は「止」の最初の2画からつくられたそうです。自分は長いあいだ「外」からとったのだと思っとりました(変なところで訛ってすみません)。

*訛るといえば、「訛」のなかに見える「イ」。これも、見方によっては、かなり無理がありますが、「ト」の鏡像に見えないこともないです。えっ? 見えませんか? 見えることにしてくださいよー。で、不思議ではありませんか、「ほぼ日刊イトイ新聞」を主宰なさっているイトイさん? そして、かつて「老人と子供のポルカ」(※老人「と」子供のポルカ)を、ひまわりキティーズ(※キテ「ィ」ー「ズ」)と一緒に歌っていらした、故・|左卜全(ひだりぼくぜん)(※左「卜」全)さん? えっ? もう、やめてケレ~! ですか?

 何だか、「と」と「ス」と「ト」と「├」と、それに「イ」までに、はまってしまい、ますますあやうくなってきましたので、このあたりで「と」めておきます。ご高齢の方から、やめてケレ~! なんて、叫ばれちゃったことですし……。

     *

「と」は「イ」え、

 今、考えて「イ」るのですが、上で、

「と」をひっくり返して「ス」にしたこ「ト」から始まり、その挙句には「イ」が「ト」の鏡像に見えるなどと書いて「イ」るうちに、ヤバそうだ、「スト」ップしなければ、自主的に「スト」ラ「イ」キしなければ、「ト」歯止めをかけよう「ト」したあたりから、逆に「ト」チクル「イ」がさらに悪化し、エ「ス」カレ「イ」「ト」し出したらし「イ」気配を感じるのです。

 で、今、あたまのなかをかけめぐっているのは、

*ノ「イ」「ズ」

「ト」「イ」う言葉なのです。

 ちょっと、ここで、コピペをさせてください。自分にトっては、トても大切なこトなのです。

*「賭け・賭ける」2009-05-21 : 「かく・かける」シリーズ(1)~(8)の補遺としての記事、第2弾です。「賭け・賭ける」に必須の「確率・統計」が苦手で、扱えないことを恥じています。照れ隠しに、ケータイのダイヤルボタンを使ったオヤジギャグでお茶を濁しています。また、賭けやゲームが苦手であるという言い訳をしながら、旅行と音楽に縁遠いことも告白しています。ここでもまた、「人生は賭けだ」「人生はゲームだ」と居直っています。英語で「賭け・賭ける」を意味する語を挙げて、体裁をつくろおうとしています。急にシリアスになり、金融危機と大不況についての個人的な見解を述べています。そこから出発して、偶然性について、突っ込んだ考察をしています。その考察の下敷きは、去年、ノーベル物理学賞を受賞した人たちの発見した、摩訶不思議な理論および現象です。その理論・現象についての解説を、新聞や雑誌で読んだ時に、理解はできないながらも、かなり大きな衝撃と影響を受けました。シリアスな話になったので、最後は軽めの調子で記事を終えています。キーワードは、「gamble」「game」「bet」「venture」「chance」「金融工学」「証券化」「信用危機」「陰謀」「2進法」「2項対立」「機械・器械」「対称性の破れ」「クオーク世代の予言」「自発的対称性の破れ」「小林誠」「益川敏英」「南部陽一郎」「吉田戦車」「ビジネス書」「処世術」です。

 以上は、「こんなことを書きました(その8)」から引用しました。

 注目していただきたいのは、「摩訶不思議な理論および現象」というフレーズの前後です。キーワードに挙げられている、そのフレーズと関係しているらしき言葉にも、目を通してください。素人である、あるアホ=自分が、物理学の最先端の話を解説文で読んで、不思議な気持ちになった。それだけのことなのですが、個人的には只事ではなかったのです。

「かく・かける(1)」~「かく・かける(8)」シリーズというものを連日書いていて、「ノイズ」だけが、自分のなかでしっくり来なくて悩んでいました。シリーズは、一段落させて、「ノイズ」だけは「保留」しておこうと決めたのですが、今になって、その「ノイズ」が再びあたまのなかで蠢(うごめ)きはじめたのです。

     *

 結論から申します。

*ノイズとは、出合う=出会う=出遭う=出逢うべきペアの片割れを欠いた、「不幸で不遇な符号」である。

と、いう気がし始めたのです。

 上で引用した文章の最後に並べてあるキーワードの1つ、

*「対称性の破れ」

という考え方とは、まったく関係がないのですが、その言葉の表面=表情=めくばせに触発されて、「ノイズ」という言葉が、自分のあたまのなかで、蠢き出したとでも言いましょうか。そんな感じなのです。なぜかは分かりません。ただ、さきほどの、

*と・ス・ト・イ・「├」

と遊び始めたあたりから、妙な予感はありました。

*出合う=出会う=出遭う=出逢うべきペアの片割れを欠いた、「不幸で不遇な符号」たちは、破れて=敗れて=藪の中に紛れてしまっている。それが、不意にノイズとして立ち現れる。

というような気もします。やはり、これが、例=霊=零=隷=レ「イ」の、言霊になりきれないでいる=成仏(じょうぶつ)できそこなったままでいる、野異徒=埜畏頭=ノ「イズ」=

*ノイズ

なのではないでしょうか。

*「ニュートラルな信号」にもなりきれないという意味では、憐れ=哀れでありながらも、同時に、おどろおどろしく奇怪だとも感じられる「何か」たちを、「不幸で不遇な符号」=ノイズとでも、名づけようか? 「いや、名を与えてはならない」という声が空耳のように、それでいてはっきりと響く。その声は、たぶん、言霊の発したものではないか。

「かく・かける」シリーズ(1)~(8)で、片がつかなかったノ「イ」「ズ」が、気にかかりま「ス」。こぬか雨のように、木にかかりま「ス」。「イ」つか来て、その姿をあらわしてくださ「イ」。待って「イ」ま「ス」。「ト」願うしか、な「イ」ようで「ス」。

と、いうわけです。